この拙論は1974年、在日大韓基督教会川崎教会の作った社会福祉法人青丘社が日立の就職差別事件の後、地域で活動をはじめたとき、ボランティアとして関わる日本人、在日の青年が多くなり、活動の目的が曖昧になって、地域の民族差別との闘いに参加するもの、地域活動そのものに関心を持つものが別々の動機で集まるようになり混乱が生じた。
その時、川崎市の奨学金制度における国籍差別が表面化したので、青丘社において何度もティーチインをもって青丘社の活動の目的である民族差別との闘いとはなにか、それは地域全体の変革の中でどのようにとらえるべきかを話し合うために作られた資料である。
民族差別とは何か
ー青丘社での民族差別の本質を問うテイーチイン資料として 1974年ー
崔 勝久
目次
1.民族差別とは何か
2.民族差別の歴史
3.朝鮮民族にとって解放とは
4.日立闘争
5.地域活動へ
6.児童手当闘争へ
7.「ロバの会」の活動
8.青丘社における活動の点検
9.保育園活動の歩み
10.地域の現実に密着した民族教育を!!
1.民族差別とは何か
我々は民族差別とは何なのかということを、この間ずっと討論してきた。一度整理する必要がある。
普通、民族差別というとき、二つのことを言っている。ひとつは蔑視する、バカにするというような意味であり、もうひとつは日本人と区別をし、こららに不利な条件を設ける場合に民族差別であると言っている。例えば、ケンカなどのときに、相手に軽蔑の意をこめて、「チョーセン人」という言葉を投げつけるとき、我々はそれを民族差別であるという。また、朝鮮人であるという理由で金融機関からカネを貸さなかったり、就職の門戸を閉ざしている場合、我々はそれを民族差別であると言っている。
しかしながら、両者の民族差別は本来ひとつのことをいっていると見るべきであろう。元々は単なる固有名詞である「朝鮮」という単語が、マイナスの意味をこめたものとして使われるようになってきたのであり、制度上の差別はそのようなマイナスの意味をもつようになった「朝鮮人」はおしなべて悪であるということを前提にして、生まれているからである。
自ら朝鮮人であることを隠す、嫌がるというのは、朝鮮人は良くないということが、この社会の中で当然視されてきたからに他ならない。我々は、それを朝鮮人に対する偏見であるとも言ってきた。
朝鮮という国、あるいは朝鮮人に対しての誤った、歪んだ観念(偏見)が差別を生み出している。
2.民族差別の歴史
ではいつから「朝鮮」という語が、マイナスのイメージをもったものとして使われるようになったのであろうか。このことを考えることは重要である。何故ならば、我々はよく日本人というものは民族差別をする民族だと決めつける傾向があるが、それでは将来いつまで経っても我々は、日本人と心の底から握手することはできなくなる。日本人は何も昔から朝鮮人を馬鹿にしてきたのではない。むしろ古代社会から現在に亘る長い年月の中で日本人の方が優位性を感じるようになったのは、近代100年に過ぎず、それまでは文化的には尊敬の対象ですらあったのである。
ではいつから、どうして民族差別が生まれてきたのか。それは、はっきりとしている。日本がアジアの中では封建社会から近代国家へと最も早く変化し、その近代国家としての富国強兵政策によって、他のアジアの諸国に侵略(植民地政策)をはじめるようになってから、民族差別は生み出されたのである。西洋社会から摂取した価値観で他のアジア諸国を見るとき、それが自分たちより遅れていると考えるのは、けだし当然である。日本は、西洋より輸入した武器をもって、アジアに君臨しようとしはじめた。植民地政策は日本より最も近く、関係の深い朝鮮半島に向けられるようになった。
帝国併合以降36年にわたる植民地政策は本求、素朴な両民族の民衆の間に決定的な歪みをもたらした。徹底的に武カで朝鮮民衆を押さえこもうとした日本の支配者は、3・1独立運動(1919年)の後、同化政策でもって朝鮮を支配しはじめた。日本の御用学者は古代からさかのぼり、朝鮮人は「半島的性格」で自立心がない、党派争いを好む、即ちダメな民族である、ということを立証した。だから、それとは反対に、天皇を抱く素朴な民族である日本が、兄が弟を想うように朝鮮を想い、面倒をみる(侵略する)ことは当然であり、それは相手のためであるというように、日本の民衆は思いこまされてきたのである。また、他民族侵略の最高の形態として、民族性抹殺、すなわち朝鮮人を日本人に作りかえることが計画された。それが同化政策である。朝鮮人を日本人にならせてあげることによって、両者の違いはなくなり、それ故、朝鮮支配は完全に正当化されると考えられたのである。
