2015年2月23日月曜日

シンポジウムは成功裏に終わりました




          シンポジウム「原発と差別、戦後日本を再考する」

                         問題提起        
                                         崔 勝久


みなさん、こんにちは、今日はようこそシンポジウム「原発と差別、戦後日本を再考する」においでくださいました。このシンポジウムのためにわざわざ遠く、アメリカやフランス京都、大阪からもいらしてます。私はこのシンポジウムを企画した共同代表の一人で、NPO法人、No Nukes Asia Actions (NNAA)の事務局長、原発メーカー訴訟の原告の崔勝久と申します。今回のように1枚のチラシも作らず、ネットで情報を流してこのようなシンポを開催したのは初めてです。口コミでも随分と話がひろがったようです。ありがとうございました。

小出裕章さんと白井聡さんのご紹介は司会者の方からなされましたので、私のことを少しお話ししたいと思います。私は日本生まれの在日韓国人、今年で70歳になります。私は在日朝鮮人とは何か、自分はどのように生きればいいのかということをずっと悩み、考えてきました。小中高時代は日本の名前を使い、日本人のように生きてきました。大学の時、と言っても50年くらい前の話しですが、私は在日青年朴君が日立を相手に起こした、日立就職差別裁判闘争に関わりました。国際的な支援を受けたこの日立闘争は、裁判においては日立の差別を認め日本社会の差別の実態を明らかにし、その中で在日が本名で生きる意義について言及した画期的な判決を勝ち取り、運動の面では直接行動で日立に差別を認めさせ、朴君の入社を受け入れさせた完全勝利におわりました。

この運動を通して、自分のことを隠そうとしてきた私は日本の植民地支配の価値観が自分自身の中に巣食っているということをしっかりと自覚するようになりました。社会の価値観、歴史観を批判的に見る第一歩を歩みはじめたのです。この日立闘争は、多くの日本の青年たちと一緒に勝ち取ったもので、世界でも注目され、ニューヨークやソウルでは日立不買運動がおこりました。

私はその後、川崎の地で地域活動を始めました。在日の子どもが地域でも胸を張って生きていってほしいと願い、そして地域での具体的な差別に対して闘っていかなければならないと思いました。日立勝利集会を川崎で開いたとき、参加した在日の地域住民から、同じ税金を払っているのに、児童手当をもらえない、市営住宅に入れないというのは、日本人に限るという法律があるが差別ではないのかと質問され、私ははっと気づきました。それから川崎市との交渉がはじまり、川崎市は私たちの要求を受け入れました。その運動は全国に川崎方式ということで広がりました。そのあと年金、そして指紋押捺の運動も勝利し、最終的には法律を変えることになったのです。

3・11の福島事故に出会い、私は大きな災害の前では国籍・民族にかかわりなく人はみんな一緒に死んでいくということを実感しました。そして国籍・民族を超えて協働して社会を変えていこうとネットで訴えました。そうしたら、<クソ朝鮮人、日本から出て行け>という声が広がり、私は3度、グーグルを使えなくされました。そのような中でも原発はなくさなければならない、輸出させてはいけないということを強く思い、私はキリスト教会を中心に原発体制を問う組織を立ち上げ、そしてモンゴルに飛びました。モンゴルを核ゴミの捨て場にしようとする日本、アメリカ、モンゴル間で秘密の契約があることを知ったからです。

それからアジアで具体的な反原発運動を起こすべきだと考え、NPO法人No Nukes Asia Actions (NNAA)をたちあげ、提起したのが原発メーカー訴訟です。日本では20万人のデモが起こり再稼働反対の声がひろまったのですが、原発事故を起こしたメーカーの責任を問う声は一切聞こえませんでした。まず圧倒的に多くの人は、あの家電の日立、東芝それにアメリカのGEが原発メーカーということを知りません。圧倒的に多くの人は東電にのみ今回の福島事故の責任があると思いこまされています。

メーカーのことを知っている人は、製造物責任法、いわゆるPL法は原発メーカーには適用されない、メーカーの責任を免責することを明記した原子力損害賠償法、原賠法があるからだめ、やってもむだと言い、結局、メーカーの責任は不問に付されていたのです。私たちはなんとか原発メーカー訴訟を立ち上げたいと思いました。法律があってもおかしいものはおかしい、メーカーの責任が問われずどんどん輸出しているのを黙って見ていていいのかという気持ちでした。そしてなにより、私には日立闘争や川崎での地域活動の経験がありました。

