2016年8月20日土曜日

個からの出発ー「在日」としての生き方を求めて                         

個からの出発-「在日」としての生き方を求めて-
                            崔 勝久
                            
目次
1.はじめに
2.私の生い立ち
3.民族の主体性を求めて
3-1.教会との出会い
3-2.朴君との出会い
3-3.本国との出会い
4.日立闘争の経緯
4-1.朴君について
4-2.日立との直接交渉について
4-3.日立闘争の意味について
5.民族運動としての地域活動をはじめて
5-1.地域活動のはじまり
5-2.民族差別と闘う砦づくりをめざして
5-3.地域のお母さんの問題提起
6.最後に
8.あとが

1.はじめに 
 かつて「歴史の不条理」という言葉を遺言として日本社会を告発して焼身自殺した、ある在日朝鮮人のクリスチャン青年がいました。「人騒がせなことをして申し訳ありません。しかし、これは、被植民地支配下の異民族の末えいとして、この国の社会の最底辺で25年間うごめき続けてきた者の、現代日本に対するささやかな抗議でもあります。」(「抗議・嘆願書―早大二文当局、二文学友に訴える」(1970.10.5))。「歴史の不条理」、「ささやかな抗議」何という重い言葉でしょうか。この言葉には個を抑圧している具体的な現実社会に対する激しい怒りがこもっています。それは、現実批判の言葉です。気のきいた幾ばくかの提言で「歴史の不条理」が解決されていくはずがありません。

しかし私は、歴史社会の矛盾のただ中で生きながらその矛盾の克服を望み、例えわずかでもその止揚の歴史に参与していきたいと願ってます。歴史を変革する主体は誰であるのか。私は「歴史の不条理」の中で現実に翻弄され生きる無名の民衆こそ、歴史の変革の主体であると考えています。
言うまでもなく、在日朝鮮人は日本の朝鮮植民地支配の過程で生まれてきました。日本の植民地支配の徹底した清算こそは、日本が将来に向けてアジアの平和に寄与し、自らが開かれた社会になっていくために必要不可欠な歴史的責務であると私は考えています。この異国にあって、私達の親は黙々と必死になって家族を支える為に生きてきました。そして私達は今同じ道を歩みつつも、より人間らしく生きたいと願っているのです。ここではそのような在日朝鮮人の一人として、あくまでも自分自身の歩みの中から見えてきたことを記そうと思います。

2.私の生い立ちとファミリー・ヒストリー
 私の家は大阪の中心地にあってレストランやパチンコ、ジャズライブの店をやっていました。私は経済的には何ひとつ不自由のない環境の中で育ちました。活発で勉強のできる「いい子」でした。学校は「頃調」に、区域内で最もいい学校とされる府立のK高校にはいり、中学のときからやっていたバスケットボールを続けていました。私にとって唯一どうしても人前では言えず隠していたこと、それは自分が朝鮮人であるということでした。だから高校を卒業するまで、親しくなった友人にだけ実は自分は朝鮮人であると、そんなことはどうでもええよ、関係ないやん、という答えを期待しながら告白しました。

 母は私たちの一家の没落で、愛人を囲う父に見切りをつけて二人の息子を置いて家を出ていきました。その後も喫茶店をやりながら日本人男性と再婚し、今は一人で大阪に住んでいるので、私は弟と協力しあって毎月母に会いに行きます。あのシンの強さ、したたかさが、実は戦前、韓国の大邱から日本に渡ってきた大家族の生活環境の中で培われたものであるということがわかったのは、今も元気な、90歳を超えた母と過ごす時間が多くなり、彼女の昔話を聞けるようになったからです。

亡くなった父の押しの強さ、直感の鋭さ、行動力、そして涙もろさは、生来の性格に加え、日本社会の中で朝鮮人として歩む中で形成されてきたものだろうと思います。北朝鮮のピョンヤン(平壌)の近くのシンチョン(信川)という所で生まれ育ちながら、彼の父親の死後、母親と兄妹の5人で満州に行き極貧の生活をしたそうです。父はそこで腸チフスにかかり隔離されていたとき、母親が何度もそっと様子を見に来たらしく、それを幼かった父は来るなと言ったじゃないかと怒鳴っても、母親はまた覗きに来たというのです。その話を私にするたびに父は涙を流していました。おそらく祖母は感染して亡くなったのだろうと思います。

北間島での生活も母親の死によって家族は離散せざるをえなくなり、父は一度は信川の故郷に引き取られながら、彼だけ11歳のとき一人で日本に渡ってきました。満州でも日本でも学校に行くことはなかったようです。父は朝鮮語と日本語の読み書きはできなくとも持ち前のバイタリティ(生活力)で、戦前は靴屋をやりながら、戦後はカレーの専門店で当て、ボクシングジムのオーナーになって、大阪の中心地でジャズライブの店をはじめました。同郷のよしみか、力道山とは相撲時代から彼の死に至るまで兄弟付き合いをしていました。戦後、占領期が終わり大衆社会の到来とともに、日本社会から疎外されていた在日は芸能界やスポーツ界で活躍しはじめていたのですが、父はそういう在日との交流をよくしていました。外車のオープンカーを乗り回していたのもそのころです。ただただ成功の野望を持ち続けた男の執念が実ったのでしょう。しかしついに私の家族に破局がきました。

中学2年のとき、私達家族は大阪心斎橋の一等地から今をときめく吉本興業との裁判に負けて出ていくことになりました。母は引っ越し先からある日、弟を連れて突然いなくなりました。愛人を作り好きなようにやってきた父に愛想を尽かしたのでしょう。父は私と二人で暮らすようになったのですが、ある日、私が中学校から帰ると家には誰もおらず、隣のおばさんが、「あんたとこ、トラックいっぱい来て難波球場の近くに引っ越したみたいやで。」と言ってくれたことがありました。とりあえず難波球場の方に行ってみると、その近くで父がいつものポーズで髭を剃りながら、多くの人たちに引っ越しの指示をしていました。2階建の瀟洒な家でした。その家は、父が10年ほどの間で地下1階、地上8階のビルにして読売新聞とNHKで不法建築と大きく報道されたものです。父は建築士を入れず、自分で毎日、正月もなく、釜ヶ崎から多くの人夫を雇い入れ、鉄骨やセメントを買い人夫に仕事の指示をして、とにもかくにもそんなビルを建ててしまったのです。そのビルの4階にボクシングジムを入れ、テレビ中継されたこともありました。

ビルのやり繰りは叔母夫婦がやることになり、父はジムで寝泊まりをしていました。私たち兄弟は叔母夫婦と階下で一緒に住みました。そんな家庭の混乱のなかにあっても私と弟のニ人が何ら経済的に困ることなくそれまで通り生活ができたのは、叔母たちのおかげでした。叔母は母のすぐ下の妹で、日本の敗戦後、母の家族十数名が全員祖国に帰るなかで、そのときおなかに私を抱えていた姉の面倒を見るようにと、一緒に日本に残ったのです。しかしそのうち、家の権利の所在をめぐり、私の最も恐れていた事態である、父と叔母夫婦との争いになりました。それは高校生活の最後の時でした。

周りからは同胞の成功者と見られながら、吉本興行との裁判で負けて大阪の一等地から立ち退きを求められ、妻にも逃げられ、有名な女優であった愛人とも切れた父は、北に帰ろう、カネでもめることのない所へ行こうと言い出しました。彼にとっては最も苦しい試練のときであったに違いありません。一人でさみしかったのでしょう、彼は若い、彼の境遇に同情的な日本の女性と同棲をするようになり、叔父たちが私たち兄弟のことを考え家から出るようになると、正式な結婚をし、今度は私たちと一緒に住むようになりました。彼女は私たち兄弟によくしてくれました。しかし父は結局彼女を追い出しました。彼は別れた、逃げて日本人と結婚するようになった最初の妻、私たちの母のことが忘れられなかったのです。なるべくはよう別れてお前たちの母親に帰って来てもらったほうがええのやと、ニ番目の妻や私たちに言い張っていました。

私は家を出て、受験を前にして何ヵ月も友人のところを転々としていました。私は相談する人もなくひとり悩んでいました。どういうきっかけでそうなったのかはわかりませんが、大学の願書は、それまで一度も使ったことのない、全くききかじりで知ったチェ・スングという本名でやってくれと担任に申し出ました。ひょっとしたら中学3年のとき、外国人だから高校入試の願書をだすにあたって外国人登録済証明書をとってこいと突然言われ、職員室で泣き出した記憶があったからか、あるいはどうにでもなれと思っていたのかも知れません。私は訳もなく早稲田の政経に入って政治家になるんだと、そんなことはありうる筈もないということを知りつつ言いふらしていました。K高校は朝鮮人の多い受験校で、私たちはお互いにそうだと感じながら自分が朝鮮人ということは黙っていたのです。政治家になるんだというのは、朝鮮人であるということを受けとめられず、将来どう生きればいいのかわからない不安をかき消すための強がりだったのでしょう。大学受験は当然のように失敗しました。

私は一浪の後、現役のときには受けようとも思わなかった私立にさえすべりました。私は何のあてもないのにアメリカへ行こうと思いだしました。逃げ出したかったのです。英語を勉強しアメリカの大学の入学許可をとっても、所詮行けそうにないことがはっきりしてきた年末から、私はまた受検勉強をはじめました。そうして東京のI大学に入りました。そこが日本では最もアメリカの大学らしい雰囲気だというので。I大学では私はサイ(崔)君で通っていました。登録はすべてチェであったのですが、どこか本物の朝鮮人からは逃げ出したかったのでしょう、私はサイの方がみんな呼びやすいだろうと言いながら、自分のことをサイと言っていたのです。
川崎市の在日韓国教会に通いはじめたとき、オモニとは何のことかと聞いて回りの者を驚かせたことがありました。私の「順調さ」はすべて朝鮮人であることを隠し、そこから逃れることによってなりたっていたのです。家の中には朝鮮らしさを感じさせるものは何もありませんでした。私の「順調さ」はすべてみかけだおしであったのです。
 
