2016年8月22日月曜日

外国人へ「門戸の開放」を実現した「川崎方式」の検証ー多文化共生を考えるー

外国籍公務員人事に関する日本政府の「当然の法理」見解に関して、外国人の差別を制度化して、全国の地方自治体のモデルになった「川崎方式」を撤廃させることが差別をなくす運動としてなによりも重要です。この点のご理解を深めていただくために、14年前のこの講演録をご紹介します。

私は戦後の在日の中で差別に公然と立ち向かい歴史に残る功績をあげた身近な人物として、日立就職差別闘争に勝利した朴鐘碩と、管理職試験を拒否した東京都の「当然の法理」に闘いを挑んだ鄭香均の二人を文句なくあげます。

   集英社新書WEBコラム   
      http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/011/
   在日二世の記憶  在日コリアンの声を記録する会
   痛みを分かち合いたいから差別される側に
   鄭香均(チョン・ヒャンギュン) 

二人とも川崎に住み、そこでの地域活動を共にした仲間です。二人に出会ったことを喜び、その闘いの歴史を地域の特に若い人たちが共有化し、自分たちの生き方を模索する参考にしてほしいと心から願います。川崎で差別をなくすべきと立ち上がった日本の市民たちにも、その歴史をしっかりと知り、これからの闘いにいかしていってほしいと願ってやみません。  崔 勝久

  
 外国人への「門戸の開放」をした「川崎方式」の検証―多文化共生を考える

       崔 勝久                                                              2004年12月4日
      《東京都知事を訴えた鄭香均さんを囲んでの川崎集会》    
   


はじめに
 川崎では在日韓国教会の社会福祉法人青丘社の保育園からはじまった地域での活動(1969年)があり、外国人市民の差別に抗して人間らしく生きようとする「在日」の青年たちの動きが多くの日本市民の共感を呼び、協働して、国籍を理由に日立から解雇された朴鐘碩(パク・チョンソク)氏の日立就職差別裁判闘争(「日立闘争」1970-1974年)や、児童手当や市営住宅の入居資格の国籍条項撤廃運動(1975年)、「川崎信用金庫事件」(1978年)、及び80年代の指紋押捺拒否の闘いなどと取り組んできた歴史があります。

その過程で在日朝鮮人は自尊心を回復しながら、具体的な運動の成果を積み重ねてきたのです。そして「多文化共生」を掲げ行政と提携した、青丘社の公設民営のふれあい館の「誰もが力いっぱい生きる」ことをめざす活動がはじまりました(1988年)。そこでは在日子弟だけでなく、急増するニューカマーの子弟や高齢者、障害者などを対象にした地域での幅広い活動がはじまっています。またヘイトスピーチに抗する多くの市民との闘いや差別をなくす条例化を進めています。

一方川崎市は、革新市政の時代からの「指紋押捺拒否者の告発はしない」(1985年)という伊藤三郎元川崎市長の表明を皮切りにして、市内の公立学校に通う在日子弟の教育問題に取り組むために外国人市民(特に在日のお母さんたち)の要望に応えて「川崎市在日外国人教育基本法―主として在日韓国・朝鮮人教育―」の制定をしました(1986年)。政令都市では最初に外国人市民代表者会議を設立し、外国人市民の門戸開放を実現しました(1996年)。現在、「差別の根絶に向けた施策の実施と条例制定の提案」を掲げて二期目の当選をした福田市長の下で、差別や偏見のない社会を実現するための施策が進められています。民族差別だけでなく、「あらゆる差別を許さず、偏見をなくしていくためには、その基本となる条例が必要」という有識者会議の答申に対して、市長はヘイトスピーチへの対応を含めて、「答申を踏まえて施策を展開していきたい」(神奈川新聞、<時代の正体>2018年3月29日)と述べています。

この小論においては以下の2点のことを取り上げ検証します。第一に、私の個人的な経験ですが、実は東京都の外国人保健婦第一号の鄭香均さんが国籍を理由に課長職の試験が受けられずに、都知事を相手にはじめた「都庁国籍任用差別裁判」(1994-98年)の過程で、私は川崎市の事情をよく知れば彼女の裁判闘争の助けになるのではないかと思い川崎市の人事課に行って、外国人への「門戸の開放」を実現した、川崎市の外国人市民施策の実情を聞きました。しかし人事課の話を聞いていくと、「あれ、おかしいな、東京と同じではないか」と思いはじめ、政府見解の「当然の法理」がいかに地方自治体の外国人の人事(任用)施策に関して絶対的な力をもっているということをあらためて思い知らされました。この「当然の法理」及びそれを前提にして外国人市民の「門戸開放」を実現されるために作られた「外国籍職員の任用に関する運用規程(以下、「運用規程」)について、それが国籍を理由とした差別を制度化しているという問題提起をするところは現在、行政内部においても、またヘイトスピーチと闘う運動側にも見られません。マスメディアも大きくとりあげていません。この「当然の法理」と「運用規定」がどのような問題を抱えているのかということを検証します。

第二に、外国人市民の人権の実現には地域社会の変革が不可避であり、その運動は「開かれた地域社会」を目指すことにつながるということを記します。行政とは協力しあいながらも、「開かれた地域社会」に不可欠な、住民主権に基づく活動は必ずしも行政の枠組みの中でその影響力の行使によって実現されるということではありません。先の第二次大戦の労働運動や女性運動、部落解放運動などがすべからず国家を通しての運動になって本来の使命をはたすことができなくなったという歴史を顧みるとき、差別偏見のない社会は地方自治体の指導下で育まれるのではなく、地域住民の日常的で自発的な営為と住民間の密接な関係性のなかで生まれてくると考えるからです。

