2016年8月19日金曜日

原発メーカー訴訟東京地裁判決報告と今後の対応について ――7・23大阪での学習会の報告――

原発メーカー訴訟東京地裁判決報告と今後の対応について
――7・23大阪での学習会の報告――

日時:7月23日(土)15:00~18:00
場所:大阪南YMCA)  

1.崔勝久氏(原発メーカー訴訟の会・本人訴訟団事務局長
日本のマスコミは、原発メーカー訴訟の判決の報道を正確にしていない
13日に判決がありまして、その日のNHKニュースで報道され自分(崔)も出ていたそうです。昨日、東京新聞の記者と話をしました。13日に12時に有楽町と新橋の家電量販店の前で東芝の不買運動、東芝が原発を輸出するということは認められない、という不買運動の旗を挙げビラ配りの活動をしました。それを報道したのはクリスチャン・トゥデイという教会系の一人の記者だけでした。新聞ではなくネットで配信しています。彼が一番僕たちの立場を正確に紹介してくれたなと思います。東京、朝日、日経、いろんな新聞社はまともに判決を読んでいない。判決を読まないで、弁護団のまとめた資料だけを基にして新聞報道をしたという印象です。

真実を報道した唯一のメディア、Chirsitian Today, 判決の本質は何であったのか?
    http://oklos-che.blogspot.jp/2016/07/chirsitian-today.html

先ず一社(読売新聞)だけが僕らの記者会見に出て「崔さん、弁護団訴訟団と本人訴訟団の二つの主張は違うんですか」と初めて聞いてきました。他の新聞社はそんな事も知らないで報道してました。残念ながら読売新聞は裁判そのものを報道しませんでした。
東京新聞からは改めて8月6日の広島の件で記事にしたいとの取材を受けました。この中で弓場さんを含め8月4日から韓国に20名行きます。8月5日に大邱で韓国人被爆者がアメリカ政府と原爆に関係したアメリカ企業に対して「原爆の投下の責任を問う」という提訴を初めてします。その記者会見に我々も出ますので、その時に取材をしてほしいとの情報を流してます。

日韓脱核平和巡礼が終わり、新たな国際連帯運動がはじまります
    http://oklos-che.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

広島が平和都市で原爆のために被害を受けたという戦後一貫した主張の中で、70万人の中7万人の朝鮮人が被爆し、その内4万人が死んでいるという、その死亡率の高さはなんだったのかということが、戦後の日本の歴史の中で明らかにされてこなかったのです。
「水を下さい」、「痛い」ということを韓国語で言うわけです。広島は軍事都市ですから朝鮮人が軍事施設で多く働いている。「痛い」ということを朝鮮語で言いますから、水も貰えない、病院にも連れって貰えないということで、実は死亡率が高かったのを私は初めて知りました。その資料をどうして日本の平和運動がこの事実を70年間伝えてこなかったということを是非記事にして欲しいと話しをしたんです。

原告団には原告弁護団と本人訴訟団の二つの主張があった
  先ず多くの方が、裁判のことをよく知っている人も理解できていない事実があります。今回の我々の裁判の原告というのは二つに分かれているのです。同じ裁判で同じ裁判の番号だけれど、原告には二つの主張がある、という基本的なことが伝わっていませんでした。法廷に入ると被告弁護団GE、日立、東芝、こちら側に原告弁護団と選定当事者と三つのグループになっています。選定当事者というのは、選定人が40名いまして、その中で代理人の役割をしており、選定者の代わりに手続きをしてくれる人、主張してくれる人を選定当事者として9名を選んだのです。その9名が弁護士のような働きをして、書類を作ったり、法廷で発言ができます。原告と選定者の違いは何か、どうして原告が二つの主張を別々にしているのかという、そのものが全然新聞社に伝わっていませんでした。同じ原告であっても違う主張をしている。これに対して裁判所は一つの判決の中で別々に判決を書いています。原告弁護団が主張していること、被告弁護団が反論していること、それに対して裁判所が判断します。裁判所はそういうかたちを取っているのです。

本人訴訟団とは何か
同じく本人訴訟団とは何かというと、普通我々は裁判を起こすのに弁護士を法廷代理人として立てる訳です。そこに委任契約があります。4千名の原告がいましたので4千枚の訴訟委任状を裁判所にだしたんですけれども、40名の選定者というのは弁護士との委任契約を解除した原告で、弁護団とは同じ裁判であっても別々に主張をして裁判を進めるというということになっていたのです。選定者の集まりが本人訴訟団です。
先ず僕が訴訟の会の最初の事務局長だったですけれども、僕と2回目の朴君という現事務局長の二人が弁護士から委任契約を解任されました。あなた達の代理人はもうしませんと。そうなると僕らは原告であることを止めるか、あるいは本人訴訟というかたちで弁護士を付けないかたちで裁判するしかなくなった。二人を切るような弁護団のもとでは裁判をしませんということで弁護団を解任した原告が、合計40名、選定者となり、その中から代理人の役割をしてくれる選定当事者を選び、本人訴訟団というかたちで裁判を始めた。そういうのが今までの流れです。

