2020年7月8日水曜日

こんな昔の写真がありました。

こんな昔の写真がありました。




2020年7月4日土曜日

近く発刊する新著の内容を公開します。

以下は、風媒社との間で出版する計画中の拙著の内容です。計画中ですから、本来は拙著の内容を公開すべきでないのかもわかりませんが、アメリカではBLM(Black Lives Matter)として黒人の全存在をかけた訴えがあることを知り、私はすぐに、直感的に、Zainiti Lives Matter(ZLM:ジ・エル・エム)という言葉を思い浮かべました。私がどうしてZLMと叫ばざるをえないのかということを記したのが、以下の内容です。


個からの出発、ある在日の歩みー地域社会の当事者として
                   崔 勝久
序論
第一部      在日のアイデンティティを求めた歩み
第一章      私の生い立ちとファミリー・ヒストリー
第二章      民族の主体性を求めて
第三章      日立闘争
第四章      民族・民衆運動としての地域活動をはじめて

第二部      新たな船出事業の世界に
第一章      スクラップ回収業をはじめる
第二章      レストランをはじめる
第三章      布団の組織販売やその他のビジネス

第三部      在日の歩みの考察地域社会の当事者として
第一章      「共生の街」川崎を問う
第二章      人権の実現についてー在日の立場から
第三章      外国人の地方参政権についてーこれは外国人への付与の問題なのか
第四章      多分化共生を考えるー「当然の法理」と住民主権の実現について
第五章      原発体制と多文化共生について
終論

Y大の学生諸君に送る仮定のメッセージ

コロナ禍で大学の授業がどのような形で運営されるのかわからいそうですが、いつか従来通りの授業が可能になることを願い、学生諸君にメッセージを送ります。これはあくまでも仮定のものです。私の希望的・主観的な思いで書きました。          崔 勝久

Y大で加藤教授のリモート授業を受けていらっしゃる学生のみなさんへ

加藤教授のご依頼でみなさんにネット上で話すことになりました崔勝久(チェ スング)です。コロナ禍にあってどのようなメッセージを皆さんにお伝えすればいいのか正直なところ、当惑しています。

実は私自身、昨年末に持病が悪化し2カ月の入院を余儀なくされ、私の家族は医師から危篤状態だと宣言されたそうです。一命をとりとめたと家族は言ってますが、私自身は新たな生命を与えられたと思っています。退院後はコロナ禍によって外出もままならず、毎日、早朝の散歩以外は、一日中自宅にひっこむだけの生活になりました。そういう生活の中で私が取り組んでいるのは自叙伝です。

そうなるきっかけは実は、故鄭香均(チョン ヒャンギュン)という女性です。彼女はY大で講演をしたこともありますが、外国人で東京都の公務員になった第一号だったのです。10年の勤務の後、友人からの勧めで管理職試験を受けようとしたところ、外国人は「当然の法理」によって管理職には就けないと門前払いされました。もちろん、地方公務員は日本人に限るとする法律はありません。彼女は憲法の職業選択の自由を盾に東京都知事を訴えました。

地裁では敗訴し、高裁では勝利したので最高裁がどのような判決を出すのか注目されましたが敗訴に終わりました。そこで問題になったのが、「当然の法理」という、公務員は日本人であるという政府見解です。地方国家公務員の管理職にどうして外国人は就けないのか、その最大の根拠は、国民国家は個人の人権よりも優位であるというものです!

鄭香均の1周忌の集会に参加した名古屋の女性が風媒社という出版社に私のことを話してくれ、それがきっかけで風媒社との自叙伝出版の話がもちあがり今に至っています。順調にいけばこの秋にも出版されるとのことです。

私は鄭香均の意思を継ぎ、個人の人権より国家を上位と規定し「当然の法理」によって外国人を排除する社会は変革されなければならないと考えています。Y大では、鄭香均が問題提起した「当然の法理」についてお話したいと思います。今度機会があれば、みなさんとお会いできることを楽しみにしています。

           2020年7月4日


           崔 勝久(チェ スング)