. 鄭香均さんが問うた「当然の法理」の実態と問題点
①「当然の法理」について

 看護婦として川崎の南部で勤めていたことがある鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんが東京都の職員になったというのもまた、「日立闘争」の流れの中でのことです。私自身が大学生のときは在日朝鮮人が大企業に就職するというのはありえないことでした。それが朴鐘碩氏の「日立闘争」の勝利判決以来、国籍を理由に解雇してはいけない、差別は許されないという運動が全国的なものになりました(民族差別と闘う連絡協議会[民闘連])(1974年)。そして弁護士の国籍条項も撤廃され(金敬得 1977年)、地方公務員の国籍条項も撤廃される動きがはじまる中で、鄭さんは東京都の募集に応募して外国籍公務員第一号の職員になりました(1988年)。

鄭さんは外国人として募集試験を受け東京都の外国人保健婦第一号になったのですが、しかし10年後、同僚の推薦で課長になる試験を受けようとしたところ、外国籍の人は課長の試験は受けられませんよといわれて申請用紙をもらえなかったのです。それがきっかけではじまったのが鄭香均さんの裁判です(東京都任用差別訴訟 1994年)。それは職業選択の自由、法の下の平等および人種差別の禁止に反するという訴えです。鄭さんが課長試験を受けられないという根拠になったのは、日本政府の外国籍公務員の人事(任用)に関する見解で「当然の法理」とされているものでした。しかし、東京都の募集要項の中では国籍条項のことは何も記されていませんでした。募集要項の中に管理職の受験者は日本人に限るという記述は何もなかったのです。 

「当然の法理」は1953年、日本の独立直後の日本籍を喪失した外国籍公務員(台湾人、朝鮮人)の処遇に対する内閣法制局の見解です。公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするこれが今日に至るまで全ての地方自治体が従う基準になっています。国家と地方自治体との関係は1999年の地方分権一括法で対等になっているはずですが、法律でも条例でもない政府見解がどうして地方自治体に対してここまで実質的な拘束力をもつのか、その法的根拠は何か、いまだ解明されていません。

1953年の「当然の法理」は、独立にあたり新たな国づくりに取りかかった日本国政府が外国籍公務員として残った台湾人、朝鮮人の位置づけを明らかにした見解ですが、私たちはその根底には排外主義的なナショナリズムがみられ、個の人権よりも国家を優先する植民地主義史観の残滓を払拭しきれないでいると考えています。日本国は日本人のものであり、外国人が公務員になることを禁止はしないまでも、管理職に就いたり(「公の意思形成」)、公権力を行使する職務に就くことは許されない(「公権力の行使」)、それは日本人しかやってはいけないことに決まっている、言うまでもない、これが「当然の法理」です。

内閣法制局の「当然の法理」という見解によって、旧植民地下で「日本人」公務員であった台湾人、朝鮮人は日本の独立後、改めて日本国籍をとるか(帰化)、そうでなく外国籍公務員として残っても、管理職に就けず、働ける職務も限られるということになりました。この措置の背景として、日本国はそもそも植民地主義政策で台湾、朝鮮を合併支配し日本国籍を強要してきたことに対する責任と謝罪の上で植民地支配の清算を明確にし、日本に残った台湾人、朝鮮人にどのような施策をするべきなのかという、旧宗主国としての責任を明示してこなかったという歴史があります。日本の敗戦後サンフランシスコ講和条約までは、日本に残った台湾人、朝鮮人は一律、日本国籍を持つ者とみなされながら外国人登録を強いられ、第三国人と位置づけられていました。日本政府は日本に残った朝鮮人を迷惑な存在とみなしできるだけ日本から追っ払いたいという思惑から、10万人の在日の北朝鮮への帰還事業を成功させたのです(1959-198年)(参照:テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダスー「帰国事業」の影をたどる』)。

私は旧宗主国の日本は、植民地支配下で日本に残った台湾人、朝鮮人には無条件に日本国籍を認め、希望者にはどの国籍を選ぶのかの選択の自由を認めるべきであったと考えます。しかし実際は日本の独立にあたって、旧植民地下の台湾人、朝鮮人に対して彼らの意見や希望を聞き国籍選択の自由を与えることはありませんでした。

② 「当然の法理」を取り上げる思想的な意味について
 私たちがどうして公務員の人事(任用)に関する「当然の法理」にこだわるのか、この点を明確にしておく必要があるでしょう。それは「当然の法理」は「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とする」という政府見解ですが、どうして「公権力の行使」「公の意思形成への参画」にたずさわる公務員は日本国籍者、日本人公務員に限るのか、外国籍公務員ではなぜだめなのか、その説明がありません。鄭香均さんの裁判で争われたのもまさにその点でした。

 鄭香均さんの東京都任用差別訴訟では、最高裁は「国民主権の原理」という概念を持ち出し、そのうえで、「日本の統治作用」として「公権力の行使」と「公の意思形成への参画」にたずさわる公務員は「日本国籍を必要とする」という「当然の法理」の原則を明確にし、鄭さんの管理職受験を拒んだ東京都は違法ではないとしました。しかし判決は「日本の統治作用」に及ばない範囲での外国籍公務員の存在と管理職登用を認めたうえで、外国籍公務員が就ける職務内容と管理職の範囲は各地方自治体が判断・決定することとして、最高裁自身の判断を避けました。

国民主権の原理に基づき原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべき」であり、「我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところではない」。

つまりここで強調されているのは、「当然の法理」は「国民主権の原理」に基づくということであり、個人はあくまでも国民国家に属する存在であり、個人は「国民主権の原理」に従属する存在であるという認識です。ですから外国籍公務員は、労働基準法第3条「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身を理由にして、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない。」と明記しているにもかかわらず、国籍を理由にして日本人公務員と異なった待遇を受けることは差別でない、ということになるのです。国民国家の正当性の強調が新たな差別をもたらしています。

国民国家の存在、国籍は否定のしようがない現実であっても、だからといってその国民国家の「統治作用」をする職務にたずさわる公務員は日本国籍者でなければならないというのは飛躍です。労働基準法第3条は「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身を理由にして、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない。」と明記しているからです。