原告弁護団と本人訴訟団の主張の違い
その弁護団と本人訴訟団との基本的な主張の違いは何かということをもう一回整理したいんです。原告弁護団は、メーカーの責任を問わないで全ての責任は東電、原子力事業者にあるという責任集中制を謳っている原子力損害賠償法(原賠法)が、そもそも違憲であるという主張をします。そして裁判では4千名の人達は原発事故によって精神的損害を負い、その賠償金を原発メーカーに一人100円を請求しました。その請求に対して損害賠償法に基づくと、東電が責任を負って賠償金を払うんですが、弁護団は、原賠法が違憲でなくとも、原賠法の中に記している、原発メーカーが「故意」に事故を起こした(事故がおこることを知っていたことを「故意」と解釈して)ケースをとりあげ、そのときには東電には「求償」、すなわちメーカー側に金を出せという権利があるのだから、無資力の東電の代わりに我々、原告側が原発メーカーにお金を請求すると主張するのです。もちろん、被告弁護団は、年間4~5000億円の利益を上げる東電が40万円の賠償金を払えない「無資力」の会社というのかと反論しています。

我々の主張はそうではなくて、そもそも原発というのは憲法違反ではないか、原発というのは、これは澤野さんのアドバイスで我々が主張し始めたんですけれども、公序良俗という概念からしたら、もうチェルノブイリからスリーマイルから福島の事故を経験してみると、そもそも原発なんてあって良いのかという、そういうものを製造するための契約は認められない、というのが基本的な我々の主張なんです。そのうえで、憲法の精神に反して「戦力」になる(原子力基本法を改正して「安全保障に資する」と原発を位置付けたわけですから)原発の製造・輸出が違憲であるという主張を縷々展開しています。

原発の製造及び輸出は憲法違反であるー本人訴訟団の主張

     http://oklos-che.blogspot.jp/2016/03/blog-post_19.html

判決の問題点
そのような主張に対する判決文がこの174ページの分厚い判決文です。174ページあるんですけれど、その内の判決文は34ページ。34ページの内の本人訴訟団に関するものが1ページぐらいしかない。判決は4時から僅か1分ぐらいでした。その後5時から記者会見を弁護団がやって、僕らは5時半からでしたから余り時間がなくて、直ぐ(判決を)取りにいってこれを貰って皆で読んだんですね。その時に、174ページですが34ページしかなくて、34ペーの内の本人訴訟団に関してまともに書いているのは、ほんの1ページしかないということで、皆「えー」と思ってたんですが、よーく読んでみると別にそこだけでなくてすべての事に関して選定当事者、我々が書いたことに対する見解がそれなりに触れています。それがよくわかったのですが、ただ判決を詳しく読んでみると先ず何でこんなに少ないのかと。後で澤野さんから背景を説明して頂きたいと思いますけれど、先ず驚いたことは新聞記者が知らないだけでなく、裁判所は僕らが準備書面で主張したことに関して触れてないんです。裁判所というのは原告が言った内容、被告が反論した内容、それに対して裁判所判断という、その順番を経て私たちはこの判決をしますという主文になるのです。

相当因果関係について
第4準備書面には公序良俗の問題から、被告が反論した内容に関する反論を一番詳しく書いています。被告の言い分は、一言で言いますと、「あなた達は原発の事故があった、それに対して精神的損害を受けたと言っている、10程の理由を挙げているが、それはどういう関係になっているのか、事故と精神的損害の主張する間の因果関係というのがはっきりしていない」、というのが被告の言い分なんです。全ては、原賠法は合憲だ、選定者が書いているそんな問題があっても原発メーカの責任は免責だという、そこの所を含めて合憲だから何を言われても答える必要がないという立場に立っているのです。だから、被告が強く主張している相当因果関係、つまり実際の事実と僕らが主張している(精神的損害の)関係は何なんだという、相当因果関係を一番被告は主張してるんですが、一体相当因果関係とは何ですか、というような事を僕らは第4準備書面で主張したんです。因果関係をいうのに相当因果関係だけじゃなくて、事実的因果関係による、そういう具体的な事と、それから精神的損害に関する賠償責任というものを全部書きました。それに対して被告側は何にも言及していない。だから判決は僕らの言ったことに対する被告側が反論もなく、それに対して裁判所の見解は何も書いてないんですから、判決の中に僕らが訴状で書いた内容に関する言及は全くないという、理解できないような判決になりました。

