2012年7月26日木曜日

危機的な状況に瀕したモンゴルを訪れて

 7月10日から21日まで、2度目のモンゴル訪問をしてその足でソウルを訪ねました。今回は「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」(CNFE)のプロジェクト・チームが資金を提供してくださり、実現できました。感謝いたします。

(1)  モンゴル編
   はじめに
昨年の10月は日本キリスト教協議会(NCCJ)が資金を提供してくださり、CNFEの共同代表として初めて一人でモンゴルを訪問し、その前後に韓国のソウル・水原で原発反対運動や地域活動に関わる教会関係者及び市民団体と話し合いの場を持ちました。それが11・11日韓モンゴルの3ヶ国同時記者会見に結び付き、1月のピースボート主催の横浜脱原発世界会議参加に参加しシンポジュームの開催へとつながりました。モンゴルの緑の党、韓国の環境団体・大学関係者、教会関係者にも参加していただき、多くの会議参加者と話し合いの場をもつことができました。その中で在韓被爆者問題に40年関わって来られた市場さんから過去の未解決の植民地問題と現代の「原発体制」とのつながりを学ばせていただきました。http://wwwb.dcns.ne.jp/~yaginuma/report15.html

この会議を通して、日韓モンゴルの緑の党の共同宣言が後日、発表されるようになり、また玄海プルサ―マル裁判に韓国人が直接関わるようになりました。



さらに今年の6月5-10日にはCNFEプロジェクト・チームによる「下北半島地域スタディ・ツアー」を実現させました。横浜会議で学んだ、原発が建てられた地方の実態を深く知ることの必要性を痛感して企画したのですが、広く玄海、関西、関東、東北、北海道から各地で反原発の運動をしている人たち、及び韓国と遠くスイスからも参加してくださり、下北「核」半島の実態を現地の人から学び、最終地の函館では集会と現地の人との合同のデモも実施することができました。国際連帯と地方のつながりの重要性を再度認識するよい機会になりました。資金援助してくださった方々には深く感謝いたします。

プロジェクト・チームの反省会の席で今後の活動について話し合いがもたれ、各メンバ―から再度モンゴル、韓国を訪問して国際連帯運動の具体化を模索するミッションを与えられた次第です。モンゴル・韓国行に先立って関西に赴き、モンゴルの実情に詳しい大阪大学の今岡良子准教授と詳しくモンゴル情勢について意見交換の場をもてたことは幸いでした。また3・11以前からNo Nukes Asia Forumを10年以上にわたって主宰されている佐藤大介さんとも今後の運動の可能性についてご享受いただきました。
   
CNFEの関西のメンバー、「地域スタディ―・ツアー」に参加した緑の党の共同代表の松本さんと彼女の仲間、また「在日」の後輩の金宥良君とも会って意見交換できたことも幸いでした。何よりも、日曜日に日本キリスト教団ハニルチャーチの申英子牧師から礼拝でのメッセージを依頼され、モンゴル行を前にして、「在日」の立場からのこれまでの運動がこのような反原発の国際連帯につながる運動をなってきたことをしっかりと受け留めその意味することを整理する機会を与えられたことは何よりも感謝です。

   モンゴル行に際して
 今岡さんとの話の中で、モンゴルの首都ウランバートル(UB)でNGOグループが緊急記者会見をもったことを教えていただきネットで解説をしていただきながら、今モンゴルでどのようなことが起こったのか知ることができました。モンゴル政府が新政権へのバトンタッチのどさくさに紛れて、核廃棄物を受け入れる施設の建設と小型実験用原子炉の建設の時期、金額、場所を明記したプロジェクト案を国会で通したことを批判する記者会見だったのです。

今岡さんは現地でのフィールドワークを重要視されており、今回もマルダイという、UBから800キロ離れたウラン鉱山の実態調査に行かれるというので同行を申し入れました。残念ながら今岡さんは8月1日から原水禁の科学者会議で今回の事態を踏まえたモンゴルの現状に対する講演をされることになっており、私は一足先にモンゴルに飛び、今岡さんが段取りしてくださったゴビ砂漠行きに挑戦することになりました。

   モンゴルでの経験(祝日)
 7月11日の革命記念日はNadamという祝日で、街は休日を楽しむ若い人で夜中まで一杯でした。競技場には数万の人が集まり祭典を楽しみます。そこでは騎馬のパレ―ドや有名歌手の歌、踊りもありますが、何といっても見せ場はモンゴル相撲でしょう。300人もの人がトーナメントで2日間にわたって最強の男を決めます。大相撲の白鳳のお父さんがこのトーナメントで7年連続優勝したことはよく知られています。とにかく土俵がないのです。もちろん、日本のようなまわしはありません。海水パンツのようなパンツを履き、袖付きチョッキの胸の部分のひも、チョッキとパンツの横部分を掴んで基本的にはがっぷりと組んでから相手を投げ飛ばします。手をついてもよく、肘や体の一部分が地面についたら負けのようでした。彼らは皮の膝まである靴を履き、芝生の上で闘います。審判員が3-4人その周りにいて勝負を見守るのですが、一旦組んでもどちらか気に入らなければ離れて組み直します。瞬間、勝負がつくことがありますが、大体、数十分かかり、昨年の準決勝は4時間くらいかかったそうです!