「当然の法理」は公務員の人事(任用)に関する政府見解であり、基本的人権よりも国民国家の正当性を前提にしています。私たちは「当然の法理」は国民国家をすべての前提にし、排外主義的なナショナリズムに結びつく可能性を秘めていると考えます。したがって、香均さんの今回の闘いは「当然の法理」という公務員の差別制度に対する闘いでありながら、実は公務員の人事(任用)制度の問題を通して、一般の企業や団体、地域社会、家族、個人においても、戦前の日本の国民国家を第一義的にした植民地政策の反省、清算をし、どのような個人の基本的人権を最優先する新たな日本社会を作り上げていこうとするのかを問う質を持っているのです。

 グローバリズムによって資本は国境を越えていますが、それは国民国家の確固たる地位と力(軍事力)に支えられています。そして国籍や民族を理由にした差別の根幹には国民国家を前提にしたナショナリズムがあります。だから私たちは「当然の法理」が全国の自治体の外国人施策の根幹とされることで、一般の日本人市民の無意識の領域に存在する排外主義的なナショナル・アイデンティティを増長していくことにならないように注意を喚起するのです。

③ 最高裁の判決について
今回の最高裁まで続いた鄭香均さんの裁判闘争は、外国籍公務員の人事(任用)に制限を加える「当然の法理」とは何か、本当にそのよう差別が許されるのか、その根拠は何かを明らかにして、これまで日本社会で外国人を排除、制限することが当然視されてきたことを根底から問うものとして、大変重要な歴史的な意義を持っていると考えます。それは「日立闘争」において日立という一企業の差別事件が、実は歴史的に日本社会全般において日常的に行われていた事例であったことを横浜地裁が認定したことと、今回の訴訟で「当然の法理」を問題にすることが通底していると考えるからです。東京都の国籍を理由にした差別は、日本社会では当然のこととして受けとめられてきましたが、そのようなことが許されていいのかを問うた鄭香均さんの裁判は、地裁で敗訴、高裁では勝訴したのですが最高裁では敗けました(2005年)。

最高裁の判決は東京都が鄭香均さんの課長職受験を「当然の法理」を理由にして拒んだことを違法とはしなかったのですが、注目すべきこととして、外国人の公務員就労を前提とした上で、各地方自治体の外国籍公務員の管理職登用それ自体は否定せずまた、外国籍公務員が就いてはいけない職務は何かについて具体的な言及をしませんでした。従って、外国籍公務員の管理職登用とどのような職務に就くのか(就いてはいけないのか)を決めるのは各地方自治体の判断、裁量であるということになりました。すなわち、「当然の法理」で制限した職務(「公権力の行使」)の内容と管理職登用(「公の意思形成」)は各自治体が判断、決定するということです。

残る問題は、各地自治体が最高裁判決を根拠にして、外国籍公務員に対して国籍を理由として職務と管理職登用で制限してきたこれまでの慣例を独自の判断で突破する明確な意思をもつことができるのか、そしてその意思を地域住民が賛同するのかということになります。これは行き着くところ、地方自治体の人事における自立性の問題にとどまらず、地方自治体と国家の関係及び個人の人権の問題をどのように考えるのか、ということになります。その議論を深めるには国民国家に固有なナショナル・アイデンティティを絶対化しないということが必要になります。そして何よりも、個人の人権は民族や国籍にかかわらず尊重されるべきであるという確固たる人権意識が求められます。地域社会にあっては国籍と民族の違いを乗り越え、人権の問題を地域全体の問題としてとらえるという、ナショナル・アイデンティティを超える人権意識、思想を育み、幅広くそれを共有化し全世界の市民とつながることが求められるのではないでしょうか。

2. 「川崎方式」が内包する問題点
①「当然の法理」を前提にした「川崎方式」
川崎市は国の意向に反して外国人の門戸を開放した(1996年)NHKニュースなどでも報道されましたが、本当にそうなのでしょうか。実は「川崎方式」の「門戸の開放」というのは、ふれあい館を中心とした市民運動側と市職労、川崎市が外国人の「門戸開放」を政令都市として初めて実現させるために協議をして、オール川崎で作り上げたやり方のことをいいます。その目標にとって最大の難関は、国が「公権力の行使」と「公の意思形成」を絶対的な条件とする「当然の法理」でした。オール川崎はその「当然の法理」を前提にし、それに抵触しないように「多文化共生」を掲げてこれまでの各自治体における先例を調べ、智恵を出し合って川崎市の独自のやり方を見い出したのです。それは、「公権力の行使」にあたるかどうかの川崎市独自の判断基準を設けることで、3000を超える全ての職務を検証・選別して「門戸の開放」を実現させるというやり方です。そのようにして全職務の2割は「公権力の行使」の職務と認め外国籍公務員の制限をしましたが、残り8割は「門戸の開放」をしたのです。

「川崎方式」は実は、根本において、「当然の法理」を絶対的な基準にする国の見解を大前提にしたため、国の見解に抵触しないやり方を見つけ出すしかないという判断に立ちました。言い換えれば、「当然の法理」は差別であり問題があったとしても、その点では国と妥協をしてでも、最大目標の「門戸の開放」を実現させようとしたということなのです。

 川崎市が外国人には門戸を開放するけれども採用された外国人の職務と管理職への昇進の制限を決定するにあたり最終的に作成したのは、「外国籍職員の任用に関する運用規程―外国籍職員のいきいき人事をめざしてー」(「運用規程」)です。外国人の門戸の開放のために「当然の法理」に抵触しないように「運用規程」を作ったということは、結果として、「当然の法理」の差別性を問わずその差別を前提にしたことになります。そういう意味では政令都市で川崎市がはじめて「当然の法理」を制度化し、「当然の法理」の差別性を正当化したのです。その前提の上で、川崎市だけでなく、青丘社ふれあい館を中心とした市民運動、そして市職労が一緒になって「多文化共生」を掲げ、これまでの川崎における市民運動の実績の上で、いわばオール川崎で門戸の開放を実現させたということになります。