東京地裁の原発メーカー訴訟判決の正確かつ詳細な報告(2)ー判決の本質的な問題点の解明

    http://oklos-che.blogspot.jp/2016/07/blog-post_47.html

控訴理由書の提出
それに対して控訴状というのは判決から2週間以内出さないといけない。2週間という事は、来週の水曜日までに控訴状、つまり我々は控訴しますということを、本人訴訟団40名が控訴しますというものを出さなくてはいけないし、それから弁護団も出すでしょう。それからそれを出してから50日以内に何で控訴しますかという理由書を書かなくてはいけない。先ほどの澤野さんとお話をし、午前中は大橋弁護士とお会いして、どういうような控訴理由にするかという話をしてきたんですけれども、後50日以内に我々は控訴理由書を提出します。この判決は不当ですとして裁判を続けます。控訴状を出しましたが、それに対して裁判所がこれは話にならない、として一回で結審することもあり得ますけれども、僕らとしてはそもそも第1審の判決が十分でない、審議が十分なされてない事(審議不尽)を前に出して、その理由を書いてものを50日以内に出さなくてはいけない。そのためには彼らが触れていない内容、即ち公序良俗に反しているということはどういう意味なのか、どのような理由で我々はそのような(公序良俗という)主張をしたのか、原発の製造・輸出は違憲であるという主張にどうして答えていないのか、ポイントは後で澤野さんに説明して頂きますが。それを中心としながら裁判を起こしたいと思います。

法廷内外の国際連帯運動を進めます
それと我々の訴訟の目的は、一番最初からそうですけれど、裁判のための裁判をするのではなくて、原発のメーカーの責任を問うために裁判を始めた訳ですから、これは法廷内外でメーカーの責任を追及するということは当たり前のことなんです。特に、国際的な運動にしない限り、裁判所だけの判断で求めようと思って僕らは運動している訳ではないのですから、全世界にメーカーの責任の問題を明らかにしながらやるという、その大きい運動方針を持ってましたので、控訴は控訴でやりますが、40人の本人訴訟団の内の選定当事者9名だけが原告というかたちになって、それで同時に全世界、4日から韓国に行きますけれども、東芝のBSD(Boycottボイコット、Divest投資引き上げ、Sanction制裁)を全世界的にやるということを今度の韓国で再確認して、アメリカ、カナダに情報を流していくという運動を並行してやります。控訴審をやりながらメーカーに責任があるという法的な根拠を裁判で示しながら、同時に実際的な運動、東芝の不買運動をやるというのが僕らの考え方ですので、それを準備しています。そのために田上さんという40歳代の女性をカナダに送りますので、彼女はWSFワールドソーシャルフォーラムという何万人かの大集会に出て我々の運動のアピールもし、サンフランシスコに行って活動家と情報交換しながら我々の運動と一緒になってやる可能性を話す、という事も進めていますので、進展の報告も皆さんにしたいと思います。


2.澤野義一教授(大阪経済法科大学)
(1)「憲法9条の会・関西」の資料について
  表題「核兵器使用合憲論の新たな閣議決定の検討」

日本政府の新たな見解「憲法の解釈論として、核兵器の保有のみならず使用も可能」
これは原発の問題と非常に不可分の関係にあります。新聞もほとんど批判的に言及したものはありませんでした。4月1日、安倍内閣は非核三原則を維持するけれど「憲法の純粋な解釈論としては、その憲法9条は一切の核兵器の保有のみならず使用も可能なのだ」、憲法上核兵器は必要最小限、自衛のためとあるが、核兵器の保有はできる、これは従来日本政府は事実上言ってきたわけですが、今回はそこを踏み越えてしまして、核兵器を使用することも憲法9条は禁止していないという正式な決定を下したということなんです。こんな重大問題をメデイアはほとんど取り上げていないです。批判も何もしていない。これは無視することは出来ないことですけれども、1年前は集団的自衛権の行使は憲法上問題ないという解釈改憲、解釈変更を内閣でやりましたが、今度は核兵器の使用も可能だという新たな憲法解釈に踏み込んだというので、これは本当に大変重大視しないといけないということです。

