2012年8月7日火曜日

『最後のイエス』(佐藤研著)についての感想ー内と外を分ける発想に潜む危険性


(1)はじめに
新約学者として著名な佐藤研の最新のイエスに関する本を読んだ感想です。佐藤研は岩波の新約聖書の翻訳者(マルコ、マタイは本人が訳し、ルカと使徒行伝は荒井献との共訳)であり、大貫隆と同じく、田川建三、荒井献、八木誠一の次の世代の新約学者です。私より少し若いくらいですから、もう60代半ばを超え、この分野では学会の先頭に立つ人たちなのでしょう。

私は聖書の専門的な勉強はしたことはありませんが、学生の頃から、田川建三と荒井献の本はほとんで読んでいます。八木誠一は初期の著作はよく読みました。学生運動との関係でICUを追放された田川建三の後の世代の聖書学者がどのようなことを書くのか、私なりに関心をもって読んできました。田川建三のもとで学んだ小河陽と青野太潮や、新約聖書の誕生について何冊か出版した加藤隆も読みましたが、正直、それなりに学ぶことも多かったですが、現代社会を批判的に見る歴史意識・社会意識という点で田川建三を超える本には出会いませんでした。何か精緻になった反面、小粒になってきているという印象をもちます。

ICU関係者ではフェミニズム神学の第一人者とされる絹川久子の本も読んだことがあります。マルコに関する本でありながら、田川を批判するのでなく、完全に無視をした態度には驚いたものです。「在日」と関係の深い彼女が女性の立場から差別に切りこもうとしているのですが、私には身を切るような鋭さは感じませんでした。女性の立場から差別一般に対決する姿勢を見せながらも、差別を生み出す社会の構造に肉薄できておらず、身を切る鋭さを感じなかったのは彼女のその恣意性にあると思われます。

(2)人間イエスを記すこの本の手法に疑問
ここまでは前置きです。私は在野の旧約学者の太田道子の講演を聴き、改めて佐藤研に関心をもってこの本を読みました。「あとがき」にあるようにこの本は、「習作」を集めた感がある、と本人も認めているのですが、私には意外でした。『最後のイエス』は2012年7月12日に出版されています。いくら「人間」イエスに集中して書いたものであっても、いやそれであればこそ、私は著者が3・11という戦後日本社会の根幹を問うような事態にまったく触れていない(「まえがき」にも「あとがき」にも)ということに驚きました。イエスの生に触れようとするとき、自ら当面する社会の問題にどのように向かい合うのかということに触れないですまされるのでしょうか。

「イエスを「人間」として見つめるということを、「教義」的とか額面上のとかだけでなく、真剣に一貫して追求していくと、事は異様な深さの謎に導かれていく。それは「人間」とは何かという問題設定自体の深淵と言ってもいい。本書が、いわゆるキリスト教界を超えて、イエスに関する議論を新たに刺激する小さな一契機となれば幸甚である」(「あとがき」より)。

また「学的価値を一切主張しない」小文が学問的な論文の頭に置かれています。これも「人間」イエスを理解するのに役に立つと著者は考えたのでしょうか。学術論文では論証されないので著者の文学的な感性で心にある歴史像を描いたのでしょうか。結婚して妻と子を亡くしたイエス、十字架の後お墓から運ぶ出されたイエス、小説として自分の想像でイエスを描くことは勝手でしょう、でもどうしてそのような小文を学術論文風の諸論のなかに入れるのでしょうか、その意図は何なのでしょうか。まずこの構成に私はつまずきました。

「人間」イエスの成長という目で見つめるということはその通りでしょう。これまでの研究者が自分の「信仰」的な理解の故に、イエスの成長過程を見ようとしてないという批判はその通りです。学問的な手続きと検証を踏まえた論文の中で、私は、第6章の「聖書学は<イエス批判>に向かうかー「宗教批判の諸相」に寄せてー」を最も注意深く読みました。

(3)宗教批判の内と外の区別に疑問
佐藤研は「宗教批判」にはふたつあり、ひとつは宗教の外側から「宗教の内的性格ないし歴史的現実」を批判することで、これは「真に深みに達する批判からは遠い場合が少なくない」としています。これは言葉の綾で、本人は宗教の外在批判を認めていないのでしょう。そしてもうひとつが、「「宗教を内側から」批判することで、イスラエルの預言者やルターのように、「内部告発」する場合がその典型と指摘しています。

しかし著者は宗教(「教会」と同類語とみなして差支えがないようです)の内と外を何をもって定義するのでしょうか。日本最大のキリスト教宗派の日本キリスト教教団が、礼拝の時の聖餐式に参加する者は洗礼を受けた者に限るという「掟」に反して、イエスに従う意思のある者は誰でも聖餐式に参加できるとしてそれを実行した牧師を教団から追放している(現在、裁判中)現状で、教会の頭はイエスだと言いながら実質的に独裁的な権限を振るう牧師が多い中で、宗教(=教会)の内と外を区別して、批判の質を問わない著者の批判の二つの区分は承服しがたいものです。

