2012年8月31日金曜日

原発メーカ日立・東芝の福島事故の責任を問い、原発輸出を阻止すべきですー「日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」朴鐘碩

日立闘争元当該の朴鐘碩さんは昨年日立を円満退職した後、現在も日立の同じ職場で嘱託として勤めています。以下、彼が東大の学生と話し合ったときの記録と、大阪の(社)大阪国際理解教育研究センタ-での講演録を掲載します。「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」の掲示板より転載しました。 崔 勝久

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「日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」 朴鐘碩

今日8月15日、敗戦から67年になる。朝鮮半島植民地支配から100年後、3・11は起きた。戦争責任を清算できない日本は未だに多くの矛盾と課題を抱えている。

7月29日(日)、東京大学駒場学生会館で日本・韓国・中国の歴史研究プロジェクト・チ-ムに招かれた。「(続)日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」と題して、東京、早稲田、慶応、聖心女子など7名の学生たちに話した。裁判が始まった頃、経緯は忘れたが同じ場所で40年前に東大生に話したことがある。


プロジェクト・チ-ムの学生たちは、19歳で日立闘争を経て定年まで日立製作所に勤め、現在を生きる私の生き方に関心を示した。日立の職場の実態を聞いて、やはり驚いた様子だった。私を含めて彼(女)らもこれから現実の課題に直面して、どのような生き方をするか、自分で決断するしかないだろう。


中国の朝鮮族の男子留学生は、「私は、中国人でも朝鮮人でもない。「民族」というものに疑問に感じる。そもそも民族とは何か。」と語っていた。アドバイスを求められたが、「アドバイスはない」と返答した。

日立就職差別裁判闘争は、民族団体から「同化裁判に繫がる」と批判された。それは貧困家庭で育ち、同化した私に「民族」がなかったからだ。その批判は、妥当であったか、否か、歴史が証明するだろう。

東大駒場の講演から1週間後の8月4日(土)、(社)大阪国際理解教育研究センタ-主催「第26回KMJ研究夏季セミナ-」に招かれた。


水野直樹京都大学教授の「サンフランシスコ平和条約前後の在日コリアンの法的問題と現在の課題」と題した記念講演後、シンポジウム「残された課題と在日コリアンのこれから」のパネリストの一人として参席した。参加者は60名弱。人権啓発企業連絡会(人企連)に加盟する企業の「人権問題研修担当」も参加していた。


コ-ディネ-タは、センタ理事長・仲尾宏京都造形芸術大学客員教授、パネリストは、在日コリアン高齢者無年金訴訟弁護団在間秀和弁護士と私の2人である。


水野教授の記念講演は、戦後の在日コリアンの権利がどのように剥奪されたか、その歴史を準備された資料に基づいて説明された。シンポジウムの冒頭で日立闘争のDVDを上映し、以下の内容で私が話した。続いて在間弁護士から無年金訴訟の意味と経過報告がなされた。


民団堺支部団長・呉時宗センタ副理事長は、「民団・総連はいつまでも民族に固執すべきではない。若い人たちは集まらない。時代は変わった。日本社会の問題は国籍・民族を克服して日本の人たちと共に考え、歩むことが必要だ」とシンポジウムの感想を述べていた。


脱・反原発運動に関わる「agenda」研究・編集員は、「日立就職差別裁判闘争から原発問題に繋げる話になるとは驚きました。良い話でした」と声をかけてくれた。懇親会は、遅くまで盛り上がった。20年近くお会いしてなかった尼崎の元高校教師・藤原史朗センタ常務理事から尼崎・湊川の状況を聞くことができた。


7月29日・ 8月4日、話した内容に加筆した。

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「(続)日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」

「第26回KMJ研究夏季セミナ」朴鐘碩
2012年8月4日 (社)大阪国際理解教育研究センタ- 

DVDを見ていただきましたが、40年の時間を経た、現在の朴鐘碩です。水野直樹京大教授の記念講演は、「サンフランシスコ平和条約前後の在日コリアンの法的問題と現在の課題」となっています。私は「平和条約」が締結された1951年に9人兄姉の末っ子として生まれました。貧困家庭で民族を知ることなく、世間知らずで同化した私が高校卒業して間もない19歳の時に、単純な怒りで日立製作所を訴えたのは1970年です。