広島でオバマ大統領が、核のない世界を目指すという、表面上かなり理想主義的、ある意味で興味深い演説ではあるのですが、真実を語っていない。小型核兵器をどんどん造っていくための予算を増やすという、アメリカの核政策があるんです。そういうものは今回ほとんど述べていない。それから何故今の時期に核兵器の使用まで憲法上許されると言ったことも、敢えて内外に向けて宣言したんだという所が、これ本当は検討しないといかん。これはもう一寸とはっきりしないのですが、あの岸田外務大臣がそこに居たんですが、2014年1月に長崎で講演していまして、「核保有国の核兵器使用は、個別的・集団的自衛権に基づく極限の状況に限定して許される」と言っている。
だから安倍内閣の安保関連法で「日本の存立危機事態においては集団的自衛権の行使は可能になる。」が、そういう場合には、アメリカに日本の武器・弾薬を輸送するだけでなく、提供することも可能だと言う事も決めたんです。その中に、将来的には日本が保有する核弾頭をアメリカに提供する、あるいはアメリカの核の傘の下で共同で核兵器を使用するということを宣言していることで、おそらく核抑止力、北朝鮮や中国に核の脅威、核抑止力として、直ぐにもいずれ核武装できる、という事を宣言したという解釈ができるのではないか。

日本政府の見解、「核兵器使用できるための能力を維持し続けるために、原発を動かす」
戦後1955年に原子力基本法、即ち平和目的に限定して原発を動かすという法律をつくりました。それに基づいて今問題になっている原賠法というのも出来るし、地方自治体には原発をつくってくれれば政府はお金を出します、バラマキをしますという法律がいっぱいでき、原発関係の法体系が1955年にできるわけです。同時にその時に日米原子力協定が結ばれて、アメリカの核の下で原子力施策をやっていきますという事で、当時はようするに核武装するな、濃縮ウランは日本に提供するが、日本はそれを使って核兵器はつくるな、平和目的、つまり原発に限定するという状況だったわけです。

ところが、実は政府指導者、国会議員たちは裏では原発を動かしながら、それは核兵器使用できるための能力を維持し続けるために、原発を動かすのだという事を、実は裏では言ってきたし、そういう内部文書もあるわけです。1969年「我が国の外交政策大綱」の中に、はっきりと書かれています。原子力基本法の建前は平和目的に限ると言いつつ、実は核武装とか原子力の軍事利用を一方では意図してきたという事がはっきりしている。だから原子力基本法もほとんど建前は覆され、空洞化していることも知っておく必要があるし、つまり原発の問題は核兵器の問題と表裏一体であることも前提として置かないといけないと思う。

国際法のまだ少数の説ですが核兵器の保有と使用は国際人道法違反だということと、さらに進んで原発の保有も使用も同じように国際人道法に違反するという説が一部出てきている。そうすると当然国際法の動きは、日本国憲法はそういう国際法を誠実に遵守すべきであるというのが98条で、ましてや憲法9条を持っている非武装の憲法の下では、そういう国際法の動きを国内法で実現する義務がある、国際法の動きも取り入れる必要がある。

日本憲法は直接核兵器を持たないとかそういう事は一切触れていません。あるいは原発を持つとかも触れていない。ですが解釈すると、オーストリア憲法は核兵器の保有とともに原発も禁止するとはっきり書いてあるわけです。日本憲法は解釈上これと同じ趣旨を持っているという理解になるというのが私のずっと主張していること。原発違憲論もちょっと大きな流れも認識しておく必要があるのではないかということです。

下田判決で「原爆の投下は国際法違反」(1963年東京地裁判決)
韓国でアメリカの原発投下を訴えるということが出ましたが、実はそれの原点は東京地裁にあります。アメリカの日本に対する原発投下に関する裁判で、1963年の東京地裁(下田裁判)、知る人は知っていますが、知らない人が圧倒的に多いと思いますが、これは被爆者の損害賠償を認めなかった。本当はアメリカを訴えたいのですが、日本政府が何もしなかったので、不作為状態だったので、日本政府を相手に広島、長崎の被爆者が日本政府に損害賠償請求をした。それ自体は否定されたのですが、その判決の中で興味深いことを言ってまして、原爆の投下は国際法違反であると判決で述べている。「核兵器の使用は戦闘員と非戦闘員を区別なく攻撃し、それは占領に対し軍事的に抵抗する意図がなかった広島・長崎の無防備都市、軍事施設があっても軍事的に事実上使用できない状態にある場合は無防備都市という、これを攻撃すると当時からも国際犯罪なのです。
一言で言うと無差別攻撃ということで、つまり戦争というのは正規軍と正規軍だけが戦う。だから正規軍が一般市民を攻撃するとこれは戦争上も国際法違反。軍事都市を攻撃してもいいんですけれども。病院とか文化施設を攻撃してはいけない戦争のルールです。要するにプロレスでレスラーがリングで戦っている限りは殴っても蹴っても傷害罪、暴行罪が成立しないわけです。それは合法的なのです。所が、プロレスラーがリングを降りて一般市民や聴衆をやっつけるとこれは犯罪になる。というのが国際法違反になる、原爆は普通の兵器と違って不必要な苦痛を与える、いわゆる残虐行為であるということで、これは非人道行為だから、当時の国際法から見ても既に違法性があるからという認定がされまして、これは東京地裁で一応確定判決になった。これは今世界的にもこの判決が影響力を持っていまして、国際司法裁判所核兵器の使用判決とか世界の平和運動、反核運動とかにものすごく影響力をもっている判決だったということです。