2020年7月2日木曜日

川崎市のヘイト条令、大きな問題を残す

2020/7/2 東京新聞
ヘイト条令 全面施行で市民団体「喜び、感謝し、祝福」 ネット書き込み対策に期待

「川崎市が一日に全面施行した、ヘイトスピーチ(憎悪表現)に罰金刑を科す全国初の条例「差別のない人権尊重のまちづくり条例」。ヘイト対策を求めてきた市民団体が歓迎の声を上げた一方で、条例の効果を懐疑的にみる人もいる。 (大平樹)」
記者会見に臨んだ「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」は条例の全面施行を歓迎したが、同時に代表の関田寛治氏は条令への期待と共に「朝鮮学校が国の授業料無償化の対象外とされていることを「民族的差別」と指摘し、改正を求めていく考えを示し」たとあるが、政府見解の「当然の法理」に基づく川崎市自身が犯している差別の実態に関しては語らなかった。
東京新聞はヘイト条令に「懐疑的にみる人」として日立闘争当該の朴鐘碩の意見を紹介している。朴鐘碩は「今回の条例は不十分」とみなし、川崎市は国籍条項を撤廃したものの、実際の任用面での差別の実態を指摘している。

2020年7月1日水曜日

"隔ての壁を取り壊して新しい民族へ" ー 黄南徳

私が親しくしている韓国人の牧師で宣教師として日本に来られた黄南徳牧師が、福岡県の糸島でなさった説教に私のブログ掲載に際して改めて筆を入れられたメッセージをご紹介します。このメッセージは韓国人、日本人、在日を問わず普遍的な内容を秘めておりキリスト者でない方々にもご紹介したいと思ったからです。読者のみなさんのご意見をお待しています。                 崔 勝久

        隔ての壁を取り壊して新しい民族へ"
                             黄南徳(ファン・ナムドク)

 しかしあなたがたは, 以前は 遠く 離れていたが, 今や, キリスト · イエス において, キリスト の 血によって 近い 者となったのです.實に, キリスト はわたしたちの 平和であります. 二つのものを 一つにし, 御自分の 肉において 敵意という 隔ての 壁を 取り 壞し,規則と 戒律ずくめの 律法を 廢棄されました. こうして キリスト は, 雙方を 御自分において 一人の 新しい 人に 造り 上げて 平和を 實現し,十字架を 通して, 者を 一つの 體として 神と 和解させ, 十字架によって 敵意を 滅ぼされました.キリスト はおいでになり, 遠く 離れているあなたがたにも, また, 近くにいる 人¿にも, 平和の 福音を 告げ 知らせられました.それで, この キリスト によってわたしたち 方の 者が 一つの  結ばれて, 御父に 近づくことができるのです.(エフェソ書 2:13-18)

 今日の本文、エフェソ書はパウロが 西暦 62年にローマの刑務所から書いた文章として知られています。 彼は獄中で‘エフェソ書だけでなく‘フィリピ書'、‘コロサイ書'、‘フィレモン書'を書きましたが、この4つの手紙を‘獄中書簡'と呼びます。
特に今日読んだエフェソ書はパウロが第2次伝道旅行の時に建てたエフェソ教会に送った手紙として、主に一致、一つになることを強調しています。パウロは 神も一人であり、信仰も一つ、洗礼も一つなので、キリストにあってエフェソの信者たちが一つになるようにと切に勧めました。

 ここで一つになるようにというこの言葉は、エフェソ教会だけでなく、当時の小アジア地域にある他の多くの教会にも当てはまる言葉でした。 なぜなら、福音がエルサレムとユダヤとサマリアを越え、小アジア地域に伝わる中、教会があちこちで建てられ、ユダヤ人と異邦人がともに信仰生活をするようになるのですが、彼らの中で葛藤が生じるようになったのです。このユダヤ人と異邦人の間の葛藤は、当時初代教会の問題でした。 ユダヤ人の伝統的な選民思想に根ざした異邦人へのユダヤ人の根深い差別が、教会共同体の中にも現れているのです。 ユダヤ人が普段持っていた考えはこうです。

 たとえばユダヤ人は神様にこんな感謝の祈りを捧げたと言います。 神様、私をユダヤ人に生まれるようにしてくださったことに感謝いたします。 神様、私を男に生まれるようにしてくださったことに感謝します。 神様、私をあの犬に生まれないようにしてくださって感謝します。