DVDは、4年近い裁判で民族差別の不当性を訴え、勝訴するまでの記録です。私は、今日、何故、(社)大阪国際理解教育研究センタ(KMJ)のパネリストの一人として招待されたのか、自分が何故この場にいるのかよく理解していません。KMJの活動と私の生き方がどこで結びつくのか、主催者の趣旨に沿った話ができるかどうか自信がありません。


2008年に、この『日本における多文化共生とは何か』に書きましたが、私が日立に入社した後、職場で経験したこと、感じたこと、多国籍企業である日立製作所で働いているエンジニアたちの実態について、3・11事故と絡めて話したいと思います。


私は、昨年11月末、定年退職しました。その後、企業城下町である横浜・戸塚で日立製作所の情報・通信部門で嘱託として働いています。昨年の3・11の東日本大震災、世界を震撼させた福島第一原発事故は、未だに放射能汚染の解決の糸口は見えません。時間経過とともに原発事故は、これまで隠されていた多くの矛盾と問題が露呈しています。


私が勤めている日立はじめ東芝、三菱は、原発の開発、製造、輸出で莫大な利益を上げています。事故後、脱・反原発運動の波が大きくなる中においても日立は、リトアニア、ヴェトナムに原発輸出を計画し、国内増設に向けて精力的に動いています。日立は、1957年から日本の50基以上ある原発の半数近い原子力プラントに携わっています。


日立の原発設計に関わった大前研一氏は、高速増殖炉の炉心設計をしていた総括責任者でした。日立労組専従出身の大畠章宏衆議院議員は、どの程度まで設計に関わったのか未知数です。原発の危険性を説く田中三彦氏は、日立製作所グル-プ、エネルギ-事業の中核であるパブコック日立で4号機原子炉圧力容器製造に携わっていました。後で話しますが、同じ日立製作所で働いた彼ら職場と私の職場環境は同じです。


原発事故によって、生まれ育ち、馴染んだ土地から多くの住民が避難を余儀なくされました。国民国家は、安全神話で立地した周辺住民の家族、親戚、仲間の絆を引き裂きました。

原発事故、津波で犠牲となった住民の救済よりもインフラ整備と称して公共事業を優先させますが、復興、再生事業は遅々として進んでいません。莫大な復興事業予算、救済援助資金は、大手ゼネコンに流れているという噂もありますが、果たしてどのようなル-トで流れているのかということです。

原発メ-カである日立は、関連会社含めて毎日休みなく千名以上のエンジニア、労働者が被曝しながら復旧なのか、廃炉(となる)なのかわからないまま、大きなクレ-ン車をいくつも並べて、工事に携わっています。放射線量の高い危険な現場における、不安定で弱い立場の末端下請け作業員の日当は「高い」ようです。原発を造って電力会社に納入したメ-カ責任は、問われないまま、日立・東芝は、収束に向けて莫大な利益を得ています。これはナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義複合体)の実態だと思います。


先ほど見ていただいた日立闘争は、植民地支配と戦争責任・民族差別を糾弾しました。入社後の私の続「日立闘争」は、企業社会における労使協調・「共生」の実態、ものが言えないエンジニア・労働者、企業内植民地の問題を提起しました。


訴訟当時、民族意識を持たない私が訴えた裁判は同化に繫がる、と民族団体から批判されましたが、果たしてその批判は妥当だったのでしょうか?裁判および運動で民族差別を糾弾し、戦争責任を問い続けてきましたが、裁判勝利した後、私が入った日立の職場は、民族差別とかけ離れた別世界でした。その実態を書いたのがこの『日本における多文化共生とは何か』です。抑圧的な経営、職場で働く労働者の問題と民族差別は深く繫がっています。


日立製作所は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった、韓日併合の1910年に創業しました。日立は、エネルギ-の根幹である電力事業で当時から水力発電プロジェクトで東京電力(電燈)とは深い関係にありました。資源のない戦前の日本の電力エネルギ-確保は、ダム建設、資材輸送の鉄道敷設が必須であり、こうした危険な土木現場には、「枕木一本に朝鮮人一人」(「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植1971年未来社)に匹敵する、強制連行された多くの朝鮮人、中国人の労働力が必要でした。