36年間の植民地侵略の過程の中で、在日朝鮮人が形成された、強制連行という現代の奴隷狩りだけではなく、日本の搾取によって、故郷において生活することさえおぼつかなくなった民衆は、生活の糧を求めて、満州や日本に出向くようになった我々のアボジ、オモニはそのようにして日本に来たのである。もともと日本の植民地政策で伝統的な教育さえ受けられなくなった朝鮮人民衆は無学な者として、日本での生活の糧を得るには、肉体を使った労働しかなかった。日鮮一体といっても、それはスローガンであり朝鮮人は日本人より、安い賃金で働かされ、より劣悪な条件の下で住まざるをえなくなった。朝鮮人は異国にあって、ひとつになって住むようになった。それが朝鮮人集落のはじまりである。
生活の糧がなく、それを得るため日本人より悪い条件で働く朝鮮人が集落を作り、生きる様を見、何も知らされない日本人民衆が朝鮮人は汚い、ぶらぶら遊んでいる、仲間意識が強い、乱暴だ、と思うようになったことが、日本人の在日朝鮮人に対する偏見のはじまりである。それは、いわゆるいわれのない偏見なのではなく、朝鮮人民衆の生活実態の上で形作られたイメージなのである。差別は観念ではなく、社会的実態の反映であると正しく扱えるべきであろう。
一度、朝鮮人はこのようなものであると思いこんだ日本人民衆が、あらゆる朝鮮人を一般化し、同一視しはじめたとしても、それはいちがいに日本人民衆の罪に帰せられるべきではない。彼らもまた、社会を、歴史を、人間を正しく見る目がくもらされ、そのため誤った日本国家の動向に自らすすんで参加し、一途に戦争という破滅の道をたどらされたのであり、彼らもまた、人間らしく生かされなかったという点で被害者とされるべきであろう。
日本の敗戦のよって解決を迎えた在日朝鮮人の多くは、急いで帰国したものの、大国のエゴイズムによって分断させられた祖国に帰ることをとまどう同胞が多くいたこともけだし当然であった。
3.朝鮮民族にとって解放とは
一体、朝鮮民族にとって解決とは何であったのか、それは新たな苦難のはじまりであった。
日本社会の劣悪の条件の下で生活してきた在日朝鮮人にとって、解放とは何であったのか。日本の敗戦によって外国人になった朝鮮人は、今度は外国人であるということで、一切の公的な仕事に携われなくなった。そして、日本政府、地方自治体より邪魔者扱いされ、あらゆる人権を守る為の制度より除外された。日本の今までの民主主義とは、日本人のためのものであり、朝鮮人を除いたところで、逆に言えば、朝鮮人の犠牲の上で成り立っていたのである。
商業に活路を見い出すしかなかった朝鮮人の中には、戦後、成金になった者もいたことであろう。戦後のヤミ市で儲けた者もいたことであろう。しかし、日本に残った多くの朝鮮人は、戦前と同じように貧しく、苦しい生活を余儀なくされたのである。日本で生まれ育った朝鮮人は、親の必死の努力のおかげで日本人には負けない程に教養を身につけるようになった。しかしながら、肉体労働者としてしか生きられなかった親と同じようにしか、新しい朝鮮人も生きる道はなかった。即ち、公的な機関はもちろん、日本の会社はこぞって朝鮮人を排斥したからである。就職の門戸は完全に閉ざされたままであった。
4.日立闘争
朝鮮人は一流会社に入れないというタブーに挑戦したのが、朴鐘碩(パク・チョンソク)であった。彼は日立製作所を相手に、4年間、韓国人であるという理由だけで解雇したことは許されないとして戦い続けた。しかし、周りの目は冷たかった。本名はまだしも本籍をいつわって入ろうとすること自体が悪いという常識の壁は厚かった。だが、受験の機会さえ奪われると恐れて本籍欄に現住所を書いた彼は、合格の後、自分は韓国人であると申し入れている。日立側がそのとき、戸籍謄本の代りに外国人登録済証明書をもってきてくれと言ったなら何事も起こらなかった。しかし、日立は朴君をウソつきだとして解雇したのである。