 この祈りによると、ユダヤ人は異邦人として生まれたことを呪われた人のように思い、異邦人たちを軽蔑すべき動物のように考えたのです。
もちろん、この祈りは新しい初代教会共同体の祈りではありませんでしたが、ユダヤ人が異邦人にどのように接してきたかを現わす排他的選民思想を示しています。 問題は、ユダヤ人がキリスト教徒となったものの、律法(トーラー)に規定された諸規定を異邦人のキリスト教徒にも守るよう求めたことです。
そして、挙句の果てに浮上した論争が、割礼と非割礼の問題でした。 割礼はユダヤ人の男の子が生まれて8日目に行う儀式で創世記17章を見れば、神様とイスラエル民族間に締結された契約の象徴でした。

神はまた, アブラハム に 言われた.「だからあなたも, わたしの 契約を 守りなさい, あなたも 後に 續く 子孫も.あなたたち, およびあなたの 後に 續く 子孫と, わたしとの 間で 守るべき 契約はこれである. すなわち, あなたたちの 男子はすべて, 割 受ける.包皮の 部分を 切り 取りなさい. これが, わたしとあなたたちとの 間の 契約のしるしとなる.いつの 時代でも, あなたたちの 男子はすべて, 直系の 子孫はもちろんのこと, 家で 生まれた 奴隷も, 外國人から 買い 取った 奴隷であなたの 子孫でない 者も 皆, 生まれてから 八日目に 割 受けなければならない.あなたの 家で 生まれた 奴隷も, 買い 取った 奴隷も, 必ず 割 受けなければならない.それによって, わたしの 契約はあなたの 體に 記されて 永遠の 契約となる.包皮の 部分を 切り 取らない 無割 男がいたなら, その 人は 民の 間から 斷たれる. わたしの 契約を 破ったからである.」(創世記17:9-14)

 ところで、この割礼を異邦人のキリスト者も同じように受けなければならないと、ユダヤ人のキリスト者が主張したのです。この問題はガラテア書によく見られますが、パウロはガラテア書5:25:6でそれぞれ述べています。

ここで,わたしパウロはあなたがたに断言します. もし割礼を受けるなら,あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります.”(ガラテア書 5:2)

“キリスト · イエスに結ばれていれば,割礼の有無は問題ではなく,愛の実践を伴う信仰こそ大切です.”(ガラテア書 5:6)

 パウロとはだれですか。 彼はローマの市民権を持っており、律法学者ガマリエルの下で学び、旧約聖書とユダヤ教の伝統をよく知っていました。そのような彼が、古いユダヤ教の伝統主義、律法主義から果敢に脱し、ユダヤ人と異邦人が一つになる共同体を目指しました。ユダヤ人中心のエルサレム教会を越えて、ユダヤ人と異邦人が一つになる新しい教会の一致を言っています。"この一致とは、異なるものを単純に合わせる化学的な結合ではなく、イエスの犠牲で結ばれた霊的な関係のことです。ユダヤ人と異邦人がイエスの十字架と復活によって神様と近くなり神様の家族になります.この神様の家族の中心には平和の主キリストがおられます。

実に,キリストはわたしたちの平和であります. 二つのものを一つにし,御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し,”(エフェソ書 2:14)

 ユダヤ人と異邦人が一つになったのは、人間的な交渉ではありませんでした。それは平和のキリストにあって、イエスの血によって一つになったのです。 だからひとつになるということは、十字架に架かってくださったキリストの犠牲によって成り立っているのです。
     
“規則と 戒律ずくめの 律法を 廃棄されました. こうしてキリストは, 双方を御自分において一人の 新しい人に造り上げて平和を実現し,”(エフェソ書 2:15)

 神はユダヤ人と異邦人の間での仇となる根深い律法の壁を壊しました。ユダヤ人と異邦人を民族的に、人種的に分ける差別の障壁をなくすために、自分の体を投げ出してくださいました。そうやってキリストにあって彼らが一つになりました。

 皆さん、キリストにあってユダヤ人と異邦人が一つになったように、私たちも一つの群れとしてこの場にいます。 同じ神様、同じ信仰を告白し、同じ洗礼を受けてここに集まりました。牧師と平信徒、専門家とそうでないもの、 男と女、 古くからの教会員と新しい信者の間、 また異なる世代間で一つになることをさえぎる、隔てのかべがありますか? 我々はキリストにあって一つになりました。 差別や排除しようとする律法主義のかべを越えてキリストにあって一つになりました。

