2014年8月28日木曜日

原発は差別の上で成り立つ

今年になって読んだ本の中で私は、水野和夫と白井聡の著作に注目しました。私は『福音と世界』に投稿した「国民国家とどのように向かい合うのか」という拙論でこの二人のことに触れています。
水野和夫は『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社 二〇一四)で資本主義の終焉を語り、エコノミストとして経済成長を唱えるアベノミクスを批判します。そして豊富なデータと歴史的な知識を駆使し、一六世紀の中世封建システムと比較しながら現状との類似点を示し、資本主義システムの終焉が確実であり英知を集めて大きな打撃をうけないように備えることを説きます。
資本主義社会は「周辺」を求め利益を確保してきたが、もはや「周辺」はなくなり自国内で「周辺」を作りはじめる、これまでの利益を支えてきた廉価な石油エネルギーは暴騰し、原子力と金融工学による科学の夢は完全に破たんし、資本主義社会は利益を上げることのできないシステムとして終焉を迎えていると強調します。
水野の本がよく読まれる理由はどこにあるのでしょうか。これは一般のサラリーマンもまた、現在の資本主義社システムによる格差や貧困化を不安視しているからに違いありません。

白井聡の『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 二〇一四)は、日本社会の問題を正面から批判的に展開するものですが、それがどうしてよく読まれるのでしょうか。あまりに低劣なレイシズムの跋扈や、嘘と屁理屈で固めた政策と集団的自衛権の行使に突っ走る安倍首相に嫌気がさし、日本社会の根本的な問題とその背景を知ろうとする人が増えているのかも知れません。彼の核心を衝く論調に惹かれる読者が多いのでしょう。
白井は「敗戦」を「終戦」と言い換え、大二次世界大戦の敗北を認めずにアジアの隣国に強気で向い、アメリカに隷属する日本社会の実態を「永続敗北論」として説明します。経済成長によって正当化されてきた「敗戦後」の平和と民主主義がいかに脆弱なものであったのかを分析します。彼は「敗戦」とともに原発事故の責任を取り切ろうとしてこなかった問題から取り組まない限り(そんなこともできないのに)、加害者性を自覚した運動はできないとまで言い切ります。

その二人の対談をアメリカの友人から教えてもらいました。その白井さんと小出さんの対談が実現することが決まりました。

「原発は差別の上で成り立つ」と喝破されていた小出裕章さんと、白井聡さんの対談を実現したら、このお二人は、「原発は差別の上で成り立つ」ということをどう展開してくれるだろうか、何か、これまでにない視点がそこから見えてくるのではないかと考えお二人に連絡をしたところ、小出さんも白井さんも快諾してくださいました。来春、2月22日(日)午後。東京で講演会決定です!ご期待ください。

私的には、福島の切り捨て、原発問題の本質、戦後日本のあり方、世界の原発体制(NPT)の構造、在日の視点、国民国家の問題、これらがようやくひとつになってきました。原発事故で可視化されて来た問題をしっかりと見つめ、お二人のお話から学び、新たな行動につなげていきたい思います。 
    

資本主義の死の時代を生き抜く [対談]水野和夫(エコノミスト)×白井聡(政治学者)
資本主義の終わりの始まり
白井 いわゆるアベノミクスが始動して一年あまりが経ちました。しかし、水野さんが以前から主張なさっていたように、金融緩和や成長政策といった手段では、今日の世界的経済危機は解決できないことがますます明らかになってきた。現にアメリカが量的緩和を縮小する局面に入っただけで、株価の乱高下は激しくなり、新興国の経済が危うくなってきています。アベノミクスの三本の矢にしろ、アメリカの量的緩和にしろ、解決どころか、危機の本当の姿を覆い隠すことにしかなっていません。
水野 そのとおりです。リーマン・ショックのときの金融危機は、国家に債務を肩代わりさせて乗り切りましたが、こんなことはいつまでも続けられるわけがない。
 いまや世界経済が先進国の量的緩和を与件としてできあがってしまっています。そうなると、たとえ一時的に緩和を縮小したとしても、どこかでバブルが弾けて経済が低迷すれば、量的緩和を再開せざるをえない。そのツケは、結局、公的資金というかたちで国民が支払わされるわけです。
白井 そんな状況を単なる長期停滞だと認識してはならない、これは資本主義の終焉の始まりなんだというのが水野さんのご主張ですよね。