(2)判決について
  今回の判決をどう見るかということなんですけど。私の印象的な感想。
  判決は原告団を主な対象にしている
まず一つ目は、この判決は、対象にしているのは主に原告団の主張に対する判決であって、こちら側、本人訴訟団の主張に対してはほとんどまともに答えていない判決になっていると思います。つまりまあ無視したか、あるいは眼中にないという姿勢が良く見える判決になっていると思います。

  判決は深く考えられていない
それから二つ目、原告団側を主に相手にしているわけですけども、原告団の主張内容は先ほど紹介されましたけれども、原子力損害賠償法(原賠法)ですね、原子力被害に関する損害賠償に関するものですが、その目的、システムがどうなっているのかというと、責任集中制ということで東電に限定して損害賠償責任を問い、それ以外のメーカーとかの責任は一切取らなくいいと書いた法律です。これに付いて判決はこれはそれなりの合理性があるのだと、こういう制度を作った合理性があるんだということを前提にしてしまうわけです。

 何故かというと、責任があちこちにあるとかやると、結局誰に責任を問えるかということがはっきりしないので、東電だけ、原発を動かす東電だけに責任を集中してやれば被害者も相手が分かるからいいだろうという話です。そういうのは合理性があり、何らおかくない、ということを前提にしまして、従ってこれが憲法上全然問題がないという前提に立ちまして、従って原告側がそういうものがあると様々な基本的人権が侵害されることになっていると、特に原告団側の表現を使うと所謂「ノーニュークス権」、核による恐怖と欠乏、平和的生存権、そういう人権が侵されるとか、あるいはメーカーに対して、これは責任を追及できないとか、これは差別だ、平等に反するとか、いくつか原告団側が反論してものについて、いやそんなことはない、確かに若干は原告団が主張している人権侵害はあるかも知れないけれども、それよりも原賠法のシステムの合理性の方が遥かに重大だということと、少々そういう人権侵害あったとか、不安とか恐怖があったとしても、そんなのは大したことないですよ、という分かりやすく言うとそういう論理を展開しているわけです。

結局、原賠法の体系、1955年できた原子力基本法を中心とする法体系で、その中の一つが原賠法になるわけです。その体制、即ち国、東電だとかメーカーとかが支えているシステム、原発体制、原子力村と言ってるんですけれども、彼らのやっている事を追認する判決であるという結論になっている、と思います。だから裁判官の姿勢というのは、ほとんど原告側の主張、立場を考慮していないということです。結局、メーカーの方、被告側の反論とか主張のみを優先して、それをなぞっただけの判決になっている。しかもそれほど納得できるような裁判所独自の見解を述べたわけではない、つまり被告側が言っている原告に対して反論した被告側の主張をなぞっただけであるということで、ほとんど裁判官の独自的な、良く考えて書いたと言う形跡がほとんどみられない、というのが特徴となっているのではないかと思いました。

  原告団の主張を主に取り上げたのは反論が容易だったから
三 つ目ですが、裁判官の姿勢自体は今言ったように問題あるのですが、何故それじゃ今回こういう判決が出てきたかという、もう一つの所謂原告団の主張はどうだったのかという問題ですよ。つまり本人訴訟団の主張ですね、一応私の論文も提出され詳しい論点をつけた論文も提出されているのですが、これをほとんど裁判官は言及していない、無視しているという状態になっている。他方原告団側の主張については長々と主張を要約して無意味な、学生の纏めるレポートみたいな話で、なんら独自な見解もないし、ただ纏めただけのページ数を長々費やし、こちらの見解は1ページぐらいしかないという状態ですが、原告団側のを長々と紹介して却下した。それは何故なのかというふうに考えると、つまり批判が非常に簡単であったことなんです。
 原告団の主張は、先ほどから言われていますように原発そのもの、原発の存在とその稼働させるということ自体憲法違反なんですが、そこは一切言わない。出発点が原賠法並びにその中の責任集中性制度は、「ノーニュクス権」を侵すので憲法違反だという言い方を原告側はしている訳です。そこを争っている。原発の実態問題には結局立ち入っていないわけです。ある意味表面的な憲法論というか、法律論レベルの主張をして、裁判所の批判に止まっている。  
ところが原賠法を違憲立法であるというように見る場合に、原告団が主張しているのは一つだけなんですね。「ノーニュークス権」、基本的人権が侵されるということがほぼ唯一の理由なんです。ところが原賠法はそれに限らなくて憲法全体を否定するというものだという認識を示さないといけないです。だから「ノーニュークス権」というのは基本的人権の一つですが、これが侵される、これはこれでいいと思うんですけどね、ただそれだけではなく、憲法9条そのものを否定することになるんだということです。つまり憲法の三大原則、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権とか民主主義ですけれども、これ全てを原賠法が否定することになる、ということを言わないとちょっと弱いのではないかというふうに考えている。
 
