在日のアイデンティティを求めてー個から出発
1.はじめに
かつて「歴史の非条理」という言葉を遺言として日本社会を告発して焼身自殺した、ある在日朝鮮人のクリスチャン青年がいました。「人騒がせなことをして申し訳けありません。しかし、これは、被植民地支配下の異民族の末えいとして、この国の社会の最底辺で二五年間うごめき続けてきた者の、現代日本に対するささやかな抗議でもあります。」(山村政明「抗議・嘆願書―とりわけ早大二文当局およびすべてのニ文学友に訴える」(1970.10.5)。自らの死を賭して語った「歴史の非条理」、「ささやかな抗議」、何と重い言葉でしょうか。この言葉には個を抑圧している具体的な差別社会に対する激しい怒りがこもっています。日本社会批判の言葉です。気のきいた幾ばくかの提言で「歴史の非条理」が解決されていくはずがありません。
しかし私は、歴史社会の矛盾のただ中で生きながらその矛盾の克服を望み、たとえわずかでもその止揚の過程に参与していきたいと願うのです。では歴史を変革する主体は誰であるのか。「歴史の非条理」の中で現実に翻弄され生きる無名の民衆こそ、歴史の変革の主体であると私は考えます。
言うまでもなく、在日朝鮮人は日本の朝鮮植民地支配の過程で生まれてきました。日本の植民地支配の徹底した清算こそは、日本が将来に向けてアジアの平和に寄与し、自らが開かれた社会になっていくために必要不可欠な歴史的責務であると私は考えてきました。
この異国にあって、私達の親は黙々と必死になって家族を支える為に生きてきました。そして私達は今同じ道を歩みつつも、より人間らしく生きたいと願っているのです。ここではそのような在日朝鮮人の一人として、あくまでも自分自身の歩みとその中から見えてきたことを記そうと思います。
2.私の生い立ちとファミリー・ヒストリー
私は1945年12月に、日本の敗戦の年に大阪で生まれました。母の10代の子供です。父は戦前から職人を雇って作った靴を売りさばき、戦後、母は小さなカレーの専門店を難波ではじめ、それが評判になり心斎橋の一等地で店を構えるまでになりました。父が決めてきた商売を実際にやり続けたのは母であり、母はレストランやパチンコ、ジャズライブの店を運営するようになりました。私たち家族は道頓堀が目の前で、心斎橋と宗右衛門町が交差する角地の店舗の上に作った三階に住んでいました。順調であったはずの店はその所有権をめぐり、今をときめく吉本興業との裁判に敗け、「断固命令」でそこから出ることになりました。私の中学3年のときです。
私は経済的には何ひとつ不自由のない環境の中で育ちました。活発で勉強のできる「いい子」でした。学校は公立の小中学校を出て大阪府立のK高校にはいり、中学のときからやっていたバスケットボールを続けていました。
私にとって唯一どうしても人前では言えず隠していたこと、それは自分が朝鮮人であるということでした。だから高校を卒業するまで、親しくなった友人にだけ実は自分は朝鮮人であると、そんなことはどうでもええやないか、関係ないやん、という答えを期待しながら告白していました。しかし周りの友人はみんな私の出自を知っていたと思います。
母について
母は私たちの一家の没落で、愛人を囲う父に見切りをつけて二人の息子を連れて出て行きたかったようですが、父は息子だけは絶対に手放さいと言い張って裁判になり、結局、私たち二人の息子は父と一緒に住むようになりました。
母は二人の息子を置いて家を出ていきその後も喫茶店を続けていました。そして日本人男性と再婚し帰化をしてまったく日本人として生きてきたのですが、その日本人男性が病気で亡くなり、現在90歳をすぎた母は今も元気で、大阪で一人で住んでいます。私はアメリカにいる弟と話し合い協力しあって毎月母に会いに行くようにしています。
母は私たちの小学校の学校参観には必ず来てくれました。私の自慢のきれいなママだったのです。彼女は私が小学校の生徒会長になり、大阪市全体の生徒会長の集まりでその議長になったときのことを今でも昨日のことのように、「あんたは頭がようて話が上手やったさかい」と口癖のように話すのです。いつまでも小ぎれいな母のあの芯の強さ、したたかで決して他人の悪口は言わず他人を惹きつける如才のなさは、実は戦前、韓国の大邱から日本に渡ってきて解放後帰国した大家族の生活環境の中で身につけ、難波で父が決めてきた数々の商売を手がける中で磨かれたものなのでしょう。元気な母と過ごす機会が増え、彼女の振る舞いを間近に見ながら断片的なはなしを聞き、強くそのことを感じます。
その母と近年、2度、韓国の大邸に行きました。最初は彼女の妹たちと弟に会う最後の機会と思い弟と一緒に連れて行ったのですが、彼女は韓国語を聞き取り、簡単な日常会話ができることを初めて知りました。大家族の中で両親は韓国語で会話していたからなのでしょう。よく食べ、よく笑い、よく話していましたが、まだこれからも韓国に行く体力はあるようです。彼女の家族は特に祖母をはじめ女性が長寿らしく、「お姉さんは百歳まで生きるわ」とみんなから言われていました。いつまでも元気で長く生きてくれることを祈るのみです。
祖母とは私がI大学に在学中に大学の交流プログラムで訪韓したとき1度だけ会ったことがあります。小柄で、髪をピッタリと後ろで束ねチマ・チョゴリを来ていました。私が帰国する時釜山港まで見送りに来てくれたのですが、そのとき、自分のことを「わてなあ」と大阪弁で話していたことが耳に残っています。
父について
父は1918年の生まれで在命していれば2018年で100歳になっていました。いつもおしゃれで多くの女性から愛された父は寡黙でしたが押しの強さがあり、直感の鋭さ、行動力、そして涙もろさというのは、生来の性格に加え、広い交際範囲の中で培われてきたものだろうと思います。私が今年の9月に初めて訪れた、北朝鮮の黄海道シンチョン(信川)という所で生まれ育ちながら、彼の父親の死後、母親と兄妹の5人で満洲の朝鮮人居住地の間島に行き極貧の生活をしたそうです。
父はそこで腸チフスにかかり隔離されていたとき、母親が何度もそっと様子を見に来たらしく、それを幼かった父は来るなと言ったじゃないかと怒鳴っても、母親はまた覗きに来たというのです。その話を私にするたびに父は涙を流していました。おそらく祖母は感染して亡くなったのだろうと思います。
北間島での生活も母親の死によって家族は離散せざるをえなくなり、父は一度は信川の故郷にもどりながら、11歳のとき一人で生活の糧を求めて日本に渡ってきました。満洲でもまた日本に渡ってきても学校に行くことはなく、朝鮮語と日本語の読み書きはできなくとも持ち前のバイタリティ(生活力)で、戦前は靴の販売をやりながら、戦後は母にカレーの専門店をさせながらそれを手がかりにして、ついには大阪の一等地で大きなジャズライブの店など数々の新しい商売をはじめました。
父は戦前から日本のボクシングフアンの間で人気のあったフィリピン選手のベビーゴステロをスカウトし「オール拳」というボクシングジムのオーナーとなり、1947年の戦後最初の日本チャンピオン決定戦では6階級のうち2名のチャンピオンを出しました(城島充『拳の漂流 「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(2003年 講談社)。ベビーゴステロと日本初の世界チャンピオンになった白井義雄を連れ占領下の1951年に渡米したときのことはおぼろげながら私の記憶にあります。
同郷のよしみか、戦後テレビが普及しはじめた頃一世を風靡した、プロレスラーの力道山とは相撲時代から彼の死に至るまで兄弟付き合いをしていました。戦後、占領期が終わり大衆社会の到来とともに、日本社会から疎外されていた在日は芸能界やスポーツ界で活躍しはじめていたのですが、父はそういう在日との交流をよくしていたようです。外車のオープンカーを乗り回していたのもそのころです。ただただ成功の野望を持ち続けた父は長男の私を偏愛し、私は一度も叱られたり殴られた記憶がありません。しかしついに私の家族に破局がきました。
父が作った違法ビル
私が中学3年のとき、私たち家族は大阪心斎橋の一等地から出ていくことになりました。母は引っ越し先からある日、愛人を作り好きなようにやってきた父と別れるいい機会と思ったのでしょう、弟を連れて一人で引っ越し先から出ていきました。その後、裁判で弟も父が引き取ったのですが、私と父が二人で暮れしていた頃の話です。ある日、私が中学校から帰ると家には誰もおらず、隣のおばさんが、「あんたとこ、トラックいっぱい来て難波球場の近くに引っ越したみたいやで」と言ってくれたことがありました。とりあえず難波球場の方に行ってみると、その近くで父がいつものポーズでシェバークリームを顔に塗りながら髭を剃り、多くの人たちに引っ越しの指示をしていました。2階建の瀟洒な家でした。
その家を父が10年ほどの間に地下1階、地上8階のビルにして読売新聞とNHKで不法建築と大きく報道されたことがありました。父は建築士を入れず、自分で毎日、正月もなく、釜ヶ崎から多くの人夫を雇い入れ、鉄骨やセメントを買い人夫に仕事の指示をして、とにもかくにもそんなビルを建ててしまったのです。そのビルにボクシングジムを入れ、テレビ中継されたこともありました。
父が作った違法ビルでしたが、そのビルのやり繰りは叔母夫婦がやることになり私たち兄弟と一緒に住みました。父は最上階のジムで寝泊まりをしていました。そんな家庭の混乱のなかにあっても私と弟のニ人が何ら経済的に困ることなくそれまで通り学校生活ができたのは、叔母たちのおかげでした。叔母は母のすぐ下の妹で、戦後、母の家族が全員祖国に帰るなかで、そのときおなかに私を宿していた姉の面倒を見るようにと、一緒に日本に残ったのです。お店のことが忙しい母に代わり、実際に私をかわいがり世話をしてくれたのはその叔母夫婦です。しかしそのうち、家の権利の所在をめぐり私の最も恐れていた事態である父と叔母夫婦との争いになり、叔母夫婦は私たちのためだと言ってその家を出ていきました。それは高校生活の最後の時でした。
周りからは同胞の成功者と見られながら、吉本興行との裁判で負けて大阪の一等地から立ち退き余儀なくされ、妻にも逃げられ、有名な女優であった愛人とも切れた父は、北朝鮮に帰ろう、カネでもめることのない所へ行こうと言い出しました。彼にとっては最も苦しい試練のときであったに違いありません。一人でさみしかったのでしょう、彼は若い、彼に同情的な日本の女性と同棲をするようになり、叔父たちが私たち兄弟のことを考え家から出るようになると正式な結婚をし、今度は私たちと一緒に住むようになりました。若い義母は私たち兄弟によくしてくれました。しかし父は結局彼女を追い出しました。彼は別れた、逃げて日本人と結婚するようになった最初の妻、私たちの母のことが忘れられなかったのです。なるべくはよう別れてお前たちの母親に帰って来てもらったほうがええのやと、ニ番目の妻や私たちに言い張っていましたが、再婚していた母は戻るはずもなかったのです。
父の記憶
母は優しくかぼそい声で歌っていた記憶がありますし、彼女の妹で私をかわいがってくれていた叔母も同じような声で歌の上手な人でしたが、私は父が歌を歌っているのを聞いたことがないのです。
私は父がいつ頃から教会生活をしていたのかわからないのですが、おそらく朝鮮の信川か満洲の間島にいた頃日曜学校に通っていたのかもしれません。日本の植民地下の朝鮮では教会がたくさんあったからです。大阪の西成教会の金元治(キム・ウォンチ)牧師とは戦前の教会の青年会で一緒で昔から交流があったようです。父は西成教会の会員でした。金牧師は父の性格を知り尽くし、父が無茶なことを言い張り私と揉めることがあって父から呼ばれて家に駆けつけると、「スング(勝久)、我慢しいや、我慢してたらそのうち会長の怒りがおさまるんやから」と私をたしなめてくれるのです。私は金牧師が涙して父の暴言を黙って聞いていたのを何度も目撃したことがあります。しかし父は私が東京の大学から休みで大阪に帰ってくると必ず自転車で難波の家から金牧師の牧界する西成教会に私を連れていきました。
父は東京の大学にいる私が卒業したら大阪に帰ってきて自分の事業を手伝ってくれることを願っていたのでしょう。しかしそういうことを口にする人ではありませんでした。彼が自分で作った違法な地下1階、地上8階のビルには金融や、占いをする人、経営学校などが入っていたので毎月の家賃収入がありました。あの阪神大震災のときにも素人の造った継ぎ足し継ぎ足しのビルは倒れませんでした。真偽のほどはわかりませんが、両隣の家主がビルを建てた時、うちのビルが倒れないようにより深く掘り基礎を強化したのでそれで大丈夫だったと聞いたことがあります。