水野 資本主義の死期が近づいてきているとしか思えないのです。
 国債利回り二パーセント以下が一六年続く日本を筆頭に、先進国で超低金利状態が続いています。金利はほぼ利潤率に一致しますから、超低金利というのは、資本を投下しても利潤を得ることができない、という状況です。資本を自己増殖させることが資本主義の本質ですから、つまり、この超低金利状態から抜け出せないということは、資本主義の終焉を意味するのです。
 その資本主義の終焉と同時に、資本主義とともに発展してきた国家や民主主義といったものも、大転換期を迎えているのではないか。政治思想がご専門の白井さんに今日はそのあたりを、ぜひうかがいたいです。
白井 近代そのものの終わりという世界史上の巨大な転換期にいるのではないかと私も感じています。まず、国家の変質という点から、資本主義と近代の終わりについて考えてみようと思います。
ブラック国家化する現代
白井 水野さんは近刊『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)をこう始めていらっしゃいますね。資本主義にはどうしても、フロンティアが必要である。中心がフロンティアを広げながら利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくものだと。しかし、グローバル化が進んで地理的な意味でのフロンティアは消滅し、バーチャルな「電子・金融空間」でも利潤を上げることはできなくなった。もう外部に利潤を上げるフロンティアはなく、そうなると、内側でフロンティアを作るしかない。つまり、国内の国民から巻き上げていくしかない。
水野 そうです。アメリカでいえばサブプライム層への収奪的貸付であったり、日本でいえば低賃金で働かされる非正規社員であったり。日本でもアメリカでも、景気が回復しても労働者の賃金は増えず、中間層の没落ということが明らかになってきました。そして、中間層が没落すると、国民の同質性が失われるので、民主主義が成り立たなくなるのではないかと思うのです。
白井 ご本を読んで、この指摘はすごく重要だと思うと同時に、新鮮な論じ方だと感じました。おそらく、水野さんの民主主義の定義はカール・シュミットを参考にしていると思うんです。シュミットは、民主主義は同質性を前提とすると言った。ほとんどの読み手は、シュミットの言う同質性を、民族的な同質性として読んできたと思います。水野さんは、それを経済的な同質性として読んでいる。昨今、熟議民主主義の議論が盛んですが、それは最低限の同質性がなければ成り立ちようがないことを示唆する議論です。
水野 日本の金融資産ゼロ世帯を見ると、七〇年代半ばから八〇年代後半にかけての十数年はおおむね三〜五パーセントで推移していたんです。ところが、いまや三世帯に一世帯が金融資産ゼロという状況になってしまった。彼らにとってはなんのための国家なのかという話になるんです。
 一方で、下の図が示すように、ごく一部の富裕層の所得の国民総所得におけるシェアが増加してきている。日本の上位五パーセントの所得シェアの推移をまとめたものなのですが、九〇年代以降は急上昇しています。
白井 確かに、八〇年代までは、同じ国民の中では経済的な同質性を実現させようという、フォーディズム的な資本主義の発展の歴史があったわけです。その同質性をもとに議会制民主主義も機能してきた。二〇世紀後半の先進諸国は、国民国家の最も成熟した形態にまで達した社会だったと言えます。
 ところが、資本主義が行き詰まり、国内の同質性の追求は放棄されてしまった。となると、それは国家のあり方そのものの変質につながると議論されている。この議論はギデンズやライシュの提唱した「第三の道」の破綻を論証するものです。彼らは、生産様式が変化した中で中間層を再建する方策を考案し、政府に採用されましたが、上手くいかなかった。水野さんのご本の中で「国家が資本の足手まといになっている」という記述がありましたが、これをより踏み込んで言うと、足手まといになっているのは国家というよりも、国民なのではないかと。
 かつてマルクスは近代国家とは全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会だと言いましたが、まさにそのような状態が出現している。その国家にとって最大のお荷物はなんですかといったら、国民です。だから、国民国家の黄昏とは何かというと、国民と国家が分離する状態だと思うのです。つまり「国民なき国家」という状況になってきているんじゃないでしょうか。