ところで今日読んだ本文15節を見ると、<新しい人>と出てきます。しかし、ハングル共同翻訳書を見ると<一つの新しい民族>と出てきます。


パウロはユダヤ人と異邦人が一つになる<新しい人><新しい民族>とみなしたのです。 律法主義、人種主義、階級主義、性差別主義など、行き詰まったかべを取り壊して異なる民が、異なる民族が新しい人、新しい民族になる希望をキリストのうちに見ました。 キリスト教共同体の中でユダヤ人と異邦人が一つになることは、このように究極的に人類が一つになる新しい民族の夢につながります。 イエス·キリストの十字架の苦難と犠牲と復活は、人類のための救いの事がらだからです。

 私は20192月に日本キリスト教会にエキュメニカル宣教師として派遣を受けて福岡に来ました。 所属している教団で実施される宣教師の訓練を、夫婦で1ヶ月間受け、派遣礼拝を捧げて日本に来ました。 その動機は数年前から日本の平和運動家たちと一緒に毎年8月に韓国の広島と呼ばれる陜川を訪ねたことに遡ります。 陜川は原爆被害者がたくさん集まって住んでいる所です。

 194586日、広島と89日、長崎に原子爆弾が投下され、当時、死亡者は広島で20万人、長崎で8万人と推定されています。 このうち韓国人は、広島で死者35千人、長崎で15千人と推定されています。解放後は、北朝鮮に行った人たち、そして韓国に来た人たちがいますが、被爆第1世代が帰国して彼らの子供たちと陜川(キョンサンナムド・ハプチョン)に多く住んでいます。 今はそこに<陜川原爆被害者福祉会館><陜川原爆資料館>があります。

 毎年8月には陜川に行って原爆被害者たちに会って国際セミナーを開いてきましたが、 日本と韓国の平和運動家たちが一緒に会って話し合ううちに私は自らの無知に目覚め、日韓を中心とする東北アジアの平和のために働かなければならないと思うようになりました。
 私が日本に来て最初にやったことは"東アジア平和センター福岡"を設立したことです。日韓 理事会を組織して開設式を行いました。 そして去年の8月に、第1回青年平和学校を沖縄で開きました。日本の学生が3名、韓国の学生が3名、中国の学生が1名参加しました。

 沖縄と言えば、人々は美しい観光地だけを考えますが沖縄は第2次世界大戦末期に本土の日本軍により沖縄の原住民たちが戦場に追い込まれて多くの無辜のたみが、犠牲になったところです。 第2次世界大戦後、米軍基地が建設され、今も引き続き建設されています。 平和学校を開いて午前には平和についての講義を聴いて午後には平和記念公園、ひめゆり平和記念資料館、そして米軍基地が建設される辺野古などを訪問しました。

 今年は日本の学生10人、韓国の学生10人を募集して8月に韓国の済州島にて、第2回青年平和学校を開催しようと準備してきました。 しかし、新型コロナ・ウィルスの蔓延のため、プログラムが難しくなりました。

 済州島の状況は沖縄とよく似ていて、そこには海軍基地があります。 多くの済州道民と平和うんどうかが建設に反対しましたが、20162月に竣工しました。済州海軍基地は、建設過程での環境破壊問題だけでなく東北アジアの平和を脅かしています。 この海軍基地をアメリカが軍事基地化しようとしています。 済州島にはすでに米軍の海軍艦だけでなく原子力潜水艦まで停泊しているのです。

 このように沖縄と済州島は東北アジアの平和を脅かすアメリカの軍事基地化に利用されています。 このような平和の島、済州島を守るために平和運動をしていたソン·ガンホ先生は、3月に海軍基地に入り、"軍事基地のない平和の島"と書かれたプラカードをもって活動したために逮捕され、今刑務所にいます。 彼は私たちと一緒に 8月の済州島のプログラムを準備している人でした。 彼の拘束は平和を念願する私たち皆の痛みであり苦難の象徴です。 我々は、平和を語る者ではなく、平和を作る、人にならなければなりません。

 地球で唯一の分断国家である朝鮮半島で、南北の和解と平和を妨げる壁は何でしょうか。日本と韓国の和解と平和を妨げる壁は何でしょうか。 差別を生む律法主義勢力は何でしょうか。

