2016年8月25日木曜日

核分裂のない世界のためのモントリオール宣言

     

         核分裂のない世界のためのモントリオール宣言

この地球惑星の市民として、201688日から12日までモントリオールで開催された、核分裂のない世界のための世界社会フォーラムからインスピレーションを得て、私たちは全体として、すべての核兵器を除去し、すべての原子炉をなくしてすべての高レベル核廃棄物の連続的な大量生産を終息させ、世界中のすべてのウラン採鉱を停止させるように、全世界の市民社会の動員を要請している。

この要求は、核分裂のない世界のための必要性を個人的にでも組織のメンバーとしてでも知っているすべての国の仲間の市民に向かう。私たちは、孤立を克服するためにインターネットとソーシャルメディアを活用して、世界の市民の汎地球的ネットワークの構築をすることを約束する。その目的は、民需用であれ軍事用であれ、核分裂技術をなくす合同の行動を具体化することをコーディネーとし、相互の支援をすることである。

私たちは、軍事的、非軍事的核活動に接続された法的、技術的、金融的、医療的、そして安全関連の問題についての情報と教育手段を共有するコミュニケーションの通路を作ることを始めるつもりである。私たちは、協同の精神を持って国境線を越えて、私たちの資源を蓄えたいと思っている。それは汎地球的規模で世界中に民間用、軍事用の核施設を増殖し、核廃棄物を投棄し、埋立て、捨てる作業をする核体制の計画に対抗するために、集中的、統一的な対応の形成に、私たちが貢献できるようにするものである。

私たちは、核兵器一つ一つが残酷で比類のないテロの手段として、数百万の罪のない男女と子供の一撃で殺戮するために設計されたものと認識している。私たちは、限られた核戦争さえ汎地球的規模での急激で極端な気候変動を引き起こして、農業生産を麻痺させ、すべての高等生物種の生存を脅かすと認識する。私たちは、核武装をした世界が間違いなく自分自身を破壊し、40億年の進化の過程を無為にするプロセスを開始さるようになることを強く意識する。私たちは、世界が核破滅の断崖から離れるように導くことを決断した。

私たちは、一つ一つの原子炉が最も有害な産業廃棄物の倉庫となっていることを知っている。その廃棄物は非常に放射能が強く、冷却をさせなければ自然に溶け出し、テロリストや施設の反抗者たちの標的にされた場合、あるいは、通常の戦争時に標的となる場合には、地球の広い部分を何世紀にも居住不可能な場所にするものであり、今後、数千年間、将来のある時期に核爆発物として使用することができる材料を含む廃棄物である。

私たちは、ウランがすべての核兵器とすべての原子炉の背後の重要な要素だと認識しており、<核戦争防止のための国際医師>、そして<ウランの採鉱と加工の完全な汎地球的禁止のための2015年のケベク世界のウランシンポジウム>による要求を承認する。

私たちは、以下の目的のために、私たちのネットワークを活用したいと思っている。

・どこの政府に対しても核分裂を終息するように圧力を加える
・核物質と核廃棄物の輸出と輸送に関連する危険性を明らかにする
・私たちの非合理的核中毒を鼓舞し正当化するために使用されている神話に穴をあける
・核被害者と核難民に関する真剣な話をする
・将来の世代に毒性の核遺産による負担を負わせない私たちの道徳的責任を強調する
・核施設を持たない多くの国の政府にこの技術の危険性を認識させ、そしてこの技術に関わることを避けるように警告する
・核リスクの特殊な知識や評価能力を持つエンジニア、医師、生物学者、生態学者、物理学者や関係する市民が見出したものを広めていく
・非暴力的紛争解決を促進する
・違法、非倫理であり、非常識な核兵器の倉庫への執着を告発する

私たちは、核分裂とウラン採鉱のない世界のための努力に加担したすべての人、集団と組織がこの努力を約束するように招待する。私たちはまた、彼らにはこの宣言を承諾し自分のネットワーク内で広く伝えるように願う。

この宣言は、部分的には、20163月、東京と福島で開かれた核のない世界のための第1次テーマ世界社会フォーラムで発表された東京アピールからインスピレーションを得て作成された。

この宣言を承諾するには、 ccnr@web.caにメールを送ること。



  Montreal Declaration for a Nuclear-Fission-Free World

As citizens of this planet inspired by the Second Thematic World Social Forum for a Nuclear-Fission-Free World, conducted in Montreal from August 8 to August 12, 2016, we are collectively calling for a mobilization of civil society around the world to bring about the elimination of all nuclear weapons, to put an end to the continued mass-production of all high-level nuclear wastes by phasing out all nuclear reactors, and to bring to a halt all uranium mining worldwide.
This call goes out to fellow citizens of all countries worldwide who see the need, whether as an individual or as a member of an organization, for a nuclear-fission-free world. We are committed to building a global network of citizens of the world who will work together, using the internet and social media to overcome isolation, to provide mutual support and to coordinate the launching of joint actions for a world free of nuclear fission technology, whether civilian or military.
We will begin by creating communication channels to share information and educational tools on legal, technical, financial, medical, and security-related matters linked to military and non-military nuclear activities. We will pool our resources across national boundaries in a spirit of cooperation, allowing us to contribute to the formulation of a convergent and unified response to counteract the plans of the nuclear establishment that operates on a global scale to multiply civil and military nuclear installations worldwide and to dump, bury and abandon nuclear wastes.
We recognize each nuclear weapon as an instrument of brutal and unsurpassed terror, designed to kill millions of innocent men, women and children at a single stroke. We realize that even a limited nuclear war can provoke sudden extreme climate change on a global scale, crippling agricultural production and threatening the survival of all higher forms of life. We are grimly aware that a nuclear-armed world will surely destroy itself and set in motion a process that will undo four billion years of evolution.  We are determined to help guide the world away from the brink of nuclear annihilation.
We recognize each nuclear reactor as a repository of the most pernicious industrial waste ever known; waste so radioactive that it spontaneously melts down if not continually cooled; waste that, when targeted by terrorists or saboteurs, or by conventional warfare, will render large portions of the earth uninhabitable for centuries; waste that contains material that can be used as a nuclear explosive at any time in the future, for thousands of years to come.
We recognize uranium as the key element behind all nuclear weapons and all nuclear reactors, and we endorse the call by the International Physicians for the Prevention of Nuclear War and by the 2015 Quebec World Uranium Symposium for a total global ban on the mining and processing of uranium.
We will use our networks

- to pressure governments everywhere to put an end to nuclear fission

- to expose the dangers associated with the export and transport of nuclear materials and nuclear waste;

- to puncture the myths used to prop up and justify our irrational nuclear addiction;

- to tell the sobering stories of nuclear victims and nuclear refugees;

- to emphasize our moral responsibilities not to burden future generations with a poisonous nuclear legacy;

- to warn governments without nuclear facilities to realize the dangers and avoid becoming enmeshed in this technology;

- to disseminate the findings of engineers, doctors, biologists, ecologists, physicists and concerned citizens having special knowledge and appreciation of nuclear dangers;

- to promote and popularize the wide variety of renewable energy alternatives that are green and sustainable;

- to launch lawsuits and to support whistle-blowers to halt the most egregious examples of nuclear malfeasance;

- to promote non-violent conflict resolution, and

- to denounce the illegal, immoral, and insane obsession with nuclear weapons arsenals.

We invite all people, groups and organizations involved in the effort for a world without nuclear fission and uranium mining, to commit themselves to this effort. We also ask them to endorse this declaration and to transmit it widely in their networks.
This declaration is partly inspired by the Tokyo Appeal issued by the First Thematic
World Social Form for a Nuclear-Free World held in Tokyo and Fukushima in March 2016.
To endorse the declaration send name and e-mail address to ccnr@web.ca


2016年8月24日水曜日

「当然の法理」、「川崎方式」は植民地支配の残滓です

韓国訪問ツアーに参加されたみなさん、韓国ではお疲れさまでした。帰国後も、福岡での10月の戦略会議の持ち方について議論が深められているようで、期待しています。田上さんもカナダ、SFから今日帰国されたようで報告を楽しみにしています。みなさんへのメール内容を一般公開いたします。ご了承ください。

さて、私は、原発メーカー訴訟の控訴理由書の作成に取りかかっています。50日という期限があるものですから、澤野さんと相談しながら、書き上げます。草案をお送りしますのでご検討ください。

「川崎方式」の本質について ―日本社会の右傾化と在日の主体性―
http://fb.me/82Gpd8Si9


この拙論をFBで以下のように紹介しています。
私はこの拙論で、「川崎方式」に関わった人や団体の批判を目的にしたのではありません。植民地支配の根にある排外主義がどれほど根強いか、それは単に在特会のヘイトデモに対抗すればいいという問題ではない、もっと深く思索をし、実践的な課題として「川崎方式」の撤廃を進めるにはどうすればいいのかの問題提起でした。読者のご意見をお願いいたします。

みなさんにお願いがあります。
外国人の排除を前提にする政府見解の「当然の法理」については、ほとんどの人は知る機会がないとおもいます。川崎における日立闘争や、地域活動から児童手当などの国籍条項の撤廃を求める運動の流れの中から、「川崎方式」が生まれ、外国人への門戸が開放されました。それは一つの英知であったともいえます。しかしそれは同時に、社会的評価とは異なり、植民地支配の残滓ともいうべき「当然の法理」を正当化し、制度化するものだったのです。「川崎方式」によって、外国籍公務員は管理職には昇進できず、職務制限が制度化され、それが全国のモデルになりました。

  1953年の法制局の見解である「当然の法理」とは以下のものです。
   「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画に
   携わる公務員となるためには、日本国籍を必要とする」


福岡市はもちろん、糸島市でも、北海道や沖縄でも名古屋でも大阪でも同じことが行われています。そういうことがあるという事実も公開されず、それが問題であるとは認識されていません。原発に反対した木村さんの糸島市長選挙においても、当然、そのことが問題になったことはありませんでした。思いつきもしなかったでしょう。それが現実であり、私はいかなる意味においてもそのことを批判しているのではありません。そのように、全国のどの地方自治体においても、外国人の問題は市民の関心事にはならず、結果として為政者の思うように外国人統治が進められていると私は認識しています。むしろ東京都知事選でも明らかになったように、外国人も市民であり、県民であり、都民であり、その社会の構成員であるにもかかわらず、日本国籍者(日本人)だけが地方自治体の構成員であると前提にされるようになっています。

日本国憲法の基本的人権では「日本国民」に保障されると謳われていますが、それはpeopleの訳語を日本の官僚が敢えて、「日本国民」に訳したものであれ、現在では、基本的人権は国籍にかかわらずあらゆる国の人にも適用されるべきだという考えが出ていますが、残念ながら、実態はますます国民国家の枠にしばられるようになってきているようです。

  日本国憲法は外国人の人権を保障していないのですか?
  http://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2012/06/post-15.html

  古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)
  


「川崎方式」はそのような時代にあって、現状を何とかこじ開けようとして、川崎の活動家の「エース」が集まり作り上げたものです。日立闘争に関わった私たちの仲間が川崎市の職員になり、行政側の実務責任者として「川崎方式」や「外国人市民代表者会議」に関わり、市民団体は私たちが活動の拠点にしてきた在日韓国教会・青丘社・ふれあい館、そしてそれに自治労の市職労が加わり英知を集めた結果が「川崎方式」です。それをしかたがないものとするのか、乗り越え新たな地平を目指すのか、私は後者の立場から拙論を書きました。前者は現状肯定しか出てきません。後者の立場に立って現状を直視し、批判的・創造的な総括作業をする中で新たな可能性がでてくると私は考えました。


拙論は、個別川崎で「川崎方式」に関わった個人、団体を批判することを目的にしたものではありません。そこに関わった人たちの熱意にもかかわらず、あのような結果で終わったのは、私は自分自身を含め、植民地主義を克服できない思想の脆弱性によるものだと理解しています。全国を席巻するようになった「多文化共生」は、満州時代の「五族協和」と同じ、異民族統治のイデオロギーです。

すなわち、日本社会は在日を含め(韓国も同様ですが)、植民地主義とは何かということを深く理解できておらず、多文化共生を具体的に克服する地平が見えていないからです。それは実践の弱さでもあります。言うまでもなく、多文化共生は資本主義社会の要請であり、国民国家の統治上必要に迫られてでてきたイデオロギーだと私は理解しています。
(参照:崔「当然の法理について」、「原発体制と多文化共生について」『戦後史再考』平凡社)

従って、川崎においても、突出した在特会などとのヘイトスピーチとは闘っても、デモを中止させた勝利の後は、条例を作り「カウンター」をどのように強めるかという発想でしか今後のことは議論されていません。私は、差別は「カウンター」の強化ではなくならないと考えています。差別がどのように制度化され、構造化されているのかを直視することが重要です。その実態を明らかにするのに、私は「川崎方式」を例にあげました。

「川崎方式」批判の拙論を普遍的な問題としてどのように読むのか、すなわち、全国の地方自治体における実情を踏まえて、植民地支配の残滓である「当然の法理」をどのように撤廃させるのかという視点から、拙論の論評をお願いできないでしょうか。

蛇足ですが、私たちは原発メーカー訴訟との闘いについて、原発体制は差別の上で成り立っていると考え、小出裕章さんと白井聡の講演会を企画しました。
   小出裕章氏と白井聡氏を迎えてのシンポジウムを持つにあたって
   http://oklos-che.blogspot.jp/2015/02/blog-post_20.html

今後展開しようとしている私たちの、韓国人被爆者のアメリカ政府による原発投下の責任追及の提訴支援、東芝ら原発メーカーの国際的なBDS運動もすべて関係するものだと私は認識しています。原発体制とは、アメリカを中心とした大国が核兵器による国家安全保障政策の要として作り上げたもので、決してエネルギー自足のためではなかったのです。

核不拡散を謳うNPT体制の建前とは裏腹に、原発体制は今後ますます強化される傾向にあります。その一例が、東芝の今後15年間で64基の原発を製造・輸出するという方針です。国策民営化によって推進されてきたのが原発政策です。東芝1社の力でこのような大胆な方針が決定されるわけがありません。シャープのように会社の実績の悪化によって台湾に売却されるということは東芝においては考えられません。64基の原発の輸出のために背後で日本政府が「安全保障」を建前に、武器輸出と並行して、東芝ら原発メーカーを支援し、原発輸出はさらに進められるでしょう。

これらの動向に抗うためには、私たち一人ひとりが、国民国家の幻想から、国民国家を絶対視する考え方から抜け出し、原発と核兵器をなくしていくという大きな目標の下に、具体的な運動を足元から起こすしかないと思います。その第一歩が10月26―27日に福岡でもたれる戦略会議で議論されるわけです。みなさんのご理解、ご協力をお願いします。

2016年8月22日月曜日

 「川崎方式」の本質について ―日本社会の右傾化と在日の主体性―

外国籍公務員人事に関する日本政府の「当然の法理」見解に関して、外国人の差別を制度化して、全国の地方自治体のモデルになった「川崎方式」を撤廃させることが差別をなくす運動としてなによりも重要です。この点のご理解を深めていただくために、14年前のこの講演録をご紹介します。

私は戦後の在日の中で差別に公然と立ち向かい歴史に残る功績をあげた身近な人物として、日立就職差別闘争に勝利した朴鐘碩と、管理職試験を拒否した東京都の「当然の法理」に闘いを挑んだ鄭香均の二人を文句なくあげます。

   集英社新書WEBコラム   
      http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/011/
   在日二世の記憶  在日コリアンの声を記録する会
   痛みを分かち合いたいから差別される側に
   鄭香均(チョン・ヒャンギュン) 

二人とも川崎に住み、そこでの地域活動を共にした仲間です。二人に出会ったことを喜び、その闘いの歴史を地域の特に若い人たちが共有化し、自分たちの生き方を模索する参考にしてほしいと心から願います。川崎で差別をなくすべきと立ち上がった日本の市民たちにも、その歴史をしっかりと知り、これからの闘いにいかしていってほしいと願ってやみません。  崔 勝久

  
               「川崎方式」の本質について
                ―日本社会の右傾化と在日の主体性―

                                                               崔勝久

発題と問題提起(0412月4日《鄭香均さんを囲んで川崎集会》)

はじめに
川崎は「多文化共生」の街で、外国人への差別問題において全国の先頭を走る政策を具体化しているのでしょうか?
確かに、「川崎方式」で最初に外国人に門戸を開いてそれなりにやっているのではないかという考えは、私たちの中でもあると思うんです。私自身もそう思っていました。国籍条項の撤廃などもそうです。
実は鄭香均さんの裁判が始まって東京都が非常に頑ななので、門戸を最初に開放した川崎市の実情をよく聞けば裁判闘争の助けになるのではないかと思って、私は川崎市の人事課を訪れ内情を聞きました。そう期待するくらい、川崎は進んでいると思っていたわけです。
ですから一般の方が川崎は進んでいるだろうなと思うことは間違いないと思います。運動をやっている人の中でもそうだったと思うんです。そういうところから川崎市からの話を聞いていくと、「あれ、おかしいな」と思い始めたわけです。それから7、8年になります。

「ふれあい館」「青丘社」批判はするべきでない?
一緒に取り組みをやってきた人が今日の集会に参加できなくなった理由を知らせてきました。内容は、外国人への差別を許すな・川崎連絡会議(以下、「連絡会議」)が川崎市長、川崎市政はもちろん「ふれあい館」をも批判をしている。そういうところを批判するのは差別であるといわれて本人が立ち上がれなくなった、というのです。

皆さんの中にも「ふれあい館」「青丘社」はいい仕事をやっているではないか、問題があるとしてもそこを批判するのは問題であって、一番悪いのは権力者だからそこだけを批判すればいいのに、なぜ仲間である「青丘社」「ふれあい館」を批判するんだと、思っている方はたくさんいると思います。

そのことを少し考えてみたいと思います。
私たちが「青丘社」「ふれあい館」を批判するというのはどういう内容なのかということです。批判のない組織、運動は内部から崩壊していきます。少し大げさなタイトルなんですが、「『川崎方式』の本質について-日本社会の右傾化と在日の主体性―」と題してお話をさせていただきます。

日本政府が右傾化しているというのはいうまでもないと思います。自衛隊の海外派遣、武器の輸出、憲法の改正、「日の丸・君が代」の強制が具体化されているわけですから。では、地方自治体はどうなのか。地方自治体は自立して、差別のない、開かれた社会になってきているのか、あるいは右傾化する国家と連動しているのか、ということを見極める必要があると思います。   
私は、地方自治体の可能性を信じ、そこを開かれたものにしていくことに在日としての在り方を模索してきました。しかしどうも地方自治体の動向は国と別にあるのではなくて、やはり国の流れの中に地方自治体があり、その影響下にあるという思いが強くなってきました。このことを今日、みなさんにお話しして検証したいと思います。
かつて、国籍条項の撤廃を宣言した長野県の田中康夫知事、高知県の橋本大二郎知事のことはマスコミで取り上げられたのですが、結局は、国の「当然の法理」を撤廃したわけではない、ということは意外に知られていません。私は電話でその点を確認したことがあります。