② 「川崎方式」の問題点―川崎市のリストラ政策との関係
私は川崎市が「門戸開放」を実現したので外国人施策では日本でもっとも進歩的な市であるという印象を持っていたんですが、東京都とまったく同じ実態であったことがわかりました。むしろ東京都になかった、「当然の法理」を「運用規定」というかたちで制度化し「当然の法理」を正当化したところが川崎市であり「川崎方式」です。それでは外国人への門戸開放を実現させるための「川崎方式」の一体、どこに問題があるのでしょうか、検証を進めましょう。

 まず「川崎方式」で作られた「運用規定」で外国人には就かせないとした職務とは何であったのか? 川崎市は門戸開放宣言から1年間は外国人には「182の職務制限」(1997年当時)をするとしたその職務の内容を公開せず、私たちとの交渉の中でも答えませんでした。なぜ1年間公表しなかったかというと、そもそも「運用規程」は正式名称が「外国籍職員の任用に関する運用規程―外国籍職員のいきいき人事をめざしてー」というのですが、それは門戸開放をして新たに入る外国籍公務員のために作られた人事マニュアルです。川崎市は市の今後の総合的なあり方に関連させるために全職員の中長期的な人事構想で「ジョブ・ローテーション」と言われてましたが、全職員にどんな仕事でもこなせる能力を持たせて組織をよりスリムにして合理化するために作った大きな構想の中に外国籍公務員の人事(任用)システムを組み入れて、組織全体の合理化につなげたかったわけです。これは当初、私たちも見抜くことができませんでした。

 川崎市の人事課の資料には今後10年間の人事のあり方を明示した大きなチャートがあってそれを見ると、その中で外国籍公務員の「運用規定」はひとつの小さな図で描かれていて、市にとってごく一部の問題であることが一目瞭然でした。「外国籍職員の任用に関する運用規程」は川崎市の「新総合計画」・10年計画の中の人事政策に入っており、川崎市の大きな構想の一部にしか過ぎないのです。ですから川崎市は、この10年計画を完成させるまでは、外国人への門戸開放を宣言しても、外国籍公務員には182の職務制限をするというその職務内容を公開しなかったのです。

川崎市は外国人の門戸開放のために「運用規定」を作ったのですが、実際は市としての総合計画で実現したい、職員の能力を高め合理化を進める「ジョブ・ローテーション」というリストラにつながる計画があり、その計画をスムーズに通すために外国人の「いきいき人事」を謳った「外国籍職員の任用に関する運用規定」の作成を市長権限で前にだしたということです。ですから市職労はその時点では、外国人の門戸開放はいいことだと考え、それが自分たちのリストラと関係しているとは捉えていなかったということです。

③ 「川崎方式」の「門戸の開放」の実態―後手で門戸を締めた!
次に「当然の法理」が日本人に限るとした「公権力の行使」ですが、「川崎方式」はこの政府見解を大前提にして外国人への「門戸の開放」を実現させました。そのために智恵を絞り、「公権力の行使」の職務かどうかを判断する基準を設け、それによって「公権力の法理」の職務に該当するか否かを判断し、その基準に合うものと合わないものとの選別したのです。その結果、3059職務の内182職務は「公権力の行使」に関わる職務で、残りは「公権力の行使」には関わらない職務であるという判断をし、全職務の8割は「公権力の行使」の職務ではないので外国人はその職務に就けるようにしたのです。全職務のうちの8割の「門戸開放」であったということです。

国籍条項撤廃(1996年)をした高橋清市長(当時)は、3059の職務を分析し、そのうち182を制限したことについて「一般職だって、その2割のところにつけなければ、あとの8割で活躍してもらえばいいんです。8割というのは大部分でしょう。学校の点数だって80点取ったらものすごくいい成績です。それを2割のために『だめ』と言っているのはおかしい。2割のところの職につけなくても、8割のところで職につければ大丈夫なんです。」(「月刊社会民主」96年11月)と語っています。

8割も開放したんだからいいではないか、学校の点数だって80点とれば「ものすごくいい成績」なんだからということですが、ここではやはり、どうして残り2割の開放はだめなのかの説明はされていません。政府の「当然の法理」を前提にしたからです。そこで川崎市が認めざるを得なかった「公権力の行使」とはなにか、それがどうして地方自治体においても問題にされなければならないのかが問われることになります。

「川崎方式」は「当然の法理」を制度化し、その差別性を正当化したわけですが、具体的には「当然の法理」に記された、日本人に限る職務の条件であった「公権力の行使」を独自に判断基準を設けてそれに合う職務を全ての職務一つひとつ検証し選びだしたのです。「川崎方式」は、「公権力の行使」というのは「一般市民の意思に反して、その人の自由・権利を制限すること」と独自に規定しました。たとえば伝染病にかかったときその人がいやだといっても強制的に隔離するしかないわけです。払うべき税金を払えなかったらその人が嫌だと言っても競売にかけるということになります。なんとその中には狂犬病への注射をする職務も入っています。タバコを道に捨てた人を罰する職務も禁じられています。それらの職務を川崎市は「公権力の行使」と捉え、一般市民の意思に反してその人の自由・権利を制限する(公権力を行使する)ということで外国籍公務員にはそれらの仕事に就かせないことを決めました。これ以外は「公権力の行使」に反していないので外国人でも職務につけても構わないということです。これが「川崎方式」の実態です。

管理職(「公の意思形成」)に関しては、専門的な知識や経験を活かして特定の業務を担当するスタッフ職の課長までは認めるそうです。この話を聞いた川崎のお母さんたちは、誰が管理職にもなれず、自分のやりたい仕事もできない職場に子供が行きたがるのか、それは「門戸の開放」をしながら後ろ手で締めたということではないかと言っていました。まことに言い得て妙だなと感心したことがありました。