父はいつからか高級外車を乗ることをやめ、目一杯ボリュームをあげたラジオを聴きながら自転車を愛用していました。毎朝、自転車で釜ヶ崎に行っては自分の洋服を買うものですから、釜ヶ崎の店主は父が古着を転売する商売をしていると思っていたようです。うちのビルで占いをする中年の女性は毎日、父が買ってきた洋服を父に合うように縫製し直していました。父は家で食事することはなく、毎晩ビアホールで音楽を聴きながら食事をしていました、ナンバ界隈で難波の「斉藤会長」を知らない人はありませんでした。ボクシングジムは実質的には廃業していたのですが、街のヤクザもオールボクシングジムの元練習生が多く「斉藤会長」に一目置くのです。しかし父はヤクザとのつきあいは利用されるからしてはいけないと私に言っていました。その不法ビルは父が毎日のように釜ヶ崎の労働者を連れてきては工事をしていました。
学歴もなく学校にも行ったことのない父でしたが、好奇心が強く、私が在日大韓基督教会青年会の修養会で聖書学者の田川建三さんを講師にお願いしたとき父も参加し、休み時間に田川さんに自分のわからないことを質問していました。新聞も読まない人でしたが、ラジオでいつも誰かの講演を聞いていました。そして早朝、クリスチャン・センターでの朝食会には毎週参加するのです。私がビジネスの関係でソウルである会合を企画した時、それに参加した父は夜のクラブでの二次会で見事なジルバを踊っていたものですから、私の父とも知らない参加したご婦人方はあの人は誰やのとささやきあっていました。
そのうち、父は私も弟も知らないうちに再婚するといい出し、父に関心を寄せる、私と同い年の韓国から来た女性と金元治牧師の司式で結婚式をあげました。2回目の結婚式の披露宴のときには、大阪市長、力道山や歌手の小畑実や野球選手など有名人が沢山集まっていましたが、3回目のときは私たち兄弟だけでした。彼女は家のやりくりをすべてし、父の老後、最後まで面倒を看てくれたのですが、彼女は父が亡くなって私たちと遺産のことでもめるのはいやだから元気なうちに離婚をするので慰謝料がほしいと言い出し、1億円のお金を要求しました。しかしその金額は、ビルが難波の高島屋の近くの一等地ですから当時の土地の価格からしてもそれほど無茶な要求ではなかったのです。
それまで父は私がやっていたビジネスには一切タッチせず、子どもたちに自分の財産に手をださせなかったのですが、この時には父名義の自社ビルと土地を担保に提供することに合意してくれ、私は川崎の銀行と交渉しました。借り入れ目的が父の慰謝料と聞き銀行は驚いていましたが、私の境遇を理解してくれ私の会社の事業費の名目でお金を貸してくれました。
この銀行との交渉のときに私は青年にもなっていない長男を連れていきました。彼はどういうわけか、祖父が川崎まで来て銀行に担保提供の手続きの書類に署名をしたとき、涙していました。彼はハラボジ(祖父)とそんなに頻繁に会っていたわけではないのですが、祖父が日本に11歳のときに来た境遇と、自分が中学のときからアメリカで生活してきたことを重ね合わせていたのかもしれません。長男は性格も振る舞いも祖父にそっくりで、後日私たちが香港に行ったとき、彼は自宅にハラボジの写真を飾っていました。父もそのような孫をかわいく思っていたようです。
私の大学入学
私はまた父が家の工事をはじめたこともあり家を出て、大学受験を前にして何ヵ月も友人のところを転々とするようになりました。どういうきっかけでそうなったのかはわかりませんが、私は大学の願書はそれまで一度も使ったことのない、全くききかじりで知ったチェ・スングという本名でやってくれと担任に申し出ました。ひょっとしたら中学3年のとき、外国人だから高校入試の願書をだすにあたって外国人登録済証明書をとってこいと突然言われ、職員室で泣き出した記憶があったからか、あるいはどうにでもなれと思っていたのかも知れません。私は訳もなく早稲田の政経に入って政治家になるんだと、そんなことはありうる筈もないということを知りつつ言いふらしていました。それは私自身、自分が朝鮮人であるということを受けとめられず、将来どう生きればいいのかわからない不安をかき消すための強がりだったのでしょう。大学受験は当然のように失敗しました。
私は一浪の後、現役のときには受けようとも思わなかった私立大学にさえ入ることができず、何のあてもないのにアメリカへ行こうと思いだしました。日本から逃げ出したかったのです。英語を勉強しアメリカの大学の入学許可をとっても、それまでずっと父から経済援助をしてもらっていたのですが、経済的な状況から所詮行けそうにないことがはっきりしてきた年末から、私はまた受験勉強をはじめました。そうして1966年に二浪してそこが日本では最もアメリカの大学らしい雰囲気だというので東京のI大学に入りました。I大学では私はサイ(崔)君で通っていました。登録はすべてチェであったのですが、どこか本物の朝鮮人からは逃げ出したかったのでしょう、私はサイの方がみんな呼びやすいだろうと言いわけしながら、自分のことをサイと言っていたのです。
I大学では寮生活をしていたのですが、同室の先輩は私が在日だと知ると、君は3・1運動のことをどう思うのかと質問してきたことがありました。大阪府立高校を卒業した私は、植民地下で朝鮮の民衆が「万歳」を叫びながら東洋の平和と朝鮮の独立を求める非暴力の運動を朝鮮半島全域ではじめ、5・4運動など中国やアジア全域に大きな影響を与えた3・1運動とは何のことかわからず、自分のことであるのに在日の歴史に関しては何も知らなかったのです。全く同化され、歴史意識も、家族の渡来の歴史さえ知らない、知ろうとしなかったのです。
その後川崎の在日大韓基督教会に通いはじめたとき、オモニ(母の韓国語)とは何のことかと周りの人に尋ね驚かせたことがありました。私の家族の生活はすべて朝鮮人であることを隠すことによってなりたっていたのです。家の中には朝鮮らしさを感じさせるものは何もありませんでした。しかし私の意識の中には自分が朝鮮人であるということは知っており、周りに知られることにないようにと思っていたのです。遠い親戚になる、言葉に朝鮮語訛りのある叔母さんが運動会にくると、私はとても嫌がっていた記憶があります。それでも高校を卒業するとき、大学受験は本名でと担任に申しいれたというのは、私の心の奥底に民族の問題は何も解決されないまま残っていたのです。
3.民族の主体性を求めて
3-1.教会との出会い
寮生活をしながらI大学の雰囲気に浸りきっていた私が、民族という逃れようとしても逃れられず心のなかで解決されないまま残っていた、韓国籍でありながら日本語しかできず実態としては日本人と何も変わらない自分が何者かを模索するアイデンティティの問題と正面切ってぶっつかっていくようになったのは、大学1年の夏の在日大韓基督教会青年会全国修養会に出るようになってからです。これは父が強く私に勧めてくれたものです。私にとっては驚きでした。百名以上の在日同胞が集まっているところに参加するのもはじめてであったし、彼らはクリスチャンということで私の抱いていた、堅苦しくインテリ臭いイメージとは違い、とても頼もしく思えました。そして修養会の後、私は川崎にある在日大韓基督教会川崎教会に通うようになりました。そこでは李仁夏(イ・インハ)牧師の説教は韓国語の後日本語に翻訳してくれていましたし、何よりも若い人が多く、いい先輩にも恵まれ私はここに来ようと決心しました。
そうして在日大韓基督教会の青年会活動に参加することになり、同年輩の同胞と在日とは何か、自分はどう生きればいいのかということを徹底して話し合う生活をするようになりました。
亡くなられた李仁夏(イ・インハ)牧師について
当初、自分と同じような歳頃の青年達が毎日曜日、遊びにも行かず礼拝に出るということ自体が不思議でしかたがありませんでした。ましてや日曜日の朝から教会学校の先生をやっていることにびっくりしたのですが、そのうち自らすすんで在日大韓基督教会青年会活動に参加するようになっていきました。私は同胞の交わりに飢えていたのだと思います。教会のひとはみんな私のことを受けとめてくれました。
故李仁夏牧師は私に対して、ある日、将来、川崎教会の牧師になることを考えてみないかと、大きな信頼と期待を寄せてくださいました。しっかり勉強しなさいということであったのでしょう。
李牧師は私が朝日新聞で、ある在日青年が日本名を使って入社試験に合格し、求められた国籍謄本は韓国人だから提出できないと担当者に話し解雇されたということを知り本人に会いに行ったことから積極的に関わるようになった、日立就職差別裁判闘争(以下、日立闘争)を担う[朴君を囲む会]の韓国人代表になり全世界的な運動を展開する中心的な役割をはたされ、また日立闘争と並行してはじまった国籍条項を撤廃する地域活動に積極的に関わってこられました。ご自身は在日大韓基督教会川崎教会の牧師であるとともに教会が作った社会福祉法人青丘社の桜本保育園の園長であり、同時にNCC(日本キリスト教協議会)の総幹事やWCC(世界キリスト教協議会)の人種差別闘争委員会副委員長の重責を果たされました。
晩年は川崎市の多文化共生政策の柱となった外国人市民代表者会議委員長として市の外国人施策にとって欠かせない働きをされ、川崎市社会功労賞、朝日社会福祉賞を受賞された、文字通り川崎を代表する、行動する知識人だったのです。また韓国の朴正熈政権に抗する民主化闘争にも陰ながらに積極的に関わって来られました。
私はその李仁夏牧師から本当に公私にわたりお世話になりました。李牧師は私のような生意気ざかりの在日2世の思いや悩みを理解し、しっかりと支えてくださったのです。そして何よりも大学生の時に教会に行きはじめ一緒に青年会活動をしてきた女性との結婚の司式をしてくださったのが李仁夏牧師でした。彼女を小さい頃から知る李牧師は私たちの結婚を心から祝福してくださいました。
後日、無認可の立ち上げのときから教会の保育園で勤めた妻が保育園のお母さんたちと一緒になって保育園に問題提起をしたとき、私は主事として彼女たちの問題提起を支持しながら、園長でもあった李牧師を園長職を全うしていないのではないかと批判をしました。また川崎市の門戸開放と多文化共生政策は外国人を国籍によって差別する「当然の法理」を前提にしているのに、李先生はそれに無批判であり行政に迎合し特権を享受しているのではないかと苦言を呈したことがありました。しかし李仁夏牧師はそれでも、最後まで私を信頼してくださったことに深く感謝しています。
李牧師が在命されていたら、その後私が積極的に韓国のキリスト者たちと一緒に推し進めてきた反核平和連帯運動に心からの支援を惜しまず一緒に運動をされたのではないかと思います。ご冥福を祈ります(2008年6月30日 逝去)。
私は李牧師や教会員の期待に応えるべく川崎教会の中に溶け込み、全力で地域活動を押し進めました。私は毎週土曜日に教会で寝泊まりし、日曜の朝は李牧師のお宅で朝食をいただき、日曜学校の教師をするようになっていました。教会のひとはみんな当然のこととして私のことをスング(勝久)という本名を呼んでくれました。はじめのうちぴんとこなかったその名前にも慣れ、だんだんそれが自分の本名であるということを実感するようになっていきました。日立闘争の勝利判決があったとき、私たちは躊躇なく、当然のこととして川崎教会で多くの仲間と勝利の礼拝を捧げました。
在日のアイデンティティについて
しかし本名を名のり同胞の交わりの中に身を置いても、私の心のモヤモヤは晴れませんでした。当時教会の機関紙でこういうことを書いています。
(韓国人としてのアイデンティティを持つのに)本名を名のればそれでいいというものではない。それは一種の習慣だからである。僕は本名を名のり、朝鮮人の友人と交わるようになっても、まだ自分が何者かはっきりしなかった。在日朝鮮人とは一体何者なのか、日本人と僕達のどこが違うというのだ? 徹夜をして話し合ったこともある。違いを見つけて自分の朝鮮人であることを「客観的」にはっきりさせたかったのだと思う。本名のままで帰化をしようと考えたこともある。国籍とは単なる符号にすぎないと「合理的」に解釈しようとしたのである。しかし、それはやはり逃避であった。僕は朝鮮人であることの内実を求めた。すなわち、朝鮮人を朝鮮人とするものは何なのかと。私がようやく得た答え、それは歴史ということであった。
在日朝鮮人にとって民族主体性とは何か、アイデンティティ(帰属性)をどこに求めればいいのかということに私は悩み続けました。それは自分が何者でどう生きればいいのかわからなかったからです。しかし私は自分の在日朝鮮人であることに固執しました。自分自身の悩みに正面から向き合おうとしたのです。そうして自分のように朝鮮人である事実をいまわしく思い、その事実をあるがまま受いれられないのは、実は、私個人の問題ではなく、私の意識そのものが過去からの歴史と朝鮮人を差別している日本社会の実情を反映しているからだと理解しはじめました。