水野 おっしゃるとおりで、現代のグローバル資本主義は中間層を没落させるという意味で、どんどん粗暴になってきています。これは、資本主義の「退化」とも言える出来事です。国王と結託したかたちの資本主義、一六世紀あたりの資本主義の姿に「先祖返り」を起こしているのです。
白井 同感です。そもそも、国家がなぜ多額の借金をすることができるかといえば、徴税権があるからです。言うまでもなく、税金は国民の労働を源泉としています。つまり、国家は国民の労働を担保に借金をしている。しかし、一方で、もうお荷物だから、国民の面倒など見たくない。働けるだけ働かせて、面倒は見ない。つまるところ、国家の借金は国民の借金であり、国民の未来の労働が借金のカタにとられたということです。いまや国民は債務奴隷なのです。
水野 ブラック企業どころか、ブラック国家です。
白井 株価は上昇しても、賃金が上がらず、労働時間も減らない。しかも不安定な非正規雇用だけが増えている。これは、完全にブラック国家ですよ。非常に皮肉な話ですけども、資本主義というのは奴隷制や身分制を否定して、自由な主体として人々が労働や生産をするところから始まったのに、なんと資本主義の完成は、奴隷制の完成に帰結しつつある。現代はそういう状況にあるんじゃないかと見ているのです。
中間層が没落するとファシズムが台頭する
水野 資本主義の終焉を考えるときに、もうひとつ大事なことは、もはや多くの人々の中で、資本主義を支持するモチベーションがなくなってしまった、という点です。そういう意味でも、資本主義は危機に瀕している。
 そして、国家が「国民なき国家」になっているとしたら、先祖返りしているのは資本主義だけじゃなく、民主主義もそうなのかもしれません。
白井 中間層が没落し、同質性が壊されていく。同質性が壊れたところで無理やり民主主義をやろうとすると、どうなるか。これはファシズムになるんだと思うんですね。
水野 同質性のない人々を束ねるためには、ファシズムが台頭してこざるをえないと。
白井 はい。誰かを排除する身振りによって同質性を捏造するのです。ナチスが台頭したときというのは、まさに没落する中産階級が一番の支持基盤となって、ナチズムのイデオロギーが受け入れられていったという流れでした。翻って最近の日本を見ると、同様の構図が見て取れます。在特会(在日特権を許さない会)の跋扈など、「モッブの支配」(ハンナ・アレント)そのものでしょう。彼らは自分たちの活動が為政者から暗に推奨されていることを知っている。アベノミクスならぬアベノクラシーについて考えなきゃいけません。
水野 そのとおりだと思います。
白井 そんな情勢だからこそ、ゾッとしたのが安倍首相のダボス会議での発言です。「一〇〇年前、英独の経済は大きな相互依存関係にあったが、それでも第一次世界大戦が起きた」と発言したでしょう。情勢分析として正しいがゆえに、一国の首相がああいう発言をしたことは非常に危険です。中国側はこう受け止めたでしょう。「日中の衝突が不可避だと日本の中枢は考えている、であれば、その準備が必要だ」と。
水野 中国は当然、そう思ったでしょう。そうならないように努力するのが政治や外交の役割だというのに呆れるばかりです。ところで、日米同盟があるから日中衝突は避けられると考える人もいますが、白井さんはどのように見ていらっしゃいますか。
白井 実は今まさに、日米同盟についても、アメリカは日本を「お払い箱」にしようとする気配があります。というのは、対中戦争のリスクが日に日に現実味を帯びてきているような状況で、アメリカとしてはそんなものには巻き込まれたくないわけです。でも万一、日中衝突が起きてアメリカが無視を決め込んだりしたら、アメリカの他の同盟諸国にも激震が走ります。じゃあどうするか。あらかじめ、国際世論を仕立てておくのですよ、日本はまともな国ではないと。第二次世界大戦の反省もない「おかしな国」なのだから、いざとなったときに助けてもらえないのもしかたがないという雰囲気を作っておこうと考えるはずです。
水野 なるほど。
白井 問題発言を繰り返す日本国内の歴史修正主義者たちは、日本をデモナイズ(悪魔化)する国際世論作りに加担しているようなものですよ。しかし、歴史修正主義よりも根が深い問題は、日本異質論が海外から出てくることです。先日、突然、キャロライン・ケネディ駐日本大使がツイッターで和歌山県太地町のイルカ漁を非難した。あの唐突な発言に、どこまで政治的な意図があったかはわかりませんが、潜在的にたいへん危険です。政治の問題と違って、文明観、自然観の対立となった場合、それは非和解的なものとなります。
アメリカの次に中国が覇権を握るのか?