④ 「川崎方式」の落とし穴
このように川崎市は独自のやり方で「門戸の開放」を実現させたのですが、ここに実は落とし穴がありました。どうしてかというと、まず公権力を持つ地方公務員は無制限に、恣意的に一般市民の自由・権利を制限することなどできません。これは戦後の国民主権になった日本では許されないわけです。制限することが許されるのは、その制限を認める一定の「法」があるときだけで、その限られた範囲であれば一般市民の自由・権利を制限することも認められるということです。そうすると公務員であれば誰でも、法令、条例、規則に則って「公権力の行使」の職務を遂行することができるということになります。

公務員は労働者としての権利を保証されており、労働基準法第3(均等待遇)「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」、職業安定法第3(均等待遇)「何人も人種、国籍、信条、性別、社会的身分、門地、従前の職業、労働組合の組合員であること等を理由として、職業紹介、職業指導等について差別的取扱を受けることがない」ことが明記されているので、公務員は「国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱」を受けることは許されないのです。

ここで「川崎方式」は自家撞着に陥いるわけです。「門戸の開放」のために考え出した、「当然の法理」を前提にした「川崎方式」によって182職務に外国籍公務員を就かせないことを受け容れたのですが、そのやり方自体に実は問題があるのです。「当然の法理」は労働基準法第3条に抵触する可能性があるからです。国籍による管理職への登用の禁止も同じです。しかし「公権力の行使」と「公の意思形成」の職務は日本国籍者に限るとした政府見解の「当然の法理」に基づいて川崎市は独自に「運用規定」を作ったのですが、その「運用規定」は明らかに労基法3条に反しています。しかし福田現川崎市長は一期目の選挙戦のなかで、川崎の「運用規定」は問題があるという私の意見に対して、私に直接、「それは差別ではなく区別」であるから問題ではないという主張をしていました。これが現在の「多文化共生」を謳う川崎市の見解です。国籍を理由にして外国籍公務員に対して職務及び管理職への昇進の制限をすることは差別ではなく、区別だというのです。門戸を開放した「川崎方式」の実態です。

二期目の市長選では福田市長は「差別の根絶に向けた施策の実施と条例制定の提案を掲げて当選」したのですが、「差別の根絶」の一環として「運用規定」の改革に取り組むのでしょうか。またヘイトスピーチで在特会を蹴散らし、「人種差別の禁止をうたい、ヘイトスピーチに刑事罰を科す条例の制定」案を準備したふれあい館を中心とした市民運動の人たちは、「運用規定」は公的差別である(神奈川新聞 石橋学記者)として「川崎方式」の改革を求める具体的な活動をはじめるのでしょうか。私は川崎における民族差別の次のターゲットはまさに「川崎方式」であると思います。

⑤ 残された問題点―具体案の提示
鄭香均さんの最高裁判決は外国人が「公権力の行使」として就くことのできない職務を明示せず、また管理職の登用の禁止を認めたのではなく、それらは各地方自治体が自分の判断で決めるべきであるとしました。川崎市、市職労、市民運動体が一緒になってオール川崎で外国人への門戸の開放のために「運用規定」をつくり「当然の法理」を制度化したのが「川崎方式」です。「川崎方式」は「公権力の行使」を定義しその判断基準を設定し、それに基づいて182職務は「公権力の行使」に該当すると決定し、それ以外の職務を外国籍公務員に開放したことになります。

そうすると、同じ公務員であるのに外国籍公務員は国籍の違いを理由にしてどうして限られた職務にしか就けないのか、管理職に登用される権利が制限されるのかという本質的な問題が残ります。なぜなら、このような処置は完全に労働基準法と職業安定法に反しているからです。川崎市は地方自治体として独自に人事(任用)を取り扱う決定をしたのですが、結局は政府の顔色を伺ったということになると私は思います。実際の現場の立場から外国籍公務員が就いてはいけない職務はどのようなものか、外国籍公務員が就くことでどのような支障があるのか、どうして管理職に登用できないのかを市民(当然、外国人を交えて)の公開の議論を川崎市は保障し、形式的な基準制定に終わらせず、実態に即した基準を設定すべきであったと私は考えます。

(あ)具体案―その(1)
「川崎方式」は「公権力の行使」に当たるかどうかの判断基準を設けたものなのですが、それは逆に言うと、外国人に制限した職務内容を現場レベルで検討せず、形式的、機会的に選別したということです。狂犬病に注射する職務にどうして外国籍公務員は就けないのでしょうか。鄭香均さんは、「現在東京都で認められている、保健師活動の一つである精神保健福祉法にもとづいた仕事も感染症法に基づいた仕事も、川崎市では「公権力の行使」であるとして従事することができません。」と指摘しています。

川崎市はせっかく独自の判断基準で「公権力の行使」にあたらない職務を選別したのですから、「公権力の行使」と位置付けされた職務も実際の現場での仕事の内容にまで立ち入り検討すれば、その多くは外国人でも問題はないという見解をだせたのではないでしょうか。そのためには行政として学識経験者だけでなく、広く青丘社ふれあい館を含めて一般市民の参加を呼びかけ、議論し、叡智を集めるという民主的な手段を講じるべきであったし、今後の課題ということになります。

(い)具体案―その(2)
同じ地方公務員でありながら外国籍公務員に対して国籍を理由にして就くことができない職務とそうでない職務があるということを認めるということは、それを禁じる労働基準法があるので法治国家の原則に反することになります。この点を運動体はよく知りながらも外国人の門戸の開放のためにはそうするしかなかったということのようですが、百歩譲ってそうであれば、運動体も市側も「川崎方式」を実現させた段階で、この「川崎方式」には重大な問題(あるいは課題)が残っているということを公にすべきでした。そしてその問題の解決のためには最終的に市長が決定した「運用規定」(マニュアル)の見直しを将来の課題にするべきであったのです。それをしないから、結局、なし崩し的に「川崎方式」が全国に拡がっていったということになります。全国の地方自治体において、外国籍公務員の人事(任用)における差別が制度化され、それが日本社会に根強くある外国人差別の増長につながっていく危険性について川崎市も市民運動側ももっと思慮深く考える必要があったのではないかと思われます。

