2016年8月18日木曜日

「歴史知ってヘイトなくす」 在日2世の宋富子さんが講演会 東京新聞川崎版

「歴史知ってヘイトなくす」 在日2世の宋富子さんが講演会
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201608/CK2016081602000168.html

この東京新聞の写真には、「「正しい歴史を知ってほしい」と訴える宋富子さん」と説明書きが加えられています。昨日、8月16日、川崎で10年続けられている戦争体験の朗読会があり、そこで講師として宋富子さんが、川崎市内などで繰り返される在日コリアンへのヘイトスピーチを「歴史が正しく認識されればなくなるはず」という考えを訴え、自らの体験などを交えてこの40年の歩みを語られました。

在日韓国川崎教会ではじめた保育園に子供を預けるようになり、キリスト教の隣人愛に目覚め、奈良の地で自分を隠しそれが当然であったのが、「新たな生を歩みはじめた」と宋富子さんは証言します。

そのとき、私の連れ合いはその保育園の初代保母であり、私は、韓国教会に通い始め、日立闘争に出会い、本名を名乗ること、民族差別と闘うことを主張していた「遅れてきた、悩める民族主義者」であり、教会やボランティアの韓国人・日本人の青年たちと地域活動を始めた時だったのです。

私は同じ教会の在日と結婚し、韓国に留学し、在日韓国教会が設立した韓国人問題研究所(RAIK)の初代主事として地域活動に没頭し、「オモニの会」を始めた宋富子さんや、川崎の地に集まる青年たちの活動を支える、社会福祉法人青丘社の韓国人主事という立場にありました。そして「民族差別と闘う砦づくり」を提唱する運動体の運営委員長でした。


私もまた、「魂の脱植民地化」を模索しているときだったのです。真鍋祐子のいう「自己スティグマ化を通じて新たな存在」(『自閉照射の魂の軌跡ー東アジアの「余白」を生きて』(叢書 魂の植民治化6)へと生まれ変わろうとしていたのでしょう。

「魂の脱植民地化」は民族主義や運動の正論さえ、相対化します


真鍋祐子や安冨歩の唱える「魂の脱植民地化」は単なる植民地主義批判に留まらず、また在日であることからから逃避しようとしてきた自分の生きざまが日本の朝鮮の植民地支配の「歪められた歴史」に由来するということに留まらず、正論としての民族主義で自らを「蓋をする」自己偽装もまた彼らの「魂の脱植民地化」というカテゴリーとして受け入れなければならないでしょう。民族主義の絶対化はまた、民族の自立の美名のもと、人間疎外の「魂に蓋をする」弊害をもたらすことも直視されなければならないと思います。



今日の朝日新聞で全面広告され、まさに新たなヒロインの登場とばかり絶賛されていた崔実の『ジニのパズル』を、私は自分自身の深い反省、大きな悔いなくしては読めませんでした。
朝鮮人の歴史を誇りに思え、本名で生きるべきだ、差別に負けずに正義を求めよ、これらの建前そのものが、実は子供が「魂の脱植民地化」を求めざるを得ない元凶になるのです。
子供のためと言いながら結局は親や、学校の教師の価値観の押し付けになることの危険性、その根源的な問題点を私たちは率直に認めなければならないと思います。

宋富子さんの講演内容は感動的で、どこにも誤りはありませんでした。しかし私は、川崎の地で、自分たちの子供の時を思い浮かべ、自分たちと同じように差別に負け自分を隠すのではなく、朝鮮人として堂々と胸を張って生きていってほしいという熱い思いが、実際は子供の魂にとってどうであったのか、そのような正論が子供の「重石」あるいは「蓋」となって、親の求める価値観に従わせてようとしていたのではないか、ということを深く反省せざるをえません。

「正しい歴史観」とは何なのか、なぜ、本名を使い家族制度を引き継ぐ生き方が正しいのか、人間の生とはもっと複雑で、人間の存在は法律をも、また民族・国家をも超えるものではないのか。私はこの点から改めて私たちの40年の運動の内実を顧みる必要があると痛感します。それは「多文化共生」を一義的なものとしてきた、この数十年の川崎の在日の運動体を根底から見つめなおすものになるでしょう。

川崎の民族運動を顧みるー「多文化共生」を批判する視点の必要性

川崎の地域活動を「民族運動としての地域活動」と定義付け、日立闘争の勝利、地域での国籍条項の撤廃運動、銀行融資やクレジットカードの使用を拒む金融機関との闘い、そしてなによりも、保育園を中心とした、本名を名乗り差別に負けない子供になってほしいと私たちは必至の活動を続けました。そのとき、目覚めたオモニとして宋富子さんは教会に通いはじめ「オモニの会」会長としての積極的な活動をはじめらました。


あれから40年。私や連れ合い、日立闘争当該の朴鐘碩たちは川崎教会や地域において「民族差別と闘う砦」を目指した青丘社を離れました。きっかけは、私たちの思いの拠り所であった保育園の父母たちの問題提起でした。その混乱は簡単には収束せず、私は地域活動の運営委員長、教会の役員を辞すことになり地域活動の本拠地であった川崎の桜本を離れました。保育園の父母たち(日本人・韓国人を含み、私の連れ合いもその問題提起の当事者になりました)の問題提起によって、私は、私たちの拠り所にしていた「民族主義」に疑問を抱くようになっていました。連れ合いは、差別との闘いの意義を十分に理解しながら、子供一人ひとりの成長をみていく保育の原点を自分の信念としてその時以来、今も68歳の現役保育士として勤めています。

当時の記録が残っていました。
    「個からの出発ー在日朝鮮人の立場からー」
    http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_13.htm

