2015年2月20日金曜日

小出裕章氏と白井聡氏を迎えてのシンポジウムを持つにあたって


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小出裕章氏と白井聡氏を迎えてのシンポジウムを持つにあたって        

崔 勝久 

原発は差別の上で成り立っている、この事実の重さを不覚にも、私は3・11の福島の原発事故以降、実感させられました。使用した核ゴミの処理もできず、存在するだけで自然を汚染し、地域住民の健康を害し、今回のような事故が起こった場合はもう取り返しがつかない悲劇をもたらすのに、どうして54基もの原発が広島と長崎を経験したこの日本で作られてきたのでしょうか。今になってみると、まさに狂気の沙汰としかいいようがありません。しかしこの原発体制はまさに戦後日本がどのような社会であったのかということを表しているのです。

戦後日本は、国民国家としての立て直しを図るのに、「平和と民主主義」を旗印に、まさに国民一体となって経済復興を最大の目的にして作り上げたのがこの原発体制ではなかったでしょうか。「原子力の平和利用」を看板に、経済復興・発展のためのエネルギー政策として石油に代わる電気をつくりだすための原発の建設。廉価で、安全で炭酸ガスを出さずクリーンであるという原発の神話が官民学マスコミを動員して作りだされたのです。

しかし3・11の福島事故でそれが嘘であることが一挙に可視化されました。戦後の経済復興と繁栄の陰には、沖縄を切り捨て、アジアの植民地支配の歴史を深く捉えることなく在日を切り捨てる国家戦略があり、国内的には原発建設を受け入れることを余儀なくさせられた地方と都会の格差という、国内植民地主義の実態があったのです。

原発体制の本質的な問題が深められず、アベノミクスなるまやかしの言葉で経済復興を掲げる安倍政権が誕生しました。また同じことの繰り返しです!いつでも戦争に参加できる体制を準備し、近隣アジア諸国との緊張を生みだし、国内の地域と階層における経済格差と、ジェンダー差別やナショナリズムに基づくレイシズムを増大させ、原発の再稼働・新規建設そして原発を輸出する戦略につながっていくでしょう。

今問い直すべきは為政者のあり方だけでなく、「平和と民主主義」を掲げながら、議会制民主主義の制度の下で国民国家の枠の中に留まり、「我らと彼ら」という国籍を基準にものを考え、「我ら」の利益のために「彼ら」に犠牲を強い、そして結局、その「我ら」そのものが立ちゆかなくなってきている日本国家を中心にするその価値観、歴史観ではないのでしょうか。

そもそも日本の「平和と民主主義」とは何であったのでしょうか。それは取り戻すものとしてあるのではなく、実態としては、一国の平和と一部の階層のための、公害を生みだし原発体制を正当化するイデオロギーであり、それを決定してきた議会主義という制度であったのではないのでしょうか。一国の平和と市民の人権でさえ世界の列強(アメリカ)との関係で決定される法治国家の実態、民意が反映されることのない議会主義と「擬制としての自由民主主義」の問題点、努力が報われるという幻想の上で成り立ち自由競争を原理とする新自由主義によって更なる格差と矛盾を生みだしている資本主義の本質的な問題点を抉り出さない限り、時の政権の批判で留まっていたのでは、この社会に未来はないと思われます。

「原発は差別の上で成り立つ」ことを歴史的、社会構造的に解明し、閉塞状態の日本社会を突破していくには、「平和と民主主義」を掲げる市場主義と議会主義を前提にする国家の制度の枠を超え、一人ひとりが自分の中のあらゆる神話からの解放を求め、格差と差別の壁をこじ開ける日常的な闘いをはじめ、世界の仲間と手を繋げていくしかありません。

私たちが『永続敗戦論』で日本の敗戦と福島事故の無責任な実態の類似性から考察を深め、敗戦を認めることなく「終戦」と言い繕い、戦後日本が、アメリカの傘下で「平和と民主主義」を謳歌してきた姿の危うさを徹底的に暴いた白井聡氏と、原発が存在することそのものの危うさ、原発がまさに差別の上で成り立っていることを繰り返し語り、具体的に原発の問題を一般市民に訴えて来られた小出裕章氏をお招きして講演会をもつことは、まさに時代の要請であるように思えます。

2.22シンポジウム実行委員会 共同代表)




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