2015年4月23日木曜日

原発メーカー訴訟の訴状の問題点

1.河合弁護士への問題提起
川内の仮処分は認められませんでした。残念ですが私の予想通りです。脱原発裁判の弁護士はあまりに前回の仮処分を過大評価していたのだと思います。司法の中の戦いは司法内で完結するのではなく、社会の様々な動向に影響を受けています。司法の独立などを言葉通り受け止めることはできません。

判決の根拠になる論拠について多くの例をあげ、「人災」である福島事故を裁くのに必要な論理を提示した『福島原発、裁かれないでいいのか』(古川元晴共著、朝日新書)、安全保障に関して司法は裁けないという「統治行為論」を展開した、矢部宏次の『日本はなぜ、「基地」と「原発」をとめられないのか』などは単純に司法の独立などとは言えないことを明らかにしています。

その矢部の「統治行為論」を正面から批判した、『世界』5月号の河合弁護士の主張は批判的に検討されるべきでしょう。河合弁護士は訴訟の会の学習会の席でも著者の名前を上げずに本の題名をあげて、「統治行為論」は間違いだと断定していましたから、今回、『世界』で自論を公にしたということでしょう。そこでは、司法は司法だけで完結していると考えられています。原発体制とは何か、それと戦い原発の運転や再稼働を阻止するのに日本の国内問題として捉え、一国平和主義の枠を超えないところで議論をしています。しかし本当にそうでしょうか?

日本の原発裁判の代表的人物である河合弁護士の発言の紹介

河合弁護士の弁護をするのではありませんが、2013年の記者会見では以下のような挨拶をしています(「脱核とアジア平和のための韓国原発地域韓日市民ツアー」記者会見、7月9日)。

この裁判は国際的な連帯が可能です。福島の住民だけが原告になるような訴訟ではどうしても国内的な運動にならざるをえない。東京電力だけの責任を問う闘いはどうしても、世界的な反原発運動とし展開するのに限界があります。この裁判闘争を続けながら、メーカーの免責をなしにしていく有力な手段になりえます。原発輸出を止めさせるには、大変、有効な方法だと思います。

熊本一規教授の著書『電力改悪と脱原発』の79ページにある、「脱原発を実現するには、原子力村の利権に対してと同様、自然エネルギー村の利権に対しても批判的な目を向ける必要があることを教訓とすべきであろう」という箇所に注目します。すなわち、運動のあり方をひとつに定めそれを絶対化し、その運動には批判を許さないというあり方が、運動の形骸化、あるいは他のあり方の可能性の芽をつみとることになるのではないでしょうか。それは批判者に対する「排除」につながります。

河合、海渡弁護士という、日本の反原発裁判の中心を担ってきた弁護士が弁護団になっている原発メーカー訴訟において、明確な理由なく、弁護団の言うことに従わない(「弁護士へのリスペクトが足りない」ー河合弁護士)原告を「排除」することを当然視するような現状で、世界のGE、 日立、東芝を相手に本当に戦えるのでしょうか。内部批判を「排除」するような戦いはいくら、正義のみ旗を掲げても運動を空洞化します。

2.メーカー訴訟の訴状について
訴状は、法律でメーカーの免罪を明記しているので裁判にしても勝てないという理由で圧倒的多くの弁護士が反対する中(河合、海渡弁護士も当初メーカー訴訟には反対していたようです)、島弁護士を中心に弁護士になりたての若手が理論構築をしながら、勉強をしてメーカーに責任があることを書き上げた労作です。原賠法が憲法違反であること、「未必の故意」でメーカーに事故責任があることを明らかにし、ノー・ニュークス権(No Nukes権:原子力の恐怖から免れて生きる権利)を高らかに宣言しています。

①精神的損害(苦痛)
訴状の細かい点として例えば、核反応を「化学反応」としたり、国内の原爆の数の誤りがあります。また、「日本が唯一、原子力爆弾による想像を絶する甚大な被害を受けた国」(4章 第3まとめ)については韓国在住の岡田さんからもその問題点が指摘されています。