白井 いずれにしろ、日中の経済的な力がGDPでいえば逆転し、米中の力も差が縮まってきた。さて、こうなると次なる世界の覇権国は、やはり中国なのか、ということが議論の的になります。もう二〇年以上前のことですが、アメリカの歴史社会学者ウォーラーステインは「次は日本だ」と言い、見事にはずれました。
水野 日本は政治的な意味で、主権国家として成立しているかどうかも怪しい。そんな国が、世界の覇権を握れるわけがありませんから、振り返れば、もはや笑い話ですね。いや、でも日本人自身が、世界第二位の経済大国だと驕っていたわけですから、ウォーラーステインの間違いを笑っている場合ではありません。
白井 冷戦構造が続き、アメリカの保護下にあったからこそ、第二次世界大戦に負けたにもかかわらず、日本の経済大国化は成功した、ということを日本人自身が直視できていません。敗戦した事実からすら日本人は目をそむけてしまっている。
水野 そのことをお書きになった白井さんの『永続敗戦論』(太田出版)を私も読み、大きな衝撃を受けました。「敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる」と書いていらっしゃいますね。
白井 経済的な繁栄が、敗戦の事実を否認する構造を完成させたのだと思います。その一方で、アメリカへの従属も続きます。経済の世界でも日本の従属構造ははっきりしているわけですよね?
水野 一九八五年のプラザ合意しかり、現在のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉しかりですよ。
いまや安倍首相のスピーチ・ライターになり、「影の総理」ではないかとも言われる谷口智彦さんはかつて『通貨燃ゆ』(日経ビジネス人文庫)の中で、日本のバブルについても米国追従と切り離せないと言っていました。冷戦末期のアメリカは軍事費の増大による財政赤字に悩まされており、日本のバブルは、その赤字をファイナンスするためのものだったと。ザ・セイホをはじめ、日本の機関投資家のマネーは米ドル債購入によってアメリカに流れていったわけです。だから、冷戦が終わってしまえば、日本の投資家なんてお払い箱で、事実、冷戦終結とともにバブルは弾けました。
白井 なるほど。レーガン政権の軍拡にファイナンスすることで、自分たちの繁栄を支えてきた冷戦構造をわざわざ壊してしまったのですから、無残な限りです。覇権変動に関する議論に戻りますが、水野さんは今回の新刊の中で、実に重要な指摘をなさっている。アメリカの次に、中国が覇権を握るわけではない、と。
水野 中国が覇権国になるとは考えられません。成長率はそれなりに高くとも、中国は過剰な生産設備という大問題を抱えている。その過剰な生産を消費できる所が、世界中にほとんど残っていない。もう需要がないとわかった瞬間に、世界中からの投資が集まった中国のバブルは破裂するわけです。となれば、世界中がデフレ化します。資本主義の終焉です。
白井 そして、アメリカの次に覇権を握る国は現れてこないのだと。これは非常に重要な指摘です。
水野 覇権国とは何か、というところから話せば、私は近代的な覇権国には、二つの経済的な条件が必要だと考えています。
 一つは、資本を集める能力です。一七世紀のオランダ、一八世紀以降のイギリス、二〇世紀のアメリカと推移してきた覇権国の金利を見ると、それぞれ絶頂期には金利が非常に低い。金利が低いというのは、世界中から資本を集める能力に長けていて、十分資本を蓄積できた結果、起きることです。
 現在のことを言えば、中国など新興国に資本は集まってきていましたが、あれはアメリカの量的緩和のせいで行き場のないマネーが流れ込んでいただけです。アメリカが量的緩和を縮小すると言っただけで、資本は引き上げられてしまう。市場は大荒れです。
 そして覇権国の条件として、もう一つ挙げたいのは、資源価格を低くコントロールする能力です。産油国の資源ナショナリズムが勃興し、オイル・ショックが起きた後も、原油を先物取引の対象にすることで、アメリカは資源価格をコントロールしてきました。しかし、グローバル化が進み、新興国も工業化することで需要は膨らみ、しかも量的緩和によって流れ込んだマネーで、価格は高騰するばかりです。だから、二つめの能力はもうアメリカにありません。いや、アメリカだけでなく、中国であれ、どこの国であれ、資源価格をコントロールすることはできないのです。
白井 もう近代的な覇権国は成り立たないんですね。近代という枠組み自体が壊れてしまった以上、一七世紀オランダから続いていた覇権の変遷の歴史も終わる、近代資本主義はもう終わるから同じような歴史の繰り返しはないということですね。
定常状態が豊かさを取り戻す道
水野 だからこそ、次の時代の準備をしなければならないのに、ゼロ金利の先進国ですら、量的緩和政策などで、近代を延命させようとしています。近代を延命させる成長主義はバブルを生み出すだけですから、逆に近代の死、資本主義の死を早めてしまうんです。