 ラビ·ジョナサン·サックスが彼の著書"差異の尊厳(Dignity of Difference)"で言うように、私たちは他者の顔から神様を見ることができなければなりません。 すべての人類の顔から神様を発見することは、新しい人、新しい民族になれというイエス·キリストの教えのようなものです。

 エフェソ書著者ははっきり言います。 キリストが仇となったものを十字架で消滅させ、人類を一つにしたのだと。 したがって、キリストに従う私たちは私たちを<新しい人><新しい民族>になるようにする神の恵みによって、からしの種のように小さく始まりましたが、麹のように広がる神様の国のための平和の道具にならなければなりません。
日本と韓国の平和、東北アジアの平和、さらにはこの地の平和のために祈り、また働いてくださるようお願いします。

"皆さんの教会が今日、この時代、塞がれた壁を崩すイエス·キリストにつき従い、平和の福音を伝える使徒になることを切に願います"


父と子と聖霊の御名によって。

2020年6月25日木曜日

Private Picturesー私の大好きな散歩道

今日はこむつかしい話の一切ない、私の毎日の散歩道で見る光景をご紹介します。
これは鶴見川支流の矢上川に面した小径で、右側の土手の上が慶応大学日吉キャンパスです。この200メートルばかりのツツジの小径は私の大好きな散歩道です。
大学当局がこんな粋なことをするはずがなく、ある日、つつじの対面で雑草を取っている年配の男性に声をかけたら、実はこのツツジも自分たち仲間で植えたというのです。費用も自分たちで出したということでした。そうでしょう、いろんな手をかけないと花がこんなに見事に咲くということはないでしょう。もう4-5年になるそうです。
この矢上川のすこし上流(200メートルくらいか)に行くと前にも紹介したことがありますが、5-60センチくらいの大きな鯉が群れているのが見えます。
1時間ばかりの毎日の散歩の途中、私は必ずここを通り、矢上川をのぞき込んでは大きな鯉が群れている様子を見るようにしています。
もし此処に来てみたいという方は私に連絡をください(che,kawasaki@gmail.com)。東横線の日吉駅までお迎えにあがります。すぐ近くに小さな喫茶店がありますので、コーヒーをごちそういたします。

2020年6月4日木曜日

安全・安心の教会でいいのか?ー小塩海平


私の友人である小塩海平さんが東京告白教会の修養会で発題した内容を私に送ってくれました。小塩さんのご意見に賛同します。ご本人の承諾を得て、私のブログに挙げさせていただきます。コロナだから礼拝を止め、それをネット配信するとか、信徒に家庭で礼拝を守るように式順などを記した手紙を送るなどのそれなりの配慮がなされたことは理解しますが、私はそもそもコロナウイルスを理由にして通常の礼拝を中止ないしは変更すること自体に反対です。コロナウイルスで信者が集まることができないのだからしかたがない、他の方法で礼拝をまもるなのだからいいという判断をされたのでしょう。もう過ぎたことですが、このことは改めて各教会で話し合われなければならない問題だと考えます。極端な意見だという人が多いと思いますが、今一度、ウイルスの問題と礼拝の持ち方を議論したいと思います。                             崔勝久


東京告白教会修養会発題

安全・安心の教会でいいのか?
2020531
小塩海平
 安倍政権になって、国家崩壊の兆しが頓に感じられるようになってきた。今回の新型コロナウイルス禍により、とくに政治の腐敗、教育や医療の崩壊、経済の破綻、社会保障の不備などが顕在化し、さらに格差社会の弊害が様々な形で姿を現しつつある。しかも、この緊急事態の中で、安倍政権は検察庁法改定案や国民投票改正法など、国家の仕組みを換骨奪胎しようとする法改正を虎視眈々と目論んでいる。私たちは、現政権によるショック・ドクトリンともいうべきこのようなやり方を注視し抵抗しなければならないことはもちろんである。ただ、教会は、他人事のように、政治批判ばかりしていてよいのだろうか。むしろ、今回明らかになった教会に内在するさまざまな問題こそ、悔い改めをもって、検討しなければならないのではないだろうか。

 私にとって、多くの教会が政府の自粛要請に前後して礼拝を中止したり、あるいはオンライン礼拝に切り替えたりしたことは衝撃であった。もちろん政府の要請に従ったのではなく、自らの決断でそのような選択をしたというのが事実であろう。しかし、いずれにせよ、自粛という形で礼拝を取りやめたのは、ナチスによる迫害に屈したとか、政府による神社参拝強要に屈したというような外圧に対する敗北ではなく、いわゆる忖度という形を取った妥協ではなかったかと私は考えている。政府に対する忖度ではなかったではないにせよ、教会員に対する忖度、あるいは近隣社会に対する忖度だったのではないだろうか。