著者の「宗教の内と外」という概念からすると田川建三は宗教の外からキリスト教を批判しているのですか、それとも内からですか?古代ユダヤ社会や中世のようにすべてが宗教一色で染められているときに、イエスも同じですが、宗教の外に立って批判することなどできません。現代に即して言えば、クリスチャンとは洗礼を受けた人のことですか、キリスト教の教義(ドグマ)を信じている人ですか、キリスト教にあるいはイエスに関心を持つ人もすべて含まれるのですか?私はこの宗教の外と内を分ける考え方の中に既に、自分はその中にいる者としての傲慢さを感じます。

(4)原発問題に取り組まない教会について
3・11を経験してもなおかつ多くの教会が霊魂の救いを掲げ、被害者への同情的な言動をとっても、原発体制に対しては沈黙する教会が多いのはどういうことでしょうか。自分は原発はだめだと思うが、それを教会内で発言しそのための行動(署名など)をとることは政治的だと、問題意識を持ち始めた信徒たちを無言の圧力で押さえつける教会が多いのは何故でしょうか。

「信仰と核は両立しない」という信仰宣言をして、その信仰理解のもとにNCCやYMCA,YWCAをはじめ集った韓国の教会関係団体と違い、日本の教会はそれぞれが独自に反原発の声明文をだすケースが大部分です。そのような行動をとる韓国の教会は自らを3・1独立運動や民主化闘争の歴史を引き継ぐものと認識しますが、それに対して戦争に協力してきた日本の教会は、戦争責任告白を共通の認識にしようとすれば分裂するしかないのだとすれば、その信仰理解は深い歴史認識に立つものであると言えるのか、私は日本の教会の現実を前にしてたじろぎます。

(5)戦争責任告白を許せない被害者意識
日本キリスト教団の戦争責任告白は戦後、ドイツの教会とは違って、戦後20年も経って議長名で出されました。しかし今の教団主流派は、その認識を受け入れようとはしていないようです。あの戦争に協力してきた自らを振り返ることなく教会は新たな時代を突き進むことができるのでしょうか。その戦争責任告白も各個教会で話し合われたものではありません。日本人自ら戦争に傷つき、戦争の犠牲者であり、祈りによってやっと生きのびてきたのに、どうして自分たちが戦争責任を告白しなければならないのかという、被害者意識から抜け出せない人がどうも大部分のようです。彼らは自分たちが受けた苦しみ、悲しみ、痛みによって、日本という国が植民地支配によって海外の人々を殺し、苦しめてきた歴史的現実を直視しないで来ました。そして未だにそのような放言をする政治家を東京、名古屋、大阪で日本の民衆は最高責任者に選んでいます。戦争の責任を一切とらなかった天皇をそのまま日本の象徴と仰いでいます。

さらに広島、長崎への被爆によって更なる日本人としての被害者意識が高まり、植民地主義そのものを徹底して批判的に見ることなく、日本は戦後復興をなし高度成長を成し遂げました。その経済成長を支えたものが実は「原発体制」でした。従って、「原発体制」を作ってきた戦後日本社会への責任がキリスト者にはあると思います。それは日本人だけではありません。私たち在日もまた、日本社会の被害者でありながら、経済成長の下でその「原発体制」を支えてきました。私たちも同罪です。

(6)戦前と戦後のアナロジー(内と外を設ける発想)
原発反対の声が広がり、再稼働反対の声は賛成者よりはるかに多いのですが、しかし日本政府と企業は3・11以降も原発輸出を是認し、実際にヴェトナム、ヨルダン、アメリカ(東芝の子会社)、リトアニア(日立)、フィンランド(三菱)への原発輸出を次から次へと決めています。再稼働が嫌であれば当然、原発輸出を許すべきではないでしょう。核廃棄物が嫌ならしれをモンゴルに持ち込むべきではないでしょう。私は自分の足元の問題(自分の不安、苦しみ)だけを取り上げ、それを外に押し付けることに対しては何とも思わず当然視するような感性こそ、まさに植民地主義であり、その構造は戦前も戦後も変わっていないとみるのです。

しかし自然発生的に反原発に立ち上がった人たちは本当に海外への原発輸出、核廃棄物の持込もうとしている事実を知ればそれをきっと受け留め、反対すると確信します。それでは教会はどうでしょうか。内と外とはこの場合、国の内外の区別のことですが、これは国民国家を絶対化することによって生まれた国民意識であって、最悪の場合は国の外の人(外国人)は戦争になれば殺してもいいと教え込まれます。それに反対すれば非国民になるのです。教会や宗教に内と外を設けるという発想そのものに既に教会と宗教の絶対化が見れないでしょうか。

佐藤研の書評から随分と遠いところに来てしまいましたが、私が佐藤研の本を読んだときに感じた危険性はまさしくこのことだったのです。

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