川崎の歴史の中では民族差別に正面から向かい合い勝利した日立闘争があり、それがきっかけで、公立学校での本名使用の問題や、国籍条項撤廃を求め、個別の金融機関の差別問題に取り組んだ地域活動が始まりました。その流れの中で今の「ふれあい館」「青丘社」の活動があるわけですね。日立闘争の結果、「ふれあい館」もでき、「外国人市民代表者会議」もでき、川崎市は地方自治体の中では突出した形で外国人の人権に対する政策を進めてきたのは、間違いありません。そして「共生」というスローガンを掲げ、「多文化共生の街」としてほかの地方自治体のモデルになるくらいになっています。しかし過去の歴史の自慢は現状肯定に陥り、現状を変革していく力にはなりません。ここで行政側と、「青丘社」「ふれあい館」が中心となった市民団体、市職労が一体となって外国人の門戸開放を実現させた「川崎方式」とはなんであったのかを例として取り上げたいと思います。

はたして地域の少数者(マイノリティ)にとっていいことは多数者(マジョリティ)にとっていいことだというテーゼや、在日自身から言いだした「要求から参加」という考え方が果たした役割は何であったのか、「川崎方式」こそこれまでの川崎での運動の集大成であったとみなして、この点を考えてみます。
運動側の論理だけでなく、行政側の論理に立って物事を見た場合、全くこれまでの評価と違ったものが見えてきます。川崎における在日の差別に対する運動の歴史については、朝鮮人自身の民族的な要望であったと同時に日本側の朝鮮人追放の思惑もあったとされる、川崎からはじまった北朝鮮帰国運動からはじまり、現在の行政と市民運動が一体となって唱え始めた「多文化共生」を是とする流れの本質を改めて総合的に精査する必要があるでしょう。

日本社会の右傾化にあって、「ふれあい館」は地域での在日朝鮮人の主体性を回復、獲得する運動基盤としてその砦として作られたというんですが、地方自治体は国家の右傾化から距離をおいて存在しているのか、また、地方自治体の在り方と外国人施策はどのような関係になっているのか、その点を検証したいと思います。
後ほど話しますが、まず、川崎市は自治基本条例を来年(05)3月に制定しようとしています(市政だより「新総合計画と自治基本条例の策定について」)。今後の10年間の地方自治、川崎のあり方を決めるのです。この方向と「ふれあい館」の日立闘争以降の地域活動はどういった関係があるのか、考えてみましょう。
   
1.鄭香均裁判で問われる問題点―「当然の法理」
鄭香均が外国人初の都の職員になったというのは、金敬得の弁護士資格獲得と合わせ、日立闘争の流れの中で起き上がってきた、歴史的な必然です。
私自身が大学生のとき、在日朝鮮人が大企業に行くというのはありえなかったし、ましてや公務員になるということは考えられませんでした。それが朴鐘碩の裁判闘争から国籍を理由に解雇してはいけないという闘いが法廷内外で組まれ、その流れの中で弁護士に在日朝鮮人もなれる。そういう中で地方公務員にもなれるという大きな流れができあがり、鄭さんも東京都の職員になったわけですね。

ところが、日立闘争で闘って勝利判決を勝ち取ったんですが、一企業の中で国籍を理由に辞めさせることは問題になっても、国籍を理由に昇進できなかったり、あるいはその会社の中での人事の問題があった場合は、問題にされませんでした。外部の人間には手の出しようがなかったんです。泣き寝入りしかなかったということです。
鄭さんは闘いの中で都の職員になりました。しかし周りのみんなの推薦で課長になろうとしたところ、外国人は課長の試験は受けられませんよといわれて申請する用紙をもらえなかったのです。

それで始まったのが鄭さんの裁判です。その試験は受けられないという理由は何かというと「当然の法理」です。「言うまでもない」。同じ職員であっても外国籍職員は管理職になるということはそもそもありえないんだと。しかし、募集要項の中では何も書かれていないわけです。募集要項の中に同じ公務員であるのに外国籍者は申請さえできないという記述は何もなかったのです。それが「当然の法理」です。
「当然の法理」の本質は何かというとナショナリズムに基づく排外主義です。日本の国は日本人のものであり、外国人が公務員になったところで、管理職はだめでしょう、市民に命令したり、公権力を行使したりする職務は日本人に限るのは当たりまえだという常識、これが排外主義的なナショナリズムです。この排外主義的なナショナリズムと日本の右傾化は関係しているわけです。
したがって、香均の今回の闘いは、「空気」のように当たり前とされている朝鮮人差別(故李仁夏牧師)の象徴である「当然の法理」に対する闘いなわけです。外国籍公務員の管理職への昇進を禁じておいて、それは当たり前ではないか、言うまでもない、「当然の法理」なんだよ。そういう排外主義への闘いとして今回の最高裁への闘いは大変重要な意味を持っています。外国人が公務員になれないのは当たり前のこととして言われたことであるけれども、それは本当に当たり前のことなのか、門戸の開放により外国籍公務員になったにもかかわらず、そこで差別があるのはどういう理由なのかを問うた裁判です。高裁では勝訴したんですが、最高裁はどう出るのか、わかりません。
 
2.「川崎方式」の本質
では、川崎では国の意向に反して外国人への門戸を開放した(1996年)といわれていましたけれども、本当にそうなのでしょうか。実は「川崎方式」の実態は、採用した外国籍職員の職務制限と昇進を認めないという、差別を制度化したものでした。
「川崎方式」は、国の「当然の法理」に抵触しない理屈を作り上げ、それを「職務規程」という制度に落とし込んだ「妥協の産物」だったのです。市の組合(市職労)と青丘社を中心とした市民運動側もこれを認めた上で、外国人への門戸の開放のために、行政・市職労・市民運動体が一体となって、「川崎方式」を推し進めました。
完全ではなかったが、外国人への門戸の開放を勝ち取るにはこの方法しかなかった、いずれ、時間がたてば国の方針も緩和され、「当然の法理」はなくなっていくだろう、そのように関係者は考えていたようです。

この外国人への念願の門戸開放は、採用された外国人の職務制限と管理職への昇進禁止を条件にして、あくまでも政府の「当然の法理」という見解に抵触しないために、「外国籍職員の任用に関する運用規程‐外国籍職員のいきいき人事をめざして‐」(通称、「運用規程」)を作ることで可能になったのです。まずは門戸の開放をめざすということで、「当然の法理」に抵触しない「運用規程」を作ることで政府の顔を立て、実質的には「当然の法理」を正当化し差別を制度化した「川崎方式」が採用されたということになります。そしてそれが全国に普及していったのです。「多文化共生」と「川崎方式」は一体のものとして大いに宣伝されました。その中心を担ったのは、市民運動体と「川崎方式」に関わった行政マンです。

川崎市は外国人への門戸開放を実現したことによって、リベラルな都市というで印象を持たれるようになったんですが、しかしよく見ると、川崎も東京都とまったく同じ体質です。むしろ東京都に先駆け、「当然の法理」を実質的に受け入れ、その差別を制度に落とし込んだのが「川崎方式」であるとして過言ではありません。

「運用規程」のサブタイトルである「外国籍職員のいきいき人事」、この「いきいき人事」は覚えておいてください。これは川崎のキーワードですから。川崎市政の一番のキーワードは「いきいき」です。よくもいかにも外国人のためだということを匂わせるネーミングを考えついた者がいるものだと思うんですが、本当に権力に属する者は頭がいいというか、鼻が利きますね。
「運用規程」は外国籍公務員の「いきいき人事」のために作ったと、これがあるから門戸開放されたといわれたんですが、分析してみるとそうではありませんでした。

「川崎方式」は外国人への完全な門戸の開放でなく、管理職への昇進を禁じ、3000あまりの職務の中で182職務を除いたものでした。門戸開放宣言から1年間は「182の職務制限」の中味を川崎市は交渉の中で明らかにしませんでした。なぜ1年しなかったかというと、そもそも「運用規程」は外国籍公務員のために作られたものではないからです。
これは川崎市の全職員の中長期的な人事構想で「ジョブローテーション」というんですが、みんなにさまざまな経験をさせて多様な(融通のきく)能力を持たせて、職員数そのものを減らし、職員全体の合理化のために作った大きな構想の中に外国籍公務員の在り方が位置付けられ、この「職務規程」を通すことによって、川崎市職員全体の在り方を変えていきたかったわけで、市はまだその構想を完成させていなかったから、「182の職制限」の中身を公表できなかったのです。これは私たちも最初は見抜くことができませんでした。

ですから大きなチャートがあって、その中で外国籍公務員の問題はそのひとつのピースでしかないんですよ。市の中では合理化のための大きな構想があって、それを具体化するための突破口、切り札として外国籍公務員の「運用規程」の実現を謀った、いわば利用したわけです。
この考え方が川崎市の「新総合計画」・10年計画の中に入っています。市職労はこの「職務規程」をあくまでも外国人のためだと思い込んでいたのでしょうか、本気になってこの差別制度に抗うことをしてきませんでした。それが後になって、「ジョブローテーション」を銘打った職員全体の合理化政策の先駆けであったわかるのですが、そのときはもう遅いですよね。完全に外堀は埋められており、組合活動の牙は抜かれていたのです。

「川崎方式」は「当然の法理」を正当化したわけですが、そのときにどういう考え方をしてどういう方法を採ったかというと、「当然の法理」の中心にある「公権力の行使」を恣意的に解釈したわけです。「公権力の行使」というのは「一般市民の意思に反して、その人の自由・権利を制限すること」と定義したのです。たとえば伝染病にかかったときその人がいやだといっても法に基づき強制的に隔離するしかないわけですよね。それを川崎市は「公権力の行使」と捉え、一般市民の意思に反してその人の自由・権利を制限する職務については外国籍公務員を排除した、これ以外は公権力の行使に反していないので、外国人も大丈夫と解釈したわけです。
こうして3000職務の内、一つひとつ職務内容を照査して、「一般市民の意思に反して、その人の自由・権利を制限すること」のない約2割の182職務を選び出し、それには外国人はだめだと制限して、あとは外国人もOKよと、門戸の開放を実現したのです。のちに阿部市長が、このようなことを書いています。
「一般職だって、その2割のところにつけなければ、あとの8割で活躍してもらえばいいんです。8割というのは大部分でしょう。学校の点数だって80点取ったらものすごくいい成績です。それを2割のために『だめ』と言っているのはおかしい。2割のところの職につけなくても、8割のところで職につければ大丈夫なんです。」(「月刊社会民主」’96年11月)

こういう恣意的な解釈をしたわけですが、ここに実は落とし穴がありました。どうしてかというと、まず公権力を持つ人は一般市民の自由・権利を恣意的に制限していいのかということです。これは許されないわけですね。制限していいのは法律や条例があるからで、その限られた範囲内であれば市民の自由・権利の制限は認められるとなるわけです。
しかし公務員が法に基づいて職務を執行するのにその職員の属性である国籍、信条、性や社会的身分をが反映されていいのかどうか、ここで川崎市は自己撞着に陥っているわけです。公務員であれば誰でも法に従って職務を遂行するのであって、外国人だけからその職務に就けないというのは明らかに論理の飛躍であり、排外主義思想に基づく差別です。そして労働基準法違反です。しかし関係者はこのことを公表せず、蓋をして成果だけを宣伝したのです。

労働基準法第三条  使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない。

こういう過ちを起こしているんだけれども、そのまま問題にされないで、表看板の門戸の開放ということで評価されているのが「川崎方式」です。ですから「川崎方式」は外国人の差別を認めたという点で、思想的には排外主義を是認し制度化したという点で、これは撤廃させなければならないのです。
百歩譲って、当時、どうしても政令都市の中で外国人の門戸の開放をする必要があったので「川崎方式」は仕方がなかったというのであれば、その後、「川崎方式」の問題点を今後の課題として運動側(市職労を含めて)は訴えつづけるべきだったのです。
しかしながら運動側、および行政側は何か大きな成果であったかのように、「多文化共生」と「川崎方式」をセットにして全国でPRに務めました。しかし20年経った今、「当然の法理」はなくなるどころか、すでに制度化・構造化され、既成事実として確固たる見解として各地方自体に君臨しています。いまや市職労においても外国人の仲間(同僚)の差別を許すなという運動は組めず、当然、ストを打つこともできず、運動側においても「川崎方式」が差別制度であり欠陥があったということを言い出す人はいなくなりました。結局、すべては、国の思惑通りになったということです。
 
法的な根拠なく、国籍の違いによって外国人が就いていい職務とそうでないものがある、外国籍公務員がやっていいこととそうでないものがあるということを認めるということは、法治国家の原則に反することです。この点を運動体は見抜くことができなかったのです。

地方自治体の人事課は、労働基準法や憲法よりもあいまいな「当然の法理」を優先するのだから、労働基準法や憲法とは別だという判断をしているわけです。これは「連絡会議」が10年間の市交渉を続ける中で、人事課の課長が発言した内容です。

外国人差別を考える 「共生」の内実を問う
外国人への差別を許すな・川崎連絡会議

しかし、地方自治体職員は労働者として働いているわけですから、労働基準法に照らして外国籍公務員への差別は許されないというのが、今回の鄭さんが裁判を通して訴えていることなのです。

3.阿部市長の「準会員」発言-市民より国民を根幹に据える
阿部市長はいま何を言っているかというと「外国人も(川崎市の)重要な構成員」といいいながら外国人市民は「準会員」だと位置づけています。外国人は川崎市民であっても二級市民だということです。いざというときに戦争に行かないのは「準会員」だというわけです。
国籍に関係なく川崎では外国人も市民であるといいながら、その市民は「準会員」ですよといっているわけです。なおかつ川崎市の市民である外国人が公務員となったときにその人が日本籍公務員と違って昇進もできない、働く場所も制限される、こういうことが「外国人も市民ですよ」と言いながら当たり前のごとくなされている今の動きを誰も反対できない。市長は「タウンミーティング」を川崎市全7区でやりましたが、誰もこの矛盾を指摘していないわけです。いわば阿部市長の国民意識は多くの人と共有化されているということです。

「準会員」発言について批判はありましたが、阿部市長は最終的には自己批判をしていません。撤回していません。謝罪もしていません。そのかわりに市長が、市はこれからも同じ共生政策をやりますよという言質を運動体に与えることによって運動体が妥協しています。いまだに「準会員」発言を問題にしているのは私たち川崎連絡会議だけです。

阿部発言を差別発言として問題視した多くの市民団体は、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」という阿倍市長の発言に対して、その発言は、いざというときは「正式会員」である日本人は戦争に行くということだと捉え、自分の問題として阿部発言を批判することができなかったのです。

私たちは、この「準会員」発言を撤回させるというのは根本的な意味があると理解しています。
この「準会員」発言について、「ふれあい館」の理事長でありいままでの私たちの民族差別撤廃運動のリーダーであった李仁夏牧師が公の席で、「市長と会って準会員発言をするなと市長に口封じをした」と言ったんです。市のトップが「外国人は準会員」だと言ったことに対して運動側のトップが「口封じをした」と。「口封じ」とは、その発言の撤回、責任を取りなさいと言うのではなく、もうなにも問題は無いことにする、内内に問題を収めましょうということですね。こう妥協案を出してそれ以降、市長は「準会員」ということは口にしなくなったと、運動側のリーダーが言っているのです。

運動側のトップが市のトップに口封じをする。私たちは、これは裏取引だと思っています。「共生」を共に唱える同じ仲間という関係になったことの象徴的な出来事です。これは問題の本質を隠蔽する最たるもので、このことによって運動側は市長に自分たちの既得権を保障させたわけです。私はここに無言の一定の取引、バーターがあったと見ます。これが次の問題につながります。

4.民闘連、「ふれあい館」の存在意義―「民族差別と闘う砦づくり」→「共生」へ、闘いの変貌
日立闘争以降の在日朝鮮人の主体性を回復する闘いとして人権闘争があったものが、「多文化共生」を共通のスローガンにして行政がタイアップするようになったこと、その思想的な背景は何かということです。

まず、「共生」の原理的な意味、本質を見る必要があります。「共生」は、もともとは障害を持っている人の心の叫び、差別に対する批判として始まったものです。疎外されている者が、疎外している体制に対してそれでいいのかと訴えたのが、そもそも「共生」なんです。「共生」というのは批判的な視点を持ったものなんです、もともとの意味は。

それが行政といっしょになることによって、批判的な視点を無くしてしまった。批判的なものをなくすとどうなるかということです。先ほど言いましたように、国家の動向、地方自治体を貫くのはナショナリズムといいましたが、ナショナリズムというのは統治のイデオロギーです。批判的な視点、批判的な心の叫びをなくした「共生」というのは何かというと、みんな仲良くですから、ナショナリズムという排外主義的なイデオロギーを批判する武器にはならないんです。今の市民運動は「共生」を掲げてやっていることがいいことのように言っていますが、「共生」は根本的にナショナリズムに対する批判になれないことを理解していただきたいと思います。

日帝時代の満州統治の基本的スローガン、イデオロギーというのは、「五族協和」です。批判的なスローガンをなくした協和=「共生」というのはナショナリズムを批判できない統治のイデオロギーになってしまっています。根本的に「共生」は「五族協和」と同じ、異民族統治の概念であることを知る必要があります。

「共生」はみんな仲良くですからいいことに決まっているんですよ。平和、民主主義を誰が批判しますか。アメリカが人を殺すことも平和、民主主義と謳っているわけですね。

抵抗としての「共生」、抵抗としてのナショナリズムは意味があるんですが、これが権力と共有する思想になったときに、完全に為政者の統治のイデオロギーになってしまっているということを見抜く必要があると思います。ですから、「多文化共生」のスローガンは闘いのスローガンではありえないんです。したがってナショナリズムを批判するものにはならない。疎外をする者への闘いの原理にならないんです。

日本人も韓国人も仲良くしましょう、ということは日本人同士も仲良くするわけですから、「日の丸・君が代」を持ち上げることに対しては批判できないわけです。この問題を私たち以外に唯一一人理解できたのは、いまは異動しましたが、川崎教会にいた金性済(キムソンジェ)牧師です。「百万人署名運動」ニュース(7172)に彼が書いた文章が出ていました。彼は「共生」が地域の中で同胞に対するナショナリズムに対する批判にはなりえないと書いています。しかし、彼は「ふれあい館」、「青丘社」のど真ん中にいますから、それを言えなくて結局は川崎教会から出てしまいました。その後のことはまったくわかりません。

「要求から参加へ」の欺瞞
私たちが日立闘争から地域活動をはじめたときには、「民族差別と闘う砦作り」からはじめたんです。ところが、いつのまにかそれが「共生」「多文化共生」になって、そして「要求から参加へ」になってきました。「要求」ではなくて「参加」する段階になったんだというスローガンです。しかしこれは民族差別と闘ってきたこれまでの運動を総括したものではないですね。長く続いた運動のことを考えないで、いわば施設を作ったりする上で一番いい名前、今の流れにのった、行政の支援を一番受け入れやすい路線を選択したわけです。そして少数者(マイノリティ)の問題解決が多数(マジョリティ)の問題、日本社会の問題解決になるんだと強調する、これについては誰も批判できません。黙って聞くしかない。それが両者にとってメリットがあるからです。