 私が実に対照的だと思ったのは、自粛要請を受け入れずに営業を続けて、名前を公開された大阪のパチンコ店である。何ら法に触れたわけでもないのに、行政に目をつけられ、衆目に曝されるような処遇を受けたのは、まさにかつての「非国民」的な扱いを彷彿とさせるものであった。もちろん、教会は「非国民」扱いされることを恐れて自粛したのではないと反論しうるであろう。しかし、結局、教会は戦うことなく自壊したのではなかったか。私たちはこのことを神の前に存在をかけて検討しなければならないはずである。

 これまで私たちは、「教会と国家」という枠組みで物事を捉え、国家の命令と教会の権利が衝突するさいには、人に従うよりも神に従うべきことを確認すればよいと考えてきた。靖国問題に取り組む中で、信仰告白の事態、あるいは躓きの事態においては、旗幟鮮明に態度表明をすべきであることも確認されていた。しかし、実際には、衝突が起こらない前に、「自粛」という形で礼拝を取りやめてしまうということが起きている。それは、かつて戦時中、自らをごまかして国家と迎合し、今なお、その責任をあきらかにしようとしていない、時の流れに身を委ねる教会の姿勢に重なるものがあるのではないかと思われてならない。

 政府は新型インフルエンザ等対策特別措置法を一部改訂して新型コロナウイルスに適用できるようにしたが、結局は補償の責任を回避するような自粛要請という形で、法的に無責任な体制のまま、なし崩し的にものごとを進めてきた。対照的に、アメリカでは、先週になってトランプ大統領が、「宗教の自由」を考慮して、教会は礼拝を再開せよと命じたが、カリフォルニアを含む多くの州知事はいまだに礼拝を禁じている。連邦控訴裁判所も523日、教会が集会を開くこと禁じたカリフォルニア州の規制を支持する判決を出している。キリスト新聞に掲載された記事によると、この判決は、2週間前にサウスベイ・ユナイテッド・ペンテコステ派教会が提起した訴訟に関するもので、同教会は、礼拝の禁止は、宗教の自由を妨げる法律の制定を禁ずる合衆国憲法修正第1条に違反していると主張した。これに対して裁判所は「われわれが直面しているのは、伝染性が極めて強く、時には死に至る、現在のところ治療法がない病気である」としてカリフォルニア州の立場を支持したという。いずれにせよ、アメリカにおいては、礼拝を守る自由は、譲ることのできない権利として裁判になるのである。

 もし、日本でアメリカやヨーロッパのように礼拝の禁止が命じられたならば、教会は礼拝する権利を掲げて戦っただろうか。他の教会のことはいざ知らず、東京告白教会の場合、禁止命令が発出されても無視して礼拝を守り続け、場合によっては逮捕者が出るという事態になったかもしれない。それはそれで一つの証になったはずである。

 今回、教会は、喜んで自粛をしたのではないにせよ、少なくとも、自粛ムードに埋没してしまったことは確かである。新型コロナウイルスに屈服したとか、政府に協力したとか、あるいは高齢者や弱者への感染源にならないよう配慮したかというよりは、教会が法的存在としてのアイデンティティーを喪失してしまったのではないかと思われてならない。たとえば、525日をもって緊急事態宣言が解除されたのちも、カトリック教会は「状況は流動的で、感染流行には今後も何度かの波があるという専門家の指摘があります」という理由で、活動を停止しているし、日本キリスト教会の中にも、いましばらくは会堂における礼拝を見合わせるという教会がいくつもある。

 神の要請よりも、緊急事態宣言や、いわゆる専門家の意見が優先されるべきであろうか。高齢の会員が多いからという理由には、いかにも教会らしい配慮が感じられるが、しかし、コロナウイルスも神の創造物であり、みこころによってパンデミックが起こっているという事実から、教会は目を背けてはならない。私たちは、コロナウイルスで死ぬか、交通事故で死ぬか、あるいは老衰で死ぬか、予知することはできないが、いかなる形で死を迎えようとも、キリストにあって喜ばしく、平安のうちにあるのだということを語る説教者がいなければならないはずである。私たちが生かされているのは、そもそも神を礼拝するためなのであり、礼拝をやめてまで生きのびようとすることは、教会にとって、有害であり、自殺行為ですらあるといえよう。