横浜地裁は朴君の主張を全面的に取り上げ、日立の民族差別と日本社会に現存する差別の実態に触れた。それだけではなく、差別のために朝鮮人が朝鮮人でありながら日本人のように生きること自体がいかに非人間的なことなのかということにも言及した。この完全な裁判勝利は、今後の我々の闘争の出発点となるであろう。また、思想にこだわらず、利用主義に陥らず、ただひたすら朴君という具体的な人間を中心に据えながら、日本人との共闘こよって全力を上げ、ついに勝利するに亘ったこの日立闘争は、民族差別と闘いきる運動の基本的パターン、条件を備えたという確信を我々はもっている。
5.地域活動へ
我々が目的意識的に川崎での地域活動をはじめたのは、日立との闘いのさなかであった。朴君のように、いや自分自身がそうであったように、朝鮮人であることを忌み嫌い、なんとか逃避したいと思っている同胞に対して、そうじゃない、我々も朝鮮人として胸を張って生きようではないか、ということを語りかけ、同胞の子どもが人間らしく育ってくれるようにということで、まず子供会活動からはじめたのである。朝鮮人は朝鮮人らしく生きること、そのことが保育園の中でも具体化され、本名を名のること、そして氏族の文化を教えるようになっていった。子どもには何の抵抗もなく、日本の子どもも朝鮮名を呼びあい、朝鮮の歌を口にし、片ことの単語をいうようになった。我々は子どものその姿を見てどれほど感動したかわからない。
地域で子供会活動を担ったのは、日立闘争を担った「朴君を囲む会」の中の韓国人部会に属する青年たちであった「朴君を囲む合」は闘争勝利とともに、発展的解消し、闘争の過程で組識された全国の仲間とのつながりを保つべく、そして新たに民族差別と闘うべく「民一族差別と闘う連絡協議会」が結成された。「朴君を囲む会」の韓国人部会は名称「在日同胞の人確を守る会」とし、地域に根をはった、即ち具体的な同胞の実態に即した運動をしようとしだしたのである。
当初、「人権を守る会」のメンバーの大多数は全て韓国教合の青年会のメンバーでもあった。闘争の過程で川崎に移り住み、教会に来るようになった朴君が「人権を守る会」の会長になった。在日大韓基督教川崎教会とは、川崎に住む在日韓国人民衆の教会であり、日帝時代の抑圧の中で信仰を守り続けることによって固く民族性を保持してきた集団である。ただ単に教会堂を守るということより、礼拝堂を開放して何か社会に役立つことをしたいという願いから、保育園が作られた。無認可保育園、桜本保育園がそれである。保母をはじめとする保育園関係者は、すべて教会員であった。そして、「朴君を囲む会」韓国人部会の主要なメンバーは、川崎教会員であったのである。
地域社会に奉仕をしたいとしてはじめられた保育園にあって、在日朝鮮人同胞子弟をどのようにするか、民族差別をどのようにとらえるといった問題意識が欠如していたことは否めない。我々は日立闘争の中で学び成長した。闘争の進展が教会のあり方、保育のあり方に大きな影響を与えるようになった。そして闘争の勝利が我々に大きな自信を与えてくれた。民族保育ということを打ちだした保育園の方針は、日立闘争の進展と勝利なくしては考えられないといっても、それは過言ではないと思われる。保育園はより多くの子どもを抱え、民族クラスをもつに至った。そして無認可保育園から公認の保育園になった。それが社会福祉法人青丘社、桜本保育園である。
6.児童手当闘争へ
日立糾弾の地域集合が新たに作られた教会堂でもたれたとき、保育園の歩みが語られ、集会に参加した父母から、韓国人が児童手当をもらえないのは差別ではないかという問題提起がなされた。
我々は夏休み、集中子ども会活動のあと、日立に諮問委員会を認めさせた完全勝利によって、新たなターゲットとして、「人権を守る会」を中心にしながらその児童手当及び市営住宅の問題に取り組んだ。我々はまず、公開質問状を市長に出した。我々の予期に反して一発回答で、「出す」ときたため、運動はそれ以上盛りあがりようがなかった。それでも、児童手当ては行政の回答があっても市議会での条例変更がなされなければならないと知り、冬休みに集中して署名運動を展開した。そして説明会ということで行政の人間を呼び、2度にわたる集会をもった。川崎の田島地区において、ほぽ100%の該当者児童手当を申請し、もらっているという事実は、運動の進め方、民族差別の理解の仕方において不十分な点がありながらも、我々が必死になって家庭訪問をし、動いたことによっているのである。