私は川崎教会から全国の在日大韓基督教会青年会で活動するようになり、日立闘争に関わるようになりながら、私たちが人間らしく生きるには、差別し同化を強いるこの日本社会を告発しなければならない、本名で日本社会に入っていかなければならないのだと主張しはじめました。私には教会を含め既成の民族団体は、位置付けとしては本国の民主化・統一によって在日朝鮮人も解放されるのだといいながら、在日同胞の受けている差別の現実と取り組もうとしていないと思えたのです。私はキリスト教信仰の中に自分の生き方を見出そうとしました。教会学校のクリスマス劇の中で、日本人になりたいという娘に対してオモニ(母)の口を通して次のような台詞を言わせています。
パカタレ! 母さんはカッコウ(学校)いってないんで偉い知識ないけど、自分は何者かということ、よく知っとるよ。お前たちは朝鮮人なんだよ。神様は朝鮮人を朝鮮人としてつくられたんだよ。タカラ、朝鮮人であることを嫌がるのは自分を憎むことなんだよ。人間はな、差別をする人も、差別に負ける人も、差別をタマッテ(黙)つて見ている人もみんな罪人で神様から離れとるんだよ。
この台詞のあとでオモニ(母親)は小さい船で釜山から密航してきたときのこと、これまでその密航がばれて捕まらないようにどんなに気を使ってきたのかということ、どんなに必死になってお前たちの為に生きてきたのかということを娘たちに切々と語って聞かせるのです。これは教会の子供たちに実際の彼らのオモニたちの歴史を知らせることでもありました。
私は同化された自己を歴史的存在として捉え、もはや逃げることなく、積極的に現実社会に関わろうとしました。民族の歴史を知り、在日同胞の置かれている状況がわかるにつれ、このような社会は変革されなければならないと強く思うようになったのです。旧約聖書にある出エジプト記のモーセを読み、エジプト王室に育ちながら同胞の悲惨な現実に触れ、躊躇、固辞しながらも神に導かれて同胞の解放を実現していくモーセの生き方に自分の生き方を重ねていきました。
大学闘争から教会青年会の活動へ
I大学での学園闘争において、現実の問題をとりあげ大学を批判して変革していこうとする学生運動を目の当たりにしてきた私は、この世の権威、制度は絶対的なものでないということを思い知らされました。そして大学闘争との関わりから教会を中心にした青年会活動に比重を移していくことになります。
1967年のI大学での本館封鎖のとき、学生と話し合おうとしない教授会に対して私はその本館前で一人、エレミヤ書の「偽わりの平和」を糺す聖句を引用したパネルを立て大学当局に抗議するハンストをしたことがありました。私のハンストにI大学教授会は驚き、教授会の代表として学生の主催する集会に出て学生との対話を約束する先生がいました。哲学者の川田殖(かわた・しげる)さんがその一人です。川田さんは私のいた学内のキャンパスにある寮に一時ご家族でお住まいでした。彼の主宰する聖書研究会で1年間ルカ福音書を学びました。ハンストの後、しばらく川田さんのご自宅で療養させていただきました。私が悩む在日の生き方に直接言及されることはなかったのですが、人として物事に真摯に接する姿勢や信仰者としての生き方について私は聖書研究を通じて多くを学んだように思います。やさしく微笑みながら語られるのですが、その中に強靭な精神力を私は何度も垣間見ました。
もうひとりI大学で忘れられない先生は田川建三さんです。当時は新進気鋭の聖書学者として学生の立場に立って教授会で発言し最終的にはI大学当局から解雇されました。私は在日大韓基督教会の夏の修養会の講師を田川さんにおねがいしました。新約聖書、特にマルコ書では世界的な研究者であることは知っていましたが、彼の書物は民主化闘争に関わり投獄された韓国の学生たちも読んでいたと聞いています。『原始キリスト教史の一断面』、『批判的主体の形成』、『歴史的類比の思想』、『イエスという男』は繰り返し読みました。キリスト教信仰を個人の魂の救いとする教義を強調するより、イエスの実際の生き様を通して社会の弱者への共鳴と社会の構造的な不義に立ち向かう、人としてのあり方を彼のマルコの注解書を通して聖書と照らし読みながら学びました。
田川さんは聖書に関する書籍としてはキリスト者でない一般の人の間でも鮮烈な文明批判の書として最もよく読まれるという多大な貢献をされたのですが、残念ながら、I大学は彼の教会批判を受け入れず放逐しました。彼の聖書学者としての世界的な水準での研究を評価せず、キリスト教関係の大学はどこも彼を受け入れなかったのです。しかし私は今でも何か岐路に立たされる時、田川さんならどう考えるだろうかと思うことがあります。
I大学は学生の9割が全共闘を支持するような大学で、私は闘争の最中に全共闘のリーダーたちと個人的に話し合いをしたことがありました。私は彼らに在日朝鮮人には選挙権がないこと、また当時の入管法の改悪の問題点などの説明をしたのですが、彼らはまったく関心を示さず、私がいくら訴えてもそのことと今の大学闘争との関係について考えようともしませんでした。それで私はI大学の全共闘運動を支持するが、彼らとは今後運動を一緒にはやっていけないと内心思い、在日大韓基督教会の青年会に全力で関わるようになったのです。
70年代当時は、世界各地で変革を求める声が渦巻いていました。フランス、アメリカ、ベトナム、日本そして韓国において、学生が社会の不義に立ち上がった時代だったのです。私達もまた「時代精神」(池明観)を体現していたのでしょう。
3-2.朴君との出会い
被害者意識としての民族意識
朝日新聞(「われら就職差別を背負って
ボクは新井か朴か」1971年1 月12日)の記事を見て、日本の学生の支援を受け日立の民族差別に対して訴訟をおこした朴鐘碩(パク・チョンソク)君のことを知り、私はすぐに彼の下宿を探し会いに行きました。私は、日本名を使い日本人らしくなろうとした朴君の中に過ぎし日の自分を見ました。どうという展望があるわけでもなく、ただただ朝鮮人だからということで黙認されている民族差別の実態をあばき、差別をし同化を強いる社会の構造を明らかにして変えていかなければならないという気持ちから、[朴君を囲む会]をつくり、積極的に彼を支援する闘争(「日立闘争」)に参加していきました。私は朴君の訴訟を手がかりにしながら、在日朝鮮人としての生き方を語りはじめました。
ぼくが自分のことを在日朝鮮人であるというのは、この日本社会にあって抑圧され、差別され、虐げられている民の一人であるということであり、そこから必然的に人間性の回復と社会正義を求めて生きるということを言っているのである。自然のうちに育まれた「素朴な民族意識」はなく、かといって国是やイデオロギーを前提にした「国民意識としての民族意識」ももてず、日本社会の差別的、閉鎖的、排外主義的な実相を反映したところの「被害者意識としての民族意識」しかなかった私にとっては、何はともあれこの自らの被害者意識と闘い、その歪んだ意識を克服することに全力を傾けるしかなかった。
「差別社会の中でいかに生きるかーわれわれの教会の反省と反省」
「在日朝鮮人」であると叫ぶことは、同化され差別されてきた者の日本人社会に対する怒りと告発を中心にした、しかし己自身は日本人とも本国の人間とも違うと意識されてきた激情の発露であり、歪められた人間性を取り戻す為の必要不可欠な作業であったのです。しかし日本にあっても韓国教会の中で育ち家庭の中で民族的なものに触れて生きてきた多くの教会の青年にとっては、私の主張は我慢のならないものであったようです。特に、「朝鮮人として日本社会に入りこむ」ということは同化につながり、日立就職差別裁判は日本社会に逃げ込もうとする同胞の同化現象を更に押し進めるものだと断定されました。私は民族反逆者、同化論者の烙印を押され、在日大韓基督教会の青年会代表委員をリコールされました。
私をリコールした青年会の中心人物であったC君はその後、秘密裏に朝鮮に渡り神学生として韓国に留学し学友を組織化したというスパイ容疑で逮捕されました。私の知る限り同世代の中では最も鋭い問題意識をもっていたC君は、私とは違う形で民族の解放を願い、その生き方を貫徹していったのでしょう。
民族の主体性というのはあくまでも、祖国の統一や民主化の運動と一体化(連帯)していくことである、このように教会青年会のみならず、民団、総連を問わず、足下の問題や地域社会の問題は民族運動にとって本質的なものではないという認識ではー致しており、政治的スローガンを掲げる民族団体は押し並べて日立闘争を無視しました。本名を偽り、何よりも愛知の現住所を本籍地にして自分を隠し日本の大企業にはいりこもうとするような、同化され民族主体性がない青年が民族差別だと騒ぎたて裁判にする資格があるのかと。
日立裁判は民族差別にもとづく就職差別を問題にした日本の裁判史上はじめてのもので、日本社会の差別と同化の実態をあますことなくあばいていきました。私はリコール後もその裁判闘争に関わり、「在日朝鮮人問題」とは「日本人及び日本社会の間題」として深く受けとめられるべきであると各界に訴えかけました。
私は運動の中で「在日朝鮮人に対する同化教育についての考察-解放後の大阪を中心に」という卒論を書きあげ、その卒論によって、「在日朝鮮人問題」の所在を明らかにすると共に、「日本人化」されてきた自分自身の歩みをきっちりと「清算」させたかったのです。卒論の結語は在日朝鮮人の主体性(結び)で終わっています。
われわれは、徹底して「在日朝鮮人」であることに固執する。その固執は、「在日朝鮮人」であることに開き直り対日本人との関係においてのみ朝鮮人であることを止揚していかんとする、朝鮮人としての「生き方」なのである。われわれは、目的意識的にナショナルなものに固執し続けるであろう。それはまた、歴史における人間の「解放」への参与であることをわれわれは確信している。われわれのいう在日朝鮮人とは祖国につながり、普遍的歴史につながる質をもたなければならないのである。
私の中に日本人社会への告発だけではいけないという意識が芽生えていました。しかし在日朝鮮人への関心と差別と闘う実践が民族の歴史にあってどのような意味があるのか、そのつながりがわからなかったのです。私は卒論を書き上げ結婚をすると即、ことばと歴史を学びにソウルへ行きました。そして1年間の語学研修の予定を変え、朝鮮の歴史を本格的に勉強しようとS大学大学院の歴史学科に入りました。
3-3.本国との出会い
私は韓国でまず人間が様々なかたちで生きていることを発見しました。政治的立場のみをもって韓国を論評していたとき、そこには独裁者一派とそれと闘う人間しか見えなかったのです。ところがそこには泣き、笑い、飲み、食い、歌い、生活する人間がいました。ソウルでの生活も一年を過ぎてから私は友人に「[在日朝鮮人論]の止揚を」という、当時の上気した心情を吐露した手紙を送っています。
排外主義的・差別的日本社会の中で、自我のめざめとともに逃避的な生き方から朝鮮人であろうと歩みはじめた我々は、民族を高唱することによって、そして日本社会の不正を明らかにすることによって主体性が回復されていくのであろうか。民族の歴史を担うということは極めて政治的なことでありながら、実はそれを支える思想文化の地道な創造なくしてはあり得ないのであり、我々はとにもかくにもまず母国語を習得していくことから始めなければならないように、今私は思う。そのように考えると、在日朝鮮人がやらねばならないのに、民族の高唱のわりには全くなされてこなかったことにガク然とする。我々が祖国とつながるというのは、単に感傷やこちら側の独りよがりな主張によっては不可能なことである・・・。彼らとの真の対話を進めようとするには、我々在日朝鮮人の内実があまりになさすぎる。
植民地史観の克服について
留学したのは1972年で朴正熙政権の末期の時でした。独裁と民主化運動の対立が伝えられていましたが、未だ大学生の動きのなかったときです。私はある意味で民族の本物を韓国で見ようとしていたのです。ところが私が見た韓国は、植民地支配の残滓からいまだ解放されていない状態でした。一体、本物の民族とは何なのか。日帝の植民地支配からの解放による独立と、独立国家であることを全面的に打ち出した新たな国づくり、日帝時代の対日協力者の処分のないまま、いや彼らの登用によって進められた国づくり、そして南北の対立と戦争、軍人の独裁政治、日本の商社をまねて政府の肝いりでつくられた一部の超大企業の勢力増大、一般民衆、スラム、そして社会の変革を熱く願う青年達。韓国社会の中で本物とよべる「民族観」が存在するのか・・・・。