憲法9条に何故原賠法が違反するか、原発が違反するかというと、核兵器の潜在的な能力になる、陸海空軍その他の戦力を放棄すると書いてある。その戦力というのは戦争に転用できるものを指す。原発は潜在的な核抑止力になるのです。何時でも核武装できるため備えておくべきものなのです。だからコスタリカの最高裁は、それを憲法違反だといったわけです。だからこの部分、つまり原賠法が憲法違反だというためには「ノーニュークス権」だけの主張では非常に弱い。だから憲法9条にも違反するんだということとか、あるいは国際関係ですと、原発の輸出という問題もあるし、東京には原発を作りませんよね、これは地方に造る訳です。そうすると原発が爆発すると地方自治体そのものの存在が破壊されてしまう。つまり憲法で保障する国民主権、住民主権、あるいは地方民主主義ですが、地方自治の本質が否定されてしまう。つまりこれは住民主権、国民主権を潰す。つまり平和主義、基本的人権、国民主権あるいは民主主義ですね、これらをトータルに否定するようなものなのだ。だから原賠法並びにその基にある原発基本法とか原子力基本法とか、そういうものだということをはっきり認識してもらわないといけないのではないかいうことで、つまり原賠法は違憲立法だけれども、その前提として原発そのものの存在を否定する、動かすというそこからも既に違憲であることをはっきりさせた方がいいじゃないかということです。

これについて裁判所は、はっきり述べていないのですが、この関係で被告メーカー側が東京大学の高橋和之名誉教授に裁判所の意見書を提出しているわけです。つまり被告メーカー側は高橋教授に原賠法が憲法違反ではないということを証拠論文として書いてもらっている。これはいろんな意味において全く私から見ると問題が多い。そもそもこのような今回の裁判は、裁判で扱う問題ではないとまで言ってますし、これは政治の問題であって裁判所で争う問題ではないというのが結論になっている。あるいは原告の資格のある人は、原発の直接の被害を受けた周辺住民に限定されるんであって、内外の特に外国の人等というには全く訴える資格がないんだということも言っている。それから「ノーニュークス権」、環境権とか人格権とかそんなのは、そもそもまだ確立されてないのであって、裁判に訴えるに値しないと、ごっそごっそと切り捨てている意見書なのです。これをここで批判してもよいですが、私が賛同できる主張が一つだけあります。私と同じ見方をしているのです。

つまり原告団の主張はちょっとおかしいのではないですかということなんです。それは原賠法が憲法違反かどうかというかたちで原告団は争っています。だけどその主張は、実はちょっとおかしいのであって、本当はあなたがたが考えていることは、原発そのものが憲法上問題だ、ということを本当はいいたいのではないですかと言っているのです。原告団の説明は非常に複雑怪奇の主張をしているんです。原賠法の目的、それを実行する手段が憲法違反、非常にややこしい、素人が読んでも何の事かわからんようなことを、弁護士達は書いている。そんなことより、本当は憲法は原発を禁止しているかどうか、端的な争点ではないでしょうか本当は、ということを提起している。これは私もその通りです。ただし憲法には原発を禁止する明文の規定はない、というかたちで論理を展開していきまして、さらに「ノーニュークス権」といったような権利は、裁判所でまったく確立していません。そういうかたちで後は切り捨てて行くという論理展開をして行きますし、それから立法事実論、原子力基本法がつくった時は憲法違反なかったからとしてもそれ以降、こちらは憲法違反だと、事実が変化してチェルノブイリなどいろんな事故が起きて原子力基本法や原賠法の存在基盤、支える事実がなくなっているから憲法違反だと。つまり憲法事実の変遷ということをこちらは主張している。それに対しては、そんな論理は認められないとか言っている。これは全部反論できるのです。一つだけ、本当は原告が主張したいのは原賠法の違憲立法性をいう前に、原発そのものが憲法違反かどうか、ということを本当は争ったらどうですかと言ってている。こちらは最初からそれを争って僕も書いている。