夏の「人権を守る会」による子ども会は、週一回、池上の韓国会館で同胞子弟を対象にして継続してもたれてきたが、児童手当闘争に集中したことと、民団側からの使用禁止の命によって中断されてしまった。
一方、保育園では卒園した子どもの追跡がなされていないことに対する責任が痛感されており、その保育園の意向と、「人権を守る会」のやる気がひとつになって桜本学園が創られた。学園としては、スローガンとして基礎学力を謳ったものの、本当の目的は、保育園活動の実践の上に立って同胞子弟を確保し、それに民族教育をすることにあったのである。
しかしながらそのうち、学園に来る子どもたらの中でも日本人が多くなり、教師にも日本人が増えはじめた。日本人教師はいろんな方面から来た人たちであり、当初は文字通りヘルパーとして考えられていた。そのとき日本人主事の存在意義をめぐり、また、「青丘社の存在意義をめぐり、日立闘争を担ってきた者を含め日本人の中で活発なはなしあいがあった。
7.「ロバの会」の活動
一年間の学園活動を経て、小学枚卜3年生を対象に学童保育「ロバの会」がつくられた。数度にわたる民生局との交渉と、その会に出席した地域の母親たちからの強い要求に支えられ、「ロバの会」は市の委託事業として出発した。その初代専従がP主事と、保育園から派遣されたMさんである。
我々は今まで、民族差別と闘う主体は、韓国人自身でなければならないという自覚から、「人権を守る会」の活動を行ってきたが、その際、社会福祉法人青丘社という基盤は、あらゆる活動、発言が南北のいずれの側に有利かという基準で見られる状況にあって、我々の民衆の要求をすくいあげ、組織化しようとする運動が公的に認められ、保障される場であると考えてきた。そしてそのことは、児童手当の活動が南北の既成団体より反対を受け、説明会の開催すら危うくなつたとき、あそこは思想と関わりのない、住民の福祉の向上を計る団体(社会福祉法人)であるということで最終的に行政当局が我々の協カを打ち出したということに、見事に象徴きれている。
8.青丘社における活動の点検
青丘社の位置づけは、一言でいえば、民族差別と闘う砦というものであった。事実、保育園にあってもこの8年に及ぶ歩みは、民族学級がいかに必要であり、その中味をどうするのかということを模索する過程であった。学園の設立、ロバの会(学童保育)もまた、その創設の動機においては、保育園でなされてきた民族教育によって本名を名のるようになった子どもたちが、小学校に上がっても正しい民族的自覚をもって生きていけるようにするためには、どのようにすればいいのか、ということから出発したのであり、我々の関心は同胞子弟にあったと言っても過言ではない。
9.保育園活動の歩み
保育園の歩みを知ることは、青丘社の存在基盤は何なのかということを理解するのに必要不可欠なので、各現場においても充分に検討する必要があると思われる。
保育園においては、民族クラスのあり方について討論されても、日本人クラスのありかについては、青丘社桜本保育園の存在意義とからみあわせ充分に考えられてこなかった。従って、唯一の日本人保母であるK先生ひとりに、その日本人クラスの教育はまかせられてきたのである。しかしながらそのことは、日本の子どもたちのことを等閑視してきたのではない。むしろその点は逆なのである。即ち、保育園の設立以来、抽象的に子どもをみるということで、同胞子弟のことがなおざりされてきたからこそ、その反省として、我々の生き方とからみあわせて同胞に対する民族保育の必要性が痛感され、具体的に取り組まれたのである。
当初、桜本保育園の保育内容としては、日本名の保母もおり、日本社会の差別的雰囲気を気にしながら-というのは、韓国人が経営しているということを押し出せば、保育園そのものが経営的に成り立たないのではないかという危惧があったのである-キリスト教精神に基づいたということと、物理的に日本人と韓国人がいるということでの「国際性」が強調されるのみで、保育の中味として民族のことが問題にされてはいなかった。
