2016年6月9日木曜日

ヘイトデモを中止に追い込んだ市民運動の今後の課題ー私案を提示します

ヘイトデモを中止させた市民運動のこれから対する私のメッセージに対する読者の反応が多いので、さらに問題の本質を探りながら、情報発信を続けます。しかし明日から15日まで韓国に行き国際戦略会議に出席するためしばらくFBでの情報発信は休むことになります。ご了承ください。

(1)在特会に対抗する「しばき隊」のカウンターはあくまでもカウンター
在特会に対抗する「しばき隊」のカウンターはあくまでもカウンターであり、彼らは在特会に対する物理的な対抗そのものに存在意義があると思っていると私は考えています。今回の川崎のように現場の局面では大きな働きをすることはありますが、そのレベルで終わっていたのでは何も事態は変わらず、構造化・制度化された差別はびくともしません。

(2)国際水準のあらゆる差別を許さない条例化が必要
そのためにあらゆる差別を許さない国際レベルの条例づくりが必要です。川崎市長は、差別はヘイトスピーチだけと限定したいようです。条例は世界水準のあらゆる差別を許さないものをつくらせるべきです。例:国連で採択された人種差別撤廃条約(日本は一部留保)  
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/conv_j.html

(3)川崎の在日について
川崎は在日が多く住む街です。朝鮮人集落が川崎南部にあります。植民地支配の下、終戦後も日本鋼管、その下請けで働く在日が多く集まりました。生活保護を受ける率がとても高い地域です。差別の桎梏から逃れるために祖国に夢を託した北朝鮮への帰国事業の声が上がったのもこの地域からでした。そのようななかで在日は高度成長時代においても大企業で働くということはありませんでした。

1970年、愛知の在日青年、朴鐘碩(パク・チョンソク)君はやはり貧困のなかから新聞広告で夢を見て日立製作所の入社試験を受け合格したのですが、本人は朝鮮人であることを明かさず日本名と日本の現住所を記していました。それが嘘であるということで日立は彼を解雇しました。それで始まったのが日立就職差別闘争(「日立闘争」)です。日立闘争は国内だけでなく、全世界の応援を受け日立の謝罪を勝ち取り、横浜地裁においても完全勝利をして彼は日立で定年まで勤めました。現在は、日立に勤めながら原発メーカーの責任を問う訴訟の事務局長をしています。

(4)日立闘争から地域活動へ 
日立闘争とともに在日韓国教会を中心とした地域活動が始まりました。保育園をつくり、地域の在日、日本の子供たちに朝鮮語や遊びを教え、障がい者を受け入れる無認可保育園は社会福祉法人になり、現在の青丘社、ふれあい館となっていくのです。在日と日本の青年を中心に始められた地域活動の中から差別や教育(本名で生きていく)の問題が取り上げられました。その中からクレジット会社や地域の金融機関の差別問題を取り上げ、私たちは勝利しました。

日立闘争の勝利集会のときに地域の住民から提起されたのが、日本人に限られていた児童手当や市営住宅入居問題でした。それをきっかけに私たちは行政の国籍条項の問題を差別問題として取り上げ、市長の決断で法律の改正の前に国籍条項撤廃を勝ち取ったのです。そのときに残った問題が、在日が川崎の公務員になることでした。地方国家公務員法には国籍条項はなかったのですが、在日は自分たちの子供が公務員になれるとは夢にも思わなかったのです。在日にとっては、就職差別は日常茶飯事のことだったのです。それで地域活動として、外国人に閉ざされている地方公務員の門戸の開放に向けた闘いがはじまりました。その結果、ついに川崎で全国に先駆けてはじめて外国人への門戸の開放が実現されたのです。

(5)「当然の法理」について
川崎での外国人の門戸開放の隘路、それはサンフランシスコ条約の締結にあたってその時多くいた朝鮮人、中国人の公務員に対して、「当然の法理」という見解を政府が出して、「公権力の行使」と「公の意思形成」は日本人に限るという方針によって、彼らは帰化をするか、公務員を辞めるしかなかったのです。それ以来、その「当然の法理」は今でも絶対的な基準として全国のすべての地方自治体での人事規約(基準)になっています。

