2015年2月15日日曜日

2・22シンポジウムで反原発運動の未来を議論し合いませんか

自由民主主義とは何か、議会制民主主義とは絶対的なものか、資本主義とは代えることのないものなのか、反原発運動を通して私たちが求めるのは、エネルギー源の問題にとどまらず、社会のあり方を根底的に変えるにはどうするのかということではないのでしょうか。

白井聡さんの著作より
「いま露呈している全般的腐敗は、「民主主義・平和・繁栄」の物語の只中で形づくられてきたものにほかならない。とすれば、われわれの抱いてきた「戦後」観に根本的誤りがあったことわれわれは認めなければならない」白井聡『永続敗戦論ー戦後日本の核心』。

「既存のすべての選択肢を拒否し、それらの<外>にあるものを探求することは、理論の本質的な役割である」白井聡『「物資」の蜂起をめざしてーレーニン、<力>の思想』。私たちが2月22日(日)、小出裕章さんと白井聡さんをお呼びして「原発と差別、戦後日本を再考する」シンポを企画したのは、まさに白井さんのこの発言に理由(わけ)があるのです。

差別がなくなっても原発は残るという馬鹿な発言をした某弁護士がいましたが、私たちの反原発運動は、「主権国家権力という権力形態を別なるものへととかし込まねばならない」、「「原子力国家」の超克は主権国家体制の超克と不可分である」(「「原子力ー主権国家体制」の行方」『ネグり、日本と向き合う』)と説く白井さんの主張をじっくりと聴き、私たちの反原発運動のめざすところの参考にしたいのです。

2015年1月3日 ラジオフォラーラムでの小出さんの発言
仮に制御でき続けたとしても、核分裂反応というものを使ってしまいますと、核分裂生成物、いわゆる皆さんが「死の灰」と呼ぶものが避けることなくできてしまうのです。
そのできる量たるや膨大な量ができてしまいまして、例えば今日では100万キロワットという原子力発電所が標準になったのですが、その原子力発電所1基を1年運転させるためには、1トンのウランを核分裂させる。そして、1トンの「死の灰」ができるわけですけれども、広島原爆で核分裂させたウランはわずか800グラム、まき散らした「死の灰」も800グラムだったのです。
つまり、原子力発電所というものは1基を1年運転させるごとに、広島原爆がまき散らした死の灰のゆうに1000発分を超える死の灰を避けることなく生み出してしまうという、そういう機械なのです。

2月22日のシンポジウム「原発と差別、戦後日本を再考する」に参加されませんか。
私たちが『永続敗戦論』で日本の敗戦と福島事故の無責任な実態の類似性から考察を深め、敗戦を認めることなく「終戦」と言い繕い、戦後日本の、アメリカの傘下での「平和と民主主義」を謳歌してきた姿の危うさを徹底的に暴いた白井聡氏と、原発が存在することそのものの危うさ、原発がまさに差別の上で成り立っていることを繰り返し語り、具体的に原発の問題を一般市民に訴えて来られた小出裕章氏をお招きして講演会をもつことは、まさに時代の要請であるように思えます。


後、10人を切りました。今日中にお申込み下さい。
事前予約受け付 222sengoshi@gmail.com


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