混乱する社会の中で民族の特性としてまことしやかに語られる、党派性や事大主義、勤勉さの欠如、まじめに働く意欲に欠ける労働者、まず民族性を直さなければという言葉などを何度耳にしたかわかりません。それは謙虚な自己反省ではなく、混迷する社会に対する失望であり、いかんともしがたい現実の中でうまれた自己卑下であり、為政者に対する揶揄のことばではなかったのでしょうか。私は、それらは生来の民族性などではなく、歴史の産物なんだと叫びたい思いでした。植民地史観の克服は保守派の大統領から民主化を掲げる政権に変わっても簡単に解決できる問題ではないのです。私は、植民地史観がはびこる現実をまず直視することからはじまると思うのですが、それが実は容易なことではないのです。
S大学の歴史学者が、今日の韓国の学会における最大の課題は「植民地主義民族観」、即ち「歪められた民族観」の克服であるとして、長い日本の植民地支配の後、解放もつかの間、朝鮮戦争を経験し、アメリカ文化が押し寄せて多くの韓国人はそれをありがたがっている、しかし今の韓国の文化の水準は李朝にも及ばない、その克服の困難さと必要性を厳しく学生に説くのを聞き、私は何か新しい視点が与えられたように感じました。
私はその「植民地主義民族観」、即ち日帝時代に朝鮮支配を正当化する為に日本の学会、マスコミ全てを動員し作り上げられた所謂「皇民史観」という「歪められた民族観」の克服こそ、在日だけでなく、本国と在日朝鮮人の状況を統一的に捉えるものであると理解しました。
日本の支配層が作り上げた「歪められた民族観」は、日本社会の中で戦後も残っているということだけでなく、その価値観は、支配される側の価値観ともなり生き日々再生産されているのであり、日本社会のただなかで生きる在日朝鮮人にあっては今も克服できずにいるのだと考えました。私が留学前に提示していた「被害者意識としての民族意識」こそ、まさに、「歪められた民族観」が私の中に巣食っていたそのものであるということがわかりました。その価値観は戦後の日本社会の経済的発展の背後で生き残ったものであり、その日本を追随しようとする韓国社会がはたして植民地支配の残滓としてある自らの「歪められた民族観」を克服できるのか。私は韓国において「歪められた民族観」は一定の経済的繁栄や国威の発露にかかわらず、経済大国日本の後を無批判に追おうとする限り、払拭することは簡単なことではないと思いました。
私が韓国に渡って見えてきたことは、「被害者意識としての民族意識」として自己分析していたものですが、それは日本社会の実相を反映したものであるということは既に留学前に理解していました。その意識(価値観)は戦前意図的に作られ今も生きるものであり、「歪められた民族観」は、歴史的かつ現在的な課題として克服されていかなければならないのです。二年にわたる韓国での生活によって、「在日朝鮮人間題」は「歪められた民族観」を克服して自らの、そして民族全体の独立と自立をはかるという意味で、民族全体の課題であると確信しはじめました。
「日立闘争」に対する韓国学生運動の支援宣言
母国留学中、韓国の中で現実を変革しようという新しいうねりに出会いました。それはスラムのなかで抑圧されてきた民衆が主体となって、地域住民を組織し、自分たちの権利を要求する姿でした。地域にあるちいさな教会の中で、牧師や学生達がスラムの中にある住民の家一軒一軒を手書きの地図に描いたものを前にして、住民とー緒になって人間としての自立を求める具体的な運動を話し合っているのを見ました。私はそこに「歪められた民族観」の克服の可能性、方向性を見たように思いました。私にとっては、韓国の民主化闘争は、マスコミでとりあげられる政治的スローガンやデモ、機動隊との衝突よりむしろ、このような地道な地域活動と結びついています。
大学院で学びはじめて暫くして、私は歴史学科の学部の青年から、ある決意をしたので兄さんとはしばらく会えないかもしれないと告げられました。そして翌日の朝、ラジオで一回だけ、ソウル大学でデモがあったと放送されました。たまたま下宿でそのニュースを耳にして、昨日の青年の言葉を思いだし大学のグランドにかけつけてみると、二百名程の学生が横断幕を掲げ構内をデモ行進していました。私の知るその青年は後方で旗をもっていました。校門の正面に整列し、国歌を愛唱するなかスローガンが読み終えられるや、待機していた機動隊が突入してきました。そして全員逮捕です。それまで沈黙を守っていた学生が民主化を叫び立ち上がったのです。学生たちに続き教会、マスコミや知識人達も独裁反対の声をあげはじめました。韓国の民主化闘争のはじまりです。
日本では日立裁判闘争が続けられていましたが広く大衆的な連動になっていませんでした。同胞社会の中では金大中事件が起こり、韓国学生同盟(「韓学同」)などの在日青年団体においては本国の民主化闘争に連帯しなければならない、という運動がはじまっていたのです。
そういう中で韓国キリスト教学生総連盟(KSCF)は反日救国闘争宣言を発表して維新憲法撤廃をかかげながら、決意事項の最後で、「日立で起こった就職差別問題など日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即刻中止せよ!」と訴えました。民主化を願い、地道な地域活動をはじめていた彼らは、在日同胞の問題を民族の歴史的な課題として捉えたのです。反日集会が準備される中、私は韓国の学生に日立闘争の抱える問題と同胞の現実を訴え、ソウルでその集会をもつことを話し合う日程まで決め帰国しました。その数日後、かれらは日本企業の韓国進出を批判する集会の準備をしたということで逮捕されたことを私は日本の新聞で知りました。あの「民青学連事件」です(注:民青学連事件―1974年4月に韓国の維新政権がが発した緊急措置により、全国民主青年学生総連盟(民青学連)の構成員を中心とする180名が韓国中央情報部(KCIA)によって拘束され、非常軍法会議に起訴された事件。翌年、KCIAによる捏造であったとして無罪になった)。
4.日立闘争の経緯
4-1.朴君について
日立闘争のはじまり
日立闘争は朴君が日立から不当解雇された後どうにも対処のしようがないことがわかり困り果てていた時に街頭で出会った、ベ平連に参加していたK大学の学生達の協力、支援によってはじめられたのですが、私も韓国人として加わる中で[朴君を囲む会]が作られ、徐々に大衆的な運動に広がっていきました。この会はいかなる党派にも属さず、日立の就職差別が象徴する在日朝鮮人の現状を法律、教育、歴史、社会の各分野において詳しく調べ、そして具体的な差別の実態を明らかにしていきました。
この闘いが勝利していった要因はいくつかあると思われますが、その最大の要因は、朴君自身の人間としての成長にあったと言ってよいと思います。彼は愛知県で9人目の息子として、想像を絶する貧困と困難の中で育ちました。彼の上申書と、日本社会の朝鮮人差別の状況を公に認め朝鮮人の主体性回復に言及した朴君の勝利判決文は是非、後世に残したいものです。この判決によって国籍を理由にした解雇は「法的」に許されなくなりました。
貧困故の家庭の不和や混乱の中にいながら学校では「問題児」であった朴君は上申書の中で、じっと耐え忍び懸命に働くオモニ(母)と、兄とのいさかいから家を出てホームレスの生活をしたアボジ(父)を、4年の闘争を経てこのように振りかえっています。
私は、祖国の言葉をおぼえるにつれ、父や母が苦しい生活のなかで泣きわめいた言葉にどんなに深いかなしみと民族の怒りの訴えがこもっていたのかをしるようになりました。かつて、父や母をつまらない人間だと思い、むしろ憎んだのでしたがいまになって、その父と母がどんなに苦しみと差別にたえ、せいいっばいの愛情で私たち九人姉弟を育ててくれたのかがはっきりわかりはじめました。それを思うと私は涙なしにはいられません。私はこの老いた両親のためにも、不正と徹底的にたたかう強い人間になることを誓わないではいられません。
朴君は商業科を出たにもかかわらず、学校からプレス工の仕事をすすめられ、いったんは勤めたものの他の会社に経理として入り、結局そこでもまたプレス工の仕事をさせられました。彼は新聞で日立製作所ソフトウェア戸塚工場の募集をそれこそ「胸をときめかせて」むさぼり読み、応募しようと決め、もし合格して「一生懸命努力すれば幹部に登用されるかもしれない」と夢みたのです。現実からの逃避を願ったのでしょう。
履歴書の本名欄にずっと使っていた日本名と本籍欄に愛知県の現住所を書いた彼は、韓国籍をそのまま書けば玄関払いされることが怖かったのだと言います。無事入社試験に合格し採用通知をもらったのですが、日立から要求された戸籍謄本は外国人は取れないのでその代わりに外国人登録済証明書を持参したい旨申出たところ、日立側は突然態度を翻し、一般外国人は採用しない、こんなことになったのは朴君が履歴書に嘘を書いたからで、むしろ被害者はこちら側だという言い分で彼を解雇しました。あきらめきれない彼は何度も会社に出向くのですがらちがあかず、途方にくれているときにK大の学生達と出会い裁判闘争を決意するようになったのです。
当初この裁判においては朴君の弁護士は単なる解雇問題と理解し、日本人とかわらないのに罷めさせたことは不当であるという理解でした。朴君をはじめK大の青年達もまた同じように考えていました。私はこの捉え方を厳しく批判しました。朴君は排外主義的な日本の差別社会の中で同化させられてきたのであって、朴君は本名を取り戻していかなければいけないし、日立が能力を認めながら外国人であるという理由で解雇したことは民族差別である、この裁判を通して日本社会の民族差別の実態をあきらかにしていかなければいけない、私は自分の到達した地平から全力をあげて彼らと論争をしました。私は自分の生き方を語っていたのです。
朴君にとっては晴天の霹靂であったようです。日立を許せない、告発しようとしているのに、自分の生き方が問われてくるとは! 裁判闘争をはじめても何の経済的な基盤のないなかで彼はアルバイトをしながら闘争を続けました。[朴君を囲む会]は弁護士と一緒になって裁判の進め方を協議し、定例会を開きました。既成の民族団体では自分の場を見出せなかった、混血の青年達を含めた多くの同胞がそこに集まるようになり、民族差別と闘おうとする日本の人達と、文字通り自分の生き方を咆吼するがごとく語りあいました。
朴君はなかなか展望を見出せない裁判や生活のことでいらつくいましたが、私は彼を理解し、そして待ちました。
朴君の日立就職差別裁判闘争の勝利
彼はわかっていたのです。しかしそのように自ら生きるようになるには時間が必要でした。そしてついに朴君は川崎市に引っ越してきました。在日韓国の教会にも来るようになり、かつての私がそうであったように、教会のひとたちから受けとめられ、本名で生きはじめました。そして洗礼を受けました。教会青年を中心としながらも新しく川崎市に来た同胞青年と一緒になって、私達は絶えず自分の生き方をはなしあいました。そのなかで、日立闘争と並行して、同胞が密集するこの川崎市で民族運動としての地域活動をしよう、そしてその運動こそ民衆運動でなければならない、と考えはじめ行政闘争や身の回りの差別問題を取り上げていくようになったのです。そして同じように差別と同化のなかで生きる同胞子弟を対象にした子供会活動をはじめました。
韓国の民主化闘争を担う青年達によってその宣言の中で日立闘争支援が打ちだされてから、在日同胞の団体や日本の市民運動の反応が変わりはじめました。私たちは日本の市民運動の人たちに対して、みなさんが連帯しようとしている韓国の民主化闘争を掲げる学生たちが日立の就職差別の問題をとりあげているではないですか、みなさんも日立闘争に取り組んでくださいと積極的な支援をよびかけ、同胞団体や日本の市民運動体の支援、協力を得るようになりまた。
私を「民族反逆者、同化論者」とラク印を押した在日大韓基督教会の全国青年会も日立を批判する声明文をだすなどして支援をしてくれるようになりました。教会の婦人会のオモニ(母)達はさらに積極的でした。[朴君を囲む会]の事務局の日本の青年達は実に真摯に朴君や私達の怒りの声を理解しようと努力してくれました。[朴君を囲む会]の呼びかけ人は、日本人と在日朝鮮人青年を中心にしたこの共同闘争を絶えずあたたかく受けとめてくれたし、いつも一緒に闘ってくれました。その中心にいて私たちを励ましいつも一緒に闘ってくれた人物こそ、佐藤勝巳です。後年の彼の行動を強く批判する人たちは、佐藤勝巳の一面をもって全面批判するような事態になってきましたが、私は今でも彼への感謝の思いを持ち続けています。
弁護団は「弁護士だから-でなく」(石塚久)ひとりの日本人として、人間としてこの事件に関わり、東京地裁の検事を辞めこの弁護団の団長になってくれた人物を中心にして、この闘争に心を寄せる全ての人の英知を集めた準備書面を作成して判決を待ちました。判決は私達の言い分を認めた完全勝利でした!