川崎で門戸の開放を実現するにはこの「当然の法理」をクリアしなければならないということで、行政・組合・市民運動体が協議して「妙案」を考え付きました。それは「公権力の行使」を外せばいいという考えです。すなわち、「公権力の行使」とは一般市民の意思に拘わらず市民の自由と権利を制限することと規定し、3000を超える職務すべてを洗い出し、全体の2割にあたる職務には外国人を就かせない、課長以上の管理職には就かせないということで、国の「当然の法理」を遵守しながら、実質的(条件付きで)に外国人への門戸開放を実現させたのです。

そのことは全国的に評価され、地域の在日も喜び歓迎しました。しかし管理職になれない、生活保護など自分のやりたい仕事に就けないということを知ったオモニたちは当時、川崎は門戸を開放しながら、後ろ手で門戸を閉めたと言ってました。誰がそんな職場に行きたがるでしょうか。「公権力の行使」は公務員が法律に基づいて市民の権利を制限する行為です。したがって、職務に就くのに、本来、性別や思想、国籍で制限があってはいけないのです。それは明確な差別です。

労働基準法は(均等待遇) 第三条  使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない、とうたっています。しかしそれを裁判に訴えることができるのは現場の外国籍公務員だけなのです。せっかく地方公務員になった彼らが川崎市を相手に裁判を起こすことは並大抵のことではないでしょう。それは理解できます。しかしそのような差別が行政において制度化されているということを、市民は黙認していいのでしょうか。ヘイトデモを中止に追い込んだ市民運動の今後の課題として、今こそ、そのような国籍を理由にする差別を制度化した市の内部規約を撤廃させるべきです。

(6)門戸の開放にために考えられた「妙案」の問題点
日本人に限るとした政府の「当然の法理」はひろく一般市民に受け入れられる考え方であり、「公権力の行使」の内容を知らない人はすぐに、それは外国人には任せられないと思うでしょう。その一般の差別意識・偏見に乗っ取った形で川崎の門戸は開放されたということになります。市民の意思に拘わらず市民の自由と権利の制限ができるのは、その公務員の行為が法律と条例に基づいているからであり、その行為を行う職務に外国人を就かせないことは差別なのです。外国人への門戸の開放を願った「妙案」は結局、差別の温存、増長につながったのです。問題点を明確にせずに門戸を開いたことは禍根を残したことになります。

少なくとも、そこで残った問題点をその後も広く一般市民に知らせる作業を続けるべきでした。ヘイトスピーチと闘う在日も日本人活動家もこの制度化された差別を不問にふす行政の問題の存在に無関心でした。そもそもその問題の深刻さを知らされていなかったからです。だからヘイトスピーチを中止させた市民の差別に対する認識が深まった今こそ、この行政の制度された差別撤廃を市民の力で撤廃すべきなのです。

(7)問題点の整理
繰り返します。川崎市の外国人への門戸の開放のために市民運動側と行政、組合で画策した「妙案」が実は隘路になっています。政府の見解である「当然の法理」は「公権力の行使」の職務は日本人に限る(あと、「公の意思形成」も)としたので、「公権力の行使」を一般市民の意思に拘わらず自由と権利を制限することと解釈、定義づけし、その職務に外国人を就かせなければ「当然の法理」に逆らわずにやれると判断し、国もそれで了承したようで、無事に川崎の門戸は開放されました。

しかしこの解決策に致命的な欠陥がありました。それは公務員が市民の自由・権利を制限できるのは、例えば税金を払わないとか、伝染病にかかったとか(3000職務のうち2割ある)の場合なのですが、それは法律や条令に拠るもので、労働基準法にあるように、公務員の性別や思想や国籍は関係がないのです。それを問う必要もなければ、問うことは許されません。

ですから、15年たってはっきりとされてきたのですが、川崎の行政と組合と市民運動が一緒になって考えついた「妙案」は結局、国がやりたかったことの先駆けであったのです。百歩譲って門戸開放のための妥協案だったとしても、その後問題点を絶えず一般市民に日立闘争の歴史とともに伝えていくべきでした。そのようなことがなされてない結果、川崎の在日の中学生やオモニたちは、ヘイトスピーチの問題しか念頭にないのです。この50年の川崎での差別闘争がまったく学習されてないということです。そこからは未来に対する展望はでてこないでしょう。