私は川崎における市民運動が在特会のヘイトスピーチのデモを蹴散らし差別をなくす条例まで市長に要請したのですから、差別をなくす市民運動として「川崎方式」の問題点をあきらかにしながらその廃止、ないしは改正を求める運動を進めてほしいと願います。

(う)具体案―その(3)
最後に外国人市民の政治参加という要望の応え作られた外国人市民代表者会議において、この外国籍公務員の職務・管理職昇進が国籍を理由にして制限されている問題が今まで一度も取り上げられたことがないことに疑問が残ります。これは公務員の人事(任用)問題であり一般外国人住民には関係がないということでなく、多文化共生の推進という観点から国籍を理由にした差別は許されないと訴え、外国人市民代表者会議の議論としてとりあげ、徹底的な議論をした上で市長への提案をしていただきたいと願います。
 
3. 川崎市の10年計画と「多文化共生」政策について
① 川崎市のこれまでの多文化共生施策
川崎市は当時、神奈川県飛鳥知事と東京都の美濃部都知事と並び革新市政と言われた伊藤三郎市長の時代から、指紋押捺を拒否した外国人市民の動きに対して国とは異なる、指紋押捺拒否者の告発をしないという方針を出しました(1985年)。それ以来、川崎南部ではじめられた外国人市民の地域活動、特に保育事業からはじまった、市内の公立学校に通う在日子弟の本名を名乗らせるオモニ(お母さん)たちの運動に応え、川崎市は「川崎市在日外国人教育基本法―主として在日韓国・朝鮮人教育―」の制定をしました(1986年)。そして地域住民の反対運動があった中で「多文化共生」を掲げ公設民営化の形で「ふれあい館・桜本こども文化センター」が建設され、その運営が社会福祉法人青丘社に委ねられたのです(1988年)。

ふれあい館はその後、川崎市の支援を受け、在日子弟だけでなく、急増するニューカマーや高齢者、障害者を対象にした地域での幅広い活動をはじめています。川崎市はニューカマーの急増とともに「多文化共生」を掲げる施策だけではなく、子供や高齢者、女性差別など地域にあるあらゆる差別・偏見と総合的に取り組むべく、有識者による川崎市人権施策推進協議を設置し、2018年4月現在、その協議会として、1つは「多文化共生社会推進指針に関する部会」、もう一つは「ヘイトスピーチに関する部会を設けて、二期目の当選をした福田市長の下で、他の地方自体体の先頭に立って、積極的に「多文化共生」を具体化する施策を進めています。

川崎市は市内の公立学校に通う在日子弟の教育問題に取り組むために「川崎市在日外国人教育基本法―主として在日韓国・挑戦時教育―」の制定後、ニューカマーの急増とともにそれを「川崎市外国人教育基本方針―多文化共生の社会をめざしー」(1998)に改定しました。「80年代後半には、外国人市民を共に生きる地域社会づくりのパートナーと位置づけ、1996年に外国人市民の市政参加の仕組みとして全国に先駆けて川崎市外国人市民代表者会議を条例で設置しました」(2015年「川崎市国際施策推進プラン」より)。そして同年96年に市職員採用の国籍条項を撤廃するという、外国人住民の要望に応える様々な取り組みをしてきました。

福田現川崎市長は2期目にあたり「差別の根絶に向けた施策の実施と条例制定の提案を掲げて当選」し、川崎市推進協議会から答申された「差別や偏見のない社会を実現するための施策」を積極的に進めています。外国人へのヘイトスピーチに対しては「人種差別の禁止をうたい、ヘイトスピーチに刑事罰を科す条例の早期制定」の準備を約束しています(神奈川新聞、2018年3月2日)。
このようにして「多文化共生」は、「地方自治体や、NGONPOが主体となって推進」して(岩渕功一著編『多文化社会の<文化>を問う』(青弓社))、総務省が国家省庁として初めて地方自治体の「多文化共生」施策推進の取りまとめをするようになり(2005年)、今や川崎市だけではなく、全国の地方自治体で定着するようになりました。

② 阿部前市長の外国人は「準会員」発言について
阿部前市長(2001~2013年)は公けの席で「外国人も重要な構成員」であるとしながら、外国人は「準会員」と話して物議を醸したことがあります(2002年2月6日)。「準会員」ということは、外国人は地方参政権がなく二級市民だということです。国籍に関係なく外国人も川崎では市民であるといいながら、外国人は二級市民、「準会員」だといっているわけです。なおかつ川崎市の市民である外国籍者が公務員となったときにその人が日本籍公務員と違って昇進もできない、働く場所も制限される、こういうことが「外国人も市民ですよ」と言いながら当たり前のごとくなされている川崎市の実態に誰も異議を唱えないでいました。市長は「タウンミーティング」を川崎市全7区でやりましたが、誰もこの矛盾を指摘していません。

 阿部前市長の「準会員」発言については多くの批判がありましたが、阿部前市長は最終的には自己批判をしていません。それがどのような公の決着をしたのか不明です。彼は発言の撤回をしていませんし、謝罪もしていません。そのかわりに市はこれからも同じように「多文化共生」政策をやりますよという言質を運動体に与えることによって、運動体は阿部市長と妥協しました。

私たちは、この「準会員」発言を正式に撤回させるというのは重要な意味があると考えています。この「準会員」発言について、「ふれあい館」の理事長でありいままでの私たちの民族差別撤廃運動のリーダーであった(故)李仁夏牧師が2003年11月の公開シンポジウムの席で、外国人市民代表者会議の代表であった李牧師と副代表のN氏が「市長と会って準会員発言をするなと市長に口封じをした」と発言したことがありました(2004年3月15日川崎連絡会議ニュ-ス第15号)。市のトップが「外国人は準会員」だと言ったことに対して運動側のトップが「口封じをした」のです。「口封じ」とは、その発言の撤回を求め発言者の責任を問うのでなく、その発言はないことにして内内で解決しましょうということです。それ以来、市長は発言の非を認め謝罪することなく、この外国人は「準会員」発言をしなくなりました。