しかしそのうち、在日朝鮮人として、我々はいかに生きればいいのかということの模索と保母自身のめざめによって、「韓国人は韓国人らしく」が共有化されるようになった。そうして保母自身が本名を使い、子どもにも園の方針として本名を名のらせるようになってきたのである。
朝鮮の歌も教えられるようになった。挨拶も朝鮮の言葉でなされるようになった。はじめ、抵抗を覚えた日本の父母には、日本の子どもが隣人の文化を知ることは、国際性を身につけることであると説明された。確かに、日本の子どもたちにとっては朝鮮名で朝鮮人を呼ぶことを当り前のこととし、朝鮮の言葉を知るということには大きな教育的な意味がある。しかし、同胞の子どもにとってはどうなのか、これ程の民族教育で本当に朝鮮人として生きる自覚をもつのに力となるだろうか、ということが言われはじめた。同胞の子どもには歌にしても、遊具にしても、もっともっと集中的に民族的雰囲気の中で育てる必要があるのではないか。このように民族学級が作られたのである。
クラスを分けるようになって、事実、同胞の子どももその母親たちも、目に見えてのびのびと振るまうようになった。クリスマスのとき、韓国語でオペラをやるのを見て、民族舞踏をするのをみて、感動しない親はいない。我々はここに民族教育のひとつの大きな、肯定的な成果を見るのである。
一方、民族クラスができるということは、結果的に、日本人クラスができたということを意味した。しかし、その存在意義については充分には検討されなかった。日本の子どもにも、朝鮮の歌を教え、文化に触れさせること自体が、子どもにとっていいことなのだということ以上の教育理念はなかった。言葉としては「日本人は日本人らしく、韓国人は韓国人らしく」と言うことが言われたが、そのことは朝鮮人性を否定しようとしている韓国人自身にとっては、中味のある言葉であっても、日本人にとっては、教育の中味になるようなものではなかった筈である。
桜本保育園が民族性を打ち出すことは、アメリカンスクールで西洋文化の様式でなされる教育に対して、希望者であればアジアの人間も入れるというのと同じように、地域におけるコリアンスクールのイメージを打ち出すことであり、そのことは同胞子弟にとっては必要であるばかりか、日本の子どもにとってもいいことなのではないかというように考えられた訳である。
しかしながらそのような思考は、地域に住む日本人の子どもにとって何が必要なのかという発想から出たものではない、副産物として生まれた日本人クラスの存在意味は、将来的にはなくなっていいものなのか、或いは青丘社の事業にとって(理念にとって)なくてはならないものなのか、後者だとすれば、その教育理念とは何なのか、このようなことを唯一の日本人保母であるK先生は考え、続けたに違いない。それは同時に、自らの存在意味を問うものであり、日本人教師の存在意味を見つけようとする努力であったのである。
このような模索の中で、障害児保育を日本人クラスの特色としていこうと試みられた。そうして昨年から、民族保育と障害児保育を青丘社桜本保育園の2本の柱にしようということになったのである。保育園では現在、現場において民族差別と障害児差別の他、具体的にどのような差別があるのかを取り出し、それらを全て並列化したうえでどうすればいいのか検討中であると聞く。それは言い換えると、抽象的な「差別」ということを軸にしながら、現場における差別を並列化、羅列化しようとする考えであると言えるだろう。教育理念における具体的な中心軸がなく、現場に即してということで個々の事例をとらえるとき、そのようなことがおこるのである。
先に述べたように、保育園における韓国人クラスの教育理念は、民族文化に触れさせ、民族的素質を高めて、正しい民族的自覚をもつことができるようにするということにつきる。我々は、先にそのことの肯定的な面を考えたのだが、日本人クラスで障害児との接触の中で養われる人間性の深まりということ以外、地域の実態に即した理念が出ていないというのは、実は、日本人クラスだけの問題ではなく、民族保育そのものにおける問題性を示しているのではないだろうか?