(8)福田川崎市長の見解ー立候補した時の単独インタビューより
しかしながら現川崎市の福田市長は、ヘイトスピーチに対しては「市としては独自の禁止条例などを設けるのではなく、既存の条例の範囲でできることを検討していくと述べた」と朝日新聞は報道しています。

無党派で市民派を旗印に圧倒的な不利な立場であったにも拘わらず当選した福田市長に実は私は一人で立候補した氏への単独インタビューをしています。その中で現川崎市長はこのように答えています。「法律(労働基準法のこと)は知っているが、(「差別」と「区別」という概念を持ち出し)、「権力」が発生するときは外国人は無理、これは差別ではなく区別である」。


2013925日水曜日
川崎市長候補者、市民の質問に答える

(9)最後に
現在の「当然の法理」に基づく制度は「差別ではなく、区別」だというのです。これは差別は何か、世界はどのように動いているのかについてまったく理解していないということです。川崎市で「共生」を掲げてもっとも影響力のある市民運動体は地域において市の委託事業をしています。市の傘下のNPO団体ということです。この川崎市長の下で、今後ヘイトデモを中止させた市民運動をどのような方向に進めていこうとするのでしょうか。

この小論は、川崎においてヘイトデモを市民の力で中止させた後、さて、これから何をどうしていくのかを議論をするのに参考になればと考えて書かれたものです。蛇足ながら、私のいう国際水準のまともな条例づくりは、反原発や憲法改正の自公の動きに対抗する質をもつものとらえる必要があると考えます。

すなわち、自公に対抗しようとするさらに多くの人たちと連帯しなければならないということです。また同時に、「当然の法理」という化け物のような存在、在特会と通底するような思想的な質をもつ、この日本社会の歴史的な闇のような存在にどう対峙するのかという、未来の日本を見据えた運動にしていかなければならないということを意味します。オール川崎で行きましょう。若い在日の登場に期待します。現状の不条理と闘うには、その不条理に本気で怒り、そして過去からの闘いの歴史に学び、そしてそこから未来に向かう社会に邁進していくしかありません。


15年前に私が書いたこんな小論がありました。参考にしてください。「国籍条項問題とは何かー川崎市当局との交渉から見えてきた地平についてー」
http://canna.jpn.org/index2.html 
 川崎連絡会議目次の「「共生の街」川崎の実態」をクリックして下さい。

      



3 件のコメント:

  1. 国籍による差別は民族による差別ではありません。(異なります。)
    参政権や請求権、あるいは住民として当然受けるべき行政サービスを、日本国籍を持たないという理由で住民に認めないことは著しく合理性を欠くと考えられるので、基礎自治体(最下級の・最も身近な自治体)に関しては、参政権や請求権などを自治体住民の権利として認められるべきでしょう。
    しかし、日本国内で公権力を行使するという立場に立つとき、その人が日本国民ではない(日本国籍を持たない)ということは、他の国民に対してきわめて不公平であるということになると考えます。なぜなら、あるいは日本以外の国籍がある(日本以外の国と『契約関係』がある、例えば海外居住者国政参政権がある、『ふるさと納税』ができる、など)にもかかわらず、権力を行使する業務を行う国(日本)との『契約関係』が不在なのは、不合理であろうからです。
    国籍による制限は、地球上からすべての国家がなくならない限り、国家の中では残さざるを得ないのではないでしょうか。

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  2. 1)権力の行使の有無は、労働条件(働かされる条件)には含まれないはずです。労働基準法自体では、業務自体の反社会性のや業務命令の不当性についての判断基準の提供はできません。
    2)国家の枠組みを超える、公衆衛生・環境安全、社会教育などに関する業務については、日本国籍を持たない住民が正当な公権力を行使することに、合理性がないとは考えません。(判断基準が国家の枠を超えることが通常でしょう。)日本では、外国での医師免許では医師としての業務はできませんが、言葉の問題等が解決できれば、医師としての就業を認めないことに合理性があるとは考えられず、日本語を母国語とする特別永住者の医師就業について、その不合理性は存在しないものと考えます。
    3)基礎自治体に関して、日本国籍を持たない人が「公権力を行使する」ことの是非については、もっと議論があってしかるべしとは思いますが、現状地方自治体は国の出先機関の側面が大きいので、国家公務員と同様の制限があってしかるべしと考えます。

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