3.民族の主体性を求めて
3-1.教会との出会い
 寮生活をしながらI大学の雰囲気に浸りきっていた私が、民族という逃れようとしても逃れられず、心のなかで解決されないまま残っていた問題と正面切ってぶっつかっていけるようになったのは、大学1年の夏の在日韓国教会青年会全国修養会に出るようになってからです。私にとっては驚きでした。百名以上の同胞が集まっているところに参加するのもはじめてであったし、彼らはクリスチャンということで私の抱いていた、堅苦しくインテリ臭いイメージとは違い、とても頼もしく思えました。そして修養会の後、私は川崎市の在日韓国教会に通うようになりました。そこでは説教は韓国語の後日本語に翻訳してくれていましたし、何よりも若い人が多く、いい先輩にも恵まれ私はここに来ようと決心しました。

 当初、自分と同じような歳の青年達が毎日曜日、遊びにも行かず礼拝に出るということ自体が不思議でしかたがありませんでした。ましてや休日の朝から教会学校の先生をやっていることにびっくりしたのですが、そのうち自分自身で青年会活動に参加し日曜学校の教師になっていきました。私は同胞の交わりに飢えていたのだと思います。教会のひとはみんな私のことを受けとめてくれました。何よりも故李仁夏牧師は私に対して、ある日、将来ここの教会の牧師になることを考えてみないかと、大きな信頼と期待を寄せてくださいました。しっかり勉強しなさいということであったのでしょう。私もみんなの中に溶け込んでいきました。私は毎週土曜に教会で寝泊まりし、日曜の朝は李牧師のお宅で朝食をいただき、日曜学校の教師をするようになっていました。教会のひとはみんな当然のこととして私のことをスング(勝久)という本名を呼んでくれました。はじめのうちぴんとこなかったその名前にも慣れ、だんだんそれが自分の名前であるということを実感するようになっていきました。しかし本名を名のり同胞の交わりの中に身を置いても、私の心のモヤモヤは晴れませんでした。当時こういうことを書いています。

  本名を名のればそれでいいというものではない。それは一種の習慣だからである。僕は本名を名のり、朝鮮人の友人と交わるようになっても、まだ何かはっきりしなか った。在日朝鮮人とは一体なにか、日本人と僕達のどこが違うというのだ? 徹夜をして話し合ったこともある。違いを見つけて自分の朝鮮人であることを「客観的」にはっきりさせたかったのだと思う。本名のままで帰化をしようと考えたこともある。国籍とは単なる符号にすぎないと「合理的」に解釈しようとしたのである。しかし、それはやはり逃避であった。僕は朝鮮人であることの内実を求めた。すなわち、朝鮮人を朝鮮人とするものは何なのかと。

 在日朝鮮人にとって民族主体性とは何か、アイデンティティ(帰属性)をどこに求めればいいのかということを私は模索しました。それは自分がどう生きればいいのかわからなかったからです。私は在日朝鮮人であることに固執しました。自分自身の悩みに正面から向き合おうとしたのです。自分のように己の朝鮮人である事実をいまわしく思い、その事実をあるがまま受いれられないのは、実は、私個人の問題ではなく、私の意識そのものが過去からの歴史と朝鮮人を差別している日本社会の実情を反映しているからだと理解しはじめました。

私は川崎教会から全国の在日韓国教会青年会で活動するようになり、私たちが人間らしく生きるには、差別し同化を強いるこの日本社会を告発しなければならない、本名で日本社会に入っていかなければならないのだと主張しました。私には既成の民族団体は、位置付けとしては本国の民主化・統一によって在日朝鮮人も解放されるのだといいながら、在日同胞の受けている差別の現実と取り組もうとしていないと思えたのです。私はキリスト教信仰の中に自分の生き方を見出そうとしました。教会学校のクリスマス劇の中で、日本人になりたいという娘に対してオモニ(母)の口を通して次のような台詞を言わせています。

  パカタレ! 母さんはカッコウ(学校)いってないんで知識はないけど、自分は何者かということ、よく知っとるよ。お前たちは朝鮮人なんだよ。神様は朝鮮人を朝鮮人としてつくられたんだよ。タカラ、朝鮮人であることを嫌がるのは自分を憎むことなんだよ。人間はね、差別をする人も、差別に負ける人も、差別をタマッテ()つて見ている人もみんな罪人で神様から離れとるんだよ。 

この台詞のあとでオモニは小さい船で釜山から密航してきたときのこと、これまで密航がばれて捕まらないようにどんなに気を使ってきたのかということ、どんなに必死になってお前たちの為に生きてきたのかということを娘たちに切々と語って聞かせるのです。これは教会の子供たちに実際の彼らのオモニ(母親)たちの歴史を知らせることでもありました。 

私は同化された自己を歴史的存在として捉え、もはや逃げることなく、積極的に現実社会に関わろうとしました。民族の歴史を知り、在日同胞の置かれている状況がわかるにつれ、このような社会は変革されなければならないと思うようになったのです。出エジプト記にあるモーセを読み、エジプト王室に育ちながら同胞の悲惨な現実に触れ、躊躇、固辞しながらも神に導かれて同胞の解放を実現していくユダヤ人の歴史に、自分の生き方を重ねていきました。
 
I大学での学園闘争において、この世の権威、制度は絶対的なものでなく、現実の問題を指摘し批判して変革していくことができるのだということを目の当たりにしてきた私は、教会を中心にした青年会活動に邁進していくことになりました。
I大学での本館封鎖のとき、学生と話し合おうとしない教授会に対して私はその本館前で一人、エレミヤ書の「偽わりの平和」を糺す聖句を引用したパネルを立ててハンストをしたことがありました。学生の9割が全共闘を支持するような大学でしたが、闘争の最中に全共闘のリーダーたちと個人的に話し合いをしたことがありました。私は在日朝鮮人には選挙権がないこと、また当時の入管法の改悪の問題点の説明をしたのですが、彼らはまったく関心を示さず、そのことと今の大学闘争との関係について考えようともしませんでした。それで私はI大学の全共闘運動は支持するが、彼らとは今後運動を一緒にはやっていけないと内心思い、在日韓国教会の青年会に全力で関わるようになったのです。70年代当時は、世界各地で変革を求める声が渦巻いていました。フランス、アメリカ、ベトナム、日本そして韓国において、学生が社会の不義に立ち上がった時代だったのです。私達もまた「時代精神」(池明観)を体現していたのでしょう。

3-2.朴君との出会い 
 朝日新聞の記事を見て、日立の民族差別に対して訴訟をおこした朴君に会いに行ったのはちょうどそのころでした。私は、日本名を使い日本人らしくなろうとした朴君の中に過ぎし日の自分を見ました。どうという展望があるわけでもなく、ただただ朝鮮人だからということで黙認されている民族差別の実態をあばき、差別と同化を強いる社会の構造を明らかにしていかなければならないという気持ちから、積極的に彼を支援する闘争に参加していきました。私は朴君の訴訟を手がかりにしながら、在日朝鮮人としての生き方を語りはじめました。 

  ぼくが自分のことを在日朝鮮人であるというのは、この日本社会にあって抑圧され、差別され、虐げられている民の一人であるということであり、そこから必然的に人間性の回復と社会正義を求めて生きるということを言っているのである。自然のうちに育まれた「素朴な民族意識」はないが、かといって国是やイデオロギーを前提にした「国民意識としての民族意識」ももてず、日本社会の差別的、閉鎖的、排外主義的な実相を反映したところの「被害者意識としての民族意識」しかなかった私にとっては、何はともあれこの自らの被害者意識と闘い、その歪んだ意識を克服することに全力を傾けるしかなかった。

「在日朝鮮人」であると叫ぶことは、同化され差別されてきた者の日本人社会に対する怒りと告発を中心にした、しかし己自身は日本人とも本国の人間とも違うと意識されてきた激情の発露であり、歪められた人間性を取り戻す為の必要不可欠な作業であったのです。しかし日本にあっても韓国教会の中で育ち、家庭の中で民族的なものに触れて生きてきた青年にとっては、私の主張は我慢のならないものであったようです。特に、「朝鮮人として日本社会に入りこむ」ということは同化につながり、日立裁判は日本社会に逃げ込もうとする同胞の同化現象を更に押し進めるものだと断定されました。私は民族反逆者、同化論者のラク印を押され、教会の青年会代表委員をリコールされました。

私をリコールした青年会の中心人物であったC君はその後、秘密裏に北朝鮮に渡り神学生として韓国に留学したときスパイ容疑で逮捕されました。私の知る限り同世代の中では最も鋭い問題意識をもっていたC君は、私とは違う形で民族の解放を願い、その生き方を貫徹していったのでしょう。民族の主体性というのはあくまでも、祖国の統一や民主化の運動と一体化(連帯)していくことである、このように教会青年会のみならず、民団、総連を問わず、足下の問題は民族にとって本質的なものではないという民族原理主義的な認識ではー致しており、政治的スローガンを掲げる民族団体は押し並べて日立闘争を無視しました。本名を偽り、何よりも本籍地を日本にして自分を隠し日本の大企業にはいりこもうとするような、同化され民族主体性がない青年が民族差別だと騒ぎ裁判にする資格があるのかと。

日立裁判は民族差別にもとづく就職差別を問題にした日本の裁判史上はじめてのもので、差別と同化の実態をあますことなくあばいていきました。私はリコール後もその裁判闘争に関わり、「在日朝鮮人問題」とは「日本人及び日本社会の間題」として深く受けとめられるべきであると訴えかけました。 私は運動の中で「在日朝鮮人に対する同化教育についての考察-解放後の大阪を中心に」という卒論を書きあげました。その卒論によって、「在日朝鮮人問題」の所在を明らかにすると共に、「日本人化」されてきた自分自身の歩みをきっちりと「清算」させたかったのです。卒論の結語は在日朝鮮人の主体性(結び)で終わっています。