白井 成長を前提とする近代経済学に対して、水野さんが根源的な批判を繰り返してきたのは、それゆえですよね。水野理論の最大のポイントは、資本主義が駆動するためには、「自然からの贈与」の必要性を論証していることだと思います。近代資本主義で言えば、自然からの贈与とはずばり石油です。石油をタダ同然で手に入れられたからこそ、先進国はオイルショックまで成長を謳歌できたとおっしゃっている。しかし、その「贈与」はもはやない。主流派の経済学は等価交換の世界を描き出し、そこからはみ出すものをたかだか「外部性」としか位置づけできません。実際は、交換の世界が交換ならざるものの上に乗っかっていることを水野理論は明らかにしました。
 しかし、依然として「成長教」はとどまる気配はありません。そういう現状を見ると絶望的になりますが、水野さんはその中でも今後の展望をなんとか描き出そうとしています。そのポイントは何かというと、「余剰の収奪がない」ということだと思うのです。封建制と資本制はシステムこそ違いますが、「余剰の収奪」という点ではモデルチェンジにすぎませんでした。
 しかし、水野さんが主張している今後のあるべき経済社会の「定常状態」というのは、「余剰の収奪がない」状態ですよね。
水野 そのとおりです。定常状態は、すなわちゼロ成長ですから、純投資をしないということになります。純投資をしないということは、余剰を使って拡大再生産をしないんですね。イメージしやすくいえば、これはある意味で、豊かな時代の家計に近い状態です。身の回りにモノが溢れている時代において家計は将来を心配せずに消費を行います。正常なあり方ですよね。無理に利潤を上げたり、ストックを増やしたりする必要がない状態です。それが私のイメージする定常状態です。
白井 その考え方には、どこかバタイユの気配を感じます。バタイユは、資本主義というのは余剰を上手く処理できない唯一の経済様式であるというふうに言っているんです。どの社会にも余剰はあるわけですね。その余剰にどう対処してきたかというと、未開社会などではポトラッチや祭りをやって蕩尽してしまう。そういうかたちで人類は余剰に対処してきたんだけれども、資本主義が特異なのは、余剰が出るとそれを拡大再生産に向けるんですね。
水野 はい、資本が自己増殖していくわけです。
白井 水野さんはそれにストップをかけようと言っていますが、ただ定常状態の社会であっても、余剰はどうしたって出ます。「今年は作りすぎた」みたいなことがあるわけです。だから定常状態を実現するためには、余剰が出たら、それを何がしかのかたちで「蕩尽」しないといけない。つまり贈与なのか自分で使うのかはわかりませんが、使い切ってしまうということが定常状態では重要になってくるのです。
 これは豊かさを取り戻すことでもあると思うんですね。資本主義というのは、マックス・ヴェーバーが分析したように、非常に禁欲的になって豊かさを断念しないといけないわけですから。
水野 禁欲であると同時に強欲ですよね。白井さんが今おっしゃった「蕩尽」とは正反対に、とにかく「蒐集」するのが資本主義の原理ですから。
白井 定常状態や脱成長というと、おそらく一般的には非常に後ろ向きの議論だと見なされやすい。それこそ禁欲的なイメージが強いと思うんです。でもバタイユを参照すれば、定常状態は決して禁欲的な社会ではなくて、余剰分は使い切ってしまう豊かさがあるということになる。
水野 確かに脱成長、ゼロ成長は非常に誤解されやすい言葉です。まずマイナス成長と同義だと思われてしまうのですが、マイナス成長は貧困社会ですから、違うんですね。そして、現在の粗暴な資本主義下では、成長を求めるとマイナス成長を呼びよせてしまう構造ができあがっています。
 ゼロ成長を実現するには、財政、人口、エネルギーといった経済・社会政策だけでなく、それを支える哲学・思想が必要とされます。金融緩和や財政出動をすれば世の中よくなるという単純思考に比べてよっぽどチャレンジングなんです。
白井 その反論にたいへん勇気づけられた気がしました。いまや成長主義に固執することこそが反進歩主義にほかならないということですよね。
(構成・文=斎藤哲也)
水野和夫(みずの かずお)
エコノミスト。日本大学国際関係学部教授。1953年、愛知県生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官(経済財政分析担当)、内閣官房内閣審議官(国家戦略室)を歴任。主な著作に『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日経ビジネス人文庫)、近著に『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)など。
白井聡(しらい さとし)
政治学者。文化学園大学助教。1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。専攻は、社会思想・政治学。著書に『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして──レーニン、〈力〉の思想』(作品社)、『永続敗戦論──戦後日本の核心』(太田出版)など。

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