今の阿部市政の思想性をあえて言うと二つあると思います。自己責任と市場原理、合理化、これが彼の持っている思想です。少数者のためになる施策が全体のためになるんであれば、川崎で外国人の権利が獲得される基盤ができつつあるということは、川崎市にとってもいいことだとなりますね。ということは、川崎市はよくなっているということになりますが、実際は、どうでしょうか。どういう意味で川崎はよくなってきたのでしょうか。

外国人に対するよりよい政策がいっぱい出てきて具体化されているのに、全体がよくなっていないということは、これは李仁夏氏が言っていることと完全に矛盾していますよね。この点は最後に触れます。

5.川崎市の10年計画と「共生」
「共生」とは川崎市にとっては「市民自治の確立」なんですね。「市民の責務」として地方自治に参加する、それは市民の責務ですよと、これは川崎市の「自治基本条例」に謳われています。

こうして、もう差別ということを言うなよと。「要求から参加」することだと言いだした今の在日の運動が最後に行き着いたところは、阿部市長が行っている、市民が市政に参加するんだよという論理の中に包摂されたわけです。

「共生」というのは社会を変革する思想であったにもかかわらず、為政者と共有するイデオロギーになった段階で、「要求から参加」となり、運動体をも包摂し、外国人も市民なんだからもう外国人の問題はいいよと、「市民の責務」は市政参加でしょ、この大きな市政の枠に完全に包摂されてしまったわけです。これが川崎市の実態です。

「共生」は「市民の責務」に行き着くわけです。市民自治に対する参加という形で、結局は阿部市政のスローガンの中に今までの市民運動が全部包摂されていったわけです。しかし本来なら、理屈の面でもそこまで言うのであれば、外国人にも地方選政権はなければなりません。

このパターンはどこかと似ているんではないかといいましたが、「運用規程」は外国人のために作ったんだといわれているものが、実は川崎市の全職員の対策のために準備され作られたんだということがわかったように、川崎市の「新総合計画と自治基本条例」の中では、外国人への権利保障を一つの切り札として、その単語と制度を突破口として、川崎市全体の在り方を実現するために外国人は利用されてきたという一面が見えてきます。

また、川崎市は「外国人市民施策ガイドライン」というものを発表しました。しかし、これを凍結して新たに「川崎市多文化共生社会推進指針」を策定しようとしています(※今年05年3月、「新総合計画」「自治基本条例」と共に策定された)

何のために「ガイドライン」を凍結して新しい指針を作ったかというと、市の全体の管理のために大枠ができるまでは外国人のためのガイドラインを作る必要がない、市民全体のガイドラインの中に包摂するまで待たなければいけないという判断のもとで、外国人のためのガイドラインもできますよ、外国人は川崎市民全体に対する責務という形で位置付けられた運動の中に入りますよということです。、

日立闘争から始まった差別と闘う運動が「共生」になり、「共生」が最終的には市民の市政参加というところにいった、そこで完全に包摂されたというのが現状です。国民国家を前提としたナショナリズムが統治のイデオロギーだとしたら、このイデオロギーを見抜くかどうかのリトマス試験紙になるのが阿部市長の「準会員」発言であり、「運用規程」であったはずです。しかしこれも完全に市(国)の思惑の中に埋没していきました。

運動をやっている人も川崎をよくやっている、進んでいると思うようですが、それはナショナリズムの本質がわかっていないからそうなるんです。為政者の一番鋭いところは何かというと、為政者の持っているイデオロギーを統治される者のイデオロギーにしてしまう、被統治者自身の価値観にしてしまう、統治者と被統治者が価値観を共有するようにさせるというところです。したがって闘うものは自己の価値観を吟味し、統治者と価値観を共有するようになったことを無条件に肯定する己自身を自己批判するしか、この統治のイデオロギーと闘えないわけですね。

しかし自己批判は一番むつかしいものなんですね。運動体というのは他の運動体、権力者を批判するのは好きなんだけれども、自己批判することについては徹底的に嫌がりますよね。冒頭紹介した手紙はそれをよく示しています。その論理構造を見抜かないと、われわれは運動をできないと思います。
 
「少数者の問題解決が社会の変化につながる」という嘘
川崎では少数者のためにいいことは多数者のためにいいことだという在日側の論理がもてはやされています。そうすると、川崎では外国人施策は他よりも進んでいるわけですから、他の地方自治体よりも開かれているということになります。

では、川崎は開かれた街になっているのか、新総合計画が来年3月決定されることによって、川崎はより開かれた街になるのか、市民自治の確立、市民というのはそれに参加する責務があるんだと明文化されるこの川崎方式が、開かれた街づくりにつながるんですか。一人一人の市民が市政に参加するということを明文化したことによって、一個人、地域、これに対する管理を強めるというのが川崎方式の本質なのではないのでしょうか。

基本自治条例の「第2 自治運営を担う主体の役割、責務等」があるんですが、「苦情、不服などに対する措置」で「市に、市民の市政に関する苦情、不服などについて、簡易迅速にその処理、救済などを図る機関の設置を定めます」とあります。わかりますか。市に不満があるんだったら、それを救済する機関を作りますよ。「ふれあい館」の責任者が、市に言いたいことがあればふれあい館に来てください。私たちが何とかします、と地域の人たちにはなしたそうです。まさに「ふれあい館」は行政と一体化しているとしかいえません。いや行政の一部になり、職員は給料からすべての面での保障をされているのでしょう。それをすべて否定するつもりはありませんが、「青丘社」「ふれあい館」が持っていた運動体としての、行政の問題を批判する機能が結果としてなくなったことが惜しまれます。

しかし私たちが交渉をはじめてから7年経ちますが、阿部市長への公開質問状、20項目を出しても回答はわずか2行です。「いままでの共生裁策を進めます」、これしかないんです。それで基本自治条例ができた段階で本当に開かれた市政、地方自治体作りになるんでしょうか。
たとえばホームレスのことにしても、これはタウンミーティングで聞いたんですが、富士見公園を緑地化するために彼らを排除して、きれいにする場所を作りました。緑化が目的ですからその阻害要因であるホームレスを排除したというわけです。

こういう閉鎖的な考え方の中で、すべての外国人の差別と闘う運動が完全に包摂されてしまった。その包摂するイデオロギーが「多文化共生」です。「共生」はナショナリズムを克服するイデオロギーになれない。これにたいして果敢にたたかっているのが鄭香均です。

以上のような物事の本質を見抜く人は多くありません。自己切開をしないと為政者の統治イデオロギーの本質が見えないとすると、これは痛みを伴うわけですが、私たちは更なる実践のなかで思索を深め、徹底した自己批判が必要です。まだわれわれの運動が小さいからといって悲観することはないと思います。むしろ市民の方と話をしていて私たちの話は説得力をもっています。ということで香均にバトンタッチしたいと思います。

あとがき 
この発題は2004年、今から14年前に書かれたもので、公開にあたり手直しをしました。阿部市長は、無党派を任じる福田市長に敗れ4選されませんでした。福田候補に私は、2009年の市長選で単独インタビューをしています。彼は、みんなの党の現参議員、元民主党衆議院議員・横浜市長であった松沢成文氏の秘書から政治家になった人物で、川崎出身ながら高校、大学はアメリカです。彼はみんなの党が自主投票を決定したこともあり、それを逆手にとって、「とことん無所属」「市民市長」を謳い、大方の予想に反し阿部4選を阻止しました。
福田さんは、「当然の法理」は知っているが、「差別」と「区別」という概念を持ち出し、「権力」が発生するところで外国人が公務員として働くことは無理、これは差別ではなく区別であるという自説を披露していました。福田さんは国の見解を踏襲するという意見です。福田さんはそれを差別と言われるのが嫌で、「区別」と言っただけです。
また今回、ヘイトデモに関しては、在特会のような右翼団体に公園の使用を許可しませんでした。そのことが高く評価されていますが、彼自身は、結局これ以上の条例の改正はせず、既存のままでやっていけると発言しています。

川崎ではヘイトデモを中止させる市民運動が勝利しましたが、今後の運動はどうすべきなのでしょうか。私自身は、この勝利を歴史的な快挙と報じましたが、差別者と同等にどなりあい、彼らを物理的に凌駕することをめざす「カウンター」を強化する運動で差別がなくなっていくとは全く考えていません。
   ヘイトスピーチはなくなる方向に進んでいるのか?

鄭香均(チョン・ヒャンギュン)の発言が冒頭の集英社WEBの中で紹介されています。東京都との裁判を決意した時の同胞の反応についてです。「提訴を決めて在日に相談したら、みんな『やめろ、勝てないよ』『公務員になれたからいいじゃないか』って。李仁夏(イ・イナ)牧師は『当然の法理』を知っていらして『それは日本人が朝鮮人を差別してもいいと思っている空気なんだ。空気と闘うことはできない』とおっしゃった。」

在特会の差別発言を許すことはできません。しかし、それに対抗した側は「川崎方式」を採択し、全国のモデルにしていたのです。そこに見られる排外主義的なナショナリズムの根は深く、まさに故李仁夏先生がおっしゃった通り、「当然の法理」にある日本人の差別は空気のような存在なのでしょう。しかしこのことを認識し、その排外主義思想の上で作られた「川崎方式」を撤廃させること、ここからはじめるしかありません。

2016年8月20日土曜日

いま改めて世に問う、私の個人史            個からの出発ー在日朝鮮人の立場から                           

1995年に書いた個人史が見つかりました。拙い文書ですが、在日朝鮮人とは何か、自分はどのように生きればいいのかを模索してきたことが正直に書かれていました。この個人史を再度、公にすべきだと思い立ったのは、この模索の上で、3・11の福島事故を起こした原発メーカーを提訴し、世界の原子力ムラに抗う、国際連帯運動構築の準備がなされていたと思うからです。

また川崎においても、日本の市民との共闘によってヘイトデモを中止させるという快挙があった後、それではこれからその差別と闘うために何をすべきかということを考えるにあたって、私たちが教会の礼拝堂の椅子を片付けて地域の子供を預かる無認可の保育園を始めたころに立ち戻り、その川崎での運動の歴史と様々な模索を改めて共有化する必要があるのではないかと考えたからです。露骨な差別言質に対して、「カウンター」を強化するという方向性の運動を私はよしとしません。

差別がどのように制度化、構造化されているのかを直視することは、植民地支配とは何かを知ることです。深い思索と、現実の問題を直視することが不可避だと思います。「多文化共生」を掲げ、全国で一番最初に外国人への門戸を開いた川崎市が、実は、採用した外国籍公務員の管理職への昇進を禁じ、市民に働きかける職務の制限をした、いわゆる「川崎方式」を生み出し、それが全国のすべての地方自治体のモデルになっています。

ヘイトスピーチをばらまく在特会のような右翼思想に与する人が急増しています。しかしそれに反対した川崎市が、実は、外国人の排斥を謳った制度を確立したのです。排外主義思想を共有しているという事実を直視する必要があります。

国民国家を絶対視し、国籍・民族の違うものを排斥する排外主義は植民地主義の根底にあり、その排外主義の払拭は簡単ではありません。この根のところを直視しない限り、差別との闘いは勝利しません。そして最終的には、世界最高水準のあらゆる差別を禁止する法律が作られる時が来ることを願います。まずは、外国人差別を制度化した「川崎方式」の撤廃が最優先されるべきでしょう。
                                  崔 勝久


個からの出発 -在日朝鮮人の立場から-
                                                                                崔 勝久
                                                      目次
1.はじめに
2.私の生い立ち
3.民族の主体性を求めて
3-1.教会との出会い
3-2.朴君との出会い
3-3.本国との出会い
4.日立闘争の経緯
4-1.朴君について
4-2.日立との直接交渉について
4-3.日立闘争の意味について
5.民族運動としての地域活動をはじめて
5-1.地域活動のはじまり
5-2.民族差別と闘う砦つくりをめざして
6.事業を通して見えた地平
6-1.生活史
6-1-1.鉄屑業(スクラップ屋)
6-1-2.寿(ことぶき)での経験
6-1-3.いろんな商売の経験
6-1-4.地域のお母さんによる青丘社への問題提起
6-2.韓国と日本でのビジネスで見えた地平
6-2-1.ぬいぐるみ製造を通して見えた日本社会の問題
6-2-2.ぬいぐるみ製造を通して見えた韓国社会の問題
7.最後に
8.あとがき

1.はじめに 
 かつて「歴史の不条理1 という言葉を遺言として日本社会を告発して焼身自殺した,在日朝鮮人のクリスチャン青年がいた。歴史の不条理,何という重い言葉であろうか。その言葉には個を抑圧している具体的な現実に対する怒りの叫びがこもっている。それは観念ではなく,現実批判の言葉である。私には気のきいた幾ばくかの提言で「歴史の不条理」が解決されていくとは考えられない。

 しかし私は,歴史社会の矛盾のただ中で生きながらその矛盾の止揚を望み,例え僅かでもその止揚の歴史に参与して死んでいきたい。歴史の主体は誰であるのか。私は「歴史の不条理」の中で現実に翻弄されつつ生きる無名の民衆こそ,歴史の主体であると考えている。言うまでもなく,在日朝鮮人は日本の朝鮮への植民地支配の過程の中で生まれてきた。この異国にあって,私達の親は黙々と必死になって家族を支える為に生きてきた。そして私達は今,同じ道を歩みつつも,より人間らしく生きたいと願っている。この提言はそのような在日朝鮮人の一人として,あくまでも自分自身の生活の中から見えてきたことを拠り所としてなされる。

2.私の生い立ち
 私の家は大阪の中心地にあって,食堂やパチンコ屋,ジャズ喫茶をやっていた。私は何ひとつ不自由することのない環境の中で育ってきた。活発で勉強のできる「いい子」であった。学校は「頃調」に,区域内で最もいい学校とされる府立のK高校にはいり,中学のときからやっていたバスケットボールを続けた。私にとって唯一どうしても人前では言えず隠していたこと,それは自分が朝鮮人であるということであった。だから高校を卒業するまで,親しくなった友人にだけ実は自分は朝群人であると,そんなことはどうでもいいよ関係ないじゃないかという答えを期待しながら告白した。 オモニ()は若く,美しかった。働き者で,店のやり繰りは全部彼女がやっていた。あのシンの強さしたたかさが,実は戦前,大家族で貧しかった彼女の生活環境からきたものであるということがわかったのは,私が結婚をしてソウルに留学に行ってウリマル(国語)を学び,その母国語でハルモニ(祖母)と話したときであった。 アボジ()はこの一月亡くなった。78歳であった。

 彼の押しの強さ,直感の鋭さ,そして涙もろさが生来の性格に加え,朝鮮人として歩む中で形成されてきたものであることがわかったのも最近のことである。ピョンヤンの近くの信川という所で育ちながら,父親の死後,母親と兄妹の4人で満州に行き,極貧の生活をした。北間島での生活も母親の病気によって家族は離散せざるをえなくなり,一度は信川の故郷に引き取られながら,彼だけ12歳のとき一人で日本に渡ってきた。戦前は靴屋をやりながら戦後はレストランで当て,大阪の中心地に店を構えるようになった。ボクシングジムの会長になり,同郷のよしみか力道山とも兄弟付き合いをしていた。外車のオープンカーを乗り回していたのもそのころである。日本語も韓国語も読み書きのできないところでただただ成功の野望を持ち続けた男の執念が実ったのかもしれない。 しかしついに家族に破局がきた。

 中学2年のとき,私達家族は大阪の一等地から逃げ出さなければならなかった。オモニも引っ越し先からある日突然いなくなった。 家族内のそんなゴタゴタがありながら私と弟のニ人が何ら物質的に困ることなくそれまで通り勉強ができたのは,イモ(叔母-オモニの妹)とイモブ(叔父)のおかげであった。解放のときオモニの家族十数名が全部祖国に帰るなかで,そのときおなかに私を抱えていたオンニ()の面倒を見るようにと,叔母も一緒に日本に残ったのである。大学2年のとき,K市の韓国教会にきてオモニとは何のことかと聞いて回りの者を驚かせたことがあった。私の「順調さ」はすべて朝鮮人であることを隠し,そこから逃れることによってなりたっていた。家の中には朝鮮らしさを感じさせるものは何もなかった。私の「順調さ」はすべてみかけだおしであった。 破局の後新しく購入した家のやり繰りは叔父達がやり,私たち兄弟はそこに一緒にいた。しかしそのうち,家の権利の所在が問題になり,私の最も恐れていた事態,アボジと叔父との争いになった。それは高校生活の最後の時だった。

 私は家を出て,受験を前にして何ヵ月も友人のところにいた。私は相談する人もなくひとり悩んだ。どういうきっかけでそうなったのかはわからないが,大学の願書は,それまで一度も使ったことのない,全くききかじりで知ったチェスングという名前でやってくれと担任に申し出た。ひょっとしたら中学3年のとき,外国人だから高校入試の願書をだすにあたって外国人登録済証明書をとってこいと言われ職員室で泣き出した記憶があったからか,あるいはどうにでもなれと思っていたのかも知れない。私は訳もなく早稲田の政経に入って政治家になるんだと,そんなことはありうる筈もないということを知りつつ,言いふらしていた。K高校は朝鮮人の多い学校で,私たちはお互いにそうだと感じながら自分が朝鮮人ということは黙っていた。政治家になるんだというのは,朝鮮人であるということを受けとめられず、将来どう生きればいいのかわからない不安をかき消すために強がりを言っていたのだろうと思う。 大学入試は当然のように失敗した。

 回りの者からは同胞の成功者と見られながら,一等地からの立ち退きを要求され裁判で負けた後,妻にも逃げられ,一番近い身内とも金銭的な争いをするようになったアボジは「二号さん」とも切れ,北に帰ろう,カネで喧嘩をすることのない所へ行こうと言い出した。彼にとっては最も苦しい試練のときであったに違いない。叔父たちと争いをして,独り暮らしをしていた。さみしかったのだろう,彼は若い,彼の境遇に同情的な日本の女性と同棲をするようになり,叔父たちが私たち兄弟のことを考え家から出るようになると,正式な結婚をし,今度は私たちと一緒に住むようになった。彼女は私たち兄弟(息子)によくしてくれた。 しかしアボジは結局彼女を追い出した。彼は別れた,逃げて日本人と結婚するようになった妻,私たちのオモニのことが忘れられなかった。なるべくはやく別れた方がいいのだとニ番目の妻や私たちに言い,お前たちの為にも俺はお前たちの母親を待つのだといいはった。

 私は一浪の後,現役のときには受けようと思わなかった私立にさえすべった。 私は何のあてもないのにもうアメリカへ行こうと思いだした。逃げ出したかった・・・ 英語を勉強しアメリカの大学の入学許可をとっても、所詮行けそうにないことがはっきりしてきた年末から、私はまた受検勉強をはじめた。そうしてI大学に入学した。そこが日本では最もアメリカの大学らしい雰囲気だというので。I大学では私はサイ君で通った登録はすべてチェであったが、どこか本物の朝鮮人からは逃げ出したかったのだろう,私はサイの方がみんな呼びやすいだろうということで自分のことをサイといっていた。