  われわれは、徹底して「在日朝鮮人」であることに固執する。その固執は、「在日朝鮮人」であることに開き直り対日本人との関係においてのみ朝鮮人であることを止揚していかんとする、朝鮮人としての「生き方」なのである。われわれは、目的意識的にナショナルなものに固執し続けるであろう。それはまた、歴史における人間の「解放」への参与であることをわれわれは確信している。われわれのいう在日朝鮮人とは祖国につながり、普遍的歴史につながる質をもたなければならないのである。

 私の中に日本人社会への告発だけではいけないという意識が芽生えていました。しかし在日朝鮮人への関心と実践が民族の歴史にあってどのような意味があるのか、そのつながりがわからなかったのです。私は卒論を書き上げ結婚をすると即、ことばと歴史を学びにソウルへ行きました。1年の語学研修の予定を変え、朝鮮の歴史を本格的に勉強しようとS大学大学院の歴史学科に入りました。

3-3.本国との出会い
 私は本国でまず人間が様々なかたちで生きていることを発見しました。政治的立場のみをもって本国を論評していたとき、その本国には独裁者一派とそれと闘う人間しか見えなかったのです。ところがそこには泣き、笑い、飲み、歌い、生活する人間がいました。ソウルでの生活も一年を過ぎてから私は友人に「[在日朝鮮人論]の止揚を」という、当時の上気した心情を吐露した手紙を送っています。

  排外主義的・差別的日本社会の中で、自我のめざめとともに逃避的な生き方から朝鮮人であろうと歩みはじめた我々は、民族を高唱することによって、そして日本社会の不正を明らかにすることによって主体性が回復されていくのであろうか。民族の歴史を担うということは極めて政治的なことでありながら、実はそれを支える思想文化の地道な創造なくしてはあり得ないのであり、我々はとにもかくにもまず母国語を習得していくことから始めなければならないように、今私は思う。そのように考えると、在日朝鮮人がやらねばならないのに、民族の高唱のわりには全くなされてこなかったことにガク然とする。我々が祖国とつながるというのは、単に感傷やこちら側の独りよがりな主張によっては不可能なことである・・・。彼らとの真の対話を進めようとするには、我々在日朝鮮人の内実があまりになさすぎる。

 留学したのは72年で朴正熙政権の末期の時でした。独裁と民主化運動の対立が伝えられていましたが、未だ学生の動きのなかったときです。私はある意味で民族の本物を本国で見ようとしていたのです。ところが私が見た本国は、植民地支配の残滓からいまだ解放されていない状態でした。一体、本物の民族とは何なのか。日帝の植民地支配からの解放による独立と、独立国家であることを全面的に打ち出した新たな国づくり、日帝時代の対日協力者の処分のないまま、いや彼らの登用によって進められた国つくり、そして南北の対立と戦争、軍人の独裁政治、日本の商社をまねて政府の肝いりでつくられた一部の超大企業の勢力増大、一般民衆、スラム、そして社会の変革を熱く願う青年達。韓国社会の中で本物とよべる「民族観」が存在するのか・・・・。

混乱する社会の中で民族の特性としてまことしやかに語られる、党派性や事大主義、勤勉さの欠如、まじめに働く意欲に欠ける労働者、まず民族性を直さなければという言葉などを何度耳にしたかわかりません。それは謙虚な自己反省ではなく、混迷する社会に対する失望であり、いかんともしがたい現実の中でうまれた自己卑下であり、為政者に対する揶揄ではなかったのでしょうか。私は、それらは生来の民族性などではなく、歴史の産物なんだと叫びたい思いでした。

S大学の歴史学者が、今日の韓国の学会における最大の課題は「植民地主義民族観」、即ち「歪められた民族観」の克服であるとして、今の韓国は、長い日本の侵略の後、解放もつかの間、朝鮮戦争を経験し、アメリカ文化が押し寄せて多くの韓国人はそれをありがたがっている、しかし今の韓国の文化の水準は李朝にも及ばない、その克服の困難さと必要性を厳しく学生に説くのを聞き、私は何か新しい視点が与えられたように感じました。 

私はその「植民地主義民族観」、即ち日帝時代に朝鮮支配を正当化する為に日本の学会、マスコミ全てを動員し作り上げられた所謂「皇民史観」という「歪められた民族観」の克服こそ、在日だけでなく、本国と在日朝鮮人の状況を統一的に捉えるものであると理解しました。

日本の支配層が作り上げた「歪められた民族観」は、日本社会の中で戦後も残っているということだけでなく、その価値観は、支配される側の価値観ともなり今も生き日々再生産されているのであり、日本社会のただなかで生きる在日朝鮮人にあっては今も克服できずにいるのだと考えたのです。私が留学前に提示していた「被害者意識としての民族意識」こそ、まさに、その「歪められた民族観」が私の中に巣食っていたそのものであるということがわかりました。その価値観は戦後の日本社会の経済的発展の背後で生き残ったものであるのも拘わらず、その日本を追随しようとする韓国社会ははたして植民地支配の残滓としてある自らの「歪められた民族観」を克服できるのか。私は本国において「歪められた民族観」は一定の経済的繁栄や国威の発露にかかわらず、いやむしろそれだからこそ、払拭されずにいると理解しました。

私が韓国に渡って見えてきたことは、「被害者意識としての民族意識」として自己分析していたものですが、それは日本社会の実相を反映したものであるということは既に留学前に理解していました。その意識(価値観)は戦前意図的に作られ今も生きるものですが、「歪められた民族観」は、歴史的かつ現在的な課題として克服されていかなければならないということでした。二年にわたる本国での生活によって、「在日朝鮮人間題」は「歪められた民族観」を克服して自らの、そして民族全体の自立をはかるという意味で、民族全体の課題であると確信しはじめたのです。

 母国留学中、韓国の中で現実を変革しようという新しいうねりに出会いました。それはスラムのなかで抑圧されてきた民衆が主体となって、地域住民を組織し、自分たちの権利を要求する姿でした。地域にあるちいさな教会の中で、牧師や学生達がスラムの中にある住民の家一軒一軒を手書きの地図に描いたものを前にして、住民とー緒になって人間としての自立を求める具体的な運動を話し合っているのを見ました。私はそこに「歪められた民族観」の克服の可能性、方向性を見たように思いました。私にとっては、韓国の民主化闘争はマスコミでとりあげられる政治的スローガンやデモ、機動隊との衝突よりむしろ、このような地道な地域活動と結びついています。 

大学院で学びはじめて暫くして、私は歴史学科の学部の青年から、ある決意をしたので兄さんとはしばらく会えないかもしれないと告げられました。そして翌日の朝、ラジオで一回だけ、ソウル大学でデモがあったと放送されました。たまたま下宿でそのニュースを耳にして、昨日の青年の言葉を思いだし大学のグランドにかけつけてみると、二百名程の学生が横断幕を掲げ構内をデモ行進していました。私の知るその青年は後方で旗をもっていました。校門の正面に整列し、国歌を愛唱するなかスローガンが読み終えられるや、待機していた機動隊が突人してきました。そして全員逮捕です。それまで沈黙を守っていた学生が民主化を叫び立ち上がったのです。学生たちに続き教会、マスコミや知識人達も独裁反対の声をあげはじめました。韓国の民主化闘争のはじまりです。

 日本では日立裁判闘争が続けられていましたが広く大衆的な連動になっていませんでした。同胞社会の中では金大中事件が起こり、在日青年団体においては本国の民主化闘争と連帯しなければならない、という運動がはじまっていたのです。
そういう中で韓国キリスト教学生総連盟(KSCF)は反日救国闘争宣言を発表して維新憲法撤廃をかかげながら、決意事項の最後で「日立で起こった就職差別問題など日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即刻中止せよ!」と訴えました。民主化を願い、地道な地域活動をはじめていた彼らは、在日同胞の問題を民族の歴史的な課題として捉えたのです。反日集会が準備される中、私は韓国の学生に日立闘争の抱える問題と同胞の現実を訴え、ソウルでその集会をもつことを話し合い日程まで決め一時帰国しました。その数日後、かれらは日本企業の韓国進出を批判する集会の準備をしたということで逮捕されたことを私は日本の新聞で知りました。あの「民青学連事件」です。

4.日立闘争の経緯
4-1.朴君について
日立闘争は朴君が日立から不当解雇された後どうにも対処のしようがないことがわかり困り果てていた時に街頭で出会った、ベ平連に参加していたK大学の学生達によってはじめられたのですが、私も韓国人として加わる中で[朴君を囲む会]が形成され、徐々に大衆的な運動に広がっていきました。この会はいかなる党派にも属さず、日立の就職差別が象徴する在日朝鮮人の現状を法律、教育、歴史、社会の分野において、詳しく調べそして具体的な差別の実態を明らかにしていきました。
この闘いが勝利していった要因はいくつかあると思われますが、その最大の要因は、朴君自身の人間として成長にあったと言ってよいと思います。彼は愛知県で9人目の子として、想像を絶する貧困と困難の中で育ちました。彼の上申書と、日本社会の朝鮮人差別の状況を公に認め朝鮮人の主体性回復に言及した朴君の勝利判決文は是非、後世に残したいものです。この判決によって国籍を理由にした解雇は「法的」に許されなくなりました。

貧困故の家庭の不和や混乱の中にいながら学校では「問題児」であった朴君は上申書の中で、じっと耐え忍び懸命に働くオモニ()の姿を見据え、兄とのいさかいから家を出てホームレスの生活をしたアボジ()を、4年の闘争を経てこのように振りかえっています。

