2014年11月27日木曜日

LAのKanno samさんの投稿:日本の「反原発・反核」の運動がこれまで“国際連帯”の旗を掲げられないで来たのは なぜでしょうか?

原発メーカー訴訟の会の原告であるKanno samさん(アメリカLA在住)が、訴訟の会のMLに投稿されたものをご本人の承諾を得て、私のブログで紹介させていただきます。

原発メーカー訴訟の会の「混乱」というのは組織内部の問題でありながら、日本社会の「混乱」を反映したものであり、この原発メーカー訴訟の会の「混乱」を路線の違いと見る氏の説明は、日本社会の「混乱」をどのように見るのかということにつながると判断しました。

またNNAF(No Nukes Asia Forum)は高木仁三郎などのアジア全体の国際連帯を求める崇高な理念からはじまったものが、私たちのNPO法人NNAA(No Nukes Asia Actions)と関連するアジアの仲間との連帯を拒むような文書を配布した背景を考えることは、自らの運動を見直し点検するためにも重要な視点だと考え、Kanno氏の論文を掲載させていただきます。 崔 勝久


 日本の「反原発・反核」の運動がこれまで“国際連帯”の旗を掲げられないで来たのは
 なぜでしょうか?

  日本の「反原発・反核・反戦」の大衆運動においても、日本政府・統治権力者と同じで、「遅れたアジア」は教え導く対象ではあっても、「連帯」すべき(つまりイーブンな)相手ではなかったということだと思います。

中国、あるいは韓国、朝鮮を「仮想敵国(?!)」としていると見える安倍政権の登場を許してしまったことによって、日本の「反原発」をはじめとする大衆運動がアジアの人々と手を結び得る内容を持ったものとして展開されていないのではないかと推測されるものとなりました。“再び戦争が出来る国”としてのレジームチェンジを図ろうとする安倍政権を、選挙を通じて(いわば日本の「民意」の反映として)登場させてしまったことは、アジア諸国の人々にとってはショックなことです。“戦争放棄”の第9条を持つ「平和憲法」を掲げ、平和国家を標榜してきた日本を、米国がオフシェア(遠くからの)バランシングなる戦略の下で中国に対抗する駒として扱おうとすることに応えて、“島嶼防衛強化を中心に軍備を増強し、さらには米国に付き従って再び「軍隊」を海外に派遣することを可能にしようとしていることは、1600万人もの死者を伴った「被侵略」の経験を持つアジア諸国の人々にとっては耐えられないことだと思います。

「戦力としての武力の永久放棄」は日本のアジア侵略、その戦争責任についての真摯な反省が表明されたものとして国際社会では受け止められてきました。これを「受け入れた」と見せかけて、営々と69年間にわたってひっくり返す工作を続けて来た日本の保守政権については何というべきでしょうか。あのアジアで2000万人もの死者を生み出した戦争とその敗北についてまともに考え抜かれたものとは思えません。

アジア諸国の人々に日本から「反原発・反核」の国際連帯を呼びかけるにあたっては不可避に日本の過去の戦争責任や歴史認識、自衛隊の海外派遣、潜在的核保有国、民間大企業の軍需部門への参入と拡大(武器輸出3原則の「撤廃」)などについての見解が問われると思います。残念ながら、戦後の日本は「平和憲法」を信奉しながら、朝鮮戦争やベトナム戦争特需を通じて、その戦争における兵站部門を受け持ち、さらには出撃基地としての在日米軍基地の使用を国として「容認」して来てしまったのです。日本はアジアにおける戦争において戦後も「暗黙のうちに」加害者の立場に立ってきたのです。その点についての反省を抜きに、どうして「反核・反戦」の国際連帯を呼びかけることができるでしょうか。

「日本は第二次世界大戦における敗戦国だということです。(略)しかしわれわれ日本人は、本当はその意味がよくわかっていない。(略)第二次大戦の敗北によって、日本は世界の最底辺国に転落しました。しかしそうした状況の中、戦後世界の覇者となったアメリカに対し、徹底した軍事・外交面での従属路線をとることで、第二次大戦の敗戦国(最底辺国)から、冷戦における戦勝国(世界第二位の経済大国)へとかけあがっていった。」(「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」矢部宏治著、集英社P192

この米国への徹底した従属路線を白井聡さんは『永続敗戦論』(大田出版)で徹底的に内部切開し、1945年の敗戦時から今まで続く“永続敗戦”と名づけました。他方、アジアに対してはその経済的成功ゆえに戦前からの帝国主義宗主国の優越意識が温存されたのです。それは永続敗戦の代償作用でもあるのです。