3.民族の主体性を求めて
3-1.教会との出会い
 I大学の雰囲気に浸りきっていた私にとって,民族という逃れようとしても逃れられず心のなかで解決されないまま残っていた問題と正面切ってぶっつかっていけるようになったのは,大学2年の夏の在日韓国教会青年会全国修養会に出るようになってからである。 私にとっては驚きであった。百名以上の同胞が集まっているところに参加するのも始めてであったし,彼らはキリスト者ということで抱いていたインテリ臭いイメージとは違い、とても頼もしく見えた。修養会の後,私は韓国教会に通うようになった。最初に行った教会は大きい教会で,礼拝はすべて韓国語でわからず,若い人との交わりがなかったのでそれ以来行かなくなった。何力月かたって,I大学のすぐ隣にあった神学校の同胞の学生と親しく話をするようになり,彼女の通うK市の教会へ行くようになった。そこでは説教は韓国語の後日本語に訳してくれたし,何よりも若い人が多く,いい先輩にも恵まれ私はここに来ようと決心した。

 当初,自分と同じような歳の青年達が毎日曜日,遊びにも行かず礼拝に出るということが不思議でしかたがなかった。ましてや朝から教会学校の先生をやっていることにびっくりしたが,そのうち自分自身で青年会活動に参加し教会学校の教師にもなっていった。私は同胞の交わりに飢えていたのだと思う。教会のひとはみんな私のことを受けとめてくれた。私もみんなの中に溶け込んでいった。彼らは当然のこととしてスングという私の本名を呼んでくれた。はじめのうちぴんとこなかったその名前にも慣れ,だんだんそれが自分の名前であるということを実感するようになっていった。 しかし本名を名のり同胞の交わりの中に身を置いても,心のモヤモヤは晴れなかった。当時こういうことを書いている。

  本名を名のればそれでいいというものではない。それは一種の習慣だからである。 僕は本名を使い,朝鮮人の友人と交わるようになっても,まだ何かはっきりしなか った。一体、日本人と僕達のどこが違うというのだ? 徹夜をして話し合ったこともある。違いを見つけて自分に朝鮮人であることを「客観的」にはっきりさせたか ったのだと思う。本名のままで帰化をしようと考えたこともある。国籍とは単なる 符号にすぎないと「合理的」に解釈しようとしたのである。しかし,それはやはり逃避であった。僕は朝鮮人であることの内実を求めた。すなわち,朝鮮人を朝鮮人 たらしめているものは何なのかと。

 在日朝鮮人にとって民族主体性とは何か。[帰属性]をどこに求めればいいのかということを私は模索した。それは自分がどう生きればいいのかわからなかったからである。私は在日朝鮮人であることに固執した。自分自身の悩みに固執したのである。 自分のように己の朝鮮人である事実を厭わしく思い,その事実をあるがまま受いれられないのは、実は,私個人の問題ではなく,私の意識そのものが過去からの歴史と朝鮮人を差別している社会の実態を反映しているからだと理解しはじめた。

 私はK教会から全国の青年会で活動するようになり,私たちが人間らしく生きるには,差別し同化を強いるこの日本社会を告発しなければならないのだと主張した。私には既成の民族団体は,位置付けとしては本国の民主化・統一によって在日朝鮮人も解放されるのだといいながら,在日同胞の受けている差別の現実と取り組もうとしていないと思えたのである。 私はキリスト教信仰の中に自分の生き方を見出そうとした。教会学校のクリスマス劇の中で,日本人になりたいという娘に対してオモニの口を通して次のような台詞を言わせている。

   パカタレ! 母さんはカッコウ(学校)いってないので知識はないけど,自分は 何者かということ,よく知っているよ。お前たちは朝鮮人なんだよ。神様は朝鮮人 を朝鮮人としてつくられたんだよ。タカラ,朝鮮人であることを嫌がるのは自分を憎むことなんだよ。人間はね,差別をする人も.差別に負ける人も,差別をタマッ テ()つて見ている人もみんな罪人で神様から離れているんだよ。 

 この台詞のあとでオモニは小さい船で釜山から密航してきたこと,これまでばれて捕まらないようどんなに気を使ってきたのかということ,どんなに必死になってお前たちの為に生きてきたのかということを切々と語って聞かせる。これは教会の子供たちに実際の彼らのオモニの歴史を知らせることでもあった。 

 私は同化された自己を歴史的存在として捉え,もはや逃げることなく,積極的に現実社会に関わろうとしていった。民族の歴史を知り,在日同胞の置かれている状況がわかるにつれ,このような社会は変革されなければならないと思うようになっていった。出エジプト記にあるモーセを読み,エジプト王室に育ちながら同胞の悲惨な現実に触れ、躊躇,固辞しながらも神に導かれて同胞の解放を実現していくユダヤ人の歴史に,自分の生き方を見出していった。 I大学での学園闘争において,この世の権威,機構は決して動かすことのできない所与のものでなく,あるべき姿を求めて変革していくことができるのだということを目の当たりにしてきた私は,教会を中心にした青年会活動に邁進していった。70年代当時,世界各地で変革を求める声が渦巻いた。フランス,アメリカ,日本そして韓国において。私達もまた「時代精神」(池 明観)を体現していたのであろうか。

3-2.朴君との出会い 
 朝日新聞の記事を見て、日立の民族差別に対して訴訟をおこした朴君に会いに行ったのはちょうどそのころであった。私は,日本名を使い日本人らしくなろうとした朴君の中に在日朝鮮人を見,過ぎし日の自分を見た。どうという展望があるわけでもなく,ただただ外国人だからということで黙認されている民族差別の実態をあばき,差別と同化を強いる社会の構造を明らかにしていかなければならないという気持ちから,積極的に彼を支援する闘争に参加していった。 私は朴君の訴訟を手がかりにしながら,在日朝鮮人の主体性論を展開した。  

  ぼくが自分のことを在日朝鮮人であるというのは,この日本社会にあって抑圧さ れ,差別され,虐げられている民の一人であるということであり,そこから必然的 に人間性の回復と社会正義を求めて生きるということを言っているのである。 自然のうちに育まれた「素朴な民族意識」はなく,かといって国是やイデオロギーを前提にした「国民意識としての民族意識」ももてず,日本社会の差別的,閉鎖的,排外主義的な実相を反映したところの「被害者意識としての民族意識」しかなかった私にとっては何はともあれこの自らの被害者意識と闘い,その歪んだ意識を克服することに全力を傾けるしかなかった。

 [在日朝鮮人]であると叫ぶことは,同化され差別されてきた者の日本人社会に対する怒りと告発を中心にした,しかし己自身は日本人とも本国の人間とも違うと意識されてきた激情の発露であり,歪められた人間性を取り戻す為の必要不可欠な作業であった。しかし日本にあっても韓国教会の中で育ち,家庭の中で民族的なものに触れて生きてきた青年にとっては,私の主張は我慢のならないものであったらしい。特に,「朝鮮人として日本社会に入りこむ(公立学校を含め)」ということは同化につながり,日立裁判は日本社会に逃げ込もうとする同胞の同化現象を更に押し進めるものだと断定された。私は民族反逆者,同化論者のラク印を押され,教会の青年会代表委員をリコールされた。

 私をリコールした青年会の中心人物であったK君はその後,北朝鮮に渡り,神学生として韓国に留学したときスパイ容疑で逮捕された。私の知る限り同世代の中では最も鋭い問題意識をもっていたK君は,私とは違う形で民族の解放を願い,その生き方を貫徹していった。 民族の主体性というのはあくまでも,祖国の統一や民主化の運動と一体化(連帯)していくことである。このように教会青年会のみならず,民団、総連を問わず足下の問題は民族にとって本質的なものではないという認識ではみごとにー致しており,政治的スローガンを掲げる民族団体は押し並べて日立闘争を無視した。自分を隠し日本の大企業にはいりこもうとするような青年の闘争がどうして民族の間題足りうるのか・・・。

 日立裁判は民族差別にもとづく就職差別を問題にした日本の裁判史上はじめてのもので差別と同化の実態をあますことなくあばいていった。私はリコール後もその裁判闘争に関わり,[在日朝鮮人問題]とは[日本人及び日本社会の間題]として深く受けとめられるべきであると訴えかけた。 私は運動の中で「在日朝鮮人に対する同化教育についての考察-解放後の大阪を中心に」という卒論を書きあげた。その卒論によって,[在日朝鮮人問題]の所在を明らかにすると共に,「日本人化」されてきた自分自身の歩みをきっちりと「精算」させたかったのである。卒論の結語は在日朝鮮人の主体性(結び)で終わっている。

  われわれは,徹底して「在日朝鮮人」であることに固執する。その固執は,「在日朝鮮人」であることに開き直り,対日本人との関係においてのみ朝鮮人であることを止揚していかんとする朝鮮人としての「生き方」なのである。われわれは,目的意識的にナショナルなものに固執し続けるであろう。それはまた,歴史における人間の[解放]への参与であることをわれわれは確信している。われわれのいう「在日朝鮮人」とは,祖国につながり,普遍的歴史につながる質をもたなければならないのである。

  私の中に日本人社会への告発だけではいけないということが芽生えていた。しかし在日朝鮮人への関心と実践が民族の歴史にあってどのように位置付けることができるのかわからなかったのである。 私は卒論を書き上げ結婚をすると即,ことばと歴史を学びにソウルへ行った。1年の予定を変え歴史を本格的に勉強しようとS大学の大学院に入った。

3-3.本国との出会い
 私は本国でまず人間が生きていることを発見した。政治的立場のみをもって本国を論評していたとき,その本国には独裁者一派とそれと闘う人間しか見えなかった。ところがそこには泣き,笑い,飲み,歌う人間,生活する人間がいた。ソウルでの生活も一年を過ぎてから私は友人に「[在日朝鮮人論]の止揚を]という手紙を送っている。

  排外主義的・差別的日本社会の中で,自我のめざめとともに逃避的な生き方から 朝鮮人であろうと歩みはじめた我々は,民族を高唱することによって,そして日本 社会の不正を明らかにすることによって主体性が回復されていくのであろうか。民族の歴史を担うということは極めて政治的なことでありながら,実はそれを支 える思想 文化の地道な創造なくしてはあり得ないのであり,我々はとにもかくに もまず母国語を習得していくことから始めなければならないように,私は思う。そのように考えると,在日朝鮮人がやらねばならないのに,民族の高唱の割りには全くなされてこなかったことにガク然とする・・・我々が祖国とつながるというのは,単に感傷やこちら側の独りよがりによっては 不可能なことである・・・。
  彼らとの真の対話を進めようとするには,我々在日朝鮮人の内実があまりになさすぎる。

 留学したのは72年で朴政権の時代であった。独裁と民主化運動の対立が伝えられていたが,未だ学生の動きのなかったときである。私はある意味で民族の本物を本国で見ようとしていた。ところが私が見たそれは,いまだ解放されざる民族であった。一体,本物とは何なのか。日帝からの解放の後の祖国の分断対立,日帝時代の対日協力者の処分のないまま,いや彼らの登用によって進められた国つくり,軍人の独裁政治,日本の商社をまねて政府の肝いりでつくられた一部の超大企業の勢力増大,一般民衆,スラム,そして社会の変革を熱く願う青年達。彼らの中に本物とよべる「民族観」が存在するのか。

 混乱する社会の中で民族の特性としてまことしやかに語られる,党派性や事大主義.勤勉さの欠如、まじめに働く意欲に欠ける労働者,まず民族性を直さなければという言葉などを何度耳にしたかわからない。それは謙虚な自己反省ではなく,混迷する社会に対する失望であり,いかんともしがたい現実の中でうまれた自己卑下であり,為政者に対する揶揄ではなかったか。それらは民族性ではなく歴史の産物なんだと叫びたかった。現実の混乱や低迷が悪い民族性の所為だとされるのを目の当たりにしていたとき,或る歴史学者が,今日の韓国の学会における最大の課題は「植民地主義民族観」即ち「歪められた民族観」の克服であると看破し,その克服の困難さと必要性を厳しく学生に説くのを聞き,何か新しい視点が与えられたように感じた 。 

 私はその「植民地主義民族観」即ち日帝時代に朝鮮支配を正当化する為に日本の学会,マスコミ全てを動員し作り上げられた所謂「皇民史観」という,「歪められた民族観」の克服こそ,本国と在日朝鮮人の状況を統一的に捉えるものであると理解した。

 日本の支配層が作り上げた「歪められた民族観」は,日本社会の中で戦前・戦後も残っているということだけでなく,その価値観が,支配された者の価値観となり現在も現在の状況の中で生きているということであり,同時に日本社会のただなかで生きる在日朝鮮人にあっては今も克服されていないのだと考えたのである。戦後の日本社会の経済的発展,それを追随しようとする韓国社会。しかしそのようなものではたして「歪められた民族観」を克服できるのか。私は本国において「歪められた民族観」は一定の経済的繁栄にもかかわらず,いやむしろそれだからこそ,払拭されず拡大再生産されていると理解した。

 「被害者意識としての民族意識」として自己分析していたものが,日本社会の実相を反映したものであるということは既に留学前に理解していたが,その意識(価値観)の変革は戦前意図的に作られた、「歪められた民族観」として,歴史的かつ現在的な課題として捉えられなければならないということを私は学んできた。二年にわたる本国での生活によって,[在日朝鮮人間題]は歪められた民族観を克服して自らの,そして民族全体の自立をはかるという意味で民族全体の課題であると確信しはじめた。

 母国留学中,韓国の中で現実を変革しようという新しいうねりに出会った。それはスラムのなかで抑圧されてきた民衆が主体となって,地域を組織し,自分たちの権利を要求する姿であった。地域のなかの粗末な教会を中心に、牧師や学生達が住民とー緒になって人間としての自立を求める動きを見て,私は「歪められた民族観」の克服の可能性,方向性を見た。私にとっては,韓国の民主化闘争はマスコミでとりあげられる政治的スローガンやデモ,機動隊との衝突よりむしろこのような地道な地域活動と結びついている。 

 大学院で学びはじめて暫くして、私は歴史学科の学部の青年から,ある決意をしたので兄さんとはしばらく会えないかもしれないと告げられた。そして翌日,朝一番のラジオで学生の間に不穏な動きがあると一回だけ放送された。たまたま下宿でそのニュースを耳にして、昨日の青年の言葉を思いだし大学のグランドにかけつけてみると,百名程の学生がスローガンを掲げ構内をデモ行進していた。私の知るその青年は後方で旗をもっていた。校門の正面に整列し,国歌を愛唱するなかスローガンが読み終えられるや,対峙していた機動隊が突人してきた。それまで沈黙を守っていた学生が立ち上がったのである。学生たちに続きマスコミや知識人達も独裁反対の声をあげはじめた。
 日本では日立裁判闘争が続けられ広く大衆的な連動になっていった。しかし相変らず同胞社会の中では支援を得られないでいた。民主化闘争と連帯しなければならないというのである。

 そういう中で韓国キリスト教学生総連盟(KSCF)は反日救国闘争宣言を発表して維新憲法撤廃をかかげながら,決意事項の最後で「日立で起こった就職差別問題など日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即刻中止せよ!」と訴えた。民主化を願い,地道な地域活動をはじめていた彼らは、在日同胞の問題を民族の歴史的な課題として理解したのである。反日集会が準備される中,私は韓国の学生に日立闘争の抱える問題と同胞の現実を訴えた。その集会の前日私は帰国した。翌日,かれらは集会を準備していたという口実で逮捕された。あの「民青学連事件」である。

4.日立闘争の経緯
4-1.朴君について
日立闘争は当初からべ平連に参加していたK大学の学生達によって始められたが,私も韓国人として加わる中で[朴君を囲む会]が形成され,徐々に大衆的な運動に広がっていった。この会はいかなる党派にも属さず,地道に裁判闘争を担いながら日立の就職差別の抱える問題を法律,教育,歴史そして具体的な差別状況から究明していった。

 この闘いが勝利していった要因はいくつかあると思われる。しかしその最大の要因は,朴君自身の成長,がんばりにあると言ってよいだろう。彼は愛知県で9人目の子として,想像を絶する貧困と困難の中で育った。彼の上申書と,日本社会の朝鮮人差別の状況を公に認め朝鮮人の主体性回復に言及した判決文は是非,後世に残したい。この判決によって国籍を理由にした解雇は「法的」に許されなくなったのである。

 貧困故の家庭の不和や混乱の中から「問題児」であった朴君はそれでも公立高校の商業科を出た。彼の上申書は,じっと耐え忍び懸命に働くオモニ()の姿を見据えている。兄とのいさかいから家を出てホームレスの生活をしたアボジ()を,4年の闘争を経てこのように振りかえっている。

   私は,祖国の言葉をおぼえるにつれ,父や母が苦しい生活のなかで泣きわめいた 言葉にどんなに深いかなしみと民族の怒りの訴えがこもっていたのかをしるようになりました。かつて,父や母をつまらない人間だと思い,むしろ憎んだのでしたが いまになって,その父と母がどんなに苦しみと差別にたえ,せいいっばいの愛情で私たち九人姉弟を育ててくれたのかがはっきりわかりはじめました。それを思うと 私は涙なしにはいられません。私はこの老いた両親のためにも,不正と徹底的にたたかう強い人間になることを 誓わないではいられません。

 朴君は商業科を出たにもかかわらず,学校からプレスエの仕事をすすめられいったんは勤めたものの他の会社に経理として入り,結局そこでもまたプレスエの仕事をさせられるようになる。彼は新聞で日立製作所ソフトウェア戸塚工場の募集をそれこそ「胸をときめかせて」むさぼり読み、応募しようと決める。もし合格して「一生懸命努力すれば幹部に登用」されるかもしれないと夢みる。現実からの逃避を願ったのであろう。

 履歴書の本名欄にずっと使っていた日本名と本籍欄に現住所を書いた彼は,韓国籍をそのまま書くことによって玄関払いされることが怖かったのだという。無事入社試験に合格し採用通知をもらったが、日立に要求された戸籍謄本をとれない理由と代わりに外国人登録済証明書を持参したい旨伝達したところ,日立側は突然態度を翻し、一般外国人は採用しないということと、朴君が履歴書に嘘を書いたからいけないと彼を解雇した。あきらめきれない彼は何度も会社に出向くがらちがあかず途方にくれているとき,K大の学生達と出会い裁判闘争を決意するにいたった。

 当初この裁判においては朴君の弁護士は単なる解雇問題と理解し,日本人とかわらないのに辞めさせたことは不当であるという論理であった。朴君をはじめK大の青年達もまた同じように考えていたのであろう。私はこの捉え方を厳しく批判した。朴君は排外主義的な差別社会の中で同化させられてきたのであって,朴君は本名を取り戻していかなければいけないし,日立が能力を認めながら外国人であるという理由で解雇したことは民族差別である,この裁判を通して日本社会の民族差別の実態をあきらかにしていかなければいけない,私は自分の到達した地平から全力をあげて彼らと論争をした。私は自分の生き方を語っていたのである。