   私は、祖国の言葉をおぼえるにつれ、父や母が苦しい生活のなかで泣きわめいた言葉にどんなに深いかなしみと民族の怒りの訴えがこもっていたのかをしるようになりました。かつて、父や母をつまらない人間だと思い、むしろ憎んだのでしたがいまになって、その父と母がどんなに苦しみと差別にたえ、せいいっばいの愛情で私たち九人姉弟を育ててくれたのかがはっきりわかりはじめました。それを思うと私は涙なしにはいられません。私はこの老いた両親のためにも、不正と徹底的にたたかう強い人間になることを誓わないではいられません。

 朴君は商業科を出たにもかかわらず、学校からプレスエの仕事をすすめられ、いったんは勤めたものの他の会社に経理として入り、結局そこでもまたプレスエの仕事をさせられました。彼は新聞で日立製作所ソフトウェア戸塚工場の募集をそれこそ「胸をときめかせて」むさぼり読み、応募しようと決め、もし合格して「一生懸命努力すれば幹部に登用されるかもしれない」と夢みたのです。現実からの逃避を願ったのでしょう。

履歴書の本名欄にずっと使っていた日本名と本籍欄に愛知県の現住所を書いた彼は、韓国籍をそのまま書けば玄関払いされることが怖かったのだと言います。無事入社試験に合格し採用通知をもらったのですが、日立に要求された戸籍謄本はとれないことと代わりに外国人登録済証明書を持参したい旨申出たところ、日立側は突然態度を翻し、一般外国人は採用しない、朴君が履歴書に嘘を書いたからという理由で彼を解雇しました。あきらめきれない彼は何度も会社に出向くのですがらちがあかず、途方にくれているときにK大の学生達と出会い裁判闘争を決意するようになったのです。

当初この裁判においては朴君の弁護士は単なる解雇問題と理解し、日本人とかわらないのに罷めさせたことは不当であるという理解でした。朴君をはじめK大の青年達もまた同じように考えていました。私はこの捉え方を厳しく批判しました。朴君は排外主義的な差別社会の中で同化させられてきたのであって、朴君は本名を取り戻していかなければいけないし、日立が能力を認めながら外国人であるという理由で解雇したことは民族差別である、この裁判を通して日本社会の民族差別の実態をあきらかにしていかなければいけない、私は自分の到達した地平から全力をあげて彼らと論争をしました。私は自分の生き方を語っていたのです。

朴君にとっては晴天の霹靂であったようです。日立を許せない、告発しようとしているのに、自分の生き方が問われてくるとは! 裁判闘争をはじめても何の経済的な基盤のないなかで彼はアルバイトをしながら闘争を続けました。[朴君を囲む会]は弁護士と一緒になって裁判の進め方を協議し、定例会を開きました。そこでは既成の民族団体では自分の場を見出せなかった、混血の青年達を含めた多くの同胞が集まるようになり、民族差別と闘おうとする日本の人達と、文字通り自分の生き方を咆吼するがごとく語りあいました。 朴君はなかなか展望を見出せない裁判や生活のことでいらつくことも多く、日本人青年にくってかかることが続きました。彼は仕事先では日本名を使っていましたが、私は彼を理解し、そして待ちました。

 彼はわかっていたのです。しかしそのように自ら生きるようになるには時間が必要でした。そしてついに朴君は川崎市に引っ越してきました。在日韓国の教会にも来るようになり、かつての私がそうであったように、教会のひとたちから受けとめられ、本名で生きはじめました。そして洗礼を受けました。教会青年を中心としながらも新しく川崎市に来た同胞青年と一緒になって、私達は絶えず自分の生き方をはなしあいました。そのなかで、日立闘争と並行して、同胞が密集するこの川崎市で民族運動としての地域活動をしよう、そしてその運動こそ民衆運動でなければならない、という理解のもとで行政闘争や身の回りの差別問題を取り上げていくようになったのです。そして同じように差別と同化のなかで生きる同胞子弟を対象にした子供会活動をはじめました。 

 韓国の民主化闘争を担う青年達によってその宣言の中で日立闘争支援が打ちだされてから、在日同胞の団体の反応が変わりはじめました。私たちは、みなさんが連帯しようとしている韓国の民主化闘争を掲げる学生たちが在日に対する日立の就職差別の問題をとりあげているではないですか、みなさんも日立闘争に取り組んでくださいと積極的に支援をよびかけ、多くの同胞の支援、協力を得るようになりまた。私を「民族反逆者、同化論者」とラク印を押した在日韓国教会の全国青年会も声明文をだすなどして支援をしてくれるようになりました。教会の婦人会のオモニ(母)達はさらに積極的でした。日本の青年達は実に真摯に私達を理解しようと努力をしてくれました。[朴君を囲む会]の呼びかけ人は、日本人と在日朝鮮人青年を中心にしたこの共同闘争を絶えずあたたかく受けとめてくれたし、いつも一緒に闘ってくれました。弁護団は「弁護士だから-でなく」(石塚久)ひとりの日本人として、人間としてこの事件に関わり、東京地裁の検事を辞めこの弁護団の団長になってくれた人物を中心にして、この闘争に心を寄せる全ての人の英知を集めた準備書面を作成して判決を待ちました。判決は私達の言い分を認めた完全勝利でした!

  戦後も現在に至るまで、在日朝鮮人は、就職に関して日本人と差別され、大企業にはほとんど就職することができず、多くは零細企業や個人企業の下に働き労働条件も劣悪の場所で働くことを余儀無くされている。また、在日朝鮮人が朝鮮人であるということを公示して就職しようとしても受験の機会さえ与えられない場合もあり、そのため在日朝鮮人の中には、本名を使わず日本名のみを使い、朝鮮人であることを秘匿して就職している者も多い。右のような現状はいわば常識化している。

 このように歴史上はじめて、日本の裁判所という公的機関が民族差別の存在を認めたのです。そのうえで、朴君は日立に対して労働契約上の権利を有しており何ら解雇される理由がなかったこと、即ち日立は民族差別に基づく不当解雇をしたと日立の差別を全面的に認めました。判決「理由」文中で朝鮮人の主体性回復についても言及しています。

  「また、原告本人(朴君)尋問の結果によると、原告はこれまで日本人の名前をもち日本人らしく装い、有能に真面目に働いていれば、被告に採用されたのち在日朝鮮人であることが判明しても解雇されることはない程度に甘い予測をしていたところ、被告(日立)の原告に対する本件解雇によって、在日朝鮮人に対する民族的偏見が予想外に厳しいことを今更のように思い知らされ、そして、在日朝鮮人に対する就職差別これに伴う経済的貧困、在日朝鮮人の生活苦を原因とする日本人の蔑視感覚は、在日朝鮮人の多数から真面目に生活する希望を奪い去り、時には人格の破壊にまで導いている現在にあって、在日朝鮮人が人間性を回復するためには、朝鮮人の名前をもち朝鮮人らしく振舞い、朝鮮の歴史を尊び、朝鮮民族として誇りをもって生きていくほかにみちがないことを悟った旨、その心境を表明していることが認められるから、民族的差別による原告の精神的苦痛に対しては,同情に余りあるといわなければならない」

 この画期的な判決は韓国でも報道されたので覚えていらっしゃる方も多いでしょう。しかしこの判決前に[朴君を囲む会]でおこなった、日立本社への直接抗議行動についても記しておくべきだと思います。

4-2.日立との直接交渉について
 私達は裁判闘争とは別途に日立から直接話を聞こうとして、判決の予想される6ヵ月前から日立との直接交渉を試みました。不意をつかれた彼らは自分たちの正当性を主張するものの、周到な準備を重ねてきたこちらの質問に矛盾する発言をするようになり、次回の会合を約束せざるをえなくなったのです。私達はさらにかれらの矛盾を突き、ついに数度にわたって日立を直接交渉の場に引き出すことに成功しました。四度目の交渉がもたれ、日立側からは勤労部長が出席しました。

彼らはあくまでも差別を認めず、日本社会の民族差別の存在さえ否定していました。日立側は当初朴君に「一般外国人は採用しない」と言って彼を解雇したにもかかわらず、その発言を裁判においてもー貫して否定していました。しかし私達にはそのときのテープが手元にあったのです。また日立の社員のなかにも運動の同調者が現れ、私達は日立の人事に関するマル秘文書なるものを入手していました。差別を頑強に否定する部長に対して私はそのマル秘文書を投げつけました。それは日立の労務担当者を集めた研修会の席で学習されたものでした。 

「共産党、民青等の思想的偏向者、熱心な創価学会員は雇わない、精神、肉体異常
者は雇わない、外国人も積極的に雇わない・・」、結局、日立側は外国人は採用しな
という内部規約をもっていながら、朴君は嘘をついたからやめさせたのだと主張してい
たのです。そして彼の書いた日本名や日本の住所をもって彼のことを「ウソつきな性格
」と決めつけ、そのようにせざるをえない、或いはそのようにせしめてきた日本社会の問
題に関しては全く知ろうともしていなかったことが明らかになりました。部長は言葉を失
いました。そして次回の会合を拘束したのです。私たちは勤労部長では対応できないとして、日立の責任ある立場の人の参席を求めました。

 [朴君を囲む会]の運動の進展が詳しく韓国でも報道され、韓国キリスト教女性連合会が韓国で日立不買運動を展開することを決議しました。ソウル市長もまた、日立と提携している韓国金星社に対して決議文を提出しました。しかしソウル市警は時局を理由に街頭キャンペーンを不許可にしました。また世界キリスト教会協議会(WCC)人種差別闘争委員会でも同じく日立製品不買を決議しました。そして日本の国会においてはマル秘文書及び朴鐘碩への就職差別問題が追求されました。このように全世界的な支援を受けながら、私達は最終局面となった次の直接交渉に入っていきました。参加者は東京駅の正面にあった日立本社の大会議室に溢れんばかりになり、青年のみならず多くの年配の同胞も日立と対峙しました。