そして福島事故を起こした原発メーカーの責任を問う、原発メーカー訴訟の原告を全世界39ヶ国から集め、4000人が原告になってくれました。今年からその裁判は始まります。そうしてわかったことは、原賠法は日本だけでなく、韓国、台湾、及び原発建設を計画している国はすべてメーカーの責任を免責する法律を持っているということでした。福島事故を起こしたメーカーは3・11以降もどんどんと世界に原発を輸出しています。その中心は日立、東芝、三菱重工、という日本の国際企業です。私は原発体制とは、アメリカを中心にした核を持つ国が、核を持たない国に核の不拡散をねらい、「原子力の平和利用」という言葉で作り上げた、核による支配・抑圧を目的にしたものであるということを知るようになったのです。原発は核兵器と一体です。日本は潜在的核保有国なのです。

原発は差別の上で成り立っています。まさに原発は都会ではなく地方で建設され、被曝労働者の存在を前提にして運営されています。ウラン燃料の発掘、精錬、供給をはじめ、原発そのものが一国ではなりたちません。原発体制は、国際社会における大企業の連携、そして国家間の力関係の上で成り立っているのです。従って反原発運動は一国平和主義の枠を超え、国際連帯運動として取り組まれるべきものであると、私は運動をする中で確信するようになりました。差別に対する闘いは国家・国民の枠を超えていくしかありません。観念的に加害者・被害者と分けるのではなく、国家によって与えられた偽りの共同体でなく、私たちが国家・民族の枠を超え自分たちの手で信頼する仲間を作り上げるしか、この闘いは勝てません。

広島、長崎の被爆経験を持つ日本が、戦後の経済復興・経済発展の掛け声とともに、あっというまに54基の原発を作りました。そして原発の輸出を始め、今や世界の原発の建設は日本抜きに語れなくなっています。どうしてそのように狂気の沙汰としか言いのない事態になってきたのでしょうか。また今になって、安倍の時代になって、日本の平和と民主主義が危うくなったのではありません。日本は植民地支配の罪を徹底して悔いることなく、戦争責任を曖昧にしてきました。白井さんのご指摘のように、敗戦を終戦と言い繕いながら、戦後の平和と民主主義の中で日本は原発体制を作り上げたのです。従って、自由と繁栄、議会制民主主義とは何であったのか、国民国家とは絶対的なものなのか、資本主義はこのまま続くものなのか、これまで当然視されてきた戦後の歴史観、価値観は今、根底から問われています。

混とんとする日本社会にあって私たちはどのように生きればいいのか、どのような社会を作りあげればいいのか。本日、お二人の講師からお話を伺い、その後の参加者との議論を通して、私たちは自分の生きる場で今日学んだことをしっかりと受けとめ、かみ砕き、そして自分の言葉として発酵させながら、現実に立ち向かいこの社会を変革していきたいと願ってやみません。今日の長丁場のシンポジウム、どうぞお楽しみください。ありがとうございます。







1 件のコメント:

  1. 2/22(日)のシンポジウム「原発と差別、戦後日本を再考する」に行って来ましたが、小出裕章さんも白井聡さんも、原発の問題は軍事=核武装の問題であると強調されていたのが印象的でした。シンポジウムの講演で色々なことが整理され、「原子力=核」であり、日本はもともと核兵器を持ちたいがために「原子力の平和利用」の名の下に原発をつくり、核兵器保有国になる準備を着々と進めてきたのだということが自分の中で以前よりさらに明確になりました。

    "nuclear"という同じ英単語が意図的に巧妙に、ある時は「核」、ある時は「原子力」と訳し分けられ、"nuclear development"も北朝鮮やイランがする時は「核開発」、日本がする時は「原子力開発」とされているというようなことは、もっと一般に知られるべきだと思いました。

    『永続敗戦論』の白井聡さんの話は非常に「腑に落ちる」ことの多いものでした。また、コメンテーターの大野光明さんの言われた「コンセントの向こう側のことに対する想像力を」という言葉は、前日行った樋口健二さんの原発作業員の写真展につながるもので、共感しました。

    ...と、単なる感想ですみませんが、主催者の皆さん、有意義なシンポジウムをありがとうございました。

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