私は、昨年黒い壁(津波)で三日間燃え続けた気仙沼に行ってきました。JR気仙沼線のレ-ルは針金のように大きく曲がり、平穏だった街は真っ黒に焼けた瓦礫の山に変貌し、凄まじい光景が拡がっていました。戦後の廃墟そのものでした。3・11で被災した東日本沿岸の気仙沼・大船渡線はじめ険しい危険地帯のJR(日本国有鉄道)の鉄道網建設にはご存知のように植民地からの犠牲となった多くの労働者が深く関係していました。つまり国民国家のエネルギ-政策は、原発立地と同じ植民地主義への道だったのです。


植民地から解放された朝鮮半島は、分断され、核兵器を持つ覇権国の犠牲となり、朝鮮戦争で廃墟となり家族、親戚、住民がその犠牲となりました。ところが続いて起こったヴェトナム戦争で、アジアへの侵略戦争を起こした日本は、「分断」を免れ、経済復興を遂げました。


日本の戦争責任を問わない経済成長は、効率と利益を優先させ人間性を無視した、見せかけの復興と言えます。その一方でエンジニア・労働者に沈黙を強いる植民地的経営は、植民地を失った現在も続いています。戦争責任を問わなかったことは、現在の原発体制に繫がったと思います。


原発立地は、科学技術の先端シンボル、「平和利用」と称して住民を騙してきました。日立は、原発を製造し、輸出するまでになりました。致命的事故は、日立創業つまり朝鮮半島植民地支配から100年後に起きました。


私が属していた日立労組は、日本最大の労組である電機・連合の傘下にあります。連合は、昨年「原発推進を凍結する」と宣言しておきながら、大飯原発を再稼動させた民主党政権を支えています。

再稼動を積極的に働きかけたのは、「今も弱者の味方である」と(私は信じたい)豪語した仙谷由人民主党政策調査会長代行でしたが、(仙谷代行はDVDにも映っていましたが)弁護士になって最初に担当した事件がこの日立就職差別裁判でした。

自分が勤めている会社、自分が設計・開発・製造し、東京電力はじめ各電力会社に納めた製品が事故を起こし、住民の生活を破壊し、地球規模の被害をもたらしておきながら、会社も労組も、原発事故について沈黙しています。自らものを言わせない職場を造っています。ところが、職場は、倫理教育と称して他社であるJR西日本の事故を題材に話し合うものの、原発事故について語ることはありません。


核(Nuke)は人類と共有できない、原発はなくすべきだ、と思っていてもものが言えない風土があります。エンジニア・労働者は、はっきりもの言いませんというか、言うことはできませんから、企業は平気で労働者に原発を作らせて輸出します。


多くの人たちは、原発への疑問、エネルギ-政策を懸念しています。職場のエンジニアたちは、業務に追われて、おかしいと感じても「自分ひとりではどうしようもない。ものを言えば上司から声がかかり、周囲から冷遇され孤立する」らしく、生活を守る、家族を守る、自分の将来を考えて沈黙します。これが善悪問わず「人権を尊重する」「世界の日立」で組織の一歯車として働く、最新技術を開発するエンジニアの姿です。人はこのように巧みに企業の論理に回収され、最終的に「国民国家に回収されていく」ようです。


植民地であった朝鮮半島で利益を得た、発電事業を発端にしたチッソは、戦後、公害水俣病を起こしました。チッソに勤める技術者、労働者は内部告発できませんでした。そのために被害は拡大し、多くの地元住民が犠牲となった、と言われています。


ですから企業社会で隠されていた矛盾、問題は、多くありますが、3・11事故で閉鎖的な企業の実態も明らかになりました。利益・効率を求める経団連の抑圧的な経営は、人間を正規、非正規、派遣労働者として分断し厳しい状況に置いています。


事故や不祥事が起きても経営者責任よりも労働者一人ひとりの「頑張り」と「自己責任」が問われるような雰囲気が漂い、私もそうですが、エンジニアたちは、余計なことは考えず、与えられた仕事を黙ってこなすことが自分の使命であると思っています。日々のル-ティング・ワ-クからそのような価値観を持たされます。