 そもそも、教会に通うにあたっては、コロナウイルスに感染するリスクだけでなく、交通事故の危険もあり、熱中症になる恐れもあり、その他、さまざまな無数といってもよいリスクが存在する。私たち人間は極めて無力であり、神の庇護のもとにあるとはいえ、生きることそのものが危険である。もし、あらゆるリスクが取り除かれ、快適で何の不安もない状況で、安心して神礼拝に集中できるというのが私たちの目指す理想であるとするなら、「安全・安心」こそ、私たちにとって「金の仔牛」になっているということを意味している。邪推かもしれないが、このような姿勢は、教会が痛みを忘れさせる麻薬のように「安全・安心」を教会員に振りまいていることに起因しているのではないかと私には思われてならない。

 毎週、教会に行けば、何となく安心できるというのは、一種のお守りのようなものである。それゆえに、牧師たちは、やさしい安心させる言葉を語り、「今のままのあなたで救われるのだ」、などと説教する。自分自身が打ち砕かれたその御言葉を、その威力そのままに聴衆に語る説教者が、どれほど日本キリスト教会にいるのだろうか。礼拝を守り、説教を聞いて聖晩餐を守ることは、キリストの死と復活にあずかることであり、私たちにとって「安全・安心」とは真反対の、むしろ危機的な状況を作り出すものである。私たちは、終末に目を注ぐやどり人であり、自己否定あるいは自己改革こそ、いまを生きる私たちの姿勢であることを確認したい。

 もちろん、礼拝を続けることによって私たちが曝される感染の恐れや周囲からの白眼視、あるいは自らが感染源になりはしないかというリスクについては、無視できないものがある。しかし、教会にとって、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という戒めは、リスクがあるから差し控えるというようなものではなく、教会の存在意義にかかわる絶対的な至上命令である。「聖とせよ」は、日常からの分離を意味するはずであり、家にいて日常生活の延長の中でインターネットを介して礼拝をするようなことで代用することはできないと私は考える。

 私がこれまで述べようとしてきたことは、教会のつとめとして、主の日の決められた時刻に、決められた場所おいて行われる公的な礼拝を中止すべきでないということである。ところで、教会がいかなる事情があろうとも公同の礼拝を死守すべきだという主張は、個々の教会員が、いかなる事情があろうとも礼拝に来なければならないということと同じではない。高齢者や病人、主日にも治療や介護に当たらなければならない医療従事者、その他、諸事情で教会に来られない人もいるであろう。

 私たちが主日の礼拝を守ることができるのも、公共交通機関の運行に携わる人がいるおかげであり、私たちは、主日礼拝に参加できない人たちを無碍に批難することは差し控えなければならない。しかし、個々人が教会に行けるか、行けないかを論ずるにしても、そもそも教会が主日に門戸を開いていないのでは、話にならない。日本キリスト教会憲法第14項には「教会および伝道所は、主の日ごとに礼拝を行い、神の主権を明らかにし、神の福音を宣べ伝え、聖礼典を行い、キリストにある交わりを厚くし、互いの信仰を堅くする」とあり、第41項には「礼拝は、主の日ごとに、時と所とを定め、秩序を正して行われる。」とある。これらの条項に、何らの留保もありえないことは、誰が読んでも明々白々である。私は、新型コロナウイルス禍に際しての公同礼拝の自粛は、明らかな憲法違反であると考えている。

 礼拝に集いたくても集えない兄弟姉妹たちとの交わりや奉仕に関しては、訪問聖餐、説教原稿や音声資料の共有、文通をはじめ、現在コロナ禍の中でさまざまな教会で行われているようなインターネットを利用したサーヴィスなどを考えてよいが、これ以上は触れないでおく。私が今日、考えたいと思っているのは、教会が公同礼拝をいかなる状況であっても死守するということを前提に、例えば、コロナウイルスのキャリアーの人などが礼拝に参加したいという希望を持っているとき、教会は拒否できるかという問題である。私は、礼拝に来た人に関しては、いかなる理由があっても、拒否できないと考える。例えば、現実には考えにくい極端な例であるが、国家によって礼拝への参加を制限されている人、例えば刑法上の容疑者や犯罪者として拘留あるいは拘置されていたり、伝染病予防法によって病院に隔離されたりしているような人が、脱獄あるいは脱走して礼拝に来たような場合でも、やはり受け入れるべきであると思う。ただし、礼拝の前後で、その違法行為の幇助をすべきかどうかは別問題である。