NNAF日本代表佐藤大介氏によって隠蔽された「非核アジアフォーラム・台湾」で論議されたこと

 「これまでのフォ-ラム(NNAF)では、自分の意見を押し付けたりせず、お互いの意見や状況や立場を尊重しあって、対等な信頼関係を作ってきました」というNNAF日本代表の佐藤大介氏による文書の文言は、「相互尊重」の美名の下に、日本の反原発・反核運動の限界に対する無自覚と、台湾で盛り上がりつつある反核の運動への無関心を示したものです。さらに姑息なことにフォーラムにおける以下の論議を隠蔽する意図が込められていました。

声明文作成過程における論議としては、現地で配られた草案に、①台湾を始め各国の原発立地地域住民の要望として即時稼動停止と廃炉の声が強かったにも拘らず、その声をエネルギーシフトの方向へ誘導する“再生エネルギー利用”が強調されていること(日本の一部産業界が目指す方向でもある)。②台湾第4原発の廃炉にむけた住民投票のハードルが高く、「容認」の結果ともなり得るにもかかわらず、それを回避するための方策が欠落していること。③原発における被曝労働の問題や、フクシマなどの原発被災地における放射能汚染被害の深刻さについての言及がないこと。④核兵器を核兵器保有5カ国(米、ロ、英、仏、中)に独占させて世界を軍事的なコントロール(=支配)下に置く他方で、その“正当化のために”同じ核技術による核発電をIAEA(国際原子力機関)の保障管理の下で世界中に拡散させているNPT(核不拡散条約)体制への批判がなく、むしろ「肯定」している文言があること。⑤原発メーカーの責任が追求されていないこと。などが問題とされ、そうした点を修正する論議がなされて、一部は声明文にも反映されたのです。そうしたフォ-ラムにおいて真摯に為された論議の一切を「相互尊重」の名の下に隠蔽することは、明らかに当初の草稿に記された“エネルギーシフト”を目指す運動へフォーラム自体を誘導する意図を窺わせるものでした。

島弁護士の考える「脱原発」の運動と、「原発メーカー訴訟」とは?

そうした政治的意図を秘めたNNAF文書を、「原発メーカー訴訟の会」の原告、サポーター、弁護団合同の正式会議で配布することを促し、崔さんをはじめとするNNAAメンバーの台湾での活躍を「フォーラムを妨害するもの」と貶め、“崔事務局長の訴訟からの排除”をあらためて試みた島弁護士の意図する原発メーカー訴訟とはどんなものでしょう。ここにきて、島弁護士の思い描く「反原発」の運動なるものがようやく明らかになりました。島弁護士はサポーターの菅谷さんが明らかにしてくれたように、『えねべん』という弁護士を中心とする社団法人をつうじて小泉元首相などとともに再生可能エネルギーの普及や環境保護運動を提唱しています。

一方で、地方再生運動として再生可能自然エネルギーへのエネルギーシフトや、NNAFなどを使ったアジア地域での省エネ・環境「保全」製品市場の開拓という日本の一部産業界の意を受けた(小泉氏の提唱する日本の優秀な技術力を駆使した廃炉事業も含めた「脱原発」に向けた新たな産業を興すこと)活動を繰り広げつつ、他方で原発メーカー訴訟を原発メーカーの製造物責任に限定したものとして、つまり製造物の優秀性・安全性に限定した責任追及という、『えねべん』の活動と“親和性のあるもの”として展開することが考えられていると思います。

環境保護運動などは、核による環境破壊を不可避にする原発に対する一定のプロテスト的意味を持つとはいえ、巨大企業による世界市場での自由な企業活動(新自由主義)を保障するために「“安全保障”の名の下の核兵器による世界支配」の論理がまかり通る現実においてあまりにもデフェンシブです。すでにフクシマ、あるいは沖縄で作り出されている悲惨は棚上げされて、環境に負荷をかけない製品などの推奨運動に収斂されかねないものです。なによりも原発メーカーがその製造物責任を問われなかったり、日本政府が原発をやめることができないばかりか、海外輸出まで必死にならざるを得ない本当の理由として、日米安保体制の下の「安保法制」という米国への従属を法的に認めた体制の下では日本に外交・軍事における自己決定権がないという現実を押し隠すものとして機能するからです。

日本における圧倒的マイノリティの在日朝鮮人として、“就職差別という被差別”の体験と、“国際世論に訴えることによってその「人権意識の希薄な日本の常識」を覆した”という体験を持つ崔事務局長だからこそ、日本の国内で完結する「反原発」運動の限界を超えて、「原発輸出反対」や「台湾第4原発反対運動への支援」、さらには「強大国の核による世界支配とマイノリティ差別を前提にした国際的な原発(NPT)体制の打破」といった主張を世界的に訴えるとともに実質的なオーガナイズを原告4000名(39カ国)の原発訴訟として実現することが出来たのです。