戦後も現在に至るまで、在日朝鮮人は、就職に関して日本人と差別され、大企業にはほとんど就職することができず、多くは零細企業や個人企業の下に働き労働条件も劣悪の場所で働くことを余儀無くされている。また、在日朝鮮人が朝鮮人であるということを公示して就職しようとしても受験の機会さえ与えられない場合もあり、そのため在日朝鮮人の中には、本名を使わず日本名のみを使い、朝鮮人であることを秘匿して就職している者も多い。右のような現状はいわば常識化している。
このように歴史上はじめて、日本の裁判所という公的機関が民族差別の存在を認めたのです。そのうえで、朴君は日立に対して労働契約上の権利を有しており何ら解雇される理由がなかったこと、即ち日立は民族差別に基づく不当解雇をしたと日立の差別を全面的に認めました。判決「理由」文中で朝鮮人の主体性回復についても言及しています。
「また、原告本人(朴君)尋問の結果によると、原告はこれまで日本人の名前をもち日本人らしく装い、有能に真面目に働いていれば、被告に採用されたのち在日朝鮮人であることが判明しても解雇されることはない程度に甘い予測をしていたところ、被告(日立)の原告に対する本件解雇によって、在日朝鮮人に対する民族的偏見が予想外に厳しいことを今更のように思い知らされ、そして、在日朝鮮人に対する就職差別これに伴う経済的貧困、在日朝鮮人の生活苦を原因とする日本人の蔑視感覚は、在日朝鮮人の多数から真面目に生活する希望を奪い去り、時には人格の破壊にまで導いている現在にあって、在日朝鮮人が人間性を回復するためには、朝鮮人の名前をもち朝鮮人らしく振舞い、朝鮮の歴史を尊び、朝鮮民族として誇りをもって生きていくほかにみちがないことを悟った旨、その心境を表明していることが認められるから、民族的差別による原告の精神的苦痛に対しては,同情に余りあるといわなければならない」
この画期的な判決は日本国内だけでなく韓国でも報道されたので覚えていらっしゃる方も多いでしょう。しかしこの判決前に[朴君を囲む会]でおこなった、「日立闘争」勝利を決定的にした日立本社への直接抗議行動についても記しておくべきだと思います。
4-2.日立との直接交渉について
日立との直接交渉のはじまり
私達は裁判闘争と並行しながら、日立から直接話を聞こうとして、判決の予想される6ヵ月前から日立との直接交渉を試みました。不意をつかれた彼らは自分たちの正当性を主張するものの、周到な準備を重ねてきたこちらの質問に矛盾する発言をするようになり、次回の会合を約束せざるをえなくなったのです。私達はさらにかれらの矛盾を突き、ついに数度にわたって日立を直接交渉の場に引き出すことに成功しました。四度目の交渉がもたれ、日立側からは勤労部長が出席しました。
彼らはあくまでも差別を認めず、日本社会の民族差別の存在さえ否定していました。日立側は当初朴君に「一般外国人は採用しない」と言って彼を解雇したにもかかわらず、その発言を裁判においてもー貫して否定していました。しかし私達にはそのときのテープが手元にあったのです。また日立の社員のなかに運動の同調者が現れ、私達は日立の人事に関するマル秘文書なるものを入手していました。日立との直接交渉の場で私は差別を頑強に否定する部長に対してそのマル秘文書を投げつけました。それは日立の労務担当者を集めた研修会の席で学習されたものでした。
「共産党、民青等の思想的偏向者、熱心な創価学会員は雇わない、精神、肉体異常者は雇わない、外国人も積極的に雇わない・・」、結局、日立側は外国人は採用しないという内部規約をもっていながら、朴君は嘘をついたから辞めさせたのだと主張していたのです。そして彼の日本名や本籍地として現住所を書いたことをもって彼のことを「嘘つきつきな性格」と決めつけ、そのようにせざるをえない、或いはそのようにせしめてきた日本社会の問題に関しては全く知ろうともしていなかったことが明らかになりました。部長は言葉を失いました。そして次回の会合を約束したのです。私たちは勤労部長では対応できないとして、日立の責任ある立場の人の参席を求めました。
日立直接交渉の成果―謝罪の確認書
[朴君を囲む会]の運動の進展が詳しく韓国でも報道され、韓国キリスト教女性連合会が韓国で日立不買運動を展開することを決議しました。ソウル市長もまた、日立と提携している韓国金星社に対して決議文を提出しました。しかしソウル市警は時局を理由に街頭キャンペーンを不許可にしました。また世界キリスト教会協議会(WCC)人種差別闘争委員会でも同じく日立製品不買を決議しました。そして日本の国会においては公明党がマル秘文書及び朴鐘碩への就職差別問題を追求しました。このように全世界的な支援を受けながら、私達は最終局面となった次の直接交渉に入っていきました。参加者は東京駅の正面にあった日立本社の大会議室に溢れんばかりになり、青年のみならず多くの年配の同胞も日立と対峙しました。
日立の常務は冒頭、朴君の採用内定取消を撤回する声明文を発表しましたが、自分達のやったことが差別であったとは認めませんでした。参加者からの激しい糾弾の末、ようやく「日本社会に在日朝鮮人に対する差別がある」ということを認めましたが、自分たちには差別の意図がなかったと頑強に主張しました。年配の同胞から諭すように「あなただって人間でしょう。日立の代表という体面だけじゃなくて、人間として答えて下さいよ」と言われると、彼は絶句し手が震え出しました。そしてようやく、「三年間・・日立が朴君にしてきたことは・・差別であった・・・ことを・・・認めます」と答えました。しばらく沈黙が続きましたが、こちら側の事務局で作成した確認書の内容を両者で確認し
署名捺印が交わされました。団交がはじまって六時間経ちました。
確認書(そのー)1974年、日立本社会議室における、日立製作所と朴鐘碩及び朴君を囲む会の交渉の席において、双方は左記載の内容を相互確認しました。
記
朴君が一九七〇年に入社試験時に、「日本名」「出生地」を記載したことに関し日立は、それが「虚偽の記載」であり、そのようなことを書く人間は「ウソつきで信用できない」とこの間一貫して主張してきた。しかし今回、朴君の上申書を読むことによって、そのような主張は、在日朝鮮人のおかれた現実を全く知らないために犯した誤りであると気付いた。従って、この三年間、こうした誤った判断にもとづいて朴君の就業を拒否したこと、その誤りの責任が日立にあるにもかかわらず、「ウソつき」のレッテルをはることで、朴君に責任転嫁してきたこと、の二点だけでも、日立が朴君を民族差別し続けて
きたものに他ならないことを認め、日立は責任をとる。
以上、右記載内容に関し、相互確認したことを署名をもって証す。
株式会社日立製作所 常務取締役 新井啓介 印、 朴 鐘碩 印、朴君を囲む会呼びかけ人 佐藤 勝巳 印
しかし私達は追求の手をゆるめませんでした。マル秘文書に記されているように、外国人は採用しないといった採用マニュアルを作った日立の体質はどうなるのか、追求が続きました。常務はじっと聞いていましたがついに口が開き、「日立のやっていたことが民族差別であることがよくわかりました」と答え、第二確認書に合意しました。
日立製作所は、在日韓国人・朝鮮人を差別し続けてきたことを認め・・・ここに深く謝罪します。日立製作所は、今後、このような民放差別を二度とくりかえさないよう、責任ある、具体的な措置をとることを確約します。
場内に涙と笑みが広まりました。日本第二の大企業が公の席で謝罪をしたのです。日立の人間も泣いているようでした。夜の12時近くになっていました。翌日、その内容は日本と韓国の新聞で大々的に報道されました。韓国の城南教会では、朴君の勝訴を祝う祈祷会がもたれました。以上のように日立との直接交渉を行い、日立側からの全面的な謝罪と「具体的な措置」の確約をかちとるなかで、私たちの主張を全面的に認めた判決が下ったのです。そして日立の控訴断念により、国籍・民族による解雇は認められないという判決が判例となりました。
その後も「具体的な措置」をめぐって激しい対立が続きましたが、最終的には[囲む会]と日立の両者の間で「合意書」と「合意書に関する了解事項」が交わされ、「朴君又は日立に入社した在日韓国人・朝鮮人に関し、話し合いの必要が生じた場合、相互の要請により随時話し合いを行い、誠意をもって解決にあたるものとする」ということが確認されました。朴君はこの合意書のあと日立に入社していきました。勤務先は、あの日立ソフトウェア戸塚工場です。
4-3.日立闘争の意味について
これらの意識革命は、すべてアラバマ州モンゴメリーのバス・ボイコット闘争から始まった。
猿谷要『キング牧師とその時代』
同化され「被害者意識としての民族意識」しか持つことのなかった、ある意味で典型的な在日朝鮮人であった朴君の、4年にわたる闘争の中で民族の主体性を求めてきた生き方が、本国の主要新聞から「民族全体の貴重な教訓」(東亜日報)、「告発精神の勝利」(韓国日報)として評価されたことは、私達に大きな自信と喜びを与えてくれました。政治的位置づけやただ同じ民族であるという思いによって本国と在日朝鮮人を結びつけるのではなく、在日朝鮮人の生活の場での人間らしく生きる闘いが、本国の同胞と結びつけたのです。
日立闘争の意義についてはいろいろな観点から分析することが可能でしょうが、裁判の過程で民族差別の歴史と現実をあきらかにし、差別を禁じる判決を勝ち取ったことの意味は限り無く大きいと思います。これをきっかけに日本社会でのタブ-が破られ、国籍の違いを理由としたいかなる差別も許されないという運動がはじまります。金敬得氏の弁護士資格の獲得もそのひとつです。在日朝鮮人の人権、生活権という観点から、在日同胞を排除していた法律や慣習への闘いと連なっていきます。民間企業のみならず、学校教師や公務員への就職さえ門戸を開放すべきであるという動きがでてきたのも、当然のことであると思われます。
日立闘争を担った[朴君を囲む会]は、日本人と朝鮮人の両者が自前で、互いにぶっつかりそしてお互いを受けとめあいながら、一切の打算(利用主義)もなく共同で闘い切ったのです。
日立闘争を振り返ってみるとき、「民族の主体性」というのは理論ではなく、結局は人間の生きざまのことをいうのではないのかと強く思わされます。自分の置かれている現実から逃避することなく、その現実を直視し切り開いていく当事者(主体)になっていくこと、一人の人間として自立していくこと、それが主体性なるものではないのか。私にとっての日立闘争の意義は、在日の権利と民族的自覚の獲得ということにとどまらず、人間としてどのような生き方をすればいいのかということを学んだことでした。しかし「民族」を強調することの問題性を安炳茂教授は強く指摘しています。
わが国の歴史には、民族はあったが、民衆はなかった。民族を形成した民衆はその
「民族のために」という美名の下で収奪状態のままに放置された。
(安炳茂『民衆神学を語る』)
そうなのです。在日朝鮮人民衆は動員の対象でなければ募金・集金の対象ではなく、ましてや指導・啓蒙の対象であってはいけないのです。現実を直視し現実から学び現実を変革していくというのは、その民衆と共に生き、共に悩み、共に現実を切り開いていくということではないのでしょうか。日立闘争を通して私はこのことを学びました。
民族の高唱にもかかわらず具体的な同胞の実態に迫れないのは、民衆なき民族理解であるからだと言えるでしょう。しかし私は、それは思想の「観念化」によるものだと思います。人は絶えず現実から自己検証をしないと、自分で獲得したつもりの倫理や思想は観念化され、現実が見えなくなってしまうのです(田川建三)。「民族」は勿論、「民衆」や「民主主義」さえその思想は観念に陥る危険性を秘めています。ひとは民衆の現実から学ぶ謙虚な姿勢を失うとき、己の観念に陥っていることはわからないで、倫理や思想、信仰の正当性(建前)を根拠に他者の批判を受け入れないようになります。近代日本の民衆の実態を文字通り地を這うようにして調べあげた色川大吉はいみじくも語っています。
大義名分と正統意識こそが自己批判の契機を見失わせ教条主義を育てる。
(色川大吉『歴史の方法』 )
私は日立闘争によってそれ以降、試行錯誤を繰り返しながらも、絶えず具体的な問題をとりあげ現実を切り開くように生きてきました。私にとって「歪められた民族観」の克服は、人間としての自立への道であったのです。
5.民族・民衆運動としての地域活動をはじめて
5-1.地域活動のはじまり
在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事として
ソウル留学を途中で切上げ帰国した私は、李仁夏牧師を中心に韓国の民主化闘争に関わる人たちから在日韓国教会が新たに創設する在日韓国人問題研究所(RAIK=レイク)の初代主事に請われました。私は同胞社会における差別と闘う具体的な実銭の必要性を痛感していたので、単なる「研究所」なるものには関心がなく、日立闘争と川崎市での地域実践を推進していくこと、そしてわたしの行動に制限を加えないことを条件に主事を引き受けました。74年のことです。
それから思いがけない義父の死によって彼の小さな鉄屑回収の会社をひきうけるようになるまで、2年間、私は川崎での地域活動に没頭しました。韓国留学中、民主化運動とは単なる政治スローガン的な運動でなく、貧民街で教会を中心にした実にきめの細かい実践(民衆運動)をすすめていることを知った私は、帰国後、川崎市の韓国教会を中心にしてそのような、地域における民衆運動をやろうとしました。
私たちが目的意識的に川崎市での地域活動をはじめたのは、日立との闘いのさなかでした。朴君のように、いや自分自身がそうであったように、朝鮮人であることを忌み嫌い、なんとか現実から逃避したいと思っている同胞に対して、そうじゃない、私たちも朝鮮人として胸を張って差別という社会不義に抗する生き方をしようではないかということを語りかけ、同胞の子供が人間らしく育ってくれることを願い、まず子供会からはじめ地域に根をはった、即ち具体的な同胞の実態に即した運動をしようとしだしたのです(奨学金闘争に向けた討議資料「民族差別とは何か」) 。
地域活動のはじまりは保育園から
川崎市の在日大韓基督教会は「川崎市に住む在日韓国人民衆の教会であり、・・・ただ単に教会堂を守るということより、礼拝堂を開放して何か社会に役立つことをしたい」(同討議資料より)という願いから礼拝堂を開放した保育園をはじめました。無認可保育園、桜本保育園がそれです。当時、韓国人が経営する保育園だからというので地域の日本人の父母は子供を送ってこないのではないか、何か国際的という印象をもたせ日本の住民に関心をもってもらえるようにカナダの宣教師に来てもらい英語を教えようではないか、と真面目に考えられていたのです。
差別と闘うこと、本名をなのることを自分の生き方として模索しはじめた私は、保育園で英語を教えようとすることの中に潜む問題点や、韓国人保母でありながら日本名を使うこと、そしてふたつの名前の使い分けを当たり前とする教会と保育園のあり方を批判しました。本名使用はまず、内部の軋轢と抵抗の中からはじめられたのです。
日本名を使っていた保母は、保育現場で同胞の子供が泣きながら「ボク、朝鮮人じゃないよね」と抱きついてくるのを見て、この子達を受けとめるには自分が朝鮮人であることを隠していてはいけないと思い至り、本名使用を決心するようになります。そして桜本保育園は、私達と一緒に日立闘争に関わる中で、「民族保育」をめざすようになるのです。同胞の子供には全員、本名で呼ぶことが方針化され、日本の子供たちと一緒に朝鮮の歌や挨拶の言葉が教えられるようになっていきました。子供たちは何の抵抗もなく朝鮮名を呼びあいました。
地域活動の成果―国籍条項の撤廃を求めて
日立の就職差別を考える保育室での地域集会では、当該の朴鐘碩君の歩みが語られ、保育園の実践が報告されました。その集会に参加した同胞の父母の中から、同じ地域に住んで日本の人たちと同じように税金を払っているのに、法律では児童手当の対象者は日本人に限られ私たち韓国人が児童手当をもらえないようになっているのは差別ではないかという声があがりました。当時、法律で児童手当の対象者は日本国籍を持つ者に限られており、外国人は適用外であるということそのものが差別であるという認識は、私にはありませんでした。しかし地域住民の話を聞き、人権は法律より優先されるということを思い知らされました。そして川崎市長に要望書を出すことを決定しました。行政闘争のはじまりです。