 感染の恐れがある病人の場合なら、育児中の人たちがしばしば別の部屋を利用することがあるように、感染のリスクを軽減するための配慮をしてもよいであろう。例えばコロナウイルスの感染者でPCR検査が陽性であるとか、高熱があるような人が、礼拝に出席したいという希望を持っている場合、マスクをして、手指消毒をし、換気をしてソーシャル・ディスタンスを確保するというような形で、礼拝を守ることになろう。反対する教会員がいるかもしれないが、この国ではPCR検査で陽性反応が出た場合、入院できずに自宅で待機することが多かった。つまり、家族であれば感染の危険にさらされても看病に当たるわけで、教会における礼拝の交わりも、それ以下と考えるべき理由はない。

 教会がこのような問題をこれまであまり考えてこなかったのは、例えば、ハンセン病患者の隔離政策や精神障害者の収容などについて自己の問題として考えることを、意識的あるいは無意識的に避けてきたからではないだろうか。日本キリスト教会の中に、野宿者やシングルマザー、留学生や不法滞在者などがほとんどいないのは、たまたまそのような人たちが教会に来なかったというのではなく、そういう人たちが近寄りがたい雰囲気があるからである。「今のままのあなたでいいのだ」というような説教が通用しない人たち、つまり、今のままでは生きていけない人たち、いまの社会に決して安心できないような人たちは、教会にとって想定外だし、逆に、そのような人たちにとって、教会は無用の長物としか言いようがない。

 私たちは、改めて、いかなる時にも公同の主日礼拝を行うことを前提にしつつ、あらゆる人に対して、門戸を開いているべきことを確認したいと思う。そして、私たちが意識的・無意識的に避けてきた人々のことを視野に入れる努力を始めなければならない。私たちは野宿者やハンセン病教会との交わりが与えられ、目を開かれる様々な体験を与えられてきたが、今後、野宿者はもちろんのこと、例えば、コロナウイルス肺炎を含む感染症キャリアー、同性愛者、触法精神障害者(殺人や強盗、放火、姦淫等、重大な触法行為を行った精神障害者の内、不起訴・起訴猶予、あるいは無罪、執行猶予となった人)、末期癌患者やエイズ感染者、不法滞在の外国人など、あらゆる人を礼拝に迎え入れる備えをしていることが大切である。

 もちろん、このような取り組みは、東京告白教会が単独ででもやるべき課題であるが、中会的な教会の交わり、また国際的な教会の交わりの中で、知恵を出し合い、人材を共有できるような体制を作ることを考えたい。少なくとも、そのための祈りを共有していくことを始めたい。

 東京は、525日に緊急事態宣言が解除されたが、私の教え子たちの中には、3月に大学院を卒業後、いまだに母国に帰れない留学生たちが何人もいる。とくにブラジルやペルー、フィリピンの状況は深刻である。また、私は、パプアのソロンという町で牧師をしている旧来の友人から、一昨日、ソロンの町だけでも、新型コロナウイルスの感染者が50人以上確認されたという話しを聞かされた。彼女は、それでも、ペンテコステの礼拝を喜ばしく行うための準備を、粛々と進めていた。さらに別の友人は、パプアの不十分な医療事情のために、時々しか透析ができず、病状が悪化した現在も、コロナ禍によって必要な輸血が妨げられているといっていた。

 私たちは、日本における安全・安心な生活が、国内における、いわゆる「負け組」と呼ばれるような人たちや、途上国の貧しい人々からの搾取によって成り立っていることを、なかなか知り得ないでいる。まず教会が、自分たちだけの「安全・安心」神話を打破していくことが必要である。そのためには、現状に甘んじないで声を上げる他の少数者と痛みを共有し、周囲の社会に埋没しない、異質な存在となることが必要である。
 いま、そのような痛みを伴った教会形成を行うことこそが、無牧の東京告白教会に求められている課題ではないかと私は考えている。