2020年10月22日木曜日

拙著が韓国でも発売されました

韓国語の表題は「ある在日人権運動家の抵抗の伝記 変化を起こしてきた異邦人」になっています。 その説明として「在日として闘ってきた崔勝久の生の道を顧みると在日の全体性模索の大変具体的で個人の過程とそれを通して獲得した思想に出会う」とあります。

2020年10月18日日曜日

寺島善一著『評伝 孫基禎』(社会評論社2019年)を読んで。

寺島善一著『評伝 孫基禎』(社会評論社2019年)を読みました。私の亡くなった父は大阪でボクシングクラブのオーナーであったことから、孫氏とは懇意でした。孫氏が来日したときによく会っていました。 家の中にある写真を探し出せば、孫基禎氏と私が一緒に写っている写真もあるはずです。手元にあったのは、ソウルオリンピックの時に父が撮った孫氏の写真です。父は孫氏が来日したときによく会っていました。私ももちろん、よくお会いしていました。 彼のことはよく知っているつもりでいましたが、今回、寺島氏の評伝を読み、私の知らなかったことがたくさんあることに気づかされました。今回父の残してくれた孫基禎選手の写真に自筆のサインがありました。

2020年10月17日土曜日

「国民投票」は、「住民投票」とは似て非なるもの ―大阪都構想の住民投票と外国籍住民:田中 宏(一橋大学名誉教授)

田中宏さんからのメールの添付資料の内容、賛同して、みなさんにもお伝えします。崔 勝久

「国民投票」は、「住民投票」とは似て非なるもの ―大阪都構想の住民投票と外国籍住民

                          2020年10月6日                           田中 宏(一橋大学名誉教授)

外国籍住民が、日本で初めて投票したのは、2002年1月、滋賀県米原町の町村合併につ いての住民投票だった。首都から遠く離れた地で始まった新しい流れは、その後、全国に 波及し、少なくとも200を超える住民投票において、外国籍住民の参加が実現した。 「住民」と「国民」は、そもそも区別されるべきなのである。例えば、在外邦人が、選 挙で投票できるのは衆議院議員と参議院議員の選挙に限られ、地方自治体の首長や議会議 員を選ぶ選挙には投票できないのである。国政には「国民」の意思が反映され、地方政府 には「住民」の意思が反映されるからである。

大阪市の行く末を大きく左右する「大阪市を廃止し、特別区を設置する住民投票」にお いて、すべての「大阪市民」が投票することによって、初めてその正統性が担保されるこ とは言うまでもない。「外国籍住民」が除外されるならば、それは単なる「国民投票」に 過ぎず、「住民投票」とは似て非なるものである。

大阪市に居住する外国籍住民は約15万人で、人口の5%を占める。しかも、その約75% におよぶ外国籍住民の国籍は、「韓国・朝鮮」又は「中国」で、日本と深い歴史的関係に ある近隣諸国の出身者及びその子孫である。住民投票が、「外国籍住民」を加えた「真正 なる住民投票」となったのは、2002年の「米原」からである。

「米原」からの新しい流れを、この2020年に、大阪で「逆流」させることは許されない のである。今回の住民投票において、外国籍住民の投票を実施するために、制度上何らか の「障碍」があるとすれば、まずそれを取り除くことが先決である。大阪市は、大阪から 日本を変える意気込みで、まずそのことをやり遂げて、初めて二度目の住民投票に挑戦す べきではなかったろうか。大阪市の名誉のためにも、足元の民主主義の欠陥を示す今回の 事態は、憂うべきことというほかない。

川崎のタウンニュースで拙著の紹介

恩師からの拙著の読後感、公開します

私の尊敬する恩師に拙著をお贈りしたところ以下のようなご返事がありました。私には過分なおことばですが、一人の読者の意見として匿名で公開させていただきます。

<崔 勝久 様 お送りいただいた『個からの出発』、一昨日夕方に郵便局に行って受け取ってきました。わざわざお送りいただき、まことに有難うございます。

正直に言って、この本は非常に役に立ちます。これまでのあなたのいろいろな発言や行動について、一つ一つについてはあちこちに散らばって、どこかに載っているにはちがいないのですが、さて、あれはどこに載っていたっけ、と探そうとしても、容易には見つかりませんでした。私のように整理の仕方が悪い読者は他にも大勢いるでしょう。

それを、今回の御本のようにまとめていただけると、それも、単に過去の文章の再録を並べるという仕方ではなく(多少載ってはいますが)、現在のあなたの文章でこのようにわかり易くまとめてくれると、すぐに頁を開いて見つけやすく、他方、そういう意味の参考書としてだけでなく、はじめから通して読むと、一つの本としてよくまとまっていて、読者も興味をもって最初から最後まで通読しやすいように書かれています。 というわけで、これは読者にとって(私もその一人)非常に有難い贈り物です。どうも有難うございます。これだけの分量をまとめられるのは時間的にかなり大変だっただろうな、と思いますが、それだけにますます、感謝いたします。