   控訴について
本人訴訟団の主張にまともに応えていない理由

地裁の判決は特に原告団の主張に対しては細々と丁寧に反論してくれているが、こちらの主張はほとんどノーコメントなわけです。判決というのは当事者の主張に答えるのが裁判官なのです。当事者が主張してないことを勝手に判決に書くことはいけないのですが、当事者が主張していることについて相当整理してそれに答えるのというのが裁判所の役割なんですよ、これを完全に放棄している。これは判決としては全く不備があるので、控訴状には判決に不服があるので控訴しますという形式になると思いますし、特にこちらの選定当事者らの主張を却下する現判決を取り消して欲しいという控訴趣旨になるし、それから控訴理由としては50日以内に具体的な理由書を出しなしということになっているが、何を書くかということでは、地方裁判所と高等裁判所では、控訴審高等裁判所、裁判所の位置づけとしましては事実審なのです。事実上1審、2審は同じような内容で2回争うという継続性を持ったもの、しかも事実認定を争う事ができるのは事実認定と法律判断、地裁の行った事実認定が果たして妥当なもので、しているのかしていないのか、法律判断をちゃんとしてくれてるかとか、事実認定と法律判断の二つをちゃんとやってくれ、という控訴になると思います。

事実認定の面では多分、こっちが言っている原告の精神的損害、原発による不安とか恐怖など10個ほど挙げていましたが、あの証言を当事者を呼んで発言させるという事実認定、それから原発メーカーと東電が原発を造って運転するという原発ビジネス契約を結んでいるはずです、その内容を公開せよという事実、つまりそれは公序良俗に違反するという無効の契約だと、こちらは主張しているわけですから、その契約内容、どういう契約内容なのか、原発事故が起こったらどういう点検、補修をする必要があったのにしなかったから原発事故が起こっている、という事実認定の所は全く、みられていない。

原賠法の成立過程に問題があった
それからもう一つは事実認定では原賠法の立法過程、私の小文には書いてあるのですが、全然触れられていない。これは非常に重要な、1961年原賠法が成立した立法過程、それは何故だったかというとアメリカの原発会社、製造メーカーの責任を問わないためにつくった。その立法過程、それから仮に原発事故を起こすと日本の国家予算の2~3倍の何億という被害、損害賠償が発生するということを国会に報告しなかった、隠して法律を通過させている。後から分かってくるわけですね。そもそも原賠法という法律の立法過程におけるその不透明性、書かれていたことが、これも立法事実で分かってきたわけです。こういうものも原賠法が憲法違反だと言う時に材料になる。この内容を全然触れてくれていないということを、あらためて控訴理由に書くというのと、法律判断の控訴理由としては、この判決を見るとちょっと触れくれているのは、原告側が主張している原子力損害というのはどういうものでしょうかと、原子力損害の解釈について触れている部分だけですね。

相当因果関係について
それは原告の独自の解釈、見解であるという考え方で簡単に無視している所、それから原子力損害の解釈とそれとこちら側が主張している因果関係、損害賠償できるためには、行為と結果に因果関係が証明されないといけない訳です。どういう会社のどういう行為でこういう被害が発生しましたと、行為と結果を証明しないと裁判ですからいけないわけです。その時にその因果関係というのはどんなもんですかということが論点になる。裁判所並びに 被告側は、所謂相当因果関係というキーワードで、出来るだけ損害賠償を制限するために、相当というのは広い意味ではないのです、これは逆の意味で非常に狭い相当なのです。日本語の言葉は相当というのは広くとってくれる意味を持っているが、裁判では逆で狭く限定する相当因果関係、具体的にいうと福島の原発事故の起きた周辺の住民の被害だけに限定して、因果関係を認めて損害賠償を支払う。

だけれども事実関係はですね東京に来ている大阪の人も精神的苦痛という、不安と恐怖という被害がある訳です。事実関係としてある訳です。アメリカの人でも海を渡って放射能が行っているという科学的な論文も出てきている。こちらが10個ほど挙げた不安と恐怖も事実を挙げています。あれは事実的因果関係を示している。こちらは示しているわけです。だから事実関係、こっちで言っているのは、何か独特な見解だと言っているが、裁判官は多分意味が分かっていない。私の論文にもそのことを書いているけれども、ほとんど読んでいないと思われる。一つは因果関係論、ここを反論するということと、こちらで主張している公序良俗違反だとか、憲法論、9条に反すとか、立法事実論の変遷とか、ある意味の憲法論という法律論の所ですかね、この辺りもあらためてはっきりとさせるということかなと。