日立の常務は冒頭、朴君の採用内定取消を撤回する声明文を発表しましたが、自分達のやったことが差別であったとは認めませんでした。参加者からの激しい糾弾の末、ようやく「日本社会に在日朝鮮人に対する差別がある」ということを認めましたが、自分たちには差別の意図がなかったと頑強に主張しました。年配の同胞から諭されるように「あなただって人間でしょう。日立の代表という体面だけじゃなくて、人間として答えて下さいよ」と言われると、彼は絶句し手が震え出しました。そしてようやく、「三年間・・日立が朴君にしてきたことは・・差別であった・・・ことを・・・認めます」と答えました。しばらく沈黙が続きましたが、こちら側の事務局で作成した確認書の内容を両者で確認し
署名捺印が交わされました。団交がはじまって六時間経ちました。

確認書(そのー)1974年、日立本社会議室における、日立製作所と朴鐘碩及び朴君を囲む会の交渉の席において、双方は左記載の内容を相互確認しました。 
                 記 
  朴君が一九七〇年に入社試験時に、「日本名」「出生地」を記載したことに関し日立は、それが「虚偽の記載」であり、そのようなことを書く人間は「ウソつきで信用できない」とこの間一貫して主張してきた。しかし今回、朴君の上申書を読むことによって、そのような主張は、在日朝鮮人のおかれた現実を全く知らないために犯した誤りであると気付いた。従って、この三年間、こうした誤った判断にもとづいて朴君の就業を拒否したこと、その誤りの責任が日立にあるにもかかわらず、「ウソつき」のレッテルをはることで、朴君に責任転嫁してきたこと、のニ点だけでも、日立が朴君を民族差別し続けてきたものに他ならないことを認め、日立は責任をとる。
以上右記載内容に関し、相互確認したことを署名をもって証す。株式会社日立製作所 常務取締役 新井啓介 印、 朴 鐘碩 印、朴君を囲む会呼びかけ人 佐藤 勝巳 印

 しかし私達は追求の手をゆるめませんでした。マル秘文書に記されているように、外国人は採用しないといった採用マニアルを作った日立の体質はどうなるのか、追求が続きました。常務はじっと聞いていましたがついに口が開き、「日立のやっていたことが民族差別であることがよくわかりました」と答え、第二確認書に合意しました。
 
日立製作所は、在日韓国人・朝鮮人を差別し続けてきたことを認め・・・ここに深く謝罪します。 日立製作所は、今後、このような民放差別をニ度とくりかえさないよう、責任ある、具体的な措置をとることを確約します。

 場内に涙と笑みが広まりました。日本第二の大企業が公の席で謝罪をしたのです。日立の人間も泣いているようでした。夜の12時近くになっていました。翌日、その内容は日本と韓国の新聞に大々的に報道されました。韓国の城南教会では、朴君の勝訴を祈る祈祷会がもたれました。以上のように日立との直接交渉を行い、日立側からの全面的な謝罪と「具体的な措置」の確約をかちとるなかで、私たちの主張を全面的に認めた判決が下ったのです。そして日立の控訴断念により、民族差別による解雇は認められないという判決が判例となりました。

その後も「具体的な措置」をめぐって激しい対立が続きましたが、最終的には[囲む会]と日立の両者の間で「合意書」と「合意書に関する了解事項」が交わされ、「朴君又は日立に入社した在日韓国人・朝鮮人に関し、話し合いの必要が生じた場合、相互の要請により随時話し合いを行い、誠意をもって解決にあたるものとする」ということが確認されました。朴君はこの合意書のあと日立に入社していきました。勤務先は、あの日立ソフトウェア戸塚工場です。

4-3.日立闘争の意味について
これらの意識革命は、すべてアラバマ州モンゴメリーのバス・ボイコット闘争から始まった。(猿谷要『キング牧師とその時代』)

同化され「被害者意識としての民族意識」しか持つことのなかった、ある意味で典型的な在日朝鮮人であった朴君の、4年にわたる闘争の中で民族の主体性を求めてきた生き方が、本国の主要新聞から「民族全体の貴重な教訓」(東亜日報)、「告発精神の勝利」(韓国日報)として評価されたことは、私達に大きな自信と喜びを与えてくれました。政治的位置づけやただ同じ民族であるという思いによって本国と在日朝鮮人を結びつけるのではなく、在日朝鮮人の生活の場での人間らしく生きる闘いが、本国の同胞と結びついたのです。

日立闘争の意義についてはいろいろな観点から分析することが可能でしょう。裁判の過程で民族差別の歴史と現実をあきらかにし、差別を禁じる判決を勝ち取ったことの意味は限り無く大きいのです。これをきっかけに日本社会でのタブ-が破られ、国籍の違いを理由としたいかなる差別も許されないという運動がはじまります。金敬得の弁護士資格の獲得もそのひとつです。在日朝鮮人の人権、生活権という観点から、在日同胞を排除していた法律や慣習への闘いと連なっていきます。民間企業のみならず、学校教師や公務員への就職さえ門戸を開放すべきであるという動きがでてきたのも、当然のことであると思われます。

 日立闘争を担った[朴君を囲む会]は、日本人と朝鮮人の両者が自前で、互いにぶっつかりあいながらそしてお互いを受けとめあいながら、一切の打算(利用主義)もなく共同で闘い切ったのです。
日立闘争を振り返ってみるとき、「民族の主体性」というのは理論ではなく、結局は人間の生きざまのことをいうのではないのかと強く思わされます。自分の置かれている現実から逃避することなく、その現実を直視し切り開いていく当事者(主体)になっていくこと、一人の人間として自立していくこと、それが主体性なるものではないのか。私にとっての日立闘争の意義は、民族的自覚の獲得という水準でなく、人間としてどのような生き方をすればいいのかということを学んだことでした。しかし「民族」を強調することの問題性を安炳茂教授は強く指摘しています。

   わが国の歴史には、民族はあったが、民衆はなかった。民族を形成した民衆はいつもその「民族のために」という美名の下で収奪状態のままに放置された。
          (安炳茂『民衆神学を語る』)

 そうなのです。在日朝鮮人民衆は動員の対象でなければ募金・集金の対象ではない。ましてや指導・啓蒙の対象であってはいけないのです。現実を直視し現実から学び現実を変革していくというのは、その民衆と共に生き、共に悩み、共に現実を切り開いていくということではないのでしょうか。日立闘争を通して私はこのことを学びました。

民族の高唱にもかかわらず具体的な同胞の実態に迫れないのは、民衆なき民族理解であるからだと言えるでしょう。しかし私は、それは思想の「観念化」によるものだと思います。人は絶えず現実から自己検証をしないと、自分で獲得したつもりの倫理や思想は観念化され、現実が見えなくなってしまうのです(田川建三)。「民族」は勿論、「民衆」や「民主主義」さえその思想は観念に陥る危険性を秘めています。ひとは民衆の現実から学ぶ謙虚な姿勢を失うとき、己の観念に陥っていることはわからないで、倫理や思想、信仰の正当性(建前)を根拠に他者の批判を受け入れないようになります。近代日本の民衆の実態を文字通り地を這うようにして調べあげた色川大吉はいみじくも語っています。 

  大義名分と正統意識こそが自己批判の契機を見失わせ教条主義を育てる。 
(色川大吉『歴史の方法』 ) 

 私は日立闘争によってそれ以降、試行錯誤を繰り返しながらも、絶えず具体的な問題をとりあげ現実を切り開くように生きてきました。私にとって「歪められた民族観」の克服は、人間としての自立への道であったのです。

5.民族運動としての地域活動をはじめて
5-1.地域活動のはじまり
 ソウル留学を途中で切上げ帰国した私は、李牧師を中心に韓国の民主化闘争に関わる人たちから在日韓国教会が新たに創設する在日韓国人問題研究所(RAIK)の初代主事に請われました。私は同胞社会における差別と闘う具体的な実銭の必要性を痛感していたので、単なる「研究所」なるものには関心がなく、日立闘争と川崎市での地域実践を推進していくこと、そしてわたしの行動に制限を加えないことを条件に主事を引き受けました。74年のことです。
それから思いがけない岳父の死によって彼の小さな鉄屑回収の会社をひきうけるようになるまで、2年間、私は地域活動に没頭しました。韓国留学中、民主化運動とは単なる政治スローガン的な運動でなく、貧民街で教会を中心にした実にきめの細かい実践(民衆運動)をすすめていることを知った私は、帰国後、川崎市の韓国教会を中心にしてそのような、地域における民衆運動をやろうとしました。

私たちが目的意識的に川崎市での地域活動をはじめたのは、日立との闘いのさなかでした。朴君のように、いや自分自身がそうであったように、朝鮮人であることを忌み嫌い、なんとか現実から逃避したいと思っている同胞に対して、そうじゃない、私たちも朝鮮人として胸を張って差別という社会不義に抗する生き方をしようではないかということを語りかけ、同胞の子供が人間らしく育ってくれることを願い、まず子供会からはじめ地域に根をはった、即ち具体的な同胞の実態に即した運動をしようとしだしたのです(奨学金闘争に向けた討議資料「民族差別とは何か」) 。

川崎市の在日韓国教会は「川崎市に住む在日韓国人民衆の教会であり、・・・ただ単に教会堂を守るということより、礼拝堂を開放して何か社会に役立つことをしたい」(同討議資料より)という願いから礼拝堂を開放した保育園をはじめました。無認可保育園、桜本保育園がそれです。当時、韓国人が経営する保育園だからというので地域の日本人の父母は子供を送ってこないのではないか、何か国際的という印象をもたせ日本の住民に関心をもってもらえるようにカナダの宣教師に来てもらい英語を教えようではないか、と真面目に考えられていたのです。