「世界で唯一、原子力爆弾による想像を絶する甚大な被害を受けた国」なのかー岡田卓己さんの投稿
http://oklos-che.blogspot.jp/2014/07/blog-post_25.html

しかし、もっと根本的に訴状そのものの問題点として改めて検討しなければならない点があるように思えます。福島の人だけでなく海外の人を含め原告になれたのは、実は「精神的損害(苦痛)」という概念を使ったからです。それによってあらゆる地域の人が当事者になれたのです。その概念は運動を広げるのに有効だったと思います。

訴状では私たちが原告になったのは精神的苦痛(障害)を受けたからだとなっており、福島から海外の人までそれぞれの地域に応じて受けた精神的損害を根拠にして、一人100円を損害の一部として3社の原子力メーカーに要求しています。精神的損害(苦痛)とは本来、原発事故そのものだけでなく、事故によって可視化されてきた、それまで知らされていなかったことが事故後数年で明らかにされてきたことに驚き、怒りを覚えたものなのではないでしょうか。しかし私には、訴状にその怒りが感じられないのです。何かいろんなところから寄せ集めて書いた教科書のような感じがします。

②訴状の論理構造及びさらに訴状で触れるべき点
訴状の論理構造は、原告になるには当事者性が問われることから、福島から海外に至るまでまた海外も原発がある地域とない地域にまで分け、その人たちの精神的障害(苦痛)の内容を羅列し実際にいかなるメーカーの責任があったのかを明らかにしようとするものです。原賠法を押し付けてきた英米のことにも簡単に触れられています。しかし私たちは、そのような原賠法が日本だけでなく、世界各地で制定されていることも後で知り驚き怒り、それこそ精神的苦痛を受けました。しかしそれは、島弁護士がサヨク用語だから使うべきでないと言っていたNPT体制の実態であり、植民地主義そのものです。

原発は存在することで自然を汚染し地域住民の疾患を生み出していることが判明してきました(韓国のイ・ジンソプさんの戦いがそれを証明しています)。被爆労働者の実態も見えてきました(樋口さんの写真など)。原発に不可欠な核燃料がどのような状態で作られてきたのか(モンゴルでのウラン採掘の実態)、核ゴミの処理も曖昧なままです(日米モンゴルが秘密で契約を交わした、ウランの採掘と核ゴミの埋蔵を記した核不拡散条約の精神によるCFS構想)。このような問題が発生していることを無視して、あるいは知りながらも原発を作ったメーカーに何の責任はないのでしょうか。

官僚は平気で嘘をつくーモンゴルに核廃棄物を埋める話はなかった?
http://oklos-che.blogspot.jp/2014/08/blog-post_20.html

原子力事業者(東電)だけに責任集中し、PL(製造物責任)法を適応しないという原子力損害賠償法(原賠法)がある以上、倫理的な責任はあってもメーカーの責任を問うことは法的にはどうか、ということがよく言われました。確かに倫理的な責任の内容を一般の原告が法律のどこに違反しているということは言えません。その原告の気持ちを「法律語に翻訳」して裁判の場で原告の訴訟代理人として戦うのが弁護士の役目です。

③訴状には原告の怒りがこめられるべき
私たちが原告になったのは、原発事故で可視化されてきた、これまで知らなかった様々な実態に驚き、精神的障害(苦痛)を受けたからであって、法律によってメーカーに責任がないとしていることがおかしいと立ちあがったからではないのでしょうか。

原告にもいろんな問題意識を持った人がいるでしょう。特に海外の、日本よりはるかに多い原告の気持ち、怒りの描写は平明すぎます。海外の原告から私たちは単なる原告の数集めだったのかと批判される所以です。