日立のトップである歴代の社長は東大工学部、副社長は東大法学部出身です。幹部経営陣は偏差値の高い、所謂「いい大学」出身者で占められています。日本だけでなく、日立は欧米の資本主義国の主要都市をはじめ世界中に合弁工場、営業所、関連会社、「HITACHI」のロゴがあります。所員は約3万5千人です。関連会社は、千社以上、総従業員数は35万人と言われています。家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。


日立のような多国籍企業は、労組幹部が、正規労働者の賃上げ、雇用維持など労働条件の改善あるいは改悪を経営者と事前に相談して決める労使交渉が毎年あります。巷では春闘と呼ばれています。


組合員から意見・要望を聞く職場集会というものがあったのですが、組合はそれをなくしました。仮に組合員から質問・意見・要望が出されても、組合・役員への批判・問題点は隠蔽します。つまり労働条件は、組合幹部と経営者幹部が決定し、彼らが労働者をコントロ-ルしているわけです。


親会社である日立製作所の春闘が決着すれば、ドミノ倒しの如く、千社近い関連会社のほとんどが妥結するようになっています。組合執行部は、現場の組合員に経営者との交渉内容を説明せず、現場にいる組合員から理解、信頼を得ようと努力しません。つまり一部の組合幹部が予め決めたシナリオに従って交渉が進み、方針が結論となります。3万人近い組合員から強制的に集める組合費は、半日分の労働時間が毎月給与天引きされます。使途は、組合(幹部)の判断で自由に決まります。


定年退職した私は、組合員でなくなったため、毎回、立候補してきた執行委員長に出馬できなくなりました。

もともと組合の役員、評議員というのは、労使双方で事前に指名された組合員が自主的に立候補させられ、形式的な「選挙」によって選ばれます。また多くの組合員は、組合費の使途、組合費で生活している執行部役員の組合活動に関心はありません。というより自由にものが言える企業文化はありませんから、沈黙するしかないわけです。利益に繫がる個性は認められても、人権という人間性を求める個性は、潰されます。

組合員の意見を反映しない、労働者の置かれている現実と乖離した一部の組合幹部と経営者で行われる春闘は、製品開発・不良品のトラブル・障害対策に追われている組合員にとって、別世界の出来事です。


職場は、何でも言える「言論の自由」が保障されていませんから、原発事故はじめ経営者幹部の不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営のあり方を批判する労働者はいません。経営者の哲学を気楽に批判できるような、開かれた風土、風通しの良い企業文化は企業社会に存在しません。これは人権運動体はじめあらゆる組織にも言えることだと思います。沈黙は差別・抑圧を助長します。

 
日立就職差別事件は、先ほども言いましたが植民地支配から60年後の1970年に起こりましたが、当時、日立労組幹部は見て見ぬふりをし、沈黙していましたが、原発事故についても同じ姿勢です。

敗戦から70年近くなりますが、労働者が抑圧的な状況に置かれ、ものが言えない、上意下達の日立のような企業社会では、民主主義が育ちません。労使で育てないようにしています。

3・11後、多くの市民、住民が反・脱原発を訴える中で、企業は原発に依存し相変わらず利益と生産力を上げようとしています。原発で利益を上げる日立に限らず、原発エネルギ-に依存する企業、自治体、マスコミも同じような状況だと思います。3・11後、企業社会は依然として何も変わっていないと言えます。

韓日併合の年に創立し、就職差別した日立製作所で私は定年まで働きました。3・11事故をきっかけに、原発で莫大な利益を計上し、事故の教訓を学ぼうとせず、世界中に原発を輸出しようとしている日立製作所の植民地的経営体質を批判し、是正を求めなければなりません。


日立製作所の現在、企業の未来を考えるなら、歴史を繰り返さないために、原発事故で犠牲となり、引き裂かれた住民、家族に思いを寄せるべきです。企業社会で戦争責任が問われなかったのは、傲慢な経営体質があります。(日本人)住民を騙す国策を無条件、無批判に受け入れ、それに沿った経済、利益、効率、生産を優先し、植民地で犠牲となった人々への視線が全く欠けています。


日立就職差別裁判判決から5年後(1979年)、東京に本社を置く経団連に加盟する企業は、「差別図書である「部落地名総監」の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(人企連)を発足しました。現在124社が加盟していますが、同様に関西人企連もあります。加盟企業だけでなく部落解放、人権運動体も役員、理事に就任しています。