 朴君にとっては晴天の霹靂であったようだ。日立を許せない、告発しようとしているのに,自分の生き方が問われてくるとは! 裁判闘争をはじめても何の経済的な基盤のないなかで朴君は働きながら闘争を続けた。[囲む会]は弁護士と一緒になって裁判の進め方を協議し、定例会を開いた。そこでは既成の建前だけの民族団体では自分の場を見出せなかった,混血の青年達を含めた多くの同胞が集まるようになり,民族差別と闘おうとする日本の人達と,文字通り自分の生き方を咆吼するがごとく語りあった。 朴君はなかなか展望を見出せない裁判や生活のことでいらつくことも多く,日本人青年にくってかかることが続いた。彼は生活の為にアルバイトでは日本名を使っていた。私は彼を理解した。そして待った。

 彼はわかっていたのだ。しかしそのように自ら生きるようになるには時間が必要であった。そしてついに朴君はK市に引っ越してきた。韓国の教会にも来るようになり,かつて私がそうであったように,教会のひとたちから受けとめられ,本名で生きはじめた。そして洗礼を受けた。教会青年を中心としながらも新しくK市に来た同胞青年と一緒になって、私達は絶えず自分の生き方をはなしあった。そのなかで、日立闘争と並行して,同胞が密集するこのK市で民族運動としての地域活動をしよう,そしてその運動こそ民衆運動でなければならないと提唱し,行政闘争や身の回りの差別問題を取り上げていくようになった。そして同じように差別と同化のなかで生きる同胞子弟を対象に子供会活動をはじめた。 

 韓国の民主化闘争を担う青年達によってその宣言の中で日立闘争支援が打ちだされてから,在日同胞の団体の反応が変わりはじめた。私たちも積極的に支援をよびかけ,多くの同胞の支援,協力を得るようになった。私を「民族反逆者,同化論者」とラク印を押した韓国教会の全国青年会も声明文をだすなどして支援をしはじめてくれた。婦人会のオモニ達はさらに積極的だった。日本の青年達は実に真摯に私達を理解しようと努力をしてくれた。[囲む会]の呼びかけ人は,日本人と在日朝鮮人青年を中心にしたこの共同闘争を絶えずあたたかく受けとめてくれたし,いつも一緒に闘ってくれた。弁護団は「弁護士だから-でなく」(石塚 久)ひとりの日本人として,人間としてこの事件に関わり,この闘争に心を寄せる全ての人の英知を集めた準備書面を作成して判決を待った。判決は私達の言い分を認めた完全勝利であった。

  戦後も現在に至るまで,在日朝鮮人は,就職に関して日本人と差別され,大企業にはほとんど就職することができず,多くは   零細企業や個人企業の下に働き労働条件も劣悪の場所で働くことを余儀無くされている。また,在日朝鮮人が朝鮮人であると   いうことを公示して就職しようとしても受験の機会さえ与えられない場合もあり,そのため在日朝鮮人の中には,本名を使わず日本名のみを使い,朝鮮人であることを秘匿して就職している者も多い。右のような現状はいわば常識化している・・・

 このように歴史上はじめて,日本の裁判所という公的機関が民族差別の存在を認めたのである。そのうえで,朴君は日立に対して労働契約上の権利を有しており何ら解雇される理由がなかったこと,即ち日立は民族差別に基づく不当解雇をしたと日立側を全面的に問責した。「理由」文中で朝鮮人の主体性回復についても言及している。

 また,原告本人(朴君)尋問の結果によると,原告はこれまで日本人の名前をもち日本人らしく装い,有能に真面目に働いていれば,被告に採用されたのち在日朝鮮人であることが判明しても解雇されることはない程度に甘い予測をしていたところ、被告(日立)の原告に対する本件解雇によって、在日朝鮮人に対する民族的偏見が予想外に厳しいことを今更のように思い知らされ,そして,在日朝鮮人に対する就職差別これに伴う経済的貧困,在日朝鮮人の生活苦を原因とする日本人の蔑視感覚は,在日朝鮮人の多数から真面目に生活する希望を奪い去り,時には人格の破壊にまで導いている現在にあって,在日朝鮮人が人間性を回復するためには,朝鮮人の名前をもち朝鮮人らしく振舞い,朝鮮の歴史を尊び、朝鮮民族として誇りをもって生きていくほかにみちがないことを悟った旨、その心境を表明していることが認められるから,民族的差別による原告の精神的苦痛に対しては,同情に余りあるといわなければならない

 この画期的な判決は韓国でも報道されたので覚えていらっしゃる方も多いだろう。しかしこの判決前に[囲む会]でおこなった、日立本社への直接抗議行動についても語っておくべきであろう。

4-2.日立との直接交渉について
 私達は裁判闘争とは別途に日立から直接話を聞こうとして,判決の予想される六ヵ月前から日立との直接交渉を試みた。不意をつかれた彼らは自分たちの正当性を主張するものの,周到な準備を重ねてきたこちらの質問に矛盾する発言をするようになり,次回の会合を約束せざるをえなくなった。私達はさらにかれらの矛盾を突き,ついに数度にわたって日立を直接交渉の場に引き出すことに成功した。四度目の交渉がもたれ,日立側からは勤労部長が出席した。

 彼らはあくまでも差別を認めず,日本社会の民族差別の存在さえ否定していた。日立側は当初朴君に「一般外国人は採用しない」と言って彼を解雇したにもかかわらず,その発言を裁判においてもー貫して否定していた。しかし私達にはそのときのテープがあった。また日立の社員のなかにも運動の同調者が現れ,私達はかれらのマル秘文書なるものを入手していた。差別を頑強に否定する部長に対して私はそのマル秘文書を投げつけた。それは日立の労務担当者を集めた研修会の席で学習されたものであった。 

 共産党,民青等の思想的偏向者、熱心な創価学会員は構わない,精神、肉体異常者 は雇わない,外国人も積極的に雇わない・・結局,日立側は外国人は採用しないという内部規約をもっていながら、朴君は嘘をついたからやめさせたのだと主張していたのである。そして彼の書いた日本名や日本の住所をもって彼のことを「ウソつきな性格」と決めつけ,そのようにせざるをえない,或いはそのようにせしめてきた日本社会の問題に関しては全く知ろうともしていなかったことが明らかになっていった。部長は言葉を失った。そして次回の会合を拘束した。

 [囲む会]の運動の進展が詳しく韓国でも報道され、韓国キリスト教女性連合会が韓国で日立不買運動を展開することを決議した。ソウル市長もまた,日立と提携している韓国金星社に対して決議文を提出した(しかしソウル市警は時局を理由に街頭キャンペーンを不許可にした)。 また世界キリスト教会協議会(WCC)人種差別闘争委員会でも同じく日立製品不買を決議した。そして日本の国会においてはマル秘文書及び朴鐘碩への就職差別問題が追求された。このように全世界的な支援を受けながら私達は次の直接交渉に入っていった。参加者はニ百名を越え,青年のみならず多くの年配の同胞も日立と対峙した。

 日立の常務は冒頭、朴君の採用内定取消を撤回する声明文を発表したが,自分達のやったことが差別であったとは認めなかった。参加者からの激しい糾弾の末、ようやく「日本社会に在日朝鮮人に対する差別がある」ということを認めたが,自分たちには差別の意図がなかったと頑強に主張した。年配の同胞から諭されるように「あなただって人間でしょう。日立の代表という体面だけじゃなくて,人間として答えて下さいよ」と言われると彼は絶句した。手が震え出した。そしてようやく,「三年間・・日立が朴君にしてきたことは・・差別であった・・・ことを・・・認めます」と答えた。沈黙が続いた。両者の間で確認書が交わされた。団交がはじまって六時間経っていた。確認書(そのー)一九七四年五月一七日,日立本社会議室における,日立製作所と朴鐘碩及び朴君を囲む会の交渉の席において,双方は左記載の内容を相互確認した。 
                 
  記 朴君が一九七〇年に入社試験時に,「日本名」「出生地」を記載したことに関し日立は.それが「虚偽の記載」であり,そのようなことを書く人間は「ウソつきで信用できない」とこの間一貫して主張してきた。しかし今回、朴君の上申書を読む   ことによって、そのような主張は,在日朝鮮人のおかれた現実を全く知らないために犯した誤りであると気付いた。従って,この三年間、こうした誤った判断にもとづいて朴君の就業を拒否したこと,その誤りの責任が日立にあるにもかかわらず、「ウソつき」のレッテルをはることで,朴君に責任転嫁してきたこと,のニ点だけでも,日立が朴君を民族差別し続けてきたものに他ならないことを認め、日立は責任をとる。

 以上右記載内容に関し,相互確認したことを署名をもって証す。株式会社日立製作所 常務取締役 新井啓介 印、 朴 鐘碩 印、朴君を囲む会呼びかけ人 佐藤 勝巳 印

 しかし私達は追求の手をゆるめなかった。マル秘文書を出し,外国人は採用しないといった発言がでてくる日立の休質はどうなるのか。追求が続いた。常務はジッと聞いていたがついに口が開き,「日立のやっていたことが民族差別であることがよくわかりました」と答え,第二確認書に合意した。
 
日立製作所は,在日韓国人・朝鮮人を差別し続けてきたことを認め・・・ここに 深く謝罪します。 日立製作所は,今後,このような民放差別をニ度とくりかえさないよう,責任ある、具体的な措置をとることを確約します。

 場内に涙と笑みが広まった。日本第二の大企業が公の席で謝罪をしたのだ。日立の人間も泣いているようだった。夜の十二時近くになっていた。翌日,日本と韓国の新聞に大々的に報道された。韓国の城南教会では、朴君の勝訴を祈る祈祷会がもたれた。以上のように日立との直接交渉を行い,日立側からの全面的な謝罪と「具体的な措置」の確約をかちとるなかで,私たちの主張を全面的に認めた判決が下ったのである。そして日立の控訴断念により,民族差別による解雇は認められないという判決が判例となった。

 その後も「具体的な措置」をめぐって激しい対立が続いたが,最終的には[囲む会]と日立の両者の間で「合意書」と「合意書に関する了解事項」が交わされ,「朴君又は日立に入社した在日韓国人・朝鮮人に関し、話し合いの必要が生じた場合,相互の要請により随時話し合いを行い、誠意をもって解決にあたるものとする」ということが確認された。 朴君はこの合意書のあと日立に入社していった。勤務先は,あの日立ソフトウェア戸塚工場である。 朴君は日立に入ってニ十二年になる。律儀な彼は入社二十年になったとき,お世話になった弁護士や共に闘った[囲む会]の人達を招待して,心からの感謝の辞を述べた。今は日立の主任として働く朴君の十年の軌跡は、いつか彼の手によって公にされていくだろう。  

4-3.日立闘争の意味について
これらの意識革命は、すべてアラバマ州モンゴメリーのバス・ボイコット闘争から始まった。(猿谷 要 「キング牧師とその時代」) ある意味で典型的な在日朝鮮人であった彼の,4年にわたる闘争の中で民族の主体性を求めてきた生き方が、「民族全体の貴重な教訓」(東亜日報),「告発精神の勝利」(韓国日報)として評価されたことは,私達に大きな自信と喜びを与えてくれた。政治的位置づけによって本国と在日朝鮮人を結びつけるのではなく,在日朝鮮人の生活の場での人間らしく生きる闘いが、[在日朝鮮人]を止揚して,本国の同胞と結びあったのである。

 日立闘争の意味についてはいろいろな観点から分析することが可能であろう。裁判の過程で民族差別の歴史と現実をあきらかにし、差別を禁じる判決を勝ち取ったことの意味は限り無く大きい。これをきっかけに日本社会でのタブ-が破られ、国籍の違いを理由としたいかなる差別も許されないという運動がはじめられる。金敬得の弁護士資格の獲得もそのひとつである。在日朝鮮人の人権、生活権という観点から、 在日同胞を排除していた法律や慣習への闘いと連なっていく。民間企業のみならず,学校教師や公務員への就職さえ門戸を開放すべきであるという動きがでてきたのも,けだし当然のことである。
 日立闘争を担った[朴君を囲む会]は,日本人と朝鮮人の両者が自前で,互いにぶっつかりあいながらそしてお互いを受けとめあいながら,一切の打算(利用主義)のないところで共同で闘い切った。

 日立闘争を振り返ってみるとき,[民族の主体性]というのは理論ではなく,結局は人間の生きざまのことをいうのではないのかと強く思わされる。自分の置かれている現実から逃避することなく,その現実を直視し切り開いていく当事者(主体)になっていくこと、依存せず自立していくこと,それが主体性なるものではないのか。私にとっての日立闘争の意味は,民族的自覚の獲得という水準でなく,人間としてどのような生き方をすればいいのかということを学んだことであった。 現実世界は仮の世で,天国のことだけを考えればいいという信仰理解は阿片だとしかいいようがない。しかし人間の生き方を説いてきた牧師にどうして同胞青年の苦しみがわからなかったのか。何故,同胞に仕える民族団体であることを標榜してきた組織に同胞の実態が見えなかったのか,韓国の安炳茂は的確に語っている。

   わが国の歴史には,民族はあったが,民衆はなかった。民族を形成した民衆は いつもその「民族のために」という美名の下で収奪状態のままに放置された。 

 そうなのだ。在日朝鮮人民衆は動員の対象でなければ,募金・集金の対象ではない。ましてや指導・啓蒙の対象であってはいけないのだ。現実を直視し現実から学ぶというのはその民衆と共に生き,共に悩み,共に現実を切り開いていくということではないのか。日立闘争はこの民衆の地平を獲得したと私は確信している。

 民族の高唱にもかかわらず具体的な同胞の実態に迫れないのは,民衆なき民族理解であるからだと言えるであろう。しかし私は、それは「観念化」によるのだと思う。人は絶えず現実から自己検証しないと,自分で獲得したつもりの倫理や思想は観念化され,現実が見えなくなってしまうのである(田川建三)。「民族」は勿論,「民衆」 や「民主主義」さえその思想は観念に陥る可能性を秘めている。ひとは民衆の現実から学ふ謙虚な姿勢を失うとき,己の観念に陥っていることはわからないで.倫理や思想、信仰の正当性(建前)を根拠に他者の批判を受け入れないようになる。近代日本の民衆の実態を文字通り地を這うようにして調べあげた色川大吉はいみじくも語っている。 

   大義名分と正統意識こそが自己批判の契機を見失わせ教条主義を育てる。 
(色川大吉 『歴史の方法』 ) 

 私は日立闘争によってそれ以降,試行錯誤を繰り返しながらも,絶えず現実を切り開くように生き始めた。私にとって「歪められた民族観」の克服は,自立への道であった。

5.民族運動としての地域活動をはじめて
5-1.地域活動のはじまリ
 ソウル留学を途中で切上げ帰国した私は,在日韓国教会があらたに創設する在日韓国人問題研究所の初代主事に請われた。同胞社会における差別と闘う具体的な実銭の必要性を痛感していたので,単なる「研究所」なるものには興味がなく,日立闘争とK市での地域実践を推進していくこと,そしてわたしの行動に制限を加えないことを条件に主事を引き受けた。74年のことである。それから思いがけない岳父の死によって彼の小さな鉄屑回収の会社をひきうけるようになるまで,2年間,地域活動に没頭した。韓国留学中,民主化連動とは単なる政治スローガン的な運動でなく,貧民街で教会を中心にした実にきめの細かい実践(民衆運動)をすすめていることを知った私は,帰国後,K市の韓国教会を中心にしてそのような,地域における民衆運動をやろうとした。

   我々が目的意識的にK市での地域活動をはじめたのは,日立との闘いのさなかであった。朴君のように,いや自分自身がそう   であったように,朝鮮人であることを忌み嫌い,なんとか逃避したいと思っている同胞に対して,そうじゃない,我々も 朝鮮人として胸を張って生きようではないか,ということを語りかけ,同胞の子供 が人間らしく育ってくれるようにということで,まず子供会からはじめ、地域に根をはった,即ち具体的な同胞の実態に即した運動をしようとしだしたのである(奨学金闘争に向けた討議資料「民族差別とは何か」 ) 。

 K市の韓国教会は「K市に住む在日韓国人民衆の教会であり,・・・ただ単に教会堂を守るということより,礼拝堂を解放して何か社会に役立つことをしたいという願いから,保育園が作られた。無認可保育園,S保育園がそれである」 (同討議資料より)。当時,韓国人が経営する保育園だからというので日本人の父母は子供を送ってこないのではないか,何か国際的という印象をもたせる為にカナダの宣教師に来てもらい英語を教えようではないかと真面目に考えられていた。

 差別と闘うこと,本名をなのることを自分の生き方として模索しはじめた私は,執拗にその事を訴え,英語を教えようとすることの中に潜む問題点や,韓国人保母でありながら本名を使うこと(そしてふたつの名前の使い分けを当たり前とする教会と保育園の感性)を批判した。本名使用はまず,内部の軋轢と抵抗の中から始められた。 日本名を使っていた保母は,保育現場で同胞の子供が泣きながら「ボク,朝鮮人じゃないよね」と抱きついてくるのを見て,この子達を受けとめるには自分が朝鮮人であることを隠していてはいけないと思い至り,本名使用を決心するようになる。そしてS保育園は,私達と一緒に日立闘争に関わる中で,「民族保育」をめざすようになる。同胞の子供には全員,本名で呼ぶことが方針化され,日本の子供たちと一緒に朝鮮の歌や挨拶の言葉が教えられるようになっていった。子供たちは何の抵抗もなく朝鮮名を呼びあった。 

 日立の就職差別を考える地域集会では,朴君の歩みが語られ,保育園の実践が報告された。集会に参加した父母の中から,同じ地域に住んでいながら韓国人が児童手当をもらえないのは差別ではないかという声があがった。私達はK市市長に要望書を出すことにした。行政闘争のはじまりである。市の民生局の奨学金に国籍条項があり,同胞子弟がもらえないのはおかしいではないか,どうして市営住宅には朝鮮人ははいれないのか。日立直接糾弾闘争と並行して行政闘争はすすめられた。そしてこの闘争は全国に波及していった。

 日立勝利によって,私達はやれば勝つと確信していた。K信用金庫が戸籍謄本を出せないことを理由に仲間のー人に貸出を拒んだ件では,それが日立と同じで民族差別なんだと,数度にわたり銀行側と交渉をもった。差別を認めない彼らを相手に青年や地域のオモニ達が中心になって銀行で座りこみをした。夜になって銀行の理事長は最終的に自分達のやったことは差別であることを認め,謝罪した。割賦の契約で買い物をしたのに、韓国人ということで解約してきたと泣きながら訴えるオモニの声にはオモニ達が呼応して立ち上がり保育園に関係者を呼び、差別を認めさせ,以後差別は一切しないことを約束させた。差別をしかたがないと諦めるのではなく,それはおかしいと声をあげ,実際に続けて私達の要求が実現されていくのを目の当りにして,私達はみな大きな自信と夢を持ち始めた。朝鮮人であることをなるべく隠して生きようとし,朝鮮人(外国人)だから仕方がないと思いこんでいたのに,「意識革命」が始まったのである。