まだ興味のあるところをところどころめくって読んだだけですが、一つ一つ、問題の根本がどこにあるのか、他方また、一つ一つの個別の事柄の問題点がどこにあるのかを、非常にわかり易く書いてあって、今まで何も知らずにいた日本人の若者にとっても(たとえば190頁。それにしても「『韓国併合』を史実としてさえ知らない大学生が多くいる」という御指摘、私もあちこちでともかく今の日本人は植民地支配の事実そのものを知らなすぎる、という事例に多く出会ってきてはおりますが、それにしても、困ったものだ、とあきれております)、その若者たちにとっても、今回の御本は自分たちの歴史を正確に把握する上でも、絶好の教科書と言えましょう。よく、これだけのものをお書き下さいました。有難うございます。

 近頃は人間の寿命も長くなったので、お互い、もう少し長生きして、言うべきことをこの社会に言っていく仕事を続けることにいたしましょう。くれぐれもお元気で。>

2020年10月14日水曜日

拙著の川崎での販売と広告(朝日新聞全国版の第一面に掲載)

拙著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』は丸善ラゾーナ川崎、有隣堂アトレ川崎、紀伊国屋書店イトーヨーカドー川崎店でも置かれることになりました。まだ拙著のご購入をされていらっしゃらない方は、そちらの方にどうぞ。
本日の朝日新聞において第一面の広告が取れたそうです。ありがたいことです。 また川崎区と幸区においてはタウンニュースにおいて以下の広告が出されます。

『個からの出発、ある在日の歩み』読みてー日本人キリスト者BM氏

筆者のBM氏は内村鑑三以来の歴史ある日本独自の無教会の信者で、私が大学生のときに、その無教会の集会で在日朝鮮人問題とは何か話す機会を与えて小冊子まで作成してくださり、もうかれこれ50年以上のお付き合いのある方である。社会問題には熱心で、これまで日本キリスト教協議会(NCC)の委員会などで活躍された人物である。筆者が拙著をお贈りしたところ、A4で1ページ半ほどの長文の感想文を送ってくださった。私には過分なお言葉と思われるが、先日名古屋でお会世話になった仏教徒の女性からも所望され、私のこれまでの歩みをよく知る方がどのように拙著を読まれたのかをご紹介したい。 先に筆者のブログのオクロスで紹介したお二人もそうだが、この方を含めて3人の拙著への感想文を寄せられた方はみなさん、キリスト者である。 参照、「拙著をお贈りした二人の大先輩からのご返事」(http://oklos-che.blogspot.com/2020/10/blog-post_69.html)

崔 勝久様  表記の貴著昨日読了いたしました。どのように展開するのか、次々と事実を摘出されて、終わってみると、ある一点に集中していることに気付きました。それは、人間として、更にはキリストに捉えられた者として、いわゆる神の似姿として、かけがえのない人格を持った個としての崔氏が、いかに生きるのか、生とは何か、懸命に探究し、人生を開拓していく歩みの行路ではないか、と受け止めたことです。たぐいまれな個性と、正論ながら組織の中ではなかなか受け入れられないもがきのなかで、はじかれ、かつ、にもかかわらず鋭い視線で前進する。それは、イザヤ・エレミアのごとき悲哀と、にもかかわらずそれは義の道なのであって、しかし、世間からははじかれる道なのです。悲哀をあえて担う貴兄の姿を私は敬服の眼で見、私の生き方と重ね合わせて主の御心と受け止めています。

私が在日者(なぜ貴兄はあえて「在日」といれるか、在日=在日朝鮮人であることは御著のなかでもいわれていますが、説明はあありません)の苦悩をリアルに突き付けられたのは、あの朴君を囲む会での、とある会場で朴氏は私たちに向かって「おめいら、日本人の馬鹿野郎」の一撃でした。多くは、それを聞き、去って行ったものもあるかと思いますが、私は単純な男なので食らいついていったのでした。そして 、今の自分があることに気づきます。 人生とは、日ごとの出会いをいかに取捨選択して生きるその点と線との連続にあり、それは私にとっては、神の経綸の賜物と受け止めています。 本著の具体的感想は、最後に記されている加藤・金氏に実に的確な指摘に同感するのみです。とくに「当然の法理」のい摘出は、兄の独壇場であって、私は、この言葉は、いかにも日本的あいまい性と無責任の典型であり、私にも突き付けられた自戒語であって、日本人には、正面から受け止め得ない日本語的用語であり、また自覚的に留意できない、しかし人間としては欠かすことのできない大事な真理性をもった反語的用語と言えましょう。(中略)

ともあれ、ごく最近まで、もう崔さんはこの世に?といわれ驚愕した自分を思い、タウン・ニュースの写真、メールに添付されたのをプリントしてややおなかの出た貴兄の、本を手に置いた壮健を見て、夢のような思いに満たされています。 ほんとにお互い生きていてよかった、ということです。 それにしても、貴兄のような性格(これはまさに親ゆずりですね)と2人3脚でこられた奥様に、我が妻と重ね合わせて感謝していますよ。

貴兄達の結婚式の写真(ハガキ刷り)を想起しつつ・・・。擱筆します。2020,10,10