差別と闘うこと、本名をなのることを自分の生き方として模索しはじめた私は、保育園で英語を教えようとすることの中に潜む問題点や、韓国人保母でありながら本名を使うこと、そしてふたつの名前の使い分けを当たり前とする教会と保育園のあり方を批判しました。本名使用はまず、内部の軋轢と抵抗の中からはじめられたのです。 

日本名を使っていた保母は、保育現場で同胞の子供が泣きながら「ボク、朝鮮人じゃないよね」と抱きついてくるのを見て、この子達を受けとめるには自分が朝鮮人であることを隠していてはいけないと思い至り、本名使用を決心するようになります。そして桜本保育園は、私達と一緒に日立闘争に関わる中で、「民族保育」をめざすようになるのです。同胞の子供には全員、本名で呼ぶことが方針化され、日本の子供たちと一緒に朝鮮の歌や挨拶の言葉が教えられるようになっていきました。子供たちは何の抵抗もなく朝鮮名を呼びあいました。 

 日立の就職差別を考える保育室での地域集会では、朴君の歩みが語られ、保育園の実践が報告されました。集会に参加した同胞の父母の中から、同じ地域に住んで同じように税金を払っていながら、法律で日本人に限るというので私たち韓国人が児童手当をもらえないようになっているのは差別ではないかという声があがりました。私達には法律で日本人に限るとなっていても、現実的にそれが差別であるという認識はその当時なかったのです。そして川崎市長に要望書を出すことにしました。行政闘争のはじまりです。どうして市営住宅には朝鮮人ははいれないのか、児童手当はもらえないのか、日立直接糾弾闘争と並行して行政闘争はすすめられました。当時の川崎市長は、私たちの要望を受け容れ、法律は日本国籍者にかぎるとなっているものを川崎の外国人についても、国籍条項を撤廃して市の責任で児童手当を支払うこと、市営住宅の国籍によって制限する入居資格を撤廃することを決定しました(1975年)。そしてこの闘争は全国に波及していったのです。そして1979年の国際人権規約の批准と、1981年の「難民の地位に関する条約」の加入により年金の国籍条項も撤廃されるようになりました。

日立の就職差別に勝利したことによって、私達は差別に抗して立ち上がれば勝つと確信するようになりました。K信用金庫は外国人にはおかねを貸さないという噂を聞いていた私たちは、在日韓国教会の研究所であるRAIK(在日韓国人問題研究所)のもうひとりのスタッフにK信用金庫への融資を申請してもらいました。社会的なステイタスからして何ら問題にならないはずでした。しかし案の定、K信用金庫は彼が外国人で戸籍謄本を出せないことを理由に融資を断ってきました。それは日立と同じで民族差別なんだと、数度にわたり銀行側と交渉をもちました。差別を認めない彼らを相手に青年や地域のオモニ(母親)達が中心になって銀行で座りこみをしました。夜になって銀行の理事長は最終的に自分達のやったことは差別であることを認め、謝罪しました。

割賦の契約で買い物をしたのに、韓国人ということで解約してきたと泣きながら訴えるオモニの声にはオモニ達が呼応して立ち上がり保育園に関係者を呼び、差別を認めさせ、以後差別は一切しないことを約束させました。差別をしかたがないと諦めるのではなく、それはおかしいと声をあげ、実際に続けて私達の要求が実現されていくのを目の当りにして、私達は大きな自信と夢を持ちはじめました。朝鮮人であることをなるべく隠して生きようとし、朝鮮人(外国人)だから仕方がないと思いこんでいたのに、「意識革命」が始まったのです。

朴君を中心とした青年達は、川崎での地域活動や日立闘争に関心をもった日本の青年達と協力して地域での差別闘争をすすめながら、子供会活動に本腰をいれました。家庭訪問ということで地域を歩き回りました。このような中で、小学校低学年部は学童保育として市からの援助を受けるようになり(市の委託事業)、高学年部と中学生部を併せて桜本学園というものをつくります。この桜本学園というのは、無認可から社会福祉法人桜本保育園となった保育園とあわせ、卒園した子供たちを続けて見守っていこうということでできあがったもので、私達の地域活動の核でした。(補足:それが後日、川崎市の公設民営化の「こども文化センター」になり、「ふれあい館」として全国の多文化共生のシンボルになっていきます。また「ふれあい館」はヘイトスピーチを吐き散らす在特会を蹴散らし、差別禁止条例を具体化する川崎の市民運動の中心的な役割を担うようになりました。)

一方、保育園に子供を預け本名をなのることを求められ当惑したり、抵抗したりしたオモニ(母親)たちは、日立闘争の勝利と様々な地域闘争を目撃し、自ら参加していくなかで、自分たちオモニ自身が本名を隠さないで、本名で生きなければならないと思いはじめるのです。彼女たちは「子供を見守るオモニの会」をつくり、子供が本名で学校に通うことの苦しさを訴えて先生達の協力を求めようと必死に働きかけをするようになります。しかし無関心と無知の壁は厚いのですが、それでも何か子供に関する講演があると、担任の先生にも来てもらおうと何度も何度も声をかけるのです。川崎市はこのようなオモニたちの熱意と要望に応えて、「川崎市在日外国人教育基本法―主として在日韓国・朝鮮人教育―」の制定をします(1986年)。

彼女たちは民族の歴史を学びはじめます。民族舞踊も習います。そして、自分自身の文集をだしていくのです。自分が経験したようなつらいことは、わが子には経験させたくない。しかし、この子には差別に負けないで、朝鮮人として胸を張って生きていって欲しい、自分の能力を目一杯発揮していってほしい・・・。私はこのようにして民族運動としての地域活動を提唱し、民族差別との闘いを民衆運動として位置付け、日立闘争の勝利をバネにして、行政闘争や個別の差別闘争をすすめながら同胞青年や地域のオモニ達の組織化に全力をあげました。

5-2.地域の実態
 障害のある子供たちを受入れ市の認可保育園となった桜本保育園は、同胞の子供にはもっと民族文化に触れさせてあげたいと民族クラスをつくりました。私は地域での子供会からはじまった桜本学園を立ち上げ、朴君や同胞の青年、そして日本の青年達ボランティア-と一緒になって高校受験を控えた在日の中学生たちを追いかけました。彼らを引率して合宿に行ったとき、彼らが現地で全員、雲隠れする事件もありました。高校を留年した同胞には自宅で寝泊させようやく卒業させたこともありました。このようにして地域の実態を知れば知るほど、民族差別は制度ではなく生活実態であるということを思い知るようになるのです。 

私たちの行政闘争を追うように既成民族団体は全国で行政闘争をはじめました。日本人と同じ税金を払っているのに、国籍条項で差別され同じ権利が保証されていない。従って国籍条項の撤廃を訴え、何人かの幹部が行政と交渉します。朝鮮人を排除する制度が差別なのであるから、そういう制度をなくすことが差別をなくすことになっていく。若い人は民族的な自覚、プライドをもちなさい。本名使用は韓国の国威の発露と共に、当然視されていきます。共和国の在外公民だから、韓国人だから。しかし私達が地域でみた実態はそのような建前、観念が通用する世界ではなかったのです。

例えば一人の同胞子弟の抱える問題を考えてみましょう。その子は、勉強があまりできない。非常に繊細な神経を持ち主ながら暴力をよくふるう。この子供の父親(アボジ)は町の小さな鉄工所に勤め母親(オモニ)はパ-トにでている。もちろんこどもたちは日本名で通学する。両親とも本名で働いている筈はありません。学校の教師にとっては、手のかかる子供でしょう。ある日その子がまた暴力をふるい、クラスの子を泣かしたとしましょう。教師は当然なぐった子を叱り、そして一応は理由を聞くでしょう。しかし彼は何も答えません。実は、クラスメートが、朝鮮人の悪口を言い、朝鮮人は朝鮮へ帰れとやったのです。教師は、朝鮮人であるが故に差別をしたことなど一度もなく、それどころか、その朝鮮人子弟に対して誠意を持って日本人と全く同じように、日本人として教育をしているのです。

朝鮮人は堂々と本名を名のって生きるべきだ、たしかにその通りだし、われわれもそう思います。しかし、あの同胞子弟になんと言って本名を名のらせるのでしょうか? 一体誰が彼をうけとめるのでしょうか? その教師に誰が、どういう資格ではなしに行くのでしょうか。いや、そもそも子供の隠された痛みを誰がわかちあうのでしょうか。あんなに親しく遊んでいる友人にも、自分が朝鮮人であることの苦しみを話せないでいる彼、本名で学校へ行けといったら必死になって抵抗し、逃げ、涙をボロボロ流しながら、実はと心情をうちあげる彼。われわれの回りにはこのような同胞子弟が多くいるのです(「在日朝鮮人の主体性について」第五回民闘連全国交流集会『特別基調報告』)

分数の出来ない子、アルファベットのわからない子。この子たちはどんな思いで50分の授業を我慢して受けていたのでしょうか。非行、貧困、将来への展望のなさ。行政の差別はこのような同胞の実態を固定、拡大するのであって、国籍条項がなくなったからといって(制度が変わったからといって)生活の実態が変わる訳ではありません。民族差別とはまさに生活実態ですから、民衆自らが権利を求め、闘い、自分自身の状況を変革していく主体になっていくことでしかこの差別の現実は変えていくことはできないのです。

生活実態に肉薄する為には民族差別と闘う砦をつくらなければならない、保育園や学園を核として、地域で差別と闘う砦をつくろう、そこから行政や学校へ動きかけよう、地域の人達の生活の安定、気の遠くなるような話です。でもそれが地域での差別と闘う民族運動なのです。民衆の運動として地域活動をやっていこう。私は先頭に立って走り続けました。教会の研究所の主事として、地域での運動の組織化をすすめてきたのですが、保育園と学園を核として民族差別と闘う砦としていくには、朝鮮人自身が運動の当事者となるべきではないか。その為にはどうしても朝鮮人主事が必要だと訴え、私自身が研究所の職員でありながら、桜本保育園・学園の主事になりました。