この記録の前後、私たちは各人の生活の場に没頭します。日立闘争の当該の朴鐘碩は、一人、職場で、ものを言えぬ職場の在り方に抗い続けます。彼にとっての第二の日立闘争と言われる所以です。
    ~日立闘争後から原発メ-カ訴訟までの軌跡~ 朴鐘碩 
    http://oklos-che.blogspot.jp/2016/08/blog-post_14.html

私は文字通り、岳父の亡くなった後、古鉄商を継ぎ、そこからさまざまな生(なま)の生活を経験し、何のバックもない在日1世が経験してきたことを私自身が追体験するようになりました。そして3人の子供は独立し、私を愛し心の底から信頼してくれていた義母を送り、ついにあの3・11の福島事故に出会うのです。

福島の原発事故との出会い

私と日立の現役嘱託社員である朴鐘碩は、福島事故を起こした原発メーカーの責任を問う裁判をはじめました。世界39ヶ国4000人の原告を集めました。しかし第一審は敗訴し、現在、控訴手続きを終え、控訴理由書を書いているところです。世界で初めて原発メーカーの責任を問う訴訟ですが、残念ながら、私と朴は、この間の「原発メーカー訴訟の会」の混乱は、原告代理人である島弁護士の弁護士としてふさわしくない言動に対して、それは違法行為であるとして8月初めに告訴しました。それはけじめとしてどうしても必要であると判断したからにほかなりません。弁護士会にも懲戒申請をしましたので、弁護士会と裁判所が彼の弁護士としての対応、違法行為の有無の判断をするでしょう。しかし私たちは、誰も引き受けなかった原発メーカー訴訟の代理人を引き受け訴状をかいてくれた島弁護士への感謝の気持ちは忘れたことはありません。

    
    8月1日、本日、原発メーカ―訴訟の島弁護団長を告訴しました!
      http://oklos-che.blogspot.jp/2016/08/81.html

国際連帯運動によって原発体制に対する具体的な闘いを

今私たちは、明治以降「富国強兵」を求め、戦後日本の「復興」を目指した集大成が原発体制だと理解しています。原爆と原発は表裏一体であり、原発体制に抗い原発メーカーを提訴した裁判は重要な問題提起ではあるが、私たちは今、法廷内闘争で留まらない、法廷内外の闘いが重要だと認識しています。それが、8月4~8日の日韓脱核平和巡礼としての韓国訪問ツアーによって具体化されていくことになりました。

ひとつは、この15年間で64基の原発の製造・輸出を公表した東芝ら原発メーカーに対するBDS国際連帯運動(Boycott、Divest投資引き上げ、Sanction制裁)の展開であり、もうひとつは、韓国人被爆者による、アメリカ政府の原爆投下の責任を問う提訴への支援活動ということに結実していきました。この提訴は簡単ではありません、紆余曲折が続くでしょうが、日本の植民地支配によって来日し、アメリカの核による世界支配政策の犠牲者である韓国人被爆者たちの勇気が実を結ぶと確信します。

最後に、川崎のヘイトデモに勝利した次の闘いは何でしょうか

宋富子さんの講演の後の質疑応答で、彼女から指名され私は以下のことを、会場に来られた方々に話しました。それは、ヘイトデモを続ける在特会のような団体に対抗してきた市民運動が、実は彼ら排外主義者と同質のものを持っているという指摘でした。表面化する差別発言の酷さを支えるその排外主義は制度化され、構造化され、当たり前のようになっている現実を直視する必要があります。

全国の政令都市に先駆けて外国人に地方公務員の道を開いたのは川崎市でした。地方国家公務員法にはそもそも国籍条項はなかったのですが、そのことを実現させるための最大の障害は日本政府の「当然の法理」で、「公権力の行使または国家の意思形成への参画にたずさわる公務員になるためには、日本国籍を必要とする」という見解です。この難関を突破するために、川崎市、組合、運動体は協力し合い、「市民の意志にかかわらず権利・自由を制限する職務」を「公権力の行使」の判断基準にして「外国籍職員の任用に関する運用規定」を作り、全職務の2割に当たる182の職務を除いて、1996年5月、外国籍者の門戸を開放しました。それが「川崎方式」です。このことによって全国の地方自治体はすべて「川崎方式」をモデルにするようになりました。

しかし公務員が市民の権利・自由を制限するケースは条例や法律によって決められているものであり、外国籍公務員が就いてはいけない職務や職責に制限を設けること自体が差別です。それなのに、川崎市は運動体の協力を得て、「公権力の行使」の再解釈で外国人への門戸を開こうとしたのですが、その根底には排外主義を是とする思想があります。外国人の排除を認める論理を提供し、実質的に差別を制度化・構造化する制度を作ってしまったのです。しかしその実現にかかわった人たちは「善意」であり、自分たちの作った制度が排外主義思想に基づいているなどとは夢にも思っていないでしょう。

   ヘイトデモを中止に追い込んだ市民運動の今後の課題ー私案を提示します
   http://oklos-che.blogspot.jp/2016/06/blog-post_9.html

ヘイトデモを許さないための法律や条例の制定、さらに世界的な水準の差別禁止法を作ることは必要です。しかし在特会のリーダーの都知事選での潜在的な支持者が60万~100人とみられ、安倍内閣、民進党など野党の実態を冷静に見るとき、川崎市議会も日本の国会もそのような世界的なレベルの差別禁止法を作ることはできないでしょう。しかしヘイトデモを中止に追い込んだ川崎で次にやるべきことは明確です。それは差別を制度化・構造化した「川崎方式」の撤廃です。ヘイトデモ中止に追い込んだ市民の思いを結集し、排外主義を制度化し、全国の先例となった「川崎方式」を今、止めさせないともう次の機会はないでしょう。

宋富子さんの「歴史」の重要性のお話が、ここ川崎において具体的な排外主義克服の運動につながることを願ってやみません。




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