 朴君を中心とした青年達は、K市での地域活動や日立闘争に関心をもった日本の青年達と協力して地域での差別闘争をすすめながら,子供会活動に本腰をいれた。家庭訪問ということで地域を歩き回った。このような中で,小学校低学年部は学童保育として市からの援助を受けるようになり(市の委託事業),高学年部と中学生部を併せてS学園というものをつくっていく。このS学園というのは,無認可から社会福祉法人S保育園となった保育園とあわせ,卒園した子供たちを続けて見守っていこうということでできあがったもので,私達の地域活動の核であった。

 一方,保育園に子供を預け本名をなのることを求められ,当惑したり,抵抗したりしたオモニたちは,日立闘争の勝利と様々な地域闘争を目撃し,自ら参加していくなかで,自分たちオモニ自身が本名を隠さないで、本名で生きなければならないと思いはじめる。彼女たちは「子供を見守るオモニの会」をつくり、子供が本名で学校に通うことの苦しさを訴えて先生達の協力を求めようと必死に働きかけをする。しかし無関心と無知の壁は厚い。それでも何か子供の事に関する講演があると,担任の先生にも来てもらおうと何度も何度も声をかける。

 彼女たちは民族の歴史を学びはじめる。民族舞踊もならう。そして,自分自身の文集をだしていく。自分が経験したようなつらいことは,わが子には経験させたくない。しかし,この子には差別に負けないで,朝鮮人として胸を張って生きていって欲しい。自分の能力を目一杯発揮していってほしい・・・。 私はこのようにして民族運動としての地域活動を提唱し,民族差別との闘いを民衆運動として位置付け,日立闘争の勝利をバネにして,行政闘争や個別の差別闘争をすすめながら同胞青年や地域のオモニ達の組織化に全力をあげた。

5-2.民族差別と闘う砦つくりをめざして
 障害のある子供たちを受入れ,市の認可を受けた保育園は,同胞の子供にはもっと民族文化に触れさせてあげたいと,民族クラスをつくった。私は地域での子供会から始まった学園を育てようとして,朴君や同胞の青年,そして日本の青年達ボランティア-と一緒になって子供たちを追った。そして地域の実態を知れば知るほど,民族差別は制度ではなく生活実態であるということを思い知るようになる。 

 私たちの行政闘争を追うように既成民族団体は全国で行政闘争をはじめた。日本人と同じ税金を払っているのに,国籍条項で差別され同じ権利が保証されていない。従って国籍条項の撤廃を訴え,何人かの幹部が行政と交渉する。朝鮮人を排除する制度が差別なのであるから,そういう制度をなくすことが差別をなくすことになっていく。民族的な自覚,プライドをもちなさい。本名使用は韓国の国威の発揚と共に,当然視されていく。共和国の在外公民だから,韓国人だから。しかし私達が地域でみた実態はそのような観念,建前が通用する世界ではなかった。

 例えば一人の同胞子弟の抱える問題を考えてみたい。その子は,勉強があまりで きない。非常に繊細な神経の持ち主なのだが,暴力をよくふるう。この子供の父親 (アボジ)は町の小さな鉄工所に勤め,母親(オモニ)はパ-トにでている。もち ろん日本名で通学する。両親とも本名で働いている筈はない。学校の教師にとっては,手のかかる子供であろう。ある日その子がまた暴力をふ るい,クラスの子を泣かしたとしよう。教師は当然なぐった子を叱る,そして一応 は理由を聞くだろう。しかし彼は何も答えない。実は,クラスメートが,朝鮮人の 悪口を言い、朝鮮人は朝鮮へ帰れとやったのだ。やさしく善意にあふれた教師は、朝鮮人であるが故に差別をしたことなど一度も ない。それどころか,日本人と全く同じに,日本人として,教育をしているのだ。朝鮮人は堂々と本名を名のって生きるべきである。

 たしかにその通りだし,われ われもそう思う。しかし,あの同胞子弟になんと言って本名を名のらせるのか? 一体誰が彼をうけとめるのか?  その教師に誰が,どういう資格で,はなしにいく のか。いや,そもそも子供の隠された痛みを誰がわかちあうのか。あんなに親しく遊んでいる隣の日本人にも,これっぽっちの朝鮮人であることの苦しみを話せないでいる彼,本名で学校へ行けといったら必死になって抵抗し,逃げ,涙をボロボロ 流しながら、実はと心情をうちあげる彼。われわれの回りにはこのような同胞子弟 が多くいる (「在日朝鮮人の主体性について」第五回民闘連全国交流集会『特別基調報告』) 。

 分数の出来ない子,アルファベットのわからない子。この子たちはどんな思いで五十分の授業を我慢してうけているのか。非行。貧困。将来への展望のなさ。行政の差別はこのような同胞の実態を固定,拡大するのみなのであって,国籍条項がなくなったからといって(制度が変わったからといって)生活の実態がかわる訳ではない。制度の改革が民衆への恩恵になるのでなく,民衆自らが権利を求め,闘い,自分自身の状況を変革していく主体になっていくべきなのではないか。民族差別とはまさに生活実態なのだ。

 生活実態に肉薄する為には民族差別と闘う砦をつくらなければならない。保育園や学園を核として,地域で砦をつくろう。そこから行政や学校へ動きかけよう。地域の人達の生活の安定。気の遠くなるような話だ。でもそれが民族運動なのだ。民衆の運動として地域活動をやっていこう。私は先頭に立って走り続けた。教会の研究所の主事として,地域での運動の組織化をすすめてきたが,保育園と学園を核として民族差別と闘う砦としていくには、朝鮮人自身が運動の当事者となるべきで,(当時は保育園を社会福祉法人にした後も,韓国教会に副牧師として就任してきた日本人のK氏が主事として働いていた)その為にはどうしても朝鮮人主事が必要だと訴え,私自身が研究所の職員でありながら、S保育園・学園の主事になっていった。

 一方,[囲む会]を担ってきた学生達は卒業後,それぞれの方向に歩んだが,何人かはK市に残り市の職員になったり,塾を開いたり,運送会社に勤め組合を作ろうとした。S学園の中では韓国人,日本人のそれぞれの使命が追求され,K氏は保育園の法人化という大変な仕事をしたあと,初代主事として勤め,お互いの在り方をめぐる論争の真っ直中で留学に旅立っていった。

 岳父がなくなったのはちょうどその頃であった(764)。岳父は同胞従業員45名を雇った小さな鉄肩回収の会社をやっていた。私は,民族運動は政治スローガンを掲げた観念的なものでなく,足下の、同胞の現実に肉薄する具体的なことからはじめなければならない、民衆と共に,民衆の為の運動をしようと提唱し,その先頭を切って走っていた。しかし私には,自分の最も身近にいた人の苦しみがわからず,悩みが見えなかった。

 私は「運動」に,それも「民衆運動」に没頭していながら,すぐ側の生きた民衆が見えなかった。私自身、観念に陥っていたに違いない。岳父は私達のやっていることをいつも黙ってみていた。日立に勝って朴君が戸塚工場に入っていくところが夜のNHKニュースで報道されるのを見て,「参った,参った」と笑っていた。長女の婿が日立を相手に何か一生懸命やってるな,なにを馬鹿なことをしているのかと思っていたのだろう。それがあろうことか,勝ってNHKにでているではないか。えらいやっちゃ・・・。私は結婚のー年前から居侯をし,岳父とは毎日酒を飲んでいた。 

 私は葬式の後,主事を辞め,会社を継ぐ旨を義母に伝えた。長男はまだ高校生でだれも会社をやる人がいなかった。義母は反対した。勉強と「運動」しか知らない坊ちゃんにできるような仕事じゃない。私は手形と小切手の本を買ってきた。そして自分でトラックに乗ってスクラップ(鉄屑)の仕事をはじめるようになった。毎朝6時から鉄屑の回収に横須賀まで行った。S学園には後任に同胞のSPがはいった。私は時間の許す限り,夜,顔を出し,みんなを激励した。しかしそのうち,学園ではいろんな立場や考え方の異なる人が多くなり,混乱がはじまっていた。日立開争を経験していない人達が増えはじめた。そのとき,K市の奨学金制度における民族差別が発覚し,闘争が組まれることになった。

 私はこの時にこそ,民族差別と闘う砦という位置付けを明確にし,更に地域の実態に肉薄する運動体にしなければならないということを主張した。奨学金闘争に向けた討議資料を記して,地域活動の全体像と目的をはっきりさせようとした。民族差別とは何かというタイトルで何度もティーチインがもたれ,奨学金闘争をすすめる中で,S保育園・学園全体を統括していく場の必要性が認識された。そしてそのような場として,運営委員会が発足し,保育園、学園の運営のありかたや差別闘争の進め方を討議していくことになった。運営委員会はキリスト教理念を掲げる理事会の承諾のもとで出発した。民族差別と闘う砦であることが正式に容認されたのである。私は初代運営委員長に選ばれた。

6.事業を通して見えた地平 
6-1.生活史 
6-1-1.鉄屑業(スクラップ屋)
 私は岳父の死を知るまで,地域を去って仕事をするということなど一度も考えたことがなかったが、なんの躊躇もなく,鉄屑回収という在日朝鮮人の従事してきた職業に飛び込んでいった。29歳のときである。 5年間であったが,鉄屑回収の仕事をつらいと思ったことは一度もなかった。もしあのまま主事として仕事をしていたら決して体験できなかったような事件の連続であった。11 トン車に3 0トン,4トン車に1 5トンの鉄屑を積むのである。接待,談合,苛酷な労働,安定しない相場,展望のない仕事。私は亡くなった岳父を想い,なんとしても軌道にのせたかった。しかし私達が造船場から仕入れていたスクラップは構造不況で,出る量が半減していた。営業努力の余地がない。

 4年目に従業員四人には大型トラックを退職金代わりに一台づつ渡し,大学生になった義弟に手伝ってもらって,一人でトラックにのって仕事を続けた。住まいの横のスクラップ置き場と事務所は同胞の同業者に貸したが,それでも借金の返済と回ってくる手形を落とすのが精一杯であった。東横線のある駅の商店街で三坪程のサンドウィチと惣菜の店を副業で始めた。義母は事業主婦であって,実際の商売ははじめて。妻は三人の子どもを連れたS保育園の保母。義妹は肝炎で入院。彼女の結婚は来春の予定なのだが,どうやりくりを考えても,それまでは会社がもちそうにない。私は頭を下げ,理由は言わず年内に式をあげてほしいと頼みこむ・・・。住まいは二階家だから一階を喫茶店か食堂にすることを考えたが,かねはないし,いつでも出てあげると言ってくれていた同胞の同業者は頼み込んでも出てくれない。

 しかし,会社のつぶれる前に店を出さないと,店はもうできなくなってしまう。店さえできれば,私はどうなっても妻の実家は食べていけるだろう・・・。私は最後の賭をした。大晦日の夜,家族をみんな旅行に行かせて置き場からスクラップ数百トンを全部運び出して保管し、エ場の柱も切り倒した。保育園の園児のアポジ()が、先生が困ってるんだったら一肌ぬいでやるよと言って手伝ってくれたのである。私は同胞の同業者には前もって通達していたのだが,まさか大晦日にそんなことをするとは夢にも思っていなかったのだろう。私は窃盗と器物破損で訴えられた。警察が人り,立ち入り禁止になった。しかし家の後ろがはらっばだったので,その間に知人の工務店に頼み,家の一階に食堂を作ってしまった。

 私は私を訴えた同胞の家を訪ね,謝罪をした。殴りかからんばかりに腹を立て喰ってかかってきたが,それでも私の家の事情を知る彼は私を許してくれた。円満に解決し,私達はレストランを自宅のー階ではじめることになった。店の名前は義母の姓からとり,リーズハウス(LEE'S HOUSE)にした(804)。 妻は開園のときからS保育園に勤め,一時乳腺で手術をしたが,三人の年子を抱えて79年までがんばりぬいていた。翌年レストランをはじめた時は,文字通り私達は何の経験もないところから出発をした。仕事に慣れないこともあり,ちょっと忙しいと十時過ぎまで子供達に夕飯をあげられないような生活だった。小学2年の長男を頭に保育園に通う妹と弟,三人の子供には随分とつらい思いをさせてしまった。

6-1-2.寿(ことぶき)での体験
 レストランをはじめてみたものの,なけなしの身で始めたから毎月の工務店への支払いが借金となって増えていった。半年程たって、店も落ち着き出し,私自身何か他のことをやって稼がないといけないと思い始めた。ちょうど「マダン」という雑誌を発行していた大先輩の店で人手が足りないというので,働きに行った。居酒屋とバーというかクラブというかニ軒つづいた飲み屋で,そこで主任のような仕事をした。「水商売」に勤める女の人達から学んだことは多い。カラオケのセットをしたり,客と一緒に歌ったり,話したりしては,居酒屋に回り,生ビールを運んだ。

 その後リ-ズハウスに戻ったが,学園で私の後任として主事になったSが主事を辞め,オモニの焼き肉の店を自分がやっていくことになったというので相談に来た。私は惣菜の店やレストランを始めるとき,多くの店を見て回ったし,本も読み,自分なりの意見は持っていた。Sに助言するうちに,わたしも一緒にやろうということになった。彼は有限会社をつくり,名前を「マダン」とした。広場という韓国語である。私は雑誌「マダン」をつくった大先輩を尊敬していた。独学で針を学んだK氏や画家の0氏らは,生活に全力で取組みながら民族の動向にも熱い思いをもつ,在野の知識人であった。O氏の店で義母はしばらくハンバーグつくり等の見習いをしたことがあった。彼もまた生活の為に御夫婦で店を始めたのであった。O氏は私達の為に、Sの店の看板を達筆な字で描いてくれた。

 Sの店は横浜の寿町にあった。私達は夢を持ち,店の改装をし、商売を始めた。はじめは家から通っていたがそのうち,寿町の木賃宿(二畳)に寝泊まりした。そこでは自分はどうして家族や店を離れてここにいるのかと思いながら,とても澄んだ気持ちで聖書とマルクスを読んだ記憶が蘇る。住民と話すうち,彼らが怠け者で働く気がないからそんな所に住むしかないのだというのが,全くの偏見であることがよく分かるようになった。私は店にくる人達と親しくなった。同胞も多く,アイヌだという人もいた。Fという写真雑誌に,その町の住人はどうしようもない怠け者の「のんべー」で,その人達を搾取しているのが木賃宿の持ち主である朝鮮人だという記事がでた。私達は地域の組合の人達や多くの住人と出版社に抗議に行った。地域集会も持った。コンサ-トもした。私は実に楽しい時をすごした。私は日本社会の底辺を生きる民衆の実態に触れたように思った。

 しかし店はあまりよくなく、朝早くからラーメンをつくり,職を求めて集まって来る人達へ呼び込みをしたこともあったが,これ以上居るのはお互いの為によくないと思い,店を出ることにした。しかしSは店の失敗によって私に対する不信を持ち始めたようだ。後で店舗改装が手抜き工事であるとわかったらしいが,それに私が噛んでいたのではないか(バックマージンをもらっていた?)。私は業者を紹介はしたが,一切関知していない。私が嘘をついて自分に近づいてきたのではないか。私は自分の担ってきた重荷や苦しみをあまりに率直にSに語っただけである。全力を尽くしたがどうしようもなかった。Sは店の失敗による損失を私にも負担させたかったようだが,給料もでず,店もそのまま残るうえ,売上げと経費が全く定かでないことを理由に私が応じなかったのが,Sの不満として残ったようだ。私達には熱い思いはあったが,力がなかったのだ。私は一日も早くSと信頼関係を戻したいと願っている。

6-1-3.いろんな商売の体験
 毎月の決まった返済をしなければならない私は焦って,教会に来ていたKに相談に行った。Kは同じ位の年でしっかり者だった。家の事情で早くから独立を競い,信念を持って金融の商売をしていた。私はSに対してもそうだが,彼にも家の事情を全て話し,協力を仰いだ。同胞の同業者に出ていってもらう為の内容証明書等も彼から助言してもらった。Kは布団の商売をやるので一緒にしようと誘ってくれた。組織販売というもので,私が自分の組織をつくりながら布団を売り,彼から一定のマージンを貰う仕組みだった。しかしいくらがんばってもそのマージン率では借金の返済と生活費のでないことがわかったのでKと交渉し,共同でやる場合の原則を記した詳細な手紙もだしたが,確たる返事はもらえなかった。

 彼はがんばればそのうち面倒はみてやるという気持ちだったのだろう。いや,彼のことだから間違いなく待っていればそうしてくれただろう。しかし、私はそのような依存は嫌だった。そして彼のところを出た。 妻は私を理解してくれたが,相手の土俵に上がりいくらあるべき論を言ってもそれは所詮,仕方がないではないかと言うので,うなずく他はなかった。私にあるのは行動力と熱い思いだけで,他に何もないのだから。自分の思いついたアイデア(磁石を敷いたマットに羽毛を入れ高級品にした)で大阪の布団の老舗メ-カを訪ね、商品開発を依頼した。

 普通,新規の取引では商品生産に際して担保を要求されるのだが,私は何もなかった。彼らはびっくりしていたが,一緒に開発した部長が私を信用してくれ,会社に保証するといってくれたので,取引が始まることになった(八二年)。私は九州、奄美大島、沖縄、四国,大阪と飛び回り,セールスをした。そして三年で借金を全て返済した。この間会社はつぶれなかったが,保証協会が銀行への返済の肩代わりをしてくれるようになっていたので,金融磯関はどこも私の会社を相手にしてくれず,鉄屑回収をやめた後は,借入れなしで新しいことをしておかねを稼がないといけないというむつかしい立場にあった。しかし保証協会への返済の後は,あらたに銀行との取引が可能になった。

 私は次のビジネスの機会を待った。 ある日,義母の韓国の友人の紹介で,レジャーテーブルという椅子が中に折り込まれていながら,アタッシュケ-スふたつ分くらいの大きさで開けるとテーブルと四つの椅子が出る、素晴らしいアイデア商品を見た。私は韓国のC社長に日本での独占販売権が欲しいと頼んだ。それまでそんなことを販売した経験もなかったし,販売ルートもまったくなかったが,何か,やれそうな気がした。レジャーに対する関心が高まっているのを知っていたから,それを一般のレジャー商品のルートでなく,自分自身の販売ル-トをもっていながら何か新しい商品を求めている会社に売ろうとターゲットを絞った。