どうして市営住宅には外国人ははいれないのか、児童手当はもらえないのか、日立直接糾弾闘争と並行して行政闘争はすすめられました。当時の川崎市長は、私たちの要望を受け容れ、法律は日本国籍者にかぎるとなっているものを川崎の外国人については、国籍条項を撤廃して市の責任で児童手当を支払うこと、市営住宅の国籍によって制限する入居資格を撤廃することを決定しました(1975年)。そしてこの闘争は全国に波及していったのです。そして1979年の国際人権規約の批准と、1981年の「難民の地位に関する条約」の加入により年金の国籍条項も撤廃されるようになりました。
日立の就職差別に勝利したことによって、私達は差別に抗して立ち上がれば勝つと確信するようになりました。K信用金庫は外国人にはおかねを貸さないという噂を聞いていた私たちは、在日大韓基督教会の傘下にあるRAIK(在日韓国人問題研究所)のもうひとりのスタッフにK信用金庫への融資を申請してもらいました。社会的なステイタスからして何ら問題にならないはずでした。しかし案の定、K信用金庫は彼が外国人で戸籍謄本を出せないことを理由に融資を断ってきました。それは日立と同じで民族差別なんだと、数度にわたりK信用金庫と交渉をもちました。そして最終的に差別を認めない彼らを相手に青年や地域のオモニ(母親)達が中心になって銀行で座りこみをしました。夜になって銀行の理事長は最終的に自分達のやったことは差別であることを認め、謝罪しました。
割賦の契約で買い物をしたのに、韓国人ということで解約してきたと泣きながら訴えるオモニの声にはオモニ達が呼応して立ち上がり保育園に関係者を呼び、差別を認めさせ、以後差別は一切しないことを約束させました。差別をしかたがないと諦めるのではなく、それはおかしいと声をあげ、実際に続けて私達の要求が実現されていくのを目の当りにして、私達は大きな自信と夢を持ちはじめました。朝鮮人であることをなるべく隠して生きようとし、外国人だから仕方がないと思いこんでいたのに、国籍を超えて人権、人間性回復を求める「意識革命」が始まったのです。
桜本学園の設立
朴君を中心とした青年達は、川崎での地域活動や日立闘争に関心をもった日本の青年達と協力して地域での差別闘争をすすめながら、子供会活動に本腰をいれました。家庭訪問ということで地域を歩き回りました。このような中で、小学校低学年部は学童保育として市からの援助を受けるようになり(ロバの会、市の委託事業)、高学年部と中学生部を併せて桜本学園をつくります。この桜本学園というのは、無認可から社会福祉法人桜本保育園となった保育園とあわせ、卒園した子供たちを続けて見守っていこうということでできあがったもので、私達の地域活動の核でした。
一方、保育園に子供を預け本名をなのることを求められ当惑したり、抵抗したりしたオモニ(母親)たちは、日立闘争の勝利と様々な地域闘争を目撃し、自ら参加していくなかで、自分たちオモニ自身が本名を隠さないで、本名で生きなければならないと思いはじめるのです。彼女たちは「子供を見守るオモニの会」をつくり、子供が本名で学校に通うことの苦しさを訴えて先生達の協力を求めようと必死に働きかけをするようになります。しかし小学校側の無関心と無知の壁は厚いのですが、それでも、何か子供に関する講演があると担任の先生にも来てもらおうと何度も何度も声をかけるのです。川崎市はこのようなオモニたちの熱意と要望に応えて、「川崎市在日外国人教育基本法―主として在日韓国・朝鮮人教育―」の制定をします(1986年)。
彼女たちは民族の歴史を学びはじめます。民族舞踊も習います。そして、自分自身の文集をだしていくのです。自分が経験したようなつらいことは、わが子には経験させたくない。しかし、この子には差別に負けないで、朝鮮人として胸を張って生きていって欲しい、自分の能力を目一杯発揮していってほしい・・・。私はこのようにして民族運動としての地域活動を提唱し、民族差別との闘いを民衆運動として位置付け、日立闘争の勝利をバネにして、行政闘争や個別の差別闘争をすすめながら同胞青年や地域のオモニ達の組織化に全力をあげました。
5-2.地域の実態
生活実態としての民族差別
障害のある子供たちを積極的に受入れ地域住民の信頼を得てきた桜本保育園は川崎市の認可保育園となり、同胞の子供にはもっと民族文化に触れさせてあげたいと民族クラスをつくるようになりました。私たちは地域での子供会からはじまった桜本学園を立ち上げ、朴君や同胞の青年、そして日本の青年達ボランティアと一緒になって高校受験を控えた在日の中学生たちを追いかけました。彼らを引率して合宿に行ったとき、彼らが現地で全員、雲隠れする事件もありました。高校を留年した同胞には自宅で寝泊させようやく卒業させたこともありました。このようにして地域の実態を知れば知るほど、民族差別は制度ではなく生活実態であるということを思い知るようになるのです。
私たちの行政闘争を追うように既成民族団体は全国で行政闘争をはじめました。日本人と同じ税金を払っているのに、国籍条項で差別され同じ権利が保証されていない。だから国籍条項の撤廃を訴え、何人かの幹部が行政と交渉します。朝鮮人を排除する制度が差別なのであるから、そういう制度をなくすことが差別をなくすことになっていく。若い人は民族的な自覚、プライドをもちなさい。本名使用は韓国の国威の強調と共に、当然視されていきます。共和国の在外公民だから、韓国人だから。しかし私達が地域でみた実態はそのような建前、観念が通用する世界ではなかったのです。
例えば一人の同胞子弟の抱える問題を考えてみましょう。その子は、勉強があまりできない。非常に繊細な神経を持ち主ながら暴力をよくふるう。この子供の父親(アボジ)は町の小さな鉄工所に勤め母親(オモニ)はパ-トにでている。もちろんこどもたちは日本名で通学する。両親とも本名で働いている筈はありません。学校の教師にとっては、手のかかる子供でしょう。ある日その子がまた暴力をふるい、クラスの子を泣かしたとしましょう。教師は当然なぐった子を叱り、そして一応は理由を聞くでしょう。しかし彼は何も答えません。実は、クラスメートが、朝鮮人と揶揄し、朝鮮人は朝鮮へ帰れと言ったのです。教師は、朝鮮人だからといって差別をしたことなど一度もなく、それどころか、その朝鮮人子弟に対して誠意を持って日本人と全く同じように、日本人として教育をしているのです。
朝鮮人は堂々と本名を名のって生きるべきだ、たしかにその通りだし、われわれもそう思います。しかし、あの同胞子弟になんと言って本名を名のらせるのでしょうか? 一体誰が彼をうけとめるのでしょうか? その教師に誰が、どういう資格ではなしに行くのでしょうか。いや、そもそも子供の隠された痛みを誰がわかちあうのでしょうか。あんなに親しく遊んでいる友人にも、自分が朝鮮人であることの苦しみを話せないでいる彼、本名で学校へ行けといったら必死になって抵抗し、逃げ、涙をボロボロ流しながら、実はと心情をうちあげる彼。われわれの周りにはこのような同胞子弟が多くいるのです(「在日朝鮮人の主体性について」第五回民闘連全国交流集会『特別基調報告』)。
分数の出来ない子、アルファベットのわからない子。この子たちはどんな思いで50分の授業を我慢して受けていたのでしょうか。非行、貧困、将来への展望のなさ。行政の差別はこのような同胞の実態を固定、拡大するのであって、国籍条項がなくなったからといって(制度が変わったからといって)生活の実態が変わる訳ではありません。民族差別とはまさに生活実態ですから、民衆自らが権利を求め、闘い、自分自身の状況を変革していく主体になっていくことでしかこの差別の現実は変えていくことはできないのです。
民族差別と闘う砦
生活実態に肉薄する為には民族差別と闘う砦をつくらなければならない、保育園や学園を核として、地域で差別と闘う砦をつくろう、そこから行政や学校へ動きかけよう、地域の人達の生活の安定、気の遠くなるような話です。でもそれが地域での差別と闘う民族運動なのです。民衆の運動として地域活動をやっていこう。私は先頭に立って走り続けました。在日大韓基督教会の研究所(RAIK)の主事として、地域での運動の組織化をすすめてきたのですが、保育園と学園を核として民族差別と闘う砦としていくには、朝鮮人自身が運動の当事者となるべきではないか。その為にはどうしても朝鮮人主事が必要だと訴え、私自身が研究所の職員でありながら、桜本保育園・学園の主事になりました。
一方、[朴君を囲む会]を担ってきた学生達は卒業後、それぞれの方向に歩みましたが、何人かは川崎市に残り市の職員になったり、塾を開いたり、運送会社に勤め組合を作ろうとしていました。桜本学園の中では韓国人、日本人のそれぞれの使命はなにかということが追求され、副牧師の小杉さんは保育園の法人化という大変な仕事を終えて、お互いの在り方をめぐる論争の真只中で韓国に留学に旅立っていきました。専門的な保母として日本人クラスを受け持つことになった夫人と共に地域のお母さんたちから信頼されていた小杉さんは、日本キリスト教会協議会(NCC)の責任者になって多忙な李牧師に代わり、日常の実務を引きうけ実に献身的な働きをされた功労者でした。
5-3 差別と闘う砦づくり
義父の死後スクラップの会社を継いで
義父がなくなったのはちょうどその頃でした(76年4月)。義父は同胞従業員4-5名を雇った小さな鉄屑回収の会社をやっていました。私は、民族運動は政治スローガンを掲げた観念的なものでなく、足下の、同胞の現実に肉薄する具体的なことからはじめなければならない、民衆と共に、民衆の為の運動をしようと提唱し、その先頭を切って走っていたのですが、しかし私には、自分の最も身近にいた人の苦しみがわからなかったのです。私には「運動」にそれも「民衆運動」に没頭していながら、すぐ側の生きた人の苦しみが見えていなかったということです。私自身、観念に陥っていたに違いありません。
義父は私達のやっていることをいつも黙ってみていました。日立に勝って朴君が戸塚工場に入っていくところが夜の7時のNHKニュースで報道されるのを見て、「参った、参った」と笑っていました。長女の婿になる青年が日立を相手に何か一生懸命やってるな、なにを馬鹿なことをしているのかと思っていたのでしょう。それがあろうことか、日立に勝ってNHKニュースにでているではないか。えらいやっちゃ・・・。私は結婚のー年前から居侯をし、義父とは毎日夕食時、酒を飲んでいました。
私は義父の葬式の後、主事を辞め彼のスクラップの会社を継ぎたいと義母に伝えました。長男はまだ高校生でだれも会社を継ぐ人がいなかったのです。義母は反対でした。勉強と「運動」しか知らない坊ちゃんにできるような仕事じゃない。しかし私はすぐに手形と小切手を説明する本を買ってきました。そして自分でトラックに乗ってスクラップ(鉄屑)の仕事をはじめるようになったのです。毎朝5時に起き鉄屑の回収に横須賀まで行きました。
民族差別と闘う砦づくり
桜本学園では後任の主事に同胞の後輩たちがはいるようになりました。スタッフが足らず嫌だというのを無理やり懇願して主事になってもらったこともありました。私は時間の許す限り、夜、スクラップで汚れた作業服のまま学園の現場に顔を出し、みんなを励ましていました。しかしそのうち、学園ではいろんな立場や考え方の異なるボランティアが多くなり、混乱がはじまっていました。日立闘争を経験していない、ただ地域問題に関心がある日本の青年達が増えはじめたのです。
そのとき、川崎市の奨学金制度における民族差別が発覚し、青丘社でもこの問題をとりあげ闘争が組まれることになりました。私は民族差別と闘う砦という位置付けを明確にし、地域の実態に肉薄する運動体にしなければならないと主張し、「民族差別とはなにか」という討議資料を作り、奨学金闘争を通して地域活動の全体像と目的をはっきりさせようと必死になって議論をしました(参考資料、https://oklos-che.blogspot.com/2018/10/in-1974.html)。
「青丘社運営委員会設立の経緯並びに趣旨書」(1977年11月5日)にはこのように書かれています。
青丘社の仲間も日を追って多くなり、規模も拡大してきました。しかし、実践の深まりと仲間の増加に伴って地域のさまざまな問題点が羅列化され、それが私たちの仲間の力を分散させる結果を引き起こしました。・・・青丘社は地域の諸問題を解決してゆく糸口すら見出させないままになりました。
何度もティーチインがもたれ奨学金闘争をすすめる中で、保育園・学園全体を統括していく場の必要性がようやく青丘社のスタッフ、ボランティア全員の間で確認されました。そして上記の「青丘社運営委員会設立の経緯並びに趣旨書」の中で以下の確認された内容が記されています。
川崎における社会福祉法人 青丘社は、
①民族差別と闘う場である。民族差別は抽象的でなく、常に具体的に存在する。民族差別は人格を破壊し、人間を非人間化する。故に、日立闘争の地平をうけ、具体的な地域において民族差別との闘いを展開する。
②朝鮮人と日本人との共闘の場である。民族差別との闘いは朝鮮人による朝鮮人のための闘いではなく、朝鮮人と日本人による地域解放、人間回復の闘いである。
③地域に根ざした実践団体である。民族差別との闘いは教育、福祉、労働など全般的に全地域内において行うが、現在は教育実践を最優先する。
④現段階においては、社会福祉法人のもとに桜本保育園と桜本学園がおかれている。保育園・学園(ロバの会・中学生)は、民族差別を子どもたちの具体的状況(低学力・非行・無気力・貧困など)の中でとらえ、地域の実態に即し、家庭・学校と関わりを強め、民族教育(差別と闘う教育、人間性回復の教育)を行う。
以上をもとに、青丘社に関わるすべての組織、個人の力を結集させ力量の拡大と内実を深めることを目指す責任あるものとして、全体討議の総意に基づいて運営委員会を設立する。
奨学金闘争をすすめる中で、保育園・学園全体を統括していく場の必要性がようやく共有化されました。そして運営委員会を発足させ、保育園、学園の運営のありかたや差別闘争の進め方を討議していくことになりました。運営委員会はキリスト教理念を掲げる理事会の承諾のもとで出発しました。民族差別と闘う砦であることが正式に承認されたのです。私は初代運営委員長に選ばれました。
5-4.地域のお母さんによる問題提起
私はスクラップの会社に限界を感じはじめながらも義父の残した会社を潰さないように、会社を維持していくための新たな仕事を探していましたが、運営委員長として、桜本保育園・学園を核とする私たちの運動体が民族差別と闘う砦としてどうなっていかなければならないのかをめぐって職員、主事それに多くのボランティア達と議論をたたかわしていました。しかし実社会で働きはじめた私は、「運動体」としてお母さん達を啓蒙しなければならないという使命感をもつ保育園に徐々に、違和感を持ちはじめていました。その使命感で、地域の住民から学ぼうとするより、上から教えようとする体質(組織)になってきているのではないかと感じるようになったからです。お母さん達の思いや苦しみ、悩みを聞き一緒にそれらを解決していこうとするより、子供の問題点を指摘することや、遅刻する親(私達もレストランをやりはじめてからは常習犯でした)には厳しく、汚れた洋服をきつく指摘するようすが目につきだしました。地域のお母さんたちは子供を預かってもらっている立場から保育園には面と向かっては何も言えないながら、様々な思いをもっているようでした。
父母会会長の悩み
しかし元民族学校の教員であった同胞のYさんが父母会の会長として私たち青年がやっていたような、民族差別を父母会の中で考えていく活動をはじめると、彼女は途端に周りから浮き上がり、心痛で脱毛症にまでなる事態になりました。地域の日本人のお母さんたちの本音がでてきたのです。苦労しているのは朝鮮人だけではない、民族差別と闘うということがよく言われるが保育はどうなっているのか、字やハーモニカ等も教えてほしいと言ったらここは(キリスト教精神で)子供の「器」づくりをする所だからそういうことを望む人は他の保育園に行ってくれと言われた、等々の不満や意見がでてきました。
保育園の父母会の会長が悩んでいるので相談に乗って欲しいということを保育園の元父母会会長のSさんが妻にはなしにきました。その時レストランをはじめていた妻は元民族学校の教員をしていた父母会会長のYさんの悩みを聞くうちに、桜本保育園の保育内容に関わる重要な問題だと思いそのことを保育園に伝えようとしたのですが、保育園側は「保育園に文句を言っている」と反発しはねつけるばかりでした。そこで在日と日本人のお母さんたちが一緒になって話し合い、保育園のあり方に問題を投げかけるようになりました(曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)、注参照)。
