2016年8月24日水曜日

「当然の法理」、「川崎方式」は植民地支配の残滓です

韓国訪問ツアーに参加されたみなさん、韓国ではお疲れさまでした。帰国後も、福岡での10月の戦略会議の持ち方について議論が深められているようで、期待しています。田上さんもカナダ、SFから今日帰国されたようで報告を楽しみにしています。みなさんへのメール内容を一般公開いたします。ご了承ください。

さて、私は、原発メーカー訴訟の控訴理由書の作成に取りかかっています。50日という期限があるものですから、澤野さんと相談しながら、書き上げます。草案をお送りしますのでご検討ください。

「川崎方式」の本質について ―日本社会の右傾化と在日の主体性―
http://fb.me/82Gpd8Si9


この拙論をFBで以下のように紹介しています。
私はこの拙論で、「川崎方式」に関わった人や団体の批判を目的にしたのではありません。植民地支配の根にある排外主義がどれほど根強いか、それは単に在特会のヘイトデモに対抗すればいいという問題ではない、もっと深く思索をし、実践的な課題として「川崎方式」の撤廃を進めるにはどうすればいいのかの問題提起でした。読者のご意見をお願いいたします。

みなさんにお願いがあります。
外国人の排除を前提にする政府見解の「当然の法理」については、ほとんどの人は知る機会がないとおもいます。川崎における日立闘争や、地域活動から児童手当などの国籍条項の撤廃を求める運動の流れの中から、「川崎方式」が生まれ、外国人への門戸が開放されました。それは一つの英知であったともいえます。しかしそれは同時に、社会的評価とは異なり、植民地支配の残滓ともいうべき「当然の法理」を正当化し、制度化するものだったのです。「川崎方式」によって、外国籍公務員は管理職には昇進できず、職務制限が制度化され、それが全国のモデルになりました。

  1953年の法制局の見解である「当然の法理」とは以下のものです。
   「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画に
   携わる公務員となるためには、日本国籍を必要とする」


福岡市はもちろん、糸島市でも、北海道や沖縄でも名古屋でも大阪でも同じことが行われています。そういうことがあるという事実も公開されず、それが問題であるとは認識されていません。原発に反対した木村さんの糸島市長選挙においても、当然、そのことが問題になったことはありませんでした。思いつきもしなかったでしょう。それが現実であり、私はいかなる意味においてもそのことを批判しているのではありません。そのように、全国のどの地方自治体においても、外国人の問題は市民の関心事にはならず、結果として為政者の思うように外国人統治が進められていると私は認識しています。むしろ東京都知事選でも明らかになったように、外国人も市民であり、県民であり、都民であり、その社会の構成員であるにもかかわらず、日本国籍者(日本人)だけが地方自治体の構成員であると前提にされるようになっています。

日本国憲法の基本的人権では「日本国民」に保障されると謳われていますが、それはpeopleの訳語を日本の官僚が敢えて、「日本国民」に訳したものであれ、現在では、基本的人権は国籍にかかわらずあらゆる国の人にも適用されるべきだという考えが出ていますが、残念ながら、実態はますます国民国家の枠にしばられるようになってきているようです。

  日本国憲法は外国人の人権を保障していないのですか?
  http://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2012/06/post-15.html

  古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)
  


「川崎方式」はそのような時代にあって、現状を何とかこじ開けようとして、川崎の活動家の「エース」が集まり作り上げたものです。日立闘争に関わった私たちの仲間が川崎市の職員になり、行政側の実務責任者として「川崎方式」や「外国人市民代表者会議」に関わり、市民団体は私たちが活動の拠点にしてきた在日韓国教会・青丘社・ふれあい館、そしてそれに自治労の市職労が加わり英知を集めた結果が「川崎方式」です。それをしかたがないものとするのか、乗り越え新たな地平を目指すのか、私は後者の立場から拙論を書きました。前者は現状肯定しか出てきません。後者の立場に立って現状を直視し、批判的・創造的な総括作業をする中で新たな可能性がでてくると私は考えました。


拙論は、個別川崎で「川崎方式」に関わった個人、団体を批判することを目的にしたものではありません。そこに関わった人たちの熱意にもかかわらず、あのような結果で終わったのは、私は自分自身を含め、植民地主義を克服できない思想の脆弱性によるものだと理解しています。全国を席巻するようになった「多文化共生」は、満州時代の「五族協和」と同じ、異民族統治のイデオロギーです。

すなわち、日本社会は在日を含め(韓国も同様ですが)、植民地主義とは何かということを深く理解できておらず、多文化共生を具体的に克服する地平が見えていないからです。それは実践の弱さでもあります。言うまでもなく、多文化共生は資本主義社会の要請であり、国民国家の統治上必要に迫られてでてきたイデオロギーだと私は理解しています。
(参照:崔「当然の法理について」、「原発体制と多文化共生について」『戦後史再考』平凡社)

従って、川崎においても、突出した在特会などとのヘイトスピーチとは闘っても、デモを中止させた勝利の後は、条例を作り「カウンター」をどのように強めるかという発想でしか今後のことは議論されていません。私は、差別は「カウンター」の強化ではなくならないと考えています。差別がどのように制度化され、構造化されているのかを直視することが重要です。その実態を明らかにするのに、私は「川崎方式」を例にあげました。

「川崎方式」批判の拙論を普遍的な問題としてどのように読むのか、すなわち、全国の地方自治体における実情を踏まえて、植民地支配の残滓である「当然の法理」をどのように撤廃させるのかという視点から、拙論の論評をお願いできないでしょうか。

蛇足ですが、私たちは原発メーカー訴訟との闘いについて、原発体制は差別の上で成り立っていると考え、小出裕章さんと白井聡の講演会を企画しました。
   小出裕章氏と白井聡氏を迎えてのシンポジウムを持つにあたって
   http://oklos-che.blogspot.jp/2015/02/blog-post_20.html

今後展開しようとしている私たちの、韓国人被爆者のアメリカ政府による原発投下の責任追及の提訴支援、東芝ら原発メーカーの国際的なBDS運動もすべて関係するものだと私は認識しています。原発体制とは、アメリカを中心とした大国が核兵器による国家安全保障政策の要として作り上げたもので、決してエネルギー自足のためではなかったのです。

核不拡散を謳うNPT体制の建前とは裏腹に、原発体制は今後ますます強化される傾向にあります。その一例が、東芝の今後15年間で64基の原発を製造・輸出するという方針です。国策民営化によって推進されてきたのが原発政策です。東芝1社の力でこのような大胆な方針が決定されるわけがありません。シャープのように会社の実績の悪化によって台湾に売却されるということは東芝においては考えられません。64基の原発の輸出のために背後で日本政府が「安全保障」を建前に、武器輸出と並行して、東芝ら原発メーカーを支援し、原発輸出はさらに進められるでしょう。

これらの動向に抗うためには、私たち一人ひとりが、国民国家の幻想から、国民国家を絶対視する考え方から抜け出し、原発と核兵器をなくしていくという大きな目標の下に、具体的な運動を足元から起こすしかないと思います。その第一歩が10月26―27日に福岡でもたれる戦略会議で議論されるわけです。みなさんのご理解、ご協力をお願いします。

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