 狙いは当たり,私は地区毎の総販売代理店を決め,全て前金で四十フィートコンテナ分のレジャーテーブル代金をもらった。銀行はまだ与信によるLC開設を認めてくれなかったので,韓国から商品を仕入れるには現金を積むしかなかったからである。ライバル商品はなかったので,価格もこちらで設定した。順調に推移したが,夏以降はどうすればいいのかと考えると,急に心配になり,何か新しい商材を見つけねばならず,何の当てもなく一人でロスアンジェルスのギフトショ-に飛ぶことにした。I大学で学んだ英語がここで役にたったのである。案の定、夏以降に類似品が出回り,価格は急落下した。しかし、私は春に全てを売り終えそれ以降の仕入れはおこしていなかった。

 ロスの会場でクマのぬいぐるみがそのままリュックサックになっている商品を見て、私はまたしても,いけると思った。玩具の流通に関してはまったくわからなかったが,何故か売れると思った。高島屋のバイヤーも関心があると来ていたが,そこはちいさくとも一国の主,私はその場でコンテナ分を買い取る約束をした。契約は成立で,日本での独占販売権をとった。そのぬいぐるみは韓国製で,アメリカのデザイナーが韓国で委託生産していた。私はロイヤルティーの支払いを約束して,自分で輸入すべくソウルへ飛んだ。銀行は現金を積まなくともLCの開設をしてくれるようになっていた。日本での販売ルートは知人の紹介で,玩具ははじめての会社を選んだ。

 外車販売では日本一のYも私達のグループになった。ところがいざ販売をはじめる準備をしていると,同じ商品が台湾から来ていることが判明した。韓国製と台湾製がそれぞれ日本での独占販売権をめぐって争うことになる。こちらの弁護士は日立の時の弁護士であり,偶然にもYの弁護士は一番最初に[囲む会]で「日本人とかわらないのに」という論理を批判されて辞めていった人だった。私達は再会を喜び,楽しく裁判をした。結果はこちらの望む条件での和解で,「快勝」であった。リュックサックのぬいぐるみそのものはたいして売れなかったが,それを日本市場向けに改良した商品が大ヒットになった。 この商品をきっかけにして,ぬいぐるみを本格的に扱うようになった。韓国へは頻繁に飛び,そこで嫌がうえでも,品質管理の問題に取り組まざるを得なくなり,また日本では日本的な慣習と格闘することになる。私は事業を通して,両国のそれぞれの問題点と,共存していくことのいかにむつかしいかということを,知っていくようになる。

6-1-4.地域のお母さんによる青丘社への問題提起
 このように日々の糧を求めて悪戦苦闘をしていたが、私は運営委員長として,S保育園・学園を核とする私たちの運動体が民族差別と闘う砦としてどうなっていかなければならないのかをめぐって議論をたたかわし,主事達の尻を叩き激励していた。しかし実社会で働きはじめた私は,「運動体l としてお母さん達を啓蒙しなければならないという使命感をもつ保育園に徐々に,違和感を感じはじめていた。その使命感で,地域の住民から学ぼうとするより,上から教えようとする体質(組織)になってきているのではないかと感じるようになったからである。お母さん達の思いや苦しみ,心配を聞き一緒にそれらを解決していこうとするより,子供の問題点を指摘したり,遅刻する親(私達も店をやりはじめてからは常習犯だった)に厳しくなっているのが目につきだした。親は子供を預かってもらっている立場から保育園には面と向かっては何もいえなかったが,様々な思いをもっているようだった。

 しかし同胞のYが父母会の会長として民族差別を父母会の中で考えていく活動をはじめると,彼女は途端に回りから浮き上がってしまわざるをえなかった。そこでお母さん達の本音を聞き始めた。民族差別と闘うというスローガンが先行して実質的な保育は深められていないのではないかとか,字やハーモニカ等も教えてほしいと言ったら,ここは(キリスト教精神で)「器」つくりをするからそういうことを望む人は他の保育園にいってくれと言われた等々の不満がでてきた。Yを中心として地域の父母の声を保育園に反映させる為の努力がなされていった(私の妻も彼女達の思いを元保母として理解し園側に伝えようとした)が,保育園側はそれらを園にたいする批判として受けとめ,反発した。

ついにお母さん達は五人の連名(妻もはいっている)で呼びかけ文をつくり,自分たちの気持ちを聞いてほしいと,集会までもつようになった(八十年 129)。私は,とにもかくにも彼女達の言い分を聞き,S保育園・学園全体が絶えず地域住民の声を聞いていく体質にならなければならないと判断した。また牧師が園長と兼任で園にボランティアーのように関わるのではなく、園は園長が責任をもって、専門職として、保育内容を深めることや地域の住民を受けとめていく体制を作るべきであると考えた。 運営委員会の一任を受けて,お母さん達の批判をどう考えるかを委員会として提示する為,私はできるだけ多くの人達と会い,彼らの受けとめ方を聞くことになった。仕事の合間に,主事や青年達と精力的に会い,お母さん達の批判を受けとめることの重要性を説いたが,かえって噂や誤解が渦巻くようになり、私は彼らからの糾弾を受ける羽目になった。

 お母さん達の集会が決まった前日である。園長を含め,彼らは私がお母さん達をたきつけやらせていると考えた。そしてその集会のあとも,地域の住民と一緒になって保育園・学園のあり方が検討されるのでなく,自分たちだけで内部かため(「仲間つくり」)が模索されていった。理事会は突然,何の総括もなく,多数決で運営委員会の解散(委員長の解任か定かでない)を強行した(8337)。私は「運動体」を去った。私は日々の糧を求め苦悶した。私が「運動体」を去ったことは,残った青年達が自立していくためにも,そして私自身の生活上の自立のためにも,かえってよかったのかもしれないと今は思っている。事実、青年達はこの後、K市において指紋押捺拒否闘争のみならず、地域活動の面でも行政との全面的な協力関係の中で、地域住民の協力を得ながら、S学園をさらに大きくした規模で市の委託事業としてF会館を運営するようになっている。

6-2.韓国と日本の間のビジネスで思ったこと
6-2-1.ぬいぐるみ製造を通して見えた日本社会の問題点
 私はぬいぐるみの仕事の為に頻繁に韓国に行くようになった。留学後さびついた語学力も復活し、拙いながら韓国語でお互いのやりとりをするようになった。 私達は東京や神戸でのギフトショウに出展し,顧客獲得をめざした。資金力のない私は自分の商品を持ち(在庫し)販売するということはできなかった。自分独自の企画でというよりは,お客の希望に合わせてサンプルを作り,それを見せていいということであれば注文をもらい,同時にこちらも韓国に発注するという形をとらざるをえなかったのである。幸いにして注文そのものがとぎれることはなかったが,なかなか継続したビジネスというものはなく,絶えず次の発注獲得をめざして営業努力をするしかなかった。

 注文を受けたものを発注して生産し,それを輸入してお客に一括納入する訳だから,基本的には商品さえサンプル通り,決められた納期までに納入すれば何の問題もなく,リスクのないビジネスなのだが,これが「事故」の連続であった。顔がゆがんでいる、穴があいている(縫製不良)、糸がでている,ラベルがない,針が人ってあった,数が足りない、納期が遅れる,ダンボール箱に書いてある商品名が違う(「ン」と「ソ」は韓国人には区別がつきにくいらしく,『ーークン』の「ク」のあとの「ン」が「ソ」になっていて大問題になったことがある),サンプルと違う等々。よっぽど日本の会社のミスであるということがはっきりしていなければ,こちらのミスになる。納期が遅れることを了解してくれるバイヤ-もいたが,次の仕事はやれないということを匂わされ,結局,全量飛行磯で運ぶというのはしょっちゅうであった。

 工場の現場では,納期に間に合わせる為,遅くまで時には徹夜をしておばさん達が仕事をしている。ぬいぐるみというのは,ほぼ全て手作りで労働集的型産業の典型のようなものなのだが,これで原反の種類は多く,目や鼻,それに洋服となると産業の裾野が広くないとできない。韓国の社長は平身低頭,今度から気をつける,二度と同じ間違いはおこさないようによく注意すると繰り返す。どうしてこんなことがと思うことも多かったが,私はこの商品不良ひとつとっても両国間において,簡単に解決できない問題があるということに気付いていった。 柳田邦夫の本を読み,「事故」とは単なるミスによって引き起こされるのではなく,その背後に深い社会的な問題が潜んでいるという氏の理解の仕方に共鳴した。 ある日,アメリカの会社の発注のしかた(仕様,納期,計画性)を知り,驚愕した。韓国と日本の間だけで,どっちが悪い,気をつけようということばかりを言い合っていたのでは何も生産的なことにはなりえないということを知った。そこでは両国を相対的に見る視座が必要になってくる。

 その視座(国際的常識といってもよいだろう)によって,日本と韓国がそれぞれどういう問題をもっているのかを知り,両国間の関係のありかたが現在の水準のままで議論されるのではなく,互いの問題を深める中で,新たな次元で論議されなければならないように思える。例えば,アメリカの仕様書は実に細かく,サイズ,色,原反の質が指定されてあった。これであれば誰が見てもまちがいようがないであろう。ところが日本の場合,すこし可愛くとか,すこし小さくという指示が入る。これはまことに主観的で,人によって異なることはいうまでもない。この暖味さが誤解を生み,生産の遅れや不良品の遠因になる。どうしてそうなのか。それは、日本人は以心伝心でお互いわかりあえると思っているからであろうか。相手にわかってもらうことを前提に論理的に話すのでなくても,自分の感じていることはわかるだろうというのである。しかし実際そうであろうか。

 私は日本で自分の工場をもつ実際の零細メーカー(日本のメーカーは多くの場合,自分の工場をもたず,企画をして他会社に発注し,自分の会社名で販売する)は随分と泣かされてきたのだと思う。子会社は親会社の顔色を伺い,明確な指示がなくても,かれらの意向を察知しなければならない。親会社と子会社の関係,或いは注文をする会社と受ける会社は日本では対等ではない。それを多くの日本人バイヤーは,自分たちは注文してやっているのであるから,外国人(韓国人)が自分たちを理解すべきだと思っている。しかし変わるべきは誰なのか。日本での慣習をそのまま海外にまでもちこみ,何ら疑問におもわないところが既に,国際的な常識からしておかしい。特殊日本的と言われる所以である。オーダーをくれる日本人バイヤーに過度な接待をする方も、それを受ける(要求する)方も,基本的に両者が対等なピジネスパートナーであると認識していないから,そういう馬鹿げたことをするのである。いや実際は対等でない力関係の存在とグレーゾーンの多い日本の商習慣が日本で過度の接待の慣習を生み,それが海外にまでもちこまれたと私は見る。

 また日本の発注は,量がすくなく,納期が短い、値切る,計画注がない。これはメーカーにとっては最悪の客である。しかし仕事がほしいからどうしても受けてしまうことになる。納期が短いと急いで仕事をするので不良品がでやすくなる。徹夜でこんな手仕事をやりつづけて,ミスを犯すなという方が無理というものだ。発注量が少ないというのは慎重であるということではない。それは計画的な発注ができないということと関係している。従って急に人気がでてきたから大量に作ってくれというのも同じことである。それらは全て日本側の都合なのである。小売り,問屋,メーカーと流通のチャンネルが長く,市場動向を正確に把握するシステムをもたないから,どこも責任をもって発注できない。勘に頼るか,売ってみないとわからないとして逃げてしまう。ここに計画性がなく,間際になって発注するから納期も短く、発注量がすくなく値段を叩いてくる要因がある。何段階かのクッションを通すからよっぽど安く買わないととんでもない高いものになってしまうのだ。

 日本の流通システムがこのままで,市場動向を正確に読むシステムをつくろうとしない限り,日本は韓国のみならずどの国とでもうまく仕事ができないだろう。計画的な発注ができないというのは,あくまでも販売者に本当の力がないからなのだ。計画的な発注をすることによって,メーカーも合理的なコストダウンが可能になり,価格もまた競争力あるものになってくる。 このようにして不良品の責任は全てメーカーにあると思われやすいが,日本社会のあり方が関係しているのである。この問題をもう少し深く捉えると,「特殊日本的」といわれていることの問題点がさらに浮き彫りにされてくるように思える。私はシステムの問題を強調したが,実はそれは人間関係,個人のあり方と関係していると思えてならない。システムを運用しているのは人間なのであって,個が尊重される社会風土であれば,会社対会社の関係にあって、あるいは会社内の人間関係にあっても対等な関係が尊重される筈である。

 会社間で節度が守られないのは個の尊重という前提がないからである。発注する親会社が江戸時代の藩主のように町全体を子会社化し,町の名前に会社の名までつけてしまうようなことは世界どこにでもある訳ではない。そしてその親会社が選挙の候補者を推し、全会社員、全子会社にその候補者を(それも組合まで一緒になって)押しつけるというのは,世界の常識からして異常である。単身赴任の問題,女性の地位の低いこと,企業が常識をわきまえないこと(公害はその最たるもの),そして個が過剰な忠誠を会社に誓い常識はずれな行動をすること(或いは会社が個人にそのような忠誠を求めること,例えば産業スパイや贈賄),私はこれらのことは全て日本社会が個を尊重しない,個が自立していない証拠であると理解するようになった。(韓国がこの日本の悪慣習をそのまま受容し、更に韓国風に悪化させていることは、実情を知る読者は理解されるであろう)

6-2-2.ぬいぐるみ製造を通して見えた韓国社会の問題点
 一方,韓国の方はどうなのか。先に記したように,不良品が発生したときの社長の言い訳は判をおしたようにひとつであった。今後,気をつけるというのである。それでは今回は気をつけていなかったのか。そうではない。あんなに一生懸命おばさん達はやっていたではないか。働く者の質が悪くなったというのがいつも聞かされる言いぐさであり,会社に対する忠誠心がないということや、「民族性」を変えなければならないというように絶えず労働者に対する「精神論」が強調されるが,私には経営者のマネージメント能力と労働に対する考え方に間題があるのではないかと思える。不良品がでるというのは,買っていくバイヤーにとっても損失であるばかりか,メーカーにとってもそうである。メーカーとは誰か,損をするのは社長だけなのか。

 一番基本的なことだが,働くおばさん達はぬいぐるみを作ってくれる単なる労働力とみるところに最大の問題がある。あんなに一生懸命働いた結果が不良品であったということは,かれらは無駄な労働をしたことになる。それは金銭的な意味ではない。いくら生活のため働いているとしても(誰でも日々の糧を得るには働くのだから),自分のやったことが意味のないことであったとしたら,汗をかき努力したことが物を作った喜びになっていかないのだとしたら,自分は流れ作業の中の一歯車だということを認めることになってしまう。経営者は労働者に対する金銭的保証は当たり前のこと,かれらに作る喜び、参加する喜び、労働する喜びを与える義務がある。人間としての対応をしなければならない。

 経営者は労働者の為にも不良品を作らないよう,全力をつくす義務がある。 あのおばさん達をまず信じることである。そして社長自らがまず労働の現場に立たなければならない。彼らと一緒になってよりよい商品(買ってくれる消費者に喜んでもらえるような)、競争力ある商品を作るにはどうすればいいのか考え,意見を求め,彼らの能力を充分に発揮できるようにし、そして努力が報われるように成果(金銭)をわかちあう必要あると痛感した。まず韓国で朝礼を含め,働く人のミーティングを見たことがない。不良品の問題の根底には、経営者の働く人に対する捉え方、価値観の問題があると私は理解した。不良品をださないようにするには検査体制を強化することであるというのが,圧倒的多くの経営者の考え方であった。利益をだすにはまず,できるだけ量をつくらせなければならないのである。

 見積り価格の計算は驚くべき曖昧な根拠であり,原材料の算出のうえであとは勘だけである。そこから計算された一日の予定数量を越えれば利益と考える。現在の中国の生産方式もことぬいぐるみに関しては,韓国で完成させられたものであろう。それほど韓国はぬいぐるみに強い国である。(韓国国内での生産は激減したが,それでも中国、インドネシア,フィリピン等で韓国の会社が生産する量、 技術は世界のトップであると言って過言ではない)。その思考は統一されている。しかし私はこの思考方法の中に既に,働く人の自発性を認めず,単なる労動力としてしか扱わない原因があるのだと思えてならない。そしてこの考え方を持つかぎり,不良品の問題は解決されないであろう。

 個人が自発的にミスをなくしていく努力をすれば,そしてそれを会社全体のシステムにまでもっていくことができれば,付加価値を生まない検査員は必要なくなる。いや,最小限ですむ。しかし,誰ひとりこの考え方に同意した人はいなかった。 資本主義社会で個の労動がどのようにあるべきなのかは,未だどこにおいても解決されていない問題ではある。労働そのものに喜びが見出せるように労働環境から,通勤方法,住宅取得,利益金の分配方法等がヨーロッパで模索されていると聞く(内橋克人)。全体性を回復する為,流れ作業方式から少人数で完成していくターンテーブル方式も実際導入されている。しかし韓国の経営者の働く人たちへの対応を見る限り,私にはそれ以前の問題として,基本的に個の尊重というものがない社会ではないかと思わざるをえない。白丁という差別用語があることは周知の事実である。

 J道という地域の人達がソウルにおいて偏見の目でみられていることはみんなが知っている。事務職より現場の人間の方が低く見られていることは何度も目撃している。飲食業,特に(教会が多い所為か)「水商売」に従事していると一段,下劣な人間とみられる。教会の役員にならせたがらないというのは教会員であればだれでも覚えがあるであろう。離婚した女性,子供の生めない女性そして身体障害者の人権はどうなっているのか。日本に沢山くるようになった「水商売」の女性には,このような韓国社会の差別があるからだと論破した本さえだされている(呉善花)。韓国にも中近東から十万人以上の労働者がくるようになったと聞く。彼らの人権が憂慮される。黒人に対する露骨な差別用語は当然視されている。工場、会社を問わず教会を含めたどのような集団においても、職責にもとづいて下の者を見下す権威主義が目につく。

 この権威主義こそ個を尊重せず他者を抑圧する、否定されるべきものであるということは強く強調されなければならない。私は韓国での不良品の問題は,各現場の合理化や「精神の訓練」では解決しえない,個の尊重という次元まで掘り下げないといけない問題であると理解した。 結果的には十年,私は韓国のメーカーと取引をしたが,事業としては成功しなかった。私には彼らに継続的に発注していく力がつかなかった。できるだけ彼らの立場に立って,日本のバイヤーにも言うべきことは言ってきたつもりであったが,彼らの目には私も同じ[日本人]と映っていたのかもしれない。彼らにとって発注量が少なく,納期が短く,計画性がなく,細かいことにうるさい[日本人]だと見られていたことだろう。しかし私は力不足であったが,わたし自身は韓国でー緒に仕事をした人すべてに感謝をしている。

 私に対する莫大な負債がありながら会社をつぶして逃げた人もいる,私に不満を感じている人もいるであろう,私の為に働いてくれた現地スタッフもいた,エージェントとして働いてくれた人もいる,何よりも私のために働いてくれた多くのおばさんたち,そして社長さんたち,みなさん,ありがとう。私を含め,悪意の人はだれもいなかった。私には楽しく仕事をしたという思いだけが残っている。韓国との十年に亘るビジネスを通して,特に不良品の原因を探る中から見えてきたことを記したが,結論としては,韓国と日本それぞれにおいて個を尊重しない風土であるところに根本的な原因があるのではないかということであった。基本的に個を尊重しない社会同士がまともな関係をつくれる筈がない。