そして毎晩遅くまで御主人に叱られながらも集まり議論していたお母さん達は妻もはいった5人の連名で保育園への問題提起の文書をつくり、自分たちの気持ちを聞いてほしいと、教会の礼拝堂で集会をもつようになりました(80年12月9日 )。私はとにもかくにも彼女達の言い分を聴き、保育園・学園全体が絶えず地域住民の声に耳を傾けていく体質にならなければならないと考えていました。また牧師が園長と兼任で園にボランティアのように関わるのではなく、園は園長が責任をもって専門職として保育園の運営にかかわり、地域の住民を受けとめていく体制を作らないとやっていけないのではないかと主張しはじめました。
しかし残念ながらこのことが李牧師をして、教会から崔が自分を追い出す画策をしているという不信を持たせることになってしまいました。私は運営委員会の一任を受けて、お母さん達の問題提起をどうするかを運営委員会として提示する為、できるだけ多くの人達と会い、お母さんたちの思いをどう受け止めるべきかについて連日、長時間話し合っていました。仕事の合間に、主事や職員、ボランティアの青年達と精力的に会い、お母さん達の批判を受けとめることの重要性を説いたのですが、かえって私がお母さんたちの後ろにいるという噂や誤解が渦巻くようになり、私に対する糾弾集会が持たれる事態になりました。
お母さんたちの問題提起へ
お母さんたちは保育園・学園関係者に「民族差別と闘う」というスローガンよりも一人ひとりのこどもをしっかりと見守ってほしいという呼びかけの文書を配布して、自分たちの思いを涙ながらに教会の礼拝堂に参加した人たちに伝えました。しかしその日の集会のすぐあとで、Yさんは園長から、崔君が彼女たちにこの集会をやるように言ったのかと尋ねられたというのです。彼女はせっかく自分たちで話し合って保育園に要望書をだして問題提起したのに、それに対する意見や自分たちへの慰めや激励の言葉もなく、ただ崔さんのことだけを聞かれたと涙を流して悔しがっていました。
私は妻やお母さんたちから彼らの問題提起の内容を聞きながら、私たちが目指してきた民族主義的な運動と大きくなってきた組織のあり方に根本的な問題があるのではないかと思いはじめ、彼女たちの問題提起を受けとめ青丘社内部全体の問題にしようとしました。
桜本保育園(青丘社)は差別と闘うことを掲げた在日のためのもので在日が主になっており、日本人はそれを見守り支える従的な存在となっていたため、日本人父兄は傍観者的な立場にならざるをえず、絶えず地域社会における在日の差別問題の提起と在日の置かれた状況が取り上げられることへの反発からいろんな問題が噴出して父母会会長は苦しむようになったのではないか、私はこのように考えたのです。
民族や国籍に関わりなく子供一人ひとりを見守るというより、どうしても差別に負けない子供に育ってほしいという運動をしてきた私たちの思いが保育内容や、組織の在り方にでてきていました。「在日」の大変さや差別の実態を聞かされても地域の日本人父兄からすれば、私たちの子供と私たちの生活の大変さはどうなるのよということにならざるをえません。
妻は元保母として桜本保育園が一人ひとりのこどもを見守るという保育内容になっていたのかということを考え、私は青丘社の存在意義、組織の在り方を捉え返さなければならないと認識するようになりました。いずれにしても自発的に地域のお母さんたちが提起した問題を青丘社全体が一人ひとりしっかりと受け留めることが先決であることを私は主事たちや職員、各ボランティアに精力的に(時には徹夜をして)話しかけ説得を試み、各現場で保育園の父母会から提起された問題のことを話しあうまで運営委の凍結を宣言しました。
保育園のお母さんたちが連日のように夜遅くまで話し合い準備をして青丘社の関係者全員の前で問題提起をするという前日に、組織の混乱を引き起こした張本人(黒幕)という理由で、私は青丘社の主事や青年たちから糾弾されました。崔さんは気が狂ったと叫ぶ元父母会会長のSさんは、その時のテープを問題提起したお母さんたちに送りつけてきました。私は糾弾されながらそれでも保育園のお母さんたちが青丘社に問題提起するという事実は残ると一言、何の弁解をすることなくみんなに話しました。
妻は元保母として桜本保育園が一人ひとりのこどもを見守るという保育内容になっていたのかということを考え、私は青丘社の存在意義、組織の在り方を捉え返さなければならないと認識するようになりました。いずれにしても自発的に地域のお母さんたちが提起した問題を青丘社全体が一人ひとりしっかりと受け留めることが先決であることを私は主事たちや職員、各ボランティアに精力的に(時には徹夜をして)話しかけ説得を試み、各現場で保育園の父母会から提起された問題のことを話しあうまで運営委の凍結を宣言しました。
保育園のお母さんたちが連日のように夜遅くまで話し合い準備をして青丘社の関係者全員の前で問題提起をするという前日に、組織の混乱を引き起こした張本人(黒幕)という理由で、私は青丘社の主事や青年たちから糾弾されました。崔さんは気が狂ったと叫ぶ元父母会会長のSさんは、その時のテープを問題提起したお母さんたちに送りつけてきました。私は糾弾されながらそれでも保育園のお母さんたちが青丘社に問題提起するという事実は残ると一言、何の弁解をすることなくみんなに話しました。
次の日にお母さんたちの問題提起の集会がもたれることが決まっていたので、私はその糾弾集会の中でも、私たちは何よりもお母さんたちの言い分をしっかりと聞くべきだということ以外は反論をせず、沈黙を守りました。牧師を含め、糾弾集会に参加した人たちは私がお母さん達をたきつけていると考えたのです。
問題提起、その後
教会の礼拝堂の中で涙ながらに訴えたお母さんたちの問題提起のあとしばら
教会の礼拝堂の中で涙ながらに訴えたお母さんたちの問題提起のあとしばら
くして臨時の理事会が開かれ、何の議論も総括もなく、運営委員長の解任、同
時に運営委員会の解散が多数決で決められましたが、その記録は一切公開され
ていません(83年3月7日)。
私は保育園の園長は牧師が兼任するのでなく、それを専門職とするべきだというところまで踏み込んだので、NCC(日本キリスト教協議会)総幹事に選ばれ対外的な仕事に忙しかった李牧師は、信頼していた崔が自分を追放しようとしていると捉えたようです。そして李牧師はお母さんたちの問題提起を受け一緒に保育園のあり方を模索するより、彼女たちが園児の卒園でいなくなる次年度から、保母と「仲間づくり」を掲げる主事たち青年たちと一緒になり新たな体制をつくる決断をしたのです。私への糾弾も理事会での運営委員長の解任決定も全て園長が最終判断したのだと思います。
義母と私たち家族は地域活動や教会から離れることになるのですが、そのときの私たちの生活は慣れないレストランをはじめたばかりで、まさに日々の生活に追われる毎日でした。しかしそのときは十分に整理しきれないでいたのですが、保育園のお母さんたちの問題提起は、その後、多文化共生を掲げる日本社会にとって重要な意味をもっていることがわかってきます。
私たちが地域の現場から離れた後、川崎市は多文化共生政策を打ち出し、政
令都市として全国ではじめての外国人の門戸の開放を実施しました(1992年)。しかしその実態は門戸の開放を謳いながら、「川﨑方式」といわれている、外国人公務員の課長以上の管理職は認めず、市民に命令する職務に就かせないという、国籍を理由にした差別の制度化でした。多文化共生は日本社会全体において広く提唱されるようになっていきます。外国人は労働力として日本社会にとってはなくてはならない存在になってきたのです。しかしながら日本社会は多文化共生を掲げ外国人を労働力としては受け入れながらも、外国人住民の基本的人権を全面的に保証するものになっているのかという点では解決されるべき課題は多く残っています。
当時の保育園のお母さんの問題提起は、民族差別との闘いを掲げ、実際に地
域社会において日立闘争に関わり、国籍を理由にした児童手当や公営住宅の入居、金融機関の貸付差別と闘ってきた私たちの運動体の理念や建前よりも、保育の実態を直視し一人ひとりの子供を見守るという保育の最も重要なあり方を保育園側に求めるものでした。
お母さんたちの問題提起を受けた保育園は、問題提起したお母さんたちと一緒になって一人ひとりのこどもを見守る実践を模索するより、自分たちで内部かため(「仲間づくり」)をしていこうということになりました。その後保育園は集団保育を進めていくという方針をだし、青丘社は多文化共生を掲げる川崎市との関係を深めて公設民営の児童館(ふれあい館・桜本こども文化センター)を運営していくことになり、地域において多文化共生を進める全国のモデルケースになっています。
私は「運動体」を去り、長年私を温かく見守り育ててくれた教会からも妻と一緒に去ることにしました。長年川崎教会役員であった義母は役員選挙で選ばれず、李牧師は必死で止めましたが、やはり教会を移る決意をしました。私は義父が残した会社を潰すことなく生き延びるため仕事を探しながら3・11のフクシマ事故が起こるまで、日々の糧を得ることに没頭することになりました。
日立闘争当該の朴鐘碩君も川崎での活動には関わらなくなりました。彼と私は、川崎市が多文化共生政策を進めながらも、「当然の法理」という政府見解に従い、国籍による差別を制度化していることは日本社会の差別の根本的な問題を反映していると批判しています。そして私たちは、2011年の東日本大震災のあと、法律で免責されている原発メーカーの責任を問う訴訟をはじめ、日韓反核平和連帯という平和をつくりだす国際連帯運動に関わるようになりました。
6.最後に
私はこれまで在日の運動を進める中で2回、リコールをされたことになります。一回目は日立闘争に参加しながら、在日朝鮮人として本名で閉鎖的な日本社会に入り日本社会を変革していくことを提言し同化論者として糾弾され、在日大韓基督教会青年会の代表者をリコールされました。
今や時代は変わり、本名で生きることや民族差別は許されないということは社会の一定の常識になりつつあります。それでも「歪められた民族観」が現存している日本社会にあっては、本名で生きるということは当事者にとって決して容易なことではありません。これからはさらに本名で生きることの内実が問われることでしょう。
二回目のリコ―ルは、私が自ら提起して必至で作ろうとした「民族差別と闘う砦」のあり方を根本から問おうとしたときです。「民族差別と闘う」という観念化された運動理念より、一人ひとりのこどもを見守ることを求めた保育園のお母さんたちの問題提起は青丘社からは受け入れられず、その問題提起によって青丘社のあり方を見直そうとした私は理事会において運営委員長を解任されました。
「民族差別と闘う砦づくり」は組織のあり方ではなく、実は、私自身の生き方が問われているということを理解するのに時間がかかりましたが、ようやくわかりました。その砦づくりとは、個を押しつぶそうとするあまりに大きな社会の壁、慣習の前で脅え、立ち止まる己自身がその現実を直視し変革していく主体になっていくことであったのです。在日朝鮮人にとっての民族主体性とは、やはり「個からの出発」にはじまり、そして新たな課題に立ち向かう己の生き方のことだと思います。
私は人間らしく生きるという生き方の問題として、開かれた社会をめざして足元の地域を軸としながらも、もっと広範囲にあらゆる領域で国民国家の枠を越えていく(西川長夫『国境の越え方』)、国際連帯運動を展開していかなければならないという考えに至りました。
2011年の福島事故以来、私は地域での差別と闘う運動の提唱者の一人としてその重要性を絶えず認識しまた広く社会に訴えながらも、その地道な闘いは日本の一国平和にとどまらず、アジアの平和構築につながらなければならないと認識するようになりました。朝鮮半島の非核化・平和こそまさにアジアの非核化・平和の核心です。私たちは反核兵器、反原発、反差別を掲げ日韓の反核平和連帯の運動を進めてきましたが、このことはアジアの平和構築のための必要不可欠な市民運動として今後、ますます重要な実践的な課題になっていくでしょう。
あとがき
私の生い立ちに関しては、「歪められた民族観」(『思想の科学』1976年3月号より引用しました。同化教育については、私の大学の卒論『在日朝鮮人に対する同化教育についての考察』 就職差別裁判資料集NO.2朴君を囲む会発行)、民族の主体性論は「在日朝鮮人の主体性について」(第五回民闘連『特別基調報告』)をそれぞれ参考にしました。「日立闘争」とは何だったのかは、朴鐘碩、上野千鶴子ほか著『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社、2008年)、また「原発体制と多文化共生について」は西川長夫、番匠健一、大野光明編著『戦後史再考―「歴史の裂け目」をとらえる』(平凡社、2014年)を参照下さい。
なお母さんたちの問題提起については、参考資料にあげていますので「12・9集会への呼びかけ」をお読み下さい。また民族保育については、桜本保育園の設立当初から保母として勤めながら、お母さんの問題提起に触発されて彼女たちと一緒に行動し一人ひとりのこどもを見守る保育の重要性を提起した、曺慶姫「桜本保育園の「民族保育」を考えるー自立を求める歩みの中で」上野千鶴子著編集『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)を参照下さい。
最後に、私は妻にどんな感謝の言葉を伝えればいいのかわかりません。大学生のとき、川崎の教会で出会い、その後も母国留学、地域活動そして展望が見えない仕事とずっと二人三脚で歩んできました。乳腺の手術後も保母として、素人がはじめたレストランの責任者として、母として、妻として、全力で私と一緒になって走ってきました。そして70歳を過ぎた今も現役の保育園の保母として働いています。私のような強い個性の人間と一緒にならなかったらこんなに苦労することもなかったのではないかと思うこともありますが、こればかりはどうしようもありません。この論文にある歩みは私たちの歩みでありその記録です。彼女のやさしさと激励がなければ、私はとてもここまで歩んでくることはできなかったでしょう。ありがとう。
参考資料 12・9集会への呼びかけ
日時:(1980年)12月9日(火) 7時半より
場所:青丘社桜本保育園礼拝堂にて
主催:青丘社桜本保育園父母会有志
以下のような主旨、経過にもとづき、12・9集会に参加してくださるよう呼びかけます。
(1)12・9集会の主旨
「この日本社会の中で、在日朝鮮・韓国人が根無し草としてではなく、民族の自負心と誇りを持ち、子供が“本名”でどこでも堂々と生きていけるような土台をつくっていかなければならない、と切実に思う。私も主婦であり、母である自分のその生活の場で、これからもまたくじけながらも一歩一歩、歩みたい。」
これは青丘社桜本保育園にわが子を入園させ、そのことによって自分自身も民族の誇りに目覚めていったあるオモニの声です。そしてこうしたオモニたちの姿に胸をうたれ父母会の中で共に行動してきた母親がいます。私達はこの中でお互いに子どもを育てる上での悩みや喜びをわかちあってきました。
そしてまた「青丘社運動が、民族差別を日常生活の中で見抜き、闘うことによってアタrシイ日本人と朝鮮人との関係をめざし、この青丘社が地域の中で、親、子ども、青年だれにとっても闘いの砦として存在する」という青丘社の原則にふれる時、わが子を保育園に通わせ、この地域で生きていく母親として、私達もなんかの形で協力し、仲間となり、心のよりどころとしていこうという気持ちで、さっさやかではありますが父母会の中で頑張ってきました。
しかし、今その青丘社のかかげる原則が実践を通じて地域のオモニ、アボジたち、日本人父母たち、こどもたちの中で息づいているでしょうか。少なくともそのことにむけて着実に基礎がかためられているでしょうか。
一つの例として今年四月に本名で入学したMという女の子をめぐって考えてみたいと思います。事態の説明が少し長くなりますが、このできごとを皆さんはどう受けとめられるでしょうか?
