OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2012年8月17日金曜日
『台湾海峡 1949』ー中国人の壮絶な流浪の軌跡を読んで
私はこれまでビジネスで何度も台湾を訪れたことがありました。しかし私は一体、何を見ていたのでしょうか、この台湾の博識で、行動的、また愛情に満ちたまなざしで中国、台湾の歴史の一齣を鮮やかに描き切る才女、龍應台女史の歴史ノンフィクション(本人曰く、「文学」)に打ちのめされました。
また若い翻訳者の天野健太郎氏の姿勢と、翻訳書であることを忘れさせるようななめらかな文章に拍手を送ります。これは語学力だけの問題ではないでしょう。今後の活動が楽しみです。
この本はドイツにいる19歳の、(ドイツ国籍を持ち徴兵問題に直面する)息子に歴史を語るという形式をとっています。台湾、香港、中国本土、そしてドイツでの経験を縦横に駆使しながら描き切る、台湾の戦後の歴史は、そこで生きてきた無名の人の、まさに壮絶としか言えない経験を語らしめることで鮮明で、さわやかな印象を読者に与えます。
著者の姿勢は、冒頭の2行に語りつくされています。
時代に踏みつけにされ、汚され、
傷つけられたすべての人に敬意をこめて
彼らはかつて、あんなに意気盛んで若々しかった。しかし、
国家や理想のため突き動かされたものも、
貧困や境遇のため余儀なくされたものも、
みな戦場に駆り出され、荒野に餓え、凍え、塹壕に死体を曝した。
時代の車輪は、彼らの身体を踏みつけにしていった。
戦火のあとに残ったものも、
一生を台無しにされ、長い長い漂泊の人生を送った。
彼らの世代が、戦争という重荷と、
数えきれないほどの心の傷に耐え抜いてきたから、そして、
かつて自らが倒れ、血で汚した場所を、
もう一度耕し、種を播いたから、
私たち世代は平和の中、
明るく無邪気に成長できたのだ。
もしも誰か言うように、彼らが戦争の「敗北者」だとするなら、
では時代に踏みつけにされ、汚され、傷つけられたすべての人がそうだ。
彼らは「敗北」で教えるーー
本当に追及すべき価値とは何なのか。
私の目を見つめて、正直に答えてほしいーー
戦争に「勝利者」はいるの?
「敗北者」の子供として生まれて、
私は誇りに思う。
中国本土から台湾に逃げてきた活発で、聡明な母親の愛情の下で著者は感性を磨いてきたように思えます。時代に翻弄され続けてきた父親の言葉に耳を傾けてこなかった自分の経験を踏まえて、「家族の歴史」を真剣に聞きたがらるドイツに住む息子に真剣に向かい合い、この大著をしあげたのです。
「訳者あとがき」はこの本の特徴を的確に記しています。
「現在の台湾社会を構成するすべての要素(先住民族、本省人、外省甚あるいは先住民族の言葉、閩南語、客家語、日本語、中国語)が出揃った1949を中心に、戦争、内戦という苛烈な社会情勢のなか、著者の家族や当時の若者がいかに決断しいかに生き延びてきたかを描き、さらにこの最果てにある島、台湾まで逃げ延びた彼らが60年間、誰にも言えないまま抱えてきた痛みを語っている」。
「本書の特異さは外省人である作者が、1949年に台湾へ逃れてきた国民党政権(と軍)を、戦後台湾を権力と暴力で支配した強者としてではなく、故郷を失ったひとりひとりの弱者として描いたことにあり、さらに受け入れた側の台湾人の痛みをも描いたことに価値がある」。
「ひいては太平洋戦争のころ、立場を異にして、しかし同じ南方戦線にいた日本兵、台湾人日本兵、連合国捕虜、中国人捕虜などの当時の若者を、著者は分け隔てなく見つめている。そして物語が語りかける相手は、今は年老いた若者であり、作者を含むその子供たちであり、これからを生きる若者である」。
私はこの本を読み、私の家族のことを改めて考えなおしました。私の家族は、それこそ、日本、韓国、北朝鮮、カラフト、中国、香港、アメリカに住むようになっていますが、日本の植民地下での歴史、戦後の歴史すべてに触れないと全体を描き切ることはできないでしょう。歴史に翻弄されながらも、その都度決断し、失敗し、あるいは成功し現在に至り、生活の場を築いています。そこには数限りない「ストーリ」があるに違いありません。父方だけではなく、母方の歴史を織り交ぜれば、それこそ私が全力を尽くして資料を集めてもその全容を描き切れるかどうか・・・。
香港にいる14歳の孫が私に「家族の歴史」を訊きに来る日が来るでしょうか。私にそれに応える気力、体力が残っているでしょうか・・・。
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