 私の視点からすると,両国の関係がいびつで「歪められた民族観」が克服されないのはどちらか一方の国の責任であったり,政治家の責任だけに帰せられる問題ではない。それは両国のあり方の問題であり,それぞれにおいて個が尊重され,個が自立していく確固たる社会になっていないからなのである。最近,韓国でベストセラーになった本が『日本はない』(日本から学ぶものはない)であると知り,苦笑せざるをえなかった。どこかで聞いた台詞だからである。それは日本がバブルの真っ最中に,品質管理,マネージメントあらゆる方面で,もうアメリカから学ぶものは何もないと言っていたからである。案の定,バブルの崩壊と共に「アメリカはない」と言っていた人達は世界の笑い者になった。「カンバン方式」は徹底的に研究され、品質管理は日本の専売特許ではない。また労働生産性も日本が世界のトップではない。

 半導体(メモリー)に顕著なように,日本が得意としてきたことは,規格品を大量生産することによって安い商品をつくり世界での占有率を高めることであった。そして世界のほぼ独占状態をつくり,ライバル会社を叩きつぶす。その為には圧倒的な設備投資をしなければならないのだが,それが可能だったのは土地の値上がりによる含み資産の増大と株価の値上がりであった。上地と株は絶えず右肩上がりと信じられていたのである。しかし世界の常識から見て異常でない価格になったとき(株価も土地も下がった時)、バブルの崩壊といわれだしたのである。しかもそのような圧倒的なシェアーを誇っても生産設備への過度な投資が足を引っ張り、利益がさほど出ない体質になっている。だが、設備投資を続けないとシェアーを保てない。悪循環である。最も利益率の高いコンピューターの頭脳にあたる半導体(MPU)はアメリカにほぼ独占されている。このような構造であったにもかかわらず,バブルの上で,日本の経済人は「アメリカはない」と豪語していたのである。

 またアメリカの場合,会社のある地域での人種の割合に応じて,採用される社員の割合が決められている。有名大学を出た「優秀な」人間だけが選ばれている訳ではない。当然のこととして,一定の割合で選ばれた人達を教育するのにコストはかかるだろう。それは会社の義務として,世界の常識に従い,当然のこととして商品価格のなかに含まれている。その価格におけるハンディキャップを必要な社会コストとして認識している社会と,低価格だけを追求する社会のどっちが個を尊重する社会であろうか。この世は競争原理で動いている。しかし地域社会への貢献を考慮しない、経済効率だけを求める社会が変革されなければならないことは言うまでもない。

 社員教育では,会社の歌を歌わせ,研修を受けさせ,個性を延ばすよりは,会社に役立つ人間が作られていく。マラソンや寒中水泳、「地獄のしごき」。徹底的に自尊心をなくし,会社への忠誠心をもつ社員をつくろうとする。それは戦前の日本の軍隊方式である。韓国でも会社への忠誠心を求める訓練がなされているらしい。このような個を尊重しない社会であるため,会社対会社や会社内の人間の関係もまたいびつにならざるをえないだろう。下請け,子会社は発注会社或いは親会社への従属を強いられる。学校はどうであろうか。すべての学生が入れる訳でもないのに,いい中学,高校,大学をめざした知識の詰め込みを強制され,それでも足りなくて塾通いが当然視される。「落ちこばれ」が必然的に生まれてくる。一人ひとりの個性を尊重しのばしていく教育になっていない。障害ある子も楽しく共同生活していく環境になっていない。社会がそうなっていないからである。

 どうして韓国と日本はかくも酷似しているのであろうか! 脆弱な経済基繋の上で一般大衆は決して豊かでないのに,中流だと思わされ,「学ぶものはない」と不遜なことを言いだす。文化の流入は防ごうとしながら、韓国は日本の最も克服されなければならない面をしっかりそのまま受入れてしまっている。 韓国と日本の交流の新しいあり方は,両国において個がいかに尊重されていないかを自分の間尺でなく世界の間尺に照らして直視し,それぞれが変革されていくなかで期待される将来の課題である。両国において,個の自立,個の尊重を徹底させる不断の闘いが社会を変革していく。そこではもはや一部の「活動家」や l運動家」の「運動」ではなく,家庭,職場やあらゆる領域において一人ひとりが個の自立を求めて生きるしかない。韓国と日本の新しい関係もここからはじまる。

7.最後に
 私はこれまでニ回、リコールをされた。第一回目は、日立闘争に参加しながら、在日朝鮮人として閉鎖的な日本社会に入って日本社会を変革していくことを提言したときであった。それは同化に連なるとしてリコールされたのである。その提言における批判の対象は日本社会であった。今や時代は変わり、本名で生きることや民族差別は許されないということは一定の社会の常識になりつつある。それでも「歪められた民族観」が現存している日本社会にあっては、本名で生きるということは当事者にとって決して簡単なことではない。また個別の差別事件が後を絶たないということも当然であろう。従って、開かれた社会をめざして日本が絶えず問われている状況であることは変わりがない。それでは問題提起をしてきた当事者である私たち自身は、自分の生き方をどこで問われるのだろうか。

 第二回目のりコールは、問題提起する側のあり方を私が批判しだしたときに起こった。民族差別と闘うことを標榜し、その闘いの為につくられた砦(組織)であったのに地域のお母さんたちから批判を受けたとき、彼女たちと共に考え、彼女たちから学んでいくというようにはならず、反発して彼女たちを受けとめようとはしなかった。民族運動、民衆運動をめざしながらも、一旦組織ができあがると、個よりも組織が優先され、スローガンは実体化されるよりますます観念化される。大義名分は絶えず民衆の生活において批判に晒されるべきである。組織は成果を誇示するより、できていないことを明らかにしていき、現実から謙虚に学び自己検証をしなければならない。これからは益々在日朝鮮人の日本での定着化が進む。エレミヤが補囚の民となった同胞に勧めたように、私達も日本人と共にこの地にあって仲良く生きていかねばならないということは言うまでもない。

 地域住民として日本人と同じ権利が保証されていくというのも時代の流れである。誰もその流れを止めることはできない。しかし肝心なのは流れに沿って作られる制度それ自体ではなく、中身・実態である。私の提言は問題提起する側、運動を提唱する側のあり方こそ、厳しく検証されなければならないということになっていく。いかなる大義名分、建前があっても、まず個の自立、個の尊重が保証されているのか、この点こそがすべての大前提にならなければならない。定着化の中で私たちもこの地で選挙権を持つようになるというのも時代の流れであろう。南北統一によって更にこの流れは加速されるだろう。しかしそこに落とし穴はないのか、ひとつの視点を提示してみたい。

 最近とみに日本社会のあり方として,また在日朝鮮人のあり方として,定住外国人の地方参政権が強調されるようになってきている。しかしその制度そのものが「民主主義」の建前から遠く離れ機能していないという実態を踏まえて語られることはない。地方参政権は「国際化」や「共生」をめざした、「民主主義的」制度の創設ということになるのであろう。在日韓国人が同じ税金を払いながらも(日本人と同じ)権利がないのはおかしい,(日本人と)共に生きる社会をつくろう。また日本のマスコミは地方の時代を強調する。

 しかし,日本の議会制民主主義そのものの実態はー体どのようなものであるのか,この最も根源的な問題を建前に惑わされることなく,しっかり見つめる必要がある。戦犯の政治家が首相になり,収賄で逮捕された元首相が歴代首相を操ってきた。旧社会党を除き今のニ大政党はその闇首相を支えてきた人達が中心になり(立花 隆),社会党は批判勢力であることをやめてその中心勢力と結託した。官僚と一緒になりながら,党利党略で政治が動かされている。どこに国民の意思が反映されているのであろうか。それは国政レベルのことであって地方政治は別なのであろうか。日本の地方自治体は三割自治で,基本的に中央の拘束を受けざるをえない構造になっており、欧米とは全く異なっている(大前研一)

 与野党の混乱で党利党略が横行し、候補者が各党の「談合」で決められ,国民が選挙で選ぶ余地がますますなくなってきている。まさに戦後の議会制民主主義はその建前にもかかわらず,国と地方の両方において、根底から問われている。また日韓議連に参加する日本の代議士の多くは戦争責任の明確化には反対しながら、定住外国人の参政権には賛成している。このような時に,戦争責任さえ曖昧にされていっているのに定住外国人の地方参政権のことだけが,共生というもっともらしい正論の上だけで,急展開されていいのだろうか。

 日本の各党派はこれまでの在日朝鮮人の置かれている実態を無視してきた経緯からして、「共生」とは言うものの、私たちを票田と金づるの対象としか見ていないのではないだろうか。一方私たち在日朝鮮人同胞の側で、疎外されてきた権利の獲得を主張するということ以外、日本の問題の多い議会制民主主義という政治制度を受容していく準備はなされているのであろうか。私たちのふたつの組織は大衆組織とされているが、実態はそれぞれが本国の出先機関であり、ひとつの組織は在外公民として日本の参政権を徹底して拒んでいるしひとつは組織をあげ参政権獲得を政治目標としている。参政権は何を求めて、何を実現しようとして要求されているのだろうか。

 大衆組織が同胞の中からいかなる手続きを経て組織全体のスローガンにしていったのか、どうしてそのことを韓国政府はバックアップをするのか私にはわからない。組織をあげて日本の政治団体に働きかけをするのであれば、植民地支記が誤りであったことが日本社会のコンセンサスになるように働きかけることと、同胞の生活実態の向上に役立つこと(その第一は就職であろう。しかし両国外相は同胞の地方国家公務員への就職と昇級に制限を加えることに同意し、教師になるのに日本人と対等でないことを認めている)そして同胞に対するいかなる差別も許さないという毅然とした態度を示すことではないだろうか。参政権のない今でも、日本の選挙の時には裏で同胞組織が一定の政治団体か政治家を支援している等とまことしやかに巷間語られている。

 私は,私達の地方選挙への参加が日本社会の変革につながるのではなく,今の日本の政治風土と同胞組織の体質を考えるとき,金権政治が顔を効かし,間違いなく党との癒着問題がおこり,結果として日本の党利党略に利用されてさらに日本の政治風土を悪化させるということを予見する。私達自身が在外公民を主張する組織と、全面的に参政権を取得しようという組織に分かれ大きくふたつに分断されながら、ますます日本の党利党略の渦の中にまきこまれていく。残念ながら,在日朝鮮人民衆はさらに疎外されていくだろう。しばらく時間が必要なのではないだろうか。日本では地方自治のあり方が税制を含めて全面的に見直されるべきであるし、私たちの側は参政権とは被参政権まで含めるのか(在外公民を主張する組織では本国の国会議員になっている)、同胞大衆と既成組織の関係のあり方等々をしっかり考えなければならないだろう。

 それらの組織は民族団体であっても民衆のための組織であったのだろうか。旅券発行や本国の家族を楯にとって、本国の権威に楯突く者、反対意見をもつ者を抑圧してこなかっただろうか。同胞大衆に仕えることを本来の役割とせず、むしろ金づると政治的利用主義の対象としてこなかっただろうか。私自身は南北の統一を念頭に置いて、その統一政府と日本政府が植民地支記に対する相互の見解を明確に共有化してから、それまでは参政権のことを論議しつくした上で具体化されればいいと考えている。もしそれまでに決定されるのであれば、私は最低限、既成民族団体において日本の党と癒着がないよう、組織を利用して一定の個人や政党を支援することにならないよう、どのような自制がなされるべきなのかのしっかりした原則を確立すべきであると強く思う。民衆個個の自立的な判断が尊重されるために。

 私は先に,日立闘争のあと地域の実態を知れば知る程,民族差別とは制度ではなく,生活実態であることを思い知らされるようになったと記した。ところが既成民族団体は制度を変えることが差別をなくすのだと捉え,一斉に行政闘争をはじめた。しかし日立闘争や弁護士資格の獲得,或いは東京の保健婦で国籍を理由に管理職試験を拒否された鄭香均さんの闘い(読売新聞、94917)は同胞の生活権の問題であり,それは生活実態を変革していく闘いとして位置付けられなければならない。このふたつは似ているようでありながら、闘いの方向が全く違う。前者が制度悪のみを問題にするのに対して、後者は人間の自立を求める闘いであるから制度を問題にしつつも,絶えず自らの生き方,あり方を問う。勝ち取ればいいのではない。差別的な制度を支える「歪められた民族観」は,制度悪を問うこちら側にもあるのだ。私たち自身、そして私達の属する組機の中にある事大主義、権威主義と闘わず、どうして社会の変革がなされていくだろうか。「歪められた民族観」の克服は、民族主義の鼓舞や国家の繁栄によってなされるものではない。それは不断の自立を求め、他者の自立を尊重する闘いを通してしか実現されえない。

 日立闘争は,70年代において社会のあり方を厳しく問いながら,実は自己の生き方を問う運動であった。ところが80年代の指紋押捺拒否闘争は制度の撤廃という方向に矛先を向けるようになり,闘いの規模は大きくなったがその深まりには限度があったと私は見る。その時期はバブルの真っ直中で,日本国民が(そして在日同胞も)中流意識なるものを持ち始めた時期であった。制度だけを云々するときには生活実態が見えてこない。そこでは徹底して自己のあり方が問われることがなく,「運動」が優先される。

90年代,市民運動が低迷する中でバブルがはじけた。中流意識なるものの実態が暴露された。豊かなのは国家と会社だけで,個人は貧しいという実感は誰もが正しく持ち始めた。しかしその会社も土地と株に依存したツケが回り,おかしくなっている。私は、地方参政権は、指紋押捺闘争の次の課題として、制度の問題として大々的に取り上げられていると理解している。しかし制度に過度の期待は禁物である。せめて日本人並という心情は分からない訳ではない。

 しかし良心ある日本人自身、日本の議会制民主主義の問題性をしっかり感じているはずである。制度によっては生活の実態はかわらない。このような時にこそ,同じようにバブルの恩恵を受けてきた在日朝鮮人はしっかり自分の足下を直視し,地に足をつけた生活をする為に,生活実態を変えていき大義名分に踊るのではなく、その中身をしっかり捉える当事者(主体)になっていかなければならない。私達は自分の生活のことは日本政府や地方自治体,ましてや海を隔てた本国に守ってもらうことはできない。英知を動かせ,汗をかき,全力で自分の家族を守るしかない。それが自立への道である。私たちは個として立ち、いかなる権威、組織、社会に対しても『「然り」は「然り」とし「否」 は「否」とし』(ヤコブの手紙4:12)て生きていきたい。その模索の中から共棲でない,共生の可能性が見えはじまるのかも知れない。

 「民族差別と闘う砦」は組織ではなく,実は,私自身に求められていたのだ。その砦つくりとは、個を押しつぶそうとするあまりに大きな社会の壁,慣習の前で脅え,立ちとまる己自身がそれらを直視し,変革していく主体になっていくことではなかったのか。民衆運動とは、変革を求める個と個の出会い,触れ合いからはじまる。祖国から離れ、日本社会の周辺に追いやられていた私達は,実は,個が自立し個を尊重するという、世界の流れの中心にいるのだ。在日朝鮮人にとっての民族主体性は,やはりこの個の自立から出発する。在日朝鮮人民衆と民族団体及び日本社会との関係、本国と日本との新しい関係もやはりそれぞれの場における個の自立と個の尊重からはじまる。

あとがき
 私の生い立ちに関しては、「歪められた民族観」(『思想の科学』NO-59)より引用した。私の日本社会への問題提起としては『「在日朝鮮人間題」について-<日本人>キリスト者へ-』(ヨシュア会発行)、同化教育については私の卒論『在日朝鮮人に対する同化教育についての考察一解放後における大阪を中心にー』(就職差別裁判資料集NO.2朴君を囲む会発行)、民族の主体性論については「在日朝鮮人の主体性について」(第五回民闘連『特別基調報告』)をそれぞれ参考にした。なおお母さんたちの青丘社への問題提起については、社会福祉法人青丘社理事長に宛てた公開の手紙」に詳しい。桜本保育園の設立当初から保母として勤めながら、お母さんの問題提起からこれまでの保育園のあり方について考えはじめ、お母さんたちと一緒に行動した記録「桜本保育園の「民族保育」を考えるー自立を求める歩みの中で」(曺慶姫著)も是非読んでいただきたい。日立闘争の経過、判決文及び朴君の上申書は全て亜紀書房の『民族差別一日立就職差別糾弾』に収録されているが、残念ながら絶版になっている。 

 日本社会の問題点については内橋克人から、党派の性格は立花隆から学んだ。民衆の視点は色川大吉の著作と韓国の安炳茂の著作、そして何よりも氏からの励ましから得ることが多かった。思想の観念化は田川建三の著作及び本人との会話から、私なりに咀嚼しようとしたものである。田川さんの助言がなければ、この提言を書き上げることはなかっただろう。

 なお私事になるが、娘が明日、アメリカに発つ。子供三人は生まれた時から、まったく日本名がなく、韓国式の読み方で学校に通った。彼らなりにずいぶんとつらい経験をしたようだ。彼女は中学の時に登校拒否をしたが、ようやく立ち直って高校に入学し、大学にも入ったが、結局すぐ退学するようになった。感受性の強い子にとっては、日本社会の閉鎖性は耐えられなかったのだろう。彼女はアメリカに「生きる為に行く」と言う。自分の経験を活かして心理学を専攻するらしい。彼女もまた自立を求めて旅立つ。

 長男は中三のときより一人でアメリカに留学に発った。生きてい<道がわからず、荒れたときもあったが、立ち直り、韓国のぬいぐるみ工場で現地の労働者と一緒に働いたあと、中国でしばらく働き、今は香港の会社に就職している。独立心の強い子だから、結婚した韓国の女姓と力を合わせて、力強く生きてい<だろう。次男は上二人の挫折と逡巡、苦悩を見てきたせいかー番バランスがとれ、誰からも愛される子のようだ。高校三年間はバスケットボールに熱中していた。大学には行かず、映画の道に進もうとしている。三人とも個性的で、親が望んだように自立心の強い子たちなので、自分の道を歩むことだろう。私は彼らから、どんな問題があってもじっと耐え、受け止め、彼らが自分の力で立ち上がるのを待ってあげる勇気が私たちに求められていることを学んだ。この経験がなければ、私の提言の基本テーマは生まれなかっただろう。 

 最後に、私は妻にどんな感謝の言葉を伝えればいいのかわからない。大学生のとき、川崎の教会で出会い、その後も母国留学、地域活動そして展望が見えない仕事とずっと二人三脚で歩んできた。乳腺の手術後も保母として、店の責任者として、母として、妻として全力で、私と一緒になって走ってきた。私のような強い個性の人間と一緒にならなかったら、こんなに苦労することもなかったのではないかと思うこともあるが、こればかりはどうしようもない。この論文にある歩みは私たちの歩みであり、私たちの提言である。彼女のやさしさと激励がなければ、私はとてもここまで一人で来れなかっただろう。ありがとう。

                                                               1995313