桜本保育園在園時のMについてオモニはこう語ります。「年長になった時、担任の保母さんから、“感受性が強いからこれからが楽しみです”といわれてとてもうれしかった。ところが今年の一月になって“なわとびをするときちゃんと並べないで皆におこられる”“やることがおそい”“年長なのに本を読めない、と年中さんにいわれている”と担任の先生から言われショックだった。そして、自分の責任を感じると同時に、園に対して、“民族差別と闘っていくと言いながら、ちゃんとできない子、遅れた子に対してどのような助けがなされているのだろうか?”と疑問に感じた。でも、卒園を目前にして“もう遅い”というあきらめの気持もあったし、“一人だけ特別に手をかけることはできないから・・・”という担任の言葉に自分自身の不安や失望は押さえて“学校にあげてからちゃんと見守っていこう”と思うしかなかった。」
ところが、入学してkらのMの置かれた上級は考えていた以上に問題が多く、家でも明るさが失われていきました。六月末に担任の教師から「今の子どもは想像力や理解力が失われているがMもその傾向がある」と指摘を受け、自分でもそのことに気付いていたオモニは何とかしなければというきもちでいました。そうした指摘をうけた翌日、たまたま桜本保育園父母会主催、園共催の講演会があり、「親の生き方、子どものしつけかた」というテーマでの鈴木祥蔵先生(乳幼児発達研究所長)のお話にふれることができました。Mのことで悩んでいたその時のオモニは一つ一つの話にひきつけられ、その後鈴木先生を囲む話し合いの席で「今、うちの子がこういう状況なんだけれど、先生はどう思われますか?」と質問しました。それは母親としてMを明るい気持ちですごさせてやるために何とかしなければ、という切実な気持ちのあらわれでした。
しかし、このことが保母さん達に「自分たちを責めている」あるいは「他のお母さん達がいる前で園を責めるようなことを言った」と受け取られ、園長先生から「保母さんたちは、わたしたちにうらみでもあるんだろうか?悩んでいる」と言われる事態となりました。―このような事態になった時、私たちはMという一人の子どもにふりかかる重苦しい壁をどうしたら変えていくことができるか?またオモニの胸の痛さをわかちあうために父母会と友として何ができるのか?と考えました。そして私たちにできることは限られているし、こんな時こそ「民族保育と闘う砦」をめざしている青丘社がよりどころになってほしい、と思ったのです。
けれども保母さんの間、ロバの会でMさんのことがはなされているということはあるようですが、今に至るまでオモニや私たち父母会をまじえた青丘社全体での話し合いは一度もなされていません。
請求社には多くの子供が集い、それぞれが悩みをかかえているとことから「一人だけに特別手をかけられない」ということかもしれません。しかしその全体の為に一人の子共の悩みが見過ごしにされているとなれば、それは何をなすための全体でしょうか。青丘社に何十、何百の人々が集まって来ても、一人の子ども、一人のオモニの苦しみや涙をわかちあうことができなければ誰のための人々でしょうか?
保母さん、青年たちが毎日忙しくて取組めないのかもそれません。しかし、「忙しさ」が、一人の子どもの苦しみを徹底して明らかにし、それを取除いてやることを妨げているとすれば、その「忙しさ」とは何でしょうか。
一人の子どもにかかっている重圧を真剣に考えあい、今できる事を精一杯やり、その子どもが楽しく、生き生きとした毎日を過ごせるような条件をつくっていく、その為の仲間であり、いそがしさであってほしいのです。
私たち父母会の有志もそうしたことの為に、地域の父母として何ができるのか、ともに生きる仲間として声をかけてほしいと、父母の立場で声をあげてきたと思います。しかしそうした私たちの行為が「保母さんを追いつめるもの」として受け取られてしまっては何に原因があるのでしょうか? 私たちにはりかいできません。
私たちのねがいは一人の子ども、一人のオモニ、母親の悩みをともにわかちあい、この地域の中で必要とあれば争いごとをかかえていてもその悩みをなくす為の実践を積み重ねていく、そのような青丘社に集うことです。その為に一父母として何ができるのか、またそうした青丘社の中で父母会の役割は何なのか、ということを青丘社に集うすべての人々とともに話し合いたいと思うのです。
これがこの集会の主旨の一つです。
(2)これまでの歩み
☆ 父母会の自立をめざして
昨年3月の卒園会で卒園後も韓国、朝鮮人の子どもたちが差別に負けないよう皆で見守ってほしい、という話に対し、日本人の母親がソッポを向き、しらけ切っているという状態があった。事実、卒園すればまったく関係がなくなりあいさつもしなくなる父母もいたえり、ロバの会に来る子どもも少ないことから、地域の父母とのつながりを強める為に父母会を何とかしよう、という縁側の方針が決められた。
その第一歩としてヨンジャ(令子)に会長を依頼する。会長となったヨンジャは、これまで役員会の行事主義を克服し役員間の相互のつながりを深めて、オモニ、母親の悩みを語りあえる父母会にしたいと暗中模索してきた。
しかしその試みに対して、当初保育園から「浮き上がっている」」「独走だ」という批判が出されたり、父母会の進行を父母にまかせ切りにする放任的なやり方があった。父母会の自立をどう位置づけるか、その為の具体的方針が示されず、ヨンジャは園側の青写真を示してほしいと思っていた。
☆ 問題提起
こうした現状を打破する為、昨年夏ヨンジャは保母さん達への問題提起を行った。その主な内容は、園は父母会の自立をどうつくり上げるのか、保母さん一人一人はどうとらえているのか、ということだった。またその中で母親の声として、「民族差別と闘うというスローガンが先行して実質的な保育は深められていないのではないか」「知育の面において教えてもらえないのはどうしてか」「数字、ひらがな、ハーモニカ等を教えてほしいが、そういう人は他の保育園か幼稚園に行って下さい。ここでは“器づくり”をします、と父母会の席で言われた。」等の疑問や要望もあわせて伝え、このような声を受けとめてほしいと要望した。
そしてこの父母会の自立ということを共に考えあう中で、青丘社運動の母体となっているこの保育園に新風が吹きこまれ父母の中に息づく父母会、保育園であることができるよう一緒にやっていきたい、と提起した。しかしその時の保母さん達の沈黙は、この提起が受けとめられていないと感じさせるものだった。その疑問はクリスマス会、忘年会など、ははおやのつながりを深めようと行った父母会の催しの中で深まっていった。
そして再び、今年2月保母さん達との話しあいを行う。その中で園側から「自分達はばらばらだった。これからはまとまって行きたい」「保育の内実がなかった」という返答があった。しかし父母会でともにどうするのかについての具体的対策は提示されなかった。四月の役員交代に際して園側からの働きかけ、意見を期待したが、父母会で決めていかなければならない状態であった。
☆ 地域のオモニ、母親とのつながりを求めて
第一回目の問題提起の後、自分一人では受け入れてもらえないと感じたヨンジャは、仲間づくりをしようと思った。それは自分のおもいに耳を傾けてくれる人がほしい、ということと同時に、父母会の自立という課題を話しあい、自立にむけての第一歩をじっせんしていくスタッフ作りという意味だった。役員会がその役割を果たすには未だ役員相互間で一致できない現状の中で、この仲間づくりは必要なことであった。
ヨンジャは、スリョン(洙蓮)、キョンヒ(慶熈)、チョンジャ(清子)、宮崎さんに呼びかけ、この会はいつの間にか「6人会」という呼び方になった。チョンジャさんは保育園の職員であるという立場上、後にぬけることになるが、「6人会」は青丘社主事である三浦先生を交え、地域の父母の声を反映させる父母会づくりを目指していた。
また、昨年六月、進藤、宮崎がよびかけて、日本人父母の自主的な集まりである「カンガルーの会」が作られた。それは「ジャックス糾弾闘争」の集会に参加し、差別の問題が日本人自身が考えていかなければならないことだと感じたこと、また「オモニの会」のような場が日本人の母親にもあっていいのでは、と考えたことが契機であった。園側より日本人母や三浦先生にも参加してもらい、月一回の集まりを持った。この会では日本人の母親の普段聞かれない声も聞かれ、また働きながら子育てをする上での悩みを語りあい楽しい場がもてた。そして「オモニの会」、保母さん達との交流も予定していた。
しかし後で述べる「朝鮮人攻撃の場になってしまうのではないか?」との園側の懸念があり、またいろいろ出かけることが多くなって負担なので父母会に力を集中した方が良い、という声なども聞かれるようになった。このことをめぐって「6人会」の中で何度も話しあい、時にはケンカもしながら検討した結果、として「カンガルーの会」は発展的に解消することになった。父母会の自立、とともに、父母会を楽しく、気軽に参加できるような場にしていくことに力を集中していこう、ということになったのである。
そして人びととふれあう「ことができた。
☆ 今年度に入ってから
父母会の会長はヨンジャから進藤にバトンタッチされ、父母会の自立をめざすオモニ、母親が役員のメンバーに入って四月からの父母会の歩みが始まった。進藤は楽しく、参加してよかったと思える父母会をめざそう、あまり負担になってしまうことは避けようということで園側との協力関係を蜜にしていこうと考えた。
六月末、父母会主催で講演会を行ったが、それをきっかけに再び保母さん達とはなしあわねばならなくなった。それは「解放保育に学ぶ」ということが保母さんたちの間で言われているが、講演会に向けての保母さん側の準備不足が感じられたこと。当時、しんどい中を遅くまで鈴木先生を囲んで話をした母親の熱意がくみとってもらえていない、またMという子どものことで質問をしたオモニの気持ちを保母さん達に理解してもらいたいち、ということであった。(事実経過として不十分な点もありますが、当日補足します)。
(3)私たちのおもい
再びMのことがでてきたところでもう一度、今回の集会の主旨にもどりたいと思います。この集会のもう一つの主旨は、私たちの現在のおもいを皆さんにきいてもらいたい、いや単に私たち限られた数名だけでなく、他の、この地域で生活し保育園にかかわっているオモニ、母親たちの声を聞いてほしい、ということです。
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