民族教育というとき、子どもと子どもをめぐる親の生活実態との関係まで目が行きながらも、民族差別によって歪められた子どもの実態にまで肉薄できず、民族差別を地域の様々な差別のひとつとして並列化してしまうというのは、我々の側にそのようになるしかないような、民族差別こ対する理解があったからではないだろうか? このことは、実に重要な点である。それは保母ひとりの問題意識に還元すれるものではなく、「人権を守る会」を中心にして進めてきた我々の民族差別と闘う運動そのものの質と関連していると考えられる。そして、今後の青丘社のあり方を決めるものであると言っても過言ではない。
「民族文化に触れさせ、民族的素質を高めて正しい民族的自覚をもつ」ことを目的とした民族クラスの理念のどこに問題があったのだろうか? そのことは、我々が民族差別をどのようなものとして捉えていたのか、ということと密接な関係がある。
即ち、我々の考えるレベルで民族差別を考えるとき、それに負けない子どもにするには上記のような方法であるべきだと考えたのだが、そのことは、民族差別によってひきおこされる非人間化現象は同化にあるととらえたということなのだが、実はその扱え方そのものに問題があったということなのである。
同化(日本人化)というのは、朝鮮人が時代の流れと共に日本社会(文化)に溶けこむといった単なる自然現象ではなく、日本人社会が朝鮮人に強いてきた作為であると我々は考えた。つまり同化とは強いられた杜会現象なのであり、その同化こそ日本社会の差別の表われであると理解したということである。朝鮮人はダメな民族だ(とされている)から、同胞子弟は朝鮮人であることを隠そうとするようになる。
それに対して、どうして朝鮮人であることを嫌うのか、同じ人間ではないか、我々も朝鮮人として胸を張って生きようではないか、そして、我々朝鮮人に対して朝鮮人であるということだけで条件を制限しているもの(児童子当や奨学金制度〉や、朝鮮人そのものがよくないとしているような事例(東京新開の記事)があれば、それは民族差別として闘っていかねばならないと考えたのであった。
このように民族差別をとらえると、同化現象こそ民族差別の結果であるということになるので、民族差別と闘う教育戦線にあっては、同化を克服していく方法、つまり民族文化にできるだけ多く触れさせるようにすることが、民族教育の内容であるということになる。しかし、本当にそうなのか? このような捉え方の中に我々の観念性が表われているのではないだろうか? 確かに具体的なものとして、我々自身がそうであったように、差別の結果としての同化という現象がある。同化を強いられる中で、人間らしい感受性が失なわれ、物事を正しく批判的に見るような目がくもらされる。
同化という社会的、文化的現象がそのものが悪なのではなく、民族差別による同化(日本人化)の中で、個々の人間が具体的にどのように歪められ、どのように人間らしく生きることが疎外されているのか、ということが問題なのである。
ところが、我々は自分自身が同化によってどのように傷つき、逃げまわり、人間らしく生きられなかったのかということを充分知っているが故に、同化を恐れるのである。そして、同化がもたらす内容を先取りし、そのような事態を恐れ、子どもには民族的なことでいじけないですくすく育ってほしいと願うのである。自らの経験を通し具体的な内客をこめて捉えてきた筈の「同化の悪」が、同化そのものが悪であるというように抽象化されてくる。我々の内から込み上げてくる熱い願いが、逆に子どもを見る目をくもらせている。
同化(日本人化)を望む子どもの生に既に歪みがある。我々はその歪みの中に民族差別を見、なんとかしなければと思うのだが、子どもが日本人のようになりたいと願うのは単に差別されたことが嫌だということではなく、具体的な生活上の困難からの解放を志向しているにもかかわらず、我々はそれを同化への志向だと抽象化、観念化してしまった。
朝鮮人であるが故に親の職業が安定しない。貧しい、ケンカが絶えない。親は怒鳴ることしかしない。親、兄弟を見ていて自分もまた将来に対する希望を失う…。その結果、当然のこととして、情緒の不安定な子、言いたいことを口で正しく伝達できず大声で叫ぶか、暴カでしか意志表示のできない子。そして、そういう幼児体験が低学カの温床となり、「非行」に走るか、あるいは無気力な生活を送るようになるのである。それが民族差別ではないか!!