 運動側のトップが市のトップに口封じをする、これは運動側が自治体と同じ「多文化共生」を掲げ仲間という関係になったことの象徴的な出来事ではないでしょうか。ふれあい館を中心にして多くの団体、市民が阿部市長の「準会員」発言を批判しましたが、その後阿部前市長の自己批判も謝罪もないなかで、川崎市は川崎南部の在日の多住地域にあるふれあい館との提携を深めてきます。「1988年3月に定められた「川崎市ふれあい館条例」に基づき、地域の児童の健全育成を目的とした桜本こども文化センターを併設して川崎市ふれあい館が設立」されたと市のHPで紹介されています。

注:平成14年の川崎市議会における阿部前市長の発言
長(阿部孝夫) 
次に,このたびの地方新時代町村シンポジウムでの発言でございますが、一連の議論の中で、地方参政権について述べたものでございます。永住外国人に関する地方参政権に関しましては、国会などでの議論の推移を見守っていきたいと考えておりますが、地方自治における外国籍者の権利につきましては、民として義務に対応して受益する権利と、それからもう一つ、参政権のように公の支配に直接、間接的にかかわってくる権利があると考えますが、この後者の公的な支配に関与してくる権利につきましては、団体等の場合の正会員ともいうべき日本国籍者について優先的に考えるべきではないかという意見を持っておりまして、それを述べたものでございます。なお地方参政権に関する法律が制定されましたならそれに従うのは当然のことでございます。

③ 「多文化共生」の危険性
「民族差別と闘う砦づくり」は「多文化共生」をスローガンとして運動体と行政が一緒になって標榜することで、運動側は公設民営組織を運営する権利を獲得することになります。日立闘争以降の在日朝鮮人の地域での民族差別をなくす運動を通して、地域全体の差別のない社会をめざしていたものが、「多文化共生」を行政との共通のスローガンにして行政をパ―トナーとして公設民営の組織を運営していくことは運動としての大きな成果であっただけでなく、そうすることの問題点も同時に把握することが必要であったはずです。
 
(あ)「共生」の本来的な意味
まず、「多文化共生」の本来的な意味を考えてみる必要があります。「共生」については、川崎においてもともとは障害を持っている人の心からの叫びであり、障害者への差別に対する批判として唱えられたものです。疎外されている人たちが、疎外している(あるいは差別を黙認している)体制に対してそれでいいのかと抗議の声をあげたのが、そもそも「共生」なのです。「共生」というのは共生できてない差別社会に対する批判的な視点を持ったものでした。それが行政と一体になることによって、批判的な視点を無くしていく危険性があります。

批判的な視点、批判的な心の叫びをなくした「共生」というのは何かというと、みんな仲良く生きて生きましょうということですから、異民族間の人間関係を重視する「多文化共生」は排外主義的なナショナリズムを克服し、制度化・構造化された差別を変革する理念にはならない可能性を本来的に抱えているのではないかと私は考えています。昨今の市民運動は軒並み「多文化共生」を掲げますが、「多文化共生」がはたして既成体制によって制度化・構造化された差別を克服する理念になりうるのか、この点は大いに疑問です。そして事実、現実にはそのようになっていません。

 日帝時代の満州統治のイデオロギーというのは、「五族協和」です。批判的スローガンでなくなった「協和」(=「共生」)というのは排外主義的なナショナリズムを批判できないどころか統治のイデオロギーであったのです。現在誰もが唱える「多文化共生」はこの戦前の「五族協和」とどこがちがうのか、明確にする必要があります。いずれも必要に迫られて使われ出された言質です。戦前においては植民地支配を進め異民族の支配・管理のために、そして現在の日本における「多文化共生」は、無くてはならない大きな存在になってきた外国人を労働力としても受け入れざるをえなくなった状況下での、日本社会への「統合」を目的にした政府の「統治・管理」政策であることを黙過してはいけないのではないでしょう(注:小熊英二『単一民族神話の起源―<日本人>の自我像の系譜』(新曜社))。

(い)外国人の政治参加について
地域や日本社会全体において、地域住民に対する政策が決められるとき、その過程において、当事者である外国人の思いや意見を聞き一緒になって議論しその政策決定過程に外国人が参加することがあるのでしょうか。日本において外国人は、国政はいうまでもなく地方の参政権も認められていません。政治参加は認められていないのです。外国人の基本的人権として政治参加を認め保障するのでなく、それを排除し単なる「文化」に限定して異民族間の人間関係を重視したカテゴリーに押し込んでいるのが「多文化共生」ではないのででしょうか。
                           
川崎市がつくった外国人市民代表者会議が外国人住民にとって本来の意味おいて政治参加となっているのかどうか、厳しい検証が必要です。「多文化共生」はみんな仲良くということですから、そのこと自体はいいことに決まっています。問題は、その中身です。それが実態としてどのような現実を作り出しているのかを批判的に検証することこそが求められているのではないでしょうか。政治参加を認めず文化に限定して人間関係を重視する「多文化共生」が社会を変革していく理念になりうるのか、このことも厳しく検証する必要があります。

④ 「要求から参加へ」の問題点
 日立闘争と並行して地域活動をはじめられたとき、私たちは地域に根ざした「民族差別と闘う砦作り」をめざしました。その後運動の方針は行政と共に「多文化共生」を進めるというようになり、公設民営の施設(ふれあい館・桜本こども文化センター 1988年)が作られ、社会福祉法人青丘社が運営権を委ねられました。そして地域の運動として行政に対しては積極的に行政に関わるという意味で、「要求から参加へ」というスローガンになっていきました。
                         