一方、[朴君を囲む会]を担ってきた学生達は卒業後、それぞれの方向に歩みましたが、何人かは川崎市に残り市の職員になったり、塾を開いたり、運送会社に勤め組合を作ろうとしていました。桜本学園の中では韓国人、日本人のそれぞれの使命はなにかということが追求され、副牧師の小杉さんは保育園の法人化という大変な仕事を終えて、お互いの在り方をめぐる論争の真最中で韓国に留学に旅立っていきました。専門的な保母として日本人クラスを受け持つことになった夫人と共に地域のお母さんたちから信頼されていた小杉さんは、日本のキリスト教会組織の責任者になって多忙な李牧師に代わり、日常の実務を引きうけ実に献身的な働きをされた功労者でした。

5-3 差別と闘う砦づくり
 岳父がなくなったのはちょうどその頃でした(764)。岳父は同胞従業員45名を雇った小さな鉄肩回収の会社をやっていました。私は、民族運動は政治スローガンを掲げた観念的なものでなく、足下の、同胞の現実に肉薄する具体的なことからはじめなければならない、民衆と共に、民衆の為の運動をしようと提唱し、その先頭を切って走っていたのですが、しかし私には、自分の最も身近にいた人の苦しみがわからず、生きる希望を失うほどの悩みが見えなかったのです。

私は「運動」に、それも「民衆運動」に没頭していながら、すぐ側の生きた民衆が見えていなかったのです。私自身、観念に陥っていたに違いありません。岳父は私達のやっていることをいつも黙ってみていました。日立に勝って朴君が戸塚工場に入っていくところが夜の7時のNHKニュースで報道されるのを見て、「参った、参った」と笑っていました。長女の婿になる青年が日立を相手に何か一生懸命やってるな、なにを馬鹿なことをしているのかと思っていたのでしょう。それがあろうことか、日立に勝ってNHKニュースにでているではないか。えらいやっちゃ・・・。私は結婚のー年前から居侯をし、岳父とは毎日酒を飲んでいました。 

私は岳父の葬式の後、主事を辞め彼のスクラップの会社を継ぎたいと義母に伝えました。長男はまだ高校生でだれも会社を継ぐ人がいなかったのです。義母は反対でした。勉強と「運動」しか知らない坊ちゃんにできるような仕事じゃない。私はすぐに手形と小切手の本を買ってきました。そして自分でトラックに乗ってスクラップ(鉄屑)の仕事をはじめるようになったのです。毎朝5時に起き鉄屑の回収に横須賀まで行きました。

桜本学園では後任の主事に同胞の後輩たちがはいってきました。スタッフが足らず嫌だというのを無理やり懇願して主事になってもらったこともありました。私は時間の許す限り、夜、スクラップで汚れた作業服のまま学園の現場に顔を出し、みんなを励ましていました。しかしそのうち、学園ではいろんな立場や考え方の異なるボランティアが多くなり、混乱がはじまっていました。日立開争を経験していない、ただ地域問題に関心がある人達が増えはじめたのです。そのとき、川崎市の奨学金制度における民族差別が発覚し、闘争が組まれることになりました。

私はこの時に、民族差別と闘う砦という位置付けを明確にし、更に地域の実態に肉薄する運動体にしなければならないということを主張しました。奨学金闘争に向けた討議資料を記し、地域活動の全体像と目的をはっきりさせようとしたのです。民族差別とは何かというタイトルで何度もティーチインがもたれ、奨学金闘争をすすめる中で、保育園・学園全体を統括していく場の必要性がようやく共有されました。そして運営委員会を発足させ、保育園、学園の運営のありかたや差別闘争の進め方を討議していくことになりました。運営委員会はキリスト教理念を掲げる理事会の承諾のもとで出発しました。民族差別と闘う砦であることが正式に容認されたのです。私は初代運営委員長に選ばれました。

妻は開園のときからS桜本保育園に勤め、一時乳腺で手術をしたのですが、三人の年子を抱えて79年まで現場で働いていました。翌年スクラップの仕事を止めレストランをはじめた時は、文字通り私達は何の経験もないところから出発をしたので仕事に慣れないこともあり、ちょっと忙しいと十時過ぎまで子供達に夕飯をあげられないような生活でした。小学2年の長男を頭に保育園に通う妹と弟、三人の子供には随分とつらい思いをさせてしまったと思います。

5-4.地域のお母さんによる問題提起
 私は岳父の会社を潰さないように会社を維持していくために新たな仕事を次々と探していましたが、運営委員長として、桜本保育園・学園を核とする私たちの運動体が民族差別と闘う砦としてどうなっていかなければならないのかをめぐって職員、主事と多くのボランティア達と議論をたたかわしました。しかし実社会で働きはじめた私は、「運動体」としてお母さん達を啓蒙しなければならないという使命感をもつ保育園に徐々に、違和感を持ちはじめていました。その使命感で、地域の住民から学ぼうとするより、上から教えようとする体質(組織)になってきているのではないかと感じるようになったからです。お母さん達の思いや苦しみ、心配を聞き一緒にそれらを解決していこうとするより、子供の問題点を指摘することや、遅刻する親(私達も店をやりはじめてからは常習犯でした)に厳しくなっているのが目につきだしました。親は子供を預かってもらっている立場から保育園には面と向かっては何も言えないながら、様々な思いをもっているようでした。

しかし同胞のYが父母会の会長として私たち青年がやっていたような、民族差別を父母会の中で考えていく活動をはじめると、彼女は途端に回りから浮き上がり、心痛で脱毛症にまでなる事態になりました。地域の日本人のお母さんたちの本音がでてきたのです。苦労しているのは朝鮮人だけではない、民族差別と闘うということがよく言われるが保育はどうなっているのか、字やハーモニカ等も教えてほしいと言ったらここは(キリスト教精神で)子供の「器」つくりをする所だからそういうことを望む人は他の保育園に行ってくれと言われた、等々の不満や意見がでてきました。Yを中心として地域の父母の声を保育園に反映させる為の努力がなされていったのです。私の妻も彼女達の思いを元保母として理解し園側に伝えようと努めたのですが、保育園側はそれらを園に対する批判と受けとめ、強く反発しました。

そして毎晩遅くまで御主人に叱られながらも集まり議論していたお母さん達は妻もはいった5人の連名で保育園への問題提起の文書をつくり、自分たちの気持ちを聞いてほしいと、教会の礼拝堂で集会までもつようになりました(80年129)。私はとにもかくにも彼女達の言い分を聴き、保育園・学園全体が絶えず地域住民の声に耳を傾けていく体質にならなければならないと考えていました。また牧師が園長と兼任で園にボランティアのように関わるのではなく、園は園長が責任をもって専門職として、保育園の運営にかかわり地域の住民を受けとめていく体制を作らないとやっていけないのではないかと主張しはじめました。

しかし残念ながらこのことが李牧師をして教会から崔が自分を追い出す画策をしているという不信を持たせることになってしまいました。私は運営委員会の一任を受けて、お母さん達の問題提起をどうするかを運営委員会として提示する為、できるだけ多くの人達と会い、お母さんたちの思いをどう受け止めるべきかについて連日、長時間話し合いました。仕事の合間に、主事や職員、ボランティアの青年達と精力的に会い、お母さん達の批判を受けとめることの重要性を説いたのですが、かえって私がお母さんたちの裏にいるという噂や誤解が渦巻くようになり、私に対する糾弾集会が持たれる事態になりました。その集会では「崔さんは気が狂った!」という発言をする人もでてきました。次の日にお母さんたちの問題提起の集会がもたれることが決まっていたので、私はその糾弾集会の中でも、私たちは何よりもお母さんたちの言い分をしっかりと聞くべきだということ以外は反論をせず、沈黙を守りました。牧師を含め、糾弾集会に参加した人たちは私がお母さん達をたきつけていると考えたのです。

お母さんたちは保育園・学園関係者に呼びかけ問題提起の文書を配布して自分たちの思いを涙ながらに教会の礼拝堂に参加した人たちに伝えました。しかしその日の集会のすぐあとで、Yさんは園長から崔君が彼女たちにこの集会をやるように言ったのかと尋ねられたというのです。彼女はせっかく自分たちで保育園に要望書をだして問題提起したのに、それに対する意見や自分たちへの慰めや激励の言葉もなく、ただ崔さんのことだけを聞かれたと涙を流して悔しがっていました。

お母さんたちの問題提起を受けて保育園と学園は、地域の住民と一緒になって保育園と学園のあり方を検討するのでなく、自分たちで内部かため(「仲間つくり」)をしていこうということになりました。保育園は集団保育を進めていくという方針をだしたのですが、結局、父母会や問題提起をしたお母さんとの話し合いを深めることをせずに終わりました。理事会は突然、何の総括もなく、多数決で運営委員会の解散を強行しました(8337)

私は「運動体」を去り、長年私を温かく見守り育ててくれた教会からも妻と一緒に出ることにしました。朴君も川崎での活動には関わらなくなりました。長年教会役員であった義母は役員選挙で選ばれず、李牧師は必死で止めましたが、やはり教会を移る決意をしました。私は岳父が残した会社の整理をしながらいくつかの仕事に関わり(3・11のフクシマ事故が起こるまで)日々の糧を得ることに没頭することになりました。