それはこの訴状が原告との打ち合わせもなく、書かれた訴状に関して原告との意見交換もなく、時間がないということで2012年3月10日に提訴されたことと関連するように思います。そんな訴状が十分であるはずがありません。私たちは原告当事者として、可視化されてきたことに対してもっと自分の気持ちを、怒りを訴状の中で、裁判の中で訴えるべきだと思います。その原初的な原告の怒りを代弁して「法律語」で語るのが弁護士の役割であって、原告は弁護士が勉強して作った論理、概念を学習しないといけない、ましてや弁護団の言うことに従わない原告は「排除」するなどということを弁護士が発言することは本末転倒です。

さらに訴状の問題は、原告が学ぶべき法的、専門的なことを記してあり、それを弁護士が原告に教えるということになっている点です。弁護士が原告の精神的障害(苦痛)から学び共にそれを訴状に表すという構造になっていないのです。この一方的な性格が訴状の最大の欠陥であると私は思います。

3.最後に
原告の思いを受け止めない弁護士はそれ自体、弁護士会の懲戒申請に該当します。またメーカー訴訟を利用して民族運動をしようとしたということで私が事務局長であることを辞めよという要求は、私の名誉毀損に当たることは自明です。

一人の人間として、市民として生きることー原発体制に抗して

当然、懲戒申請、名誉毀損の訴えをするという原告もいるでしょう。しかし私個人は今、懲戒申請も名誉毀損の訴えもしません。原告の大多数を占めるメーカー訴訟の会として早急に裁判を始めるべきだと考えるからです。裁判のための裁判でなく、裁判で原告の怒り、精神的損害(苦痛)を訴え、原発体制がどうして存在するのか、それはいかに人類・自然に害をもたらすものかを明らかにしたいからです。そしてそれを裁判の記録に残しながら、全世界の核兵器・各発電廃止を願う市民による国際連帯運動の広がりに寄与したいと願うからです。

本来なら、22名の弁護団と圧倒的多数の原告が参加する訴訟の会との間で裁判のあり方、訴状の問題点、証拠・証人の選択などについて真摯な話し合いがなされるべきです。しかし上に記したような訴状批判をし、弁護団のあり方を問題にしてきた私の代理人を辞任すると弁護団は公言して止みません。すなわち、共に裁判闘争を進める仲間からの「排除」です。そのようなことになると多くの原告は弁護団を解任するでしょう。弁護団はそれでも構わない、「例え100名の原告になっても裁判を進める」と言っています。

一体、この事態をどのように解決すべきでしょうか。私たちが期待していた海渡弁護士は沈黙を守り、河合弁護士は私たちに「弁護士へのリスペクトが足りない」と言い、一部原告の代理人を辞任することをかえって進めようとしているのです。しかし弁護団が出した代理人辞任の理由は極めて一方的で、事実誤認に基づき、「排除」するという感情が先行するものです。私は弁護団の要求通り、事務局長を辞め、役員にも就きませんでした。しかも新事務局の無条件の話し合い要求に弁護団は一切、応じようとしません。

弁護団声明の撤回と謝罪を要求するー吾郷健二

訴状は被告に渡りました。そしていよいよ第一日目の審議がはじまります。弁護団が願うように彼らの指導に応じない原告を「排除」した場合、原告は、原告であることを辞めるか本人訴訟をするしかありません。弁護団を解任する原告も同じです。そしてそれがひとつになり「分離裁判」になるのかどうかは地裁が決めます。

今、私たちはこのような苦しい状況に追い込まれています。しかしいかなる事態になろうと、メーカー訴訟を提起し、裁判を通して原発体制に挑んでいくことを決意した私は、裁判の内外で多くの仲間と共にメーカーの責任を追求していくことをここに宣言します。




3 件のコメント:

  1. この拙論を河合弁護士への悪口とする批判がありました。よくお読みください。これは日本の反原発運動はこれでいいのかという建設的な批判です。

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  3. ツイターでこのようなメッセージがありました。

    原発問題の根元は、日本を核武装して中国の「喉元にナイフをつきつけたい」米国の戦略。反核運動も分裂することで自民や米国を助けてきた。本当に信頼できる弁護士に代えるべきでしょう @che_kawasaki: 原発メーカー訴訟の訴状の問題点 oklos-che.blogspot.com/2015/04/blog-p…

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