このように考えてみると、保育園において民族教育とは、朝鮮の文化的な雰囲気の中に浸らせるだけでなく、どのように民族差別の結果、子どもの様々な能カ(可能性)が殺されているかという事実に目を向けるべきである。そして、その潜在的な能カが民族差別によって殺されたままにされるのではなく、充分に発揮できるようにしなければならない。それが民族教育の中味であるべきではないか。
実に、正しい民族教育は、民族差別が在日同胞の民衆の生活、人格をいかに破壊しているのかということを見抜くことなくしてはありえない。同胞の生活実態に目を向けることなく、子どもはかくあってほしいという教育理念を語れば、それは我々の主観的希望がいかなるものであれ、子どもにとって真にこの社会を生き抜くのに助けになる筈はない。
10.地域の現実に密着した民族教育を!!
民族教育というものが以上のように考えられると、保育園における日本人クラスのあり方も、日本人クラスの教育理念はどうあるべきかという発想ではなく、この地域における子どもにとっていかなる教育が必要とされているのか、という観点から検討されるべきであろう。我々が同胞子弟にとって最も必要な教育(民族教育)を志向するとき、それは、ひとり同胞子弟だけにとどまらず、日本人の子どもにとっても必要なものである筈である。
地域の問題性-我々はそれを民族差別を生み出している社会の問題性ととらえる-は、在日同胞子弟に顕著であるとしても、この地域に住む日本人の子どもにも同じく現われていると見なければならない。
そういう意味において、青丘社桜本保育園で問われていることは、まさに地域の現実に密着した教育をすることであり、それは民族差別を克服する教育をいかに進めるかという理念をかかげ、具体化することである。保育園こおける歩みを概観してきたが、それは学園を含めた青丘社のあり方にまで及ぶことは言うまでもない。現在、学園においてよく言われていることは、青丘社というのは地域活動をする場であるから地域にある諸々の問題(そのうちのひとつとして民族問題があり)を日本人と韓国人が各々分担しあいながら共同してやっていける、それが共同闘争だというものである。青丘社の存在意義をめぐる根本問題であるので、その考え方の是非を検討したい。
まず、学園の日本人教師は、青丘社はどういう場であるのかという理解から、学園に来るようになったのだろうか? 地域活動をするという理念を揚げている団体は、この地域にいくつかある。どうしてそういう団体ではなく、青丘社という場で地域活動をしようとするのか? 思想信条に関わらず、生活レベルの問題として民族差別を克服することが、それが同胞民衆のみならず、日本の民衆にとって必要なことであるという命題が成立するのでなければ、この青丘社の存在意義はなくなるのではないか。
もし、青丘社における共闘ということが、民族差別と闘い克服することは、在日朝鮮人の解放にとってのみ必要な課題であるとして、その闘いを相対化し、地域問題の一部として位置付けるものであるならば、それは結果として、民族差別を克服するということの歴史的、社会的な意味を矮小化するのみならず、闘う力を削ぐことになるということを言っておかねばならないだろう。
しかしながら、新しく学園に来るようになった日本人教師が混乱していることの原因は、根本的には青丘社の存立意義と闘う目的をきちんと説明しきれなかった、また、彼らを指導しきれなかった同胞側にあると見るべきであろう。我々の方で、民族差別と闘いそれを克服するということが、同胞にとってのみならず、地域社会にあっていかなる意味をもっているのか。
大きく言えば、在日朝鮮人の解放は日本人の解放と実質的にいかなる関係にあるのかということを、実践的にそして理論的に充分解明できなかったことが青丘社の意義をめぐる混乱を招いたのである。今後、実務を通して、在日朝鮮人の解放なくして(民族差別の克服なくして)日本人の解放はないということが理論的にも深められなければならない。