一方学園の主事やボランテイアたちは、問題提起したお母さんたちはすぐに子どもたちの卒園で出ていくことになるから、新しく入園するお母さんたちと一緒にやっていけばいいという判断をしたようです。そして多文化共生をスローガンとして川崎市と一緒にやっていく路線が確立されていくことになり、当初あった地域住民の反対を乗り越え、公設民営のふれあい館建設が具体化されます。ふれあい館は在日子弟だけではなく、急増するニューカマーの子どもたち、障害をもつこどもや高齢者を対象にした、「だれもが ちからいっぱい いきるために」を掲げて幅広い活動をしています。

7.最後に
7-1.その後の動き
日立の朴君解任が差別であるとして立ち上がった当初、10人に満たなかった小さな闘いは全国的に広がりまた海外からの支援も受け、横浜地裁での就職差別裁判で完全勝利しました。[朴君を囲む会]の事務局は会の解散をする意向でしたが、私はせっかく日立闘争が全国的な運動になったのだから各地の地域活動に力をいれながらそれぞれの運動体が情報交換し合う「民族差別と闘う連絡協議会」(民闘連)の設立を強く主張しました。しかし先に記したように、その後私自身は川崎の現場を去ることしたので民闘連とは一切、関わりをもたなくなりました。従って民闘連、特に関西が中心となって日本国籍を取得することを目指すような運動には当初から賛成していませんでしたし、そのような動きにはまったく関与していません。その後の動きは以下に記します。

(1)川崎市での在日韓国教会と桜本保育園・学園は私たちが去った後、民族差別との闘いという路線から多文化共生を掲げて行政と全面的に提携する道を選び、公設民営のふれあい館・桜本子供文化センター、ふれあい館となりました。青年達は指紋押捺拒否闘争に取り組みましたし、またふれあい館は行政との関係を深め、地域住民の協力を得ながら、ヘイトスピーチとの闘いや市に差別禁止条例案を提起する中心的な働きをするようになっています。ふれあい館を中心とした川崎市民の要望に応え、川崎市は全国の政令都市で最初に外国人への国籍条項を撤廃し外国人への門戸を開放し、多文化共生とヘイトスピーチに関する分科会を作るなど、今や全国で外国人施策のもっとも進んでいる都市とされています。

(2)私自身は自分の実家と妻の実家の両方を守り維持していくために日々の糧をえる仕事に没頭してきましたが、3・11福島事故で、このような事故が起これば国籍や民族に関わりなく地域住民は共に大きな被害を受けるということを思い知らされました。
原子力損害賠償法(原賠法)で原発事故の場合、原発メーカーは免罪されているのですが、川崎での地域活動の経験から、法律より人権が優先されることを学んだ私は、福島事故を起こした原発メーカーの責任を問う裁判を提起するようになりました。そして原発メーカーの責任を問うべく世界39カ国から4000人の原告を集めましたが、日本の現状では当然というべきか、原告側の主張へのまともな反論がないなかで東京高裁では敗訴しました(2017年12月8日)。

(3)私は平和をつくりだしていくには核兵器と共に原発をなくしていく国際連帯運動を展開するべきだと考え、現在、アメリカ政府を相手に広島・長崎の原爆投下の責任を問う被爆者の裁判を具体化し、全世界の核兵器と原発に反対する市民と共に被爆者を支援・支持する運動を広める準備をしています。米国の原発投下はしかたがなかったという歴史観が日本を含める全世界で流布されているのですが、米国での訴訟を通してこの歴史観を覆し、いかなる理由があろうが原爆投下は許されないということを全世界に訴えようと思います。今年も韓国のヒロシマと呼ばれる、被爆者が多く住むハプチョンでフォーラムを開催します(2018年8月4-9日予定)

(4)外国人公務員の職務と管理職登用の制限を明らかにした1953年の政府見解である「当然の法理」は、「国権力の行使」と「公の意思形成」の職務は日本人に限るというものでした。これが実に今日に至るまで、各地方自治体の外国人公務員施策の要になっているのです。その「当然の法理」に抵触しないように「門戸の開放」を具体化し「当然の法理」を制度化したのが「川崎方式」です。多文化共生を掲げる市民運動と地方自治体は、いまのところ、「当然の法理」が排外主義的ナショナリズムの要素を強く持ち一般社会の差別を克服するよりむしろ、差別を肯定する危険性があるという指摘があっても「川崎方式」を変えていく具体的な動きにはなっていません。今後の課題です。その動きが全国に拡がっていくと「当然の法理」という政府見解も現実に沿ったかたちに変えられていくでしょう。

私は川崎で一緒に地域活動をした鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんが東京都の外国籍保健婦第一号になりながら後年、「当然の法理」を理由に課長職の試験受験を拒まれ都知事を提訴した「都庁国籍任用差別裁判」(1994-98年)は、「当然の法理」の原理、思想性をはじめて問うた、大変重要な問題提起であったと考えています。「当然の法理」とそれを制度化した「川崎方式」の問題性を広く訴えていきたいと思っています。

7-2.最後に
私はこれまでニ回、リコールをされた経験があります。第一回目は、日立闘争に参加しながら、在日朝鮮人として閉鎖的な日本社会に入って日本社会を変革していくことを提言して在日韓国教会青年会の代表者をリコールされました。今や時代は変わり、本名で生きることや民族差別は許されないということは社会の一定の常識になりつつあります。それでも「歪められた民族観」が現存している日本社会にあっては、本名で生きるということは当事者にとって決して簡単なことではありません。従って、開かれた社会をめざして、足元の地域からそしてもっと広範囲にあらゆる領域で活動を続けていかなければならないと考えています。

二回目のリコ―ルは、私が自ら提起して必至で作ろうとした「民族差別と闘う砦」のあり方を根本から問おうとしたときです。差別的な制度を支える「歪められた民族観」は、制度悪を問うこちら側にも払拭されず残されているのだと思います。私たち自身が自分の属する組機の中にある観念化、形骸化、事大主義、権威主義と闘わず、どうして社会の変革ができるでしょうか。「歪められた民族観」の克服は、民族主義の鼓舞や国家の繁栄によってなされるものではありません。「歪められた民族観」は私達自身の中に根付いているからです。それは自立を求め、他者の自立を尊重する不断の闘いを通してしか実現されません。「民族差別と闘う砦」は組織ではなく、実は、私自身の生き方として求められているということが、時間がかかりましたが、ようやくわかりました。その砦づくりとは、個を押しつぶそうとするあまりに大きな社会の壁、慣習の前で脅え、立ちとまる己自身がそれらを直視し変革していく主体になっていくことであったのです。在日朝鮮人にとっての民族主体性は、やはりこの個の自立から出発し、そして新たな課題に立ち向かいます。

あとがき
この小論は、1995313日に書かれたものに現地点の情報を加え書き改めたものです。

 私の生い立ちに関しては、「歪められた民族観」(『思想の科学』NO-59)より引用しました(  file:///C:/Users/S_O/Desktop/dahlia/Sai/new_page_14.htm
同化教育については私の卒論、呉鋭秀(私のペンネーム)『在日朝鮮人に対する同化教育についての考察一解放後における大阪を中心にー』(file:///C:/Users/S_O/Desktop/dahlia/Sai/new_page_15.htm 就職差別裁判資料集NO.2朴君を囲む会発行)、民族の主体性論については「在日朝鮮人の主体性について」(第五回民闘連『特別基調報告』)をそれぞれ参考にしました。なおお母さんたちの問題提起については、「社会福祉法人青丘社理事長に宛てた公開の手紙」をお読み下さい。桜本保育園の設立当初から保母として勤めながら、お母さんの問題提起に触発されてこれまでの民族保育のあり方について考えはじめ、お母さんたちと一緒に行動した記録、曺慶姫著「桜本保育園の「民族保育」を考えるー自立を求める歩みの中で」上野千鶴子著編集『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)を参照下さい。

 なお私事になりますが、娘が明日、アメリカに発ちます。子供三人は生まれた時から、まったく日本名がなく、韓国式の読み方で学校に通いました。彼らなりにずいぶんとつらい経験をしたようです。彼女は中学の時に登校拒否をしたのですが、ようやく立ち直って高校に入学し、大学入学後、結局すぐ退学してアメリカに行きたいと言い出しました。感受性の鋭い子にとっては、日本社会の閉鎖性は耐えられなかったのでしょう。彼女はアメリカに「生きる為に行く」と言うので私は彼女の思いを受け止めました。彼女もまた自立を求めて旅立ちます。

長男は中ニのときより一人でアメリカに留学に発ちました。生きていく道がわからず、荒れたときもあったのですが、立ち直り、韓国のぬいぐるみ工場で現地の労働者と一緒に働いたあと、中国でしばらく働き、今は香港の会社に勤めています。独立心の強い子だから、個性を発揮して力強く生きていくでしょう。次男は上二人の挫折と逡巡、苦悩を見てきたせいかバランスがとれ、誰からも愛される子のようです。大学には行かず、俳優の道に進もうとしています。三人とも個性的で、親が望んだように自立心の強い子たちなので、自分の道を歩むことでしょう。私は彼らから、どんな問題があってもじっと耐え、受け止め、彼らが自分の力で立ち上がるのを待ってあげる勇気が私たちに求められていることを学びました。この経験がなければ、私の提言の基本テーマは生まれなかったとおもいます。 
最後に、私は妻にどんな感謝の言葉を伝えればいいのかわかりません。大学生のとき、川崎の教会で出会い、その後も母国留学、地域活動そして展望が見えない仕事とずっと二人三脚で歩んできました。乳腺の手術後も保母として、素人がはじめたレストランの責任者として、母として、妻として、全力で私と一緒になって走ってきました。私のような強い個性の人間と一緒にならなかったら、こんなに苦労することもなかったのではないかと思うこともありますが、こればかりはどうしようもありません。この論文にある歩みは私たちの歩みでありその記録です。彼女のやさしさと激励がなければ、私はとてもここまで一人で来れなかったでしょう。ありがとう。


1995313






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