もはや運動側は行政に要求する段階を終え、市政に参加する段階になったという認識です。しかしそれは民族差別と闘うという運動方針を総括して次の段階に進んだということにはなりません。事実、「民族差別との闘い」がどのように「多文化共生」に変わっていったのか、それを総括する議論は川崎においては未だなされていませんし、そもそも「多文化共生」は文化を強調し、急激に増加する外国人との軋轢をなくすために日本社会が作り上げた、構造化・制度化された差別を変革する運動の理念にはなっていません。文化に限定し外国人の政治参加を保証しないままの「多文化共生」は、差別を固定化するイデオロギーとなる危険性があるのです。


⑤ 少数者の問題解決は多数者のためにもなり、社会の変革につながるのか

(あ)外国人市民代表者会議について

 川崎には少数者のためにいいことは多数者のためにいいことだという、故李仁夏牧師が提唱した有名なテーゼがあります。少数者(マイノリティ)の政治参加の要求は当然であり、保障されるべきです。そこで鳴り物入りでつくられたのが外国人市民代表者会議です(1996年)。著名な学識者による検討からはじまり、海外の実態視察が行われ具体化されました。

 代表者は26名以内で市の募集に応募した川崎在住の外国人の中から市の選考委員会によって選ばれ市長が委嘱します。代表者会議で議論した内容を市長に提案し、市長がその提案を「尊重」して庁内会議などを通じて全庁的に対応、実行するという仕組みでそれなりの形式を備えて運営されていることは事実です。

 しかし①外国人市民代表者会議には決定権、予算要求権はない、②議題は外国人の「地域社会で生活する中での問題」に限定されていて、外国籍公務員の差別的待遇などはもちろん、全市的な問題、政治に関わることは議題にされない、③外国人市民代表者会議のメンバーに選ぶ基準が明らかでない、④外国人代表者会議は増加する外国人住民の政治参加を保障する制度にはなっていない、という意見が聞こえてきます。

ここから見えてくるのは、外国人市民はあくまでも一般日本人市民とは違うということが大前提になっているということです。外国人市民にも基本的人権としての政治参加を保障するということは、①外国人市民の自主的な組織に一定の自治権・運営権を保障するか、②地方参政権などの地域市民に保障されている権利を外国人市民に付与する、という具体的、公的な制度の保障です。形式的な外国人市民代表者会議では増加する外国人市民の要望には応えられないということは明らかです。それでは外国人の政治参加は上記の①か②の行政によって導かれた新たな制度の設立ということで終わってしまうのでしょうか。

(い)市民の市政参加の責務について
一方、川崎市自体はすべての市民の市政への参加を責務とするということを打ち出しています。新総合計画が来年3月決定されることによって、川崎市民は市政に参加する責務があることが明記されます。区民協議会などが設置され、川崎市民は市政への参加が責務とされるのです。
基本自治条例の「第2 自治運営を担う主体の役割、責務等」には「苦情、不服などに対する措置」で「市に、市民の市政に関する苦情、不服などについて、簡易迅速にその処理、救済などを図る機関の設置を定めます」とあります。市に不満があるのであれば、それを救済する機関を作りますよ、というわけです。

(う)市民の政治参加とは何か
問題は、市民の政治参加とは何かということです。それは行政が作る制度か仕組み、すなわち行政の影響力の行使によって市民の思いを実現させていくことの保障に乗っかる(依存する)ということでしょうか。しかしそれでは戦前、戦争中にあらゆる国民の運動が国家の力によって運動目的を果たそうとして失敗したことから教訓を学んでいないことになります。国家を地方自治体に替えただけのことです。そうではなく、地域住民・市民が自発的に、自分たちの思いを自分たちの力で実現させていくことこそが市民の政治参加の本道であり、その具体的な方策を市民自身がつくりあげていかなければならないものだと私は考えます。外国人の政治参加は公権力の作る制度に乗っかるだけではなく、自分の住む地域社会において隣人と共に「生きていける」人間関係をつくり、自分自身の生命を守り安心して生きていける仕組みをつくっていくことではないと思うのです。

ところが現状は、地方自治体はさらに力を大きくしていき、その影響力によって行政が作った制度にすべての市民を参加させようとしています。外国人の政治参加もこの方向性の中で進められています。これではすべての市民の市政への参加を責務とする川崎市の政策の中に外国人の差別と闘う運動は完全に包摂されてしまうのではないかと、私は危惧します。そのすべてを包摂するイデオロギーこそが「多文化共生」なのではないかと私は考えつきました。

誰もが否定できない外国人の政治参加の保障というのは、実は、すべての川崎市民に対して市政への参加を責務にすることの導入であったのではないのか、と私は考えます。これは外国籍公務員の差別をなくす「川崎方式」が川崎市公務員の合理化に結びついていたことと同じです。「多文化共生」は国籍や民族の違いを乗り越えてすべての人が地域住民として仲良くやっていくというイメージを与え、あらゆる立場の人がすべて礼賛するスローガンになっています。しかしながら「多文化共生」はその実態をみればわかるように、排外主義的なナショナリズムを克服し、制度化・構造化した差別をなくしていく闘いの理念にはなりえていないのです。私は「多文化共生」は原理的にその任を果たせないと考えています。この「当然の法理」を絶対化して「多文化共生」の旗をふり、国籍による外国人公務員の差別を制度化した「川崎方式」に根底的な問題提起をしたのが、国籍を理由に管理職昇進を拒否した東京都に対して果敢に裁判闘争をはじめた鄭香均さんです。「当然の法理」と「川崎方式」の本質とはなにかを考える人は多くないかもしれません。しかし私たちの運動が小さいからといって悲観することはないと思います。むしろ市民の方と話をしていると私たちの話は説得力をもっていると感じます。ということで、香均さんにバトンタッチしたいと思います。

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