今、学園において、青丘社全体において議論されなければならないのは、真に民族差別を克服する運動、教育をなすことは地域全体の解放を志向する質をもたねばならないというテーゼの是非ではなく、そのテーゼを具体化するにはどうしたらいいのかということである。
目の前の個々の事例を追うことからは、全体像は作れない。明確な中心軸を据えることによって、即ち、運動の全体像と目的をはっきりと決定する中で、個々の事例に対して責任をもってあたれるのである。そのことは、部落開放教育が部落解放という中心軸をもつ中ではじめて、地域にある在日朝鮮人や障害児の問題にまで責任ある運動がくめるようになった-未だそれはごく一部でしかないが-ということからしても類推されるであろう。
さて、最後に川崎の奨学金制度における民族差別を糾す運動が、どのような意味をもつのかということに言及したい。
我々は先に、同化という現象の中で具体的に子どもがどのようにして非人間化されているのかを知らねばならないという結論に達した。差別を観念的にとらえるのではなく、社会生活における実際の姿に肉薄しなければいけないということである。
我々が日立闘争を闘ったとき、あれは朴君の生活権の確保という観点からして、非常に切実で具体的な闘争であった。しかし、それ以降、たとえば児童手当、市営住宅闘争のとき、我々は、権利における不平等が社会生活の上において、在日朝鮮人にいかなる状況を強いているのかといった実態まで肉薄できなかった。
行政闘争は、在日朝鮮人に対する制度上の不平等をなくす闘いではない。不平等を無くす闘いを通して、生活と人格破壊をもたらしている社会的実態(それが差別の本質である!)を変えていく闘いである。行政における制度上の差別が問題であるならば、それをなくすればことは済む。しかし、行政の責任を追求するのは、在日朝鮮人の抑庄された社会的状況を放置することによって、ますます差別を拡大しているからである。
行政上の制度が変わることによって、在日朝鮮人の社会的実態がすべて変わる訳ではない。社会的実態を変えるのは、朝鮮人自身の力であり、それなくしていくら制度が改善きれても、それは所詮、恩恵にしかすぎず、何の足しにもならない。我々青丘社の力量が圧倒的に不足しているとき、この行政闘争にいかなる目的を設けるべきなのか? それは、一言でいえば、具体的に勝利していく過程において、民族差別を克服するための力量を蓄えるということにつきる。
地域の日本人民衆は、東京新聞の記事を肯定するような意識をもたされている。朝鮮人もまた然りである。また朝鮮人民衆は自らの生活の要求を具体化する場をもたない。このような現実の中で、我々は闘いを組もうとしているのである。全地域的に展開されるべき署名活動を通じて我々は、まず地域住民の実態を知ること、朝鮮人のみならず、日本人民衆が何を求めているのかを知らねばならない。そして、署名活動を通して、それをテコとしながら目的意識的に学園の父母に、そして多くの住民に働きかけ、彼らから学び、彼らと共に闘わねばならない。
我々の目的は、在日朝鮮人の生活と人格破壊をもたらす民族差抑に対して、多くの同胞と共に要求を出して闘い、そして、そのような民族差別が存在していること自体が、日本人民衆の解決を疎外していると考える日本の友人とともに、この地域全体の解放を志向するところにある。
事務局で準備した資料をもとにして、各現場で充分な討論がなされ、我々の教育戦線の日的と意義を明確にしながら、地域に肉薄した実践がなされるように期待してやまない。 目次へ TOPへ
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