裁判における主張と実際の運動論との関係
課題としては、もう一つ追加で言っとくと、原告団の裁判の主張は、おそらく原発の運動論とは結びつかないと思います。残念ながら、広い意味の反核運動とか、原発反対の市民運動とか、そういうものとは結びつき難い論理構成になってまして、こっちの主張しているのはそういう意味で言うと。原発輸出に対する反対も含めて、いろんな意味で広く運動論とも結び付く、法廷の中の議論に止まらずに内容を、私の考えで作った理論ではあるんですが、もう一つ参考までに言っておくと控訴審、第2審で負けることが多いのですが、こういう判決あります。

第1審、第2審とも簡単に訴えが退けられたのですが、逆に最高裁に行くと勝ってしまったというケースがある。これは在外日本国民の選挙権を認めていない公職選挙法があった。日本人だけれどもアメリカに住んでいるとか、そうすると参議院選挙とは衆議院選挙の選挙権が行使できないという法律があったわけです。それは普通選挙権があるのに憲法上の基本権が認められていないということで、これは憲法違反ではないかということで裁判をしたんです。所が、下級審はそれは立法裁量、立法府が法律をつくったのだから憲法違反かどうかは立法府がそういう裁量を持ったのだ、これは今回の原賠法が立法裁量でつくったのだ、それは合理性があるのだ、だからそんなの訴えるなということです。地裁も高裁も棄却、却下です。原告は選挙権があるかどうかの確認とか、次に行われる参議院選挙で自分は投票できる資格があることを確認せよとかいろいろ言っているわけです。高裁で新たに追加理由をいくつか入れています。でも負けたのです。最高裁に行きまして、最高裁は、その法律は憲法違反ですと、さらに損害賠償請求も認めたのです。その原告は選挙権行使できなかった損害賠償とその法律は憲法違反ですから改正しなさいという判決がありました。

従って今回地方裁判所で負けまして、それに対して控訴審であらためて控訴理由をはっきりさせて訴える訳ですが、場合によっては簡単に書面だけで却下、棄却される可能性もあるし、これはおそらく判事によると思うのです。裁判官の姿勢なんです。いろんな問題にどういう姿勢をもって臨んでいる裁判官かによって、当たりが良ければ興味深く対応してくれる可能性もあるし、例えば福井県の大飯原発のあの判決は差し止めたんですよ。あの判事は姿勢が非常に高いです。評価できます。原発についてかなり良く考えている。あーいう判事に当たると良い判決がでる。そうでない判事に当たると簡単にやられる、蹴られる、のが今あちこちで行われています。福井県でもそっちの判事、九州の川内原発の判事も簡単に住民の訴えを退けましたから。だからどの判事に当たるかどうなるか分かりませんが。

   国家賠償について

国家賠償、国の責任もこちらから追及できるんですけれども、ただ今回の裁判では、相手をメーカーに限定した。原発事故の裁判は種類が一杯ある。基本的には東電を相手にする裁判がメインです。東電を相手にする損害賠償裁判で風評被害だとか、営業ができなくなったとか損害賠償を東電に求める裁判です。その時に同時に国家の責任、国家賠償も同時にやってる裁判です。だから勿論こっちの裁判でも、例えば原賠法というのはそもそも憲法違反的な立法である、ということが分かってきた段階で国会がそれを放置してきたと、つまり立法を変えるべきなのに、変えないという立法不作為です、立法不作為の国家賠償、この場合は国会の責任なんです。

国家賠償といっても立法権、行政権、場合によっては裁判官もある、司法権もあるのだけれど、この場合は立法不作為だから相手は国会です、国会の過失です。そのような裁判はある。認めたものもある。最高裁で国会の立法不作為による損害賠償を認めた例はかってあるんです。だから形式的にいうと可能なわけです。あるいは国家がこの原発に絡んでいる絡み方は、これは行政裁判になるのですが、原発の稼働について結局は許認可するんです。稼働する場合は必ず、それについては全て国家が絡んでいる。この国家の場合は行政機関、内閣の通産省管轄かな、原発を動かす許認可を与えるんです。その違法なものについての行政責任です。だからこれも国家賠償の対象になる。共同不法行為なんです。

つまり今回我々も東電も訴えることもできたわけです。東電とメーカーは契約を結んでいるわけです。原発ビジネスで。共同不法行為なんです。だから民法709条も使っているし、所謂共同不法行為責任も主張している。だけれども直接的にはメーカーの方だけを最終的には損害賠償対象にしている。理屈としては共同不法行為です。東電とメーカーの。国も許認可の段階で入っているから、論理的にはこっちも国家賠償でいけるんです。だけど全部相手にすると、めんどうくさいから。他の裁判もやってるから、他の訴訟団は国家賠償訴訟をやっているから、こっちは唯一のメーカー訴訟だからターゲットをこれだけに絞ってやろうという趣旨だろうと思って私はあまりそこを書かなかったのです。

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