1996年12月、歴史を捏造・歪曲する「新しい歴史教科書をつくる会」が創設され声明が出ました。この声明に人企連に加盟している経営者幹部も賛同しています。しかし、解放同盟、運動体から抗議はなく沈黙しました。この時期、既に企業、自治体、人権運動体の「共生」体制は確立していた、と思います。


原発マフィアと呼ばれている日立、東芝、三菱はじめ東京電力、原発の電力供給を前提にリニア新幹線(日立技術支援)を開発、実用化を目指しているJRは、言うまでもなくこの人企連に加盟しています。


企業社会の国旗・国歌施行は、教育現場同様日常化しています。これに批判する労働者・組合は皆無です。アジア侵略戦争・国民国家を支える、ましてオリンピックの最中、国旗・国歌を批判し、日本(企業)の戦争責任を問う人間は非「国民」になります。


犠牲となった被曝者のことは全く触れず、「入社してから原子力の開発に従事した」金井務元取締役社長は、1997年防衛大学校で「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」と国防予備軍である学生たちに講演しています。これが本音です。天皇制を軸に企業内植民地を保持し「国民国家」を守る経団連経営者幹部の共通認識だと思います。


近代100年の歴史が経過し、企業内植民地で私は生きています。新植民地主義の途上で私たちは生きています。定年退職の年に起きた3・11は、新たな課題を突きつけられました。西川長夫立命館大学名誉教授の「国民国家論の射程あるいは<国民>という怪物について」([増補版]柏書房2012年)を読みました。また、7月23日横浜国立大学で開かれた「3・11が明らかにしたこと-戦後史再考」をテ-マにした西川教授の授業を受けました。3・11の年に定年退職した私にとって(続)日立闘争は、植民地のない、新たな「植民地主義の再発見」でした。


個を潰す、植民地的な「共生」イデオロギ-は、企業社会だけでなく、地域社会にもあります。


3・11の教訓は、災害が起これば国籍、性、民族など関係なくあらゆるものが犠牲となるということです。そのために防災に耐えられる地域社会をどのように造るかを、それこそ国籍、性、民族など関係なく、しかも上から与えられるのではなく住民自ら開かれた社会を築くことが、求められています。


川崎市は、多くの外国籍の住民が居住しています。公務員になるための国籍条項撤廃、選挙権のない外国籍住民の声を市政に反映する名目で設置された外国人市民代表者会議、地域住民と共に生きる「ふれあい館」建設など、「共生」を賛美する一部の人たちにとって「人権・共生」の街として知られるようになりました。


しかし、阿部孝夫川崎市長は、「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、戦争に行かない「外国人は準会員」と発言しています。戦争に行く、行かないで判断するのであれば、戦争に行かなかった女性、障害者は準会員になるのでしょうか?


また、法律でもない、単なる国・政府の見解にすぎない「当然の法理」を理由に、採用した外国籍公務員に許認可の職務、管理職に就くことを制限した、この「外国籍職員の任用に関する運用規程」というマニュアルを作って、差別制度を確立しました。


100ペ-ジ以上亘って、外国籍職員に制限する理由と職務が記されています。労基法に違反し、労働者の権利を侵害する、このマニュアルのサブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。このような「運用規程」は作らなかったものの、教育労働者に沈黙を強制している大阪市・大阪府はじめ全国の自治体は、川崎市と同じ方式を採用しています。


ものが言えない正規労働者、雇用の調整弁として、低賃金で働く非正規・派遣・外国人の労働市場は、経団連・大企業資本にとって「良質な資源」を求める「広大な植民地」と言えます。「脱・反植民地化は、現実の課題から逃避するのではなく、正面から向き合うことであり、個々人の生き方の問題である」と思います。


外国籍住民を含めいかなる人も排除しないで、開かれた地域・企業社会を皆さんと考え、つくっていきたいと思います。日立のコマーシャル、街中で「HITACHI」のロゴを見たら、是非今日の私の話を思い出してください。


ということで詳細は、この『日本における多文化共生とは何か』、レジメにある「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議-コミュニケ-ション-掲示板http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html」を検索してみてください。


最後に、ここに招いて下さった皆さん、関係者の方々に感謝申し上げます。御清聴ありがとうございました。

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