マイノリティの人権の否定は現在進行形の被災地の人権侵害と同じ問題です。こうした基本的人権の侵害は日本においては憲法によって保障されているはずですが、在日朝鮮人は日本「国民」ではないので日本では法的に保障されていません(占領軍による憲法草案の“The People”を意図的に“国民”と翻訳して日本国籍保持者以外の人々の基本的人権を憲法による保障から排除したのです)。そして原発災害という安全保障に関わる人権侵害は日本国憲法の上位にある安保法制によってやはり“侵害の法的判断を停止する”という形で救済しないというのが日本の最高裁判所の判断なのです。

日立製作所による朝鮮人への人権侵害は、韓国・欧米を中心に国際的に繰り広げられた日立製品不買宣言など国境を越えた運動によって日立が“民族差別に基づく人権侵害であることを認め、朴鐘碩さん謝罪し、4年後に入社を受け入れたのです。個別企業としての日立が企業イメージの低下を恐れて敗訴を認めたのであって、残念ながら社会的広がりを持ったものとして日本社会に受け入れられたとはいえません。依然として入社選考以前の書類選考の時点で在日朝鮮人が撥ねられるケースもあり、政府は、排外主義を煽るヘイトスピーチを規制することもできません。

政令指定都市として最初に国籍条項を撤廃した川崎市は、「当然の法理」(国籍)を理由に、採用した外国籍公務員に決裁権ある管理職、許認可の職務に就かせないことを明記した「外国籍職員の任用に関する運用規程」(マニュアル)を作り、差別を制度化しました。「運用規程」は作りませんでしたが、日本全国の自治体でこのような差別が実施されており、外国籍住民「二級市民扱い」されているのが日本社会の現実です。差別を是認した「当然の法理」(運用規程)は、自治体首長の裁量で撤廃できます。(赤字は日立就職差別裁判の原告である朴鐘碩さんによって補足・訂正していただいた箇所です。ありがとうございました)

原発被災地における人権侵害も(この訴訟においては原発メーカーの“未必の故意”による健康被害の広範囲における発生など)、「福島子ども疎開訴訟」における仙台高裁の判決のように、その健康被害の実態は「認定」しても、(「日米原子力協定」という憲法より上位にある“安保法制“によって)メーカーの製造物責任は“免責”されているとして、日本国憲法との整合性に欠ける論理(統治行為論、裁量行為論、第三者行為論など)を持って認定しないでしょう。そのことの不合理を明らかにした大きな“社会的圧力”を国内的・国際的に創り出すことが必要です。

「原発メーカー訴訟」を、議論を中心とした民主的な運営で進めていこう。

では、見てきたような島路線、崔路線のどちらが訴訟にとって基本となるべきでしょうか。どちらもあっていいと思いますが、一方が他方を論議以外の策を弄して排撃するものであってはならないと思います。その点で島弁護士による崔事務局長に対する「弁護士の権限」を振り回しての排除工作はこの訴訟に係わる意図を疑わせるものでした。“マイノリティ差別”は“従属国市民への人権侵害”と同質のものです。そのマイノリティの主張を「訴訟への広範な支持を失わせるもの」と捉えるとするなら、この訴訟の意義をまったく理解していないものと言わざるを得ません。伊倉弁護士のように原発を推進しようとする側からの分断工作が見え見えの言辞も容認してはならないと思います。

そうした工作は今後もますます激しく仕掛けられると思います。このMLでの論議を通じてまずは言論によって封殺していかなくてはならないと思います。崔事務局長の海外出張費の支出をめぐるごたごたも国際的連帯をどういうものとして認識しているかということに関わります。原発メーカー訴訟は不可避に米国の軍事的・外交的世界戦略をも対象にする訴訟です。日本企業三社の製造物責任の問題としてだけ捉える場合は当然にも海外への呼びかけは位置づかないのです。国際連帯の最も重要な意味は、“相手国内に自分と同じ原発や核実験による核ヒバクや軍事基地の存在に苦しむ人々を見る”ということだと思います。まして自らが従属国の二級市民扱いされている自覚がなくて、アジアでの経済的優位を根拠とした優越意識を根強く保持している日本人にとって他国に自分と同じ人々を見つけることは重要です。そのことだけが「国」なるもので隔てられ、時として相互に憎しみを煽られ、戦争にまで動員される「国民」なるモンスターから離脱する手段なのです。日本の右傾化に棹差すのではなく、抗していきましょう。(続きます)

11月20日 ロサンゼルス在住原告、SAM KANNO





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