 勝者は帽子をもらい、鷹が羽を広げたようなポーズをとって両手を拡げます。モンゴルの人は体格のよい人が多いように感じました。そのモンゴル相撲と並行してUB郊外で行われるのが競馬です。砂漠(草原)の中、30キロの直線を数百頭の若干小ぶりな馬が30分くらいで一気に走り切るのです。勿論、水など飲みません。騎乗するのは10歳未満の少年・少女です。それをゴール地点で数万の人が待ち構えます。

 私の横にいた人は砂漠(草原)を駆けてくる馬が見えたと大騒ぎだったのですが、私は双眼鏡で見てもわかりませんでした。彼らの裸眼は、1とか2でなく、とてつもなく遠くを見ることができるのでしょう。そうしてようやく目の前で数頭の馬がなだれ込むのを目撃しました。

 翌日の夜、モンゴル相撲の勝者と共に、競馬の勝者(馬)が表彰されます。私は初日はSelengeがアレンジしてくれた競技場に行ったのですが、二日目はテレビ観戦しました。伝統行事らしく朗々と勝者(馬)を独特の口調でほめていたらしいのですが、本当に彼らは馬が好きなようでした。

   反原発、反ウランの運動の話
 昨年の訪問で私のことを覚えている人もいました。Selengeの段取りで、緑の党関係者(General Secretary、大学教授)、NGO関係者、ジャーナリスト、Facebookを通じた反原発運動を進める若い人が会議に集まりました。私はその席で初めに、16日には日本で戦後初めて20万人を越す人たちが官邸前に集まるので、こちらでもそれに呼応してデモを日本大使館前で行うことを提案しました。しかし単なる呼応ではなく、こちら独自のスローガンである、原発の海外輸出反対、核廃棄物をモンゴルに持ち込むなということを訴えることにしました。



 7月16日当日の朝10時からUBの日本大使館前に約20名くらいの人が集まりました。大使館前のデモですから官憲もいました。私は名刺を出して日本人の外務省に勤める男性に挨拶をし、今回のデモの要求を話しました。(1)核廃棄物をモンゴルに持ち込むな。

(2)ウラン採掘に関与するな。(3)日本の優れた技術で、原発に代わりうるモンゴルの実情にあった技術を積極的に紹介すること、の3点です。日本人職員の某氏は自分の名前を名乗りながらも決して公にしないことを求めてきました。私は了解し、その代り日本大使と日本政府にしっかりとこちらの要求を伝えることを求め、彼は了承しました。

 当日は現地のTV局5社とアメリカのTV局1社が取材に来ました。それが実際にテレビで放映されたことも確認しました。FBでも流れたようです。しかし共同通信をはじめ、日本のマスコミはこの7・16デモだけでなく、モンゴルにおける核廃棄物を受け入れる施設と小型原子炉の建設を認めた予算通過をどうして報道しないのでしょうか。これははたして意図的なことなのでしょうか。そうだとしたらこの徹底ぶりには驚くばかりです。

 会議に参加した二人の著名なジャーナリストのことは今岡さんからも大阪で教えられていました。この二人ともネットで配信された緊急記者会見に加わっていました。一人の女性は温厚そうな感じですが、故郷がウラン鉱山に毒されている事実に怒っていました。もう一人の長身の男性は口数は少ないのですが、新聞社のオーナーでネットでも情報発信をしているとのことでした。彼ら二人に私は、日本で英語版のHPを作るので寄稿することを依頼し、快諾されました。楽しみです。

 会議の席で私の方で6つのことを検討することを提案しました。
(1)   日本で反原発に関する英語版のHPを作成するので協力してほしい。
(2)   International Project Teamを作り、モンゴルのウランの実態を調べ世界に知らせていきたい。
(3)   3・11以降も原発輸出に邁進する日本企業の東芝、日立に対する対抗策を検討する(帰国後、三菱もモンゴルのウラン発掘に最も熱心なフランスのアレバに投資し、ウラン採掘に参加していたことが判明したので、それに付け加えることを提案予定)。
(4)   11・11にできるだけ多くのアジア諸国に呼びかけ、(3)の具体案を発表する。
(5)   モンゴルにおけるワークショップを開催する計画を立てる。
(6)   モンゴルの原子炉に代わりうる、日本の最新技術を紹介する。同時にモンゴルの最大の財産である自然エネルギーの活用に際して大企業の独占を許さず地域に一定のお金が落ちるような仕組み(デンマーク、六ヶ所村の風力発電)を紹介し、早急に立法化の可能性を検討する。

 以上の提案には参加者一同賛成でしたが、それぞれ自分たちの組織に持ちかえり検討すること、私も日本で同じような手続きを踏み、改めて協議することを決めました。

 会議の席で私たちが日本で得た原発に関する情報を話したのですが、彼らにとって初めて聴く内容もあったようです。

(1)   3・11以降、日本の原発メーカーは原発輸出を進めている。日立はGEと組んでリトアニアに、東芝は、ウエスチングハウス社(WH)がアメリカでスリーマイル島事故以来34年ぶりに4基の原発建設を受諾したが、そのWH社の98%株をもっている。その東芝にアメリカのビル・ゲイツは数千億円を投資し、彼自身は中国政府と小型原発の建設契約をしてライセンス契約で数多くの原発建設を予定している、その製造は東芝が受け持つことになるだろう。WHと関係の深いのが韓国の現大統領が元所属していた「現代」であり、彼らはどこが受注しても何らかの協力関係を結ぶと思われる。

(2)   日本は54基の原発3・11以降すべて止まったが、今回初めて大飯原発の再稼働を政府が認め、それを国民が怒り国会前に20万人も集まる予定になっている。再稼働に合わせて核廃棄物を青森で保管する施設の工事も再開された。しかし日本は最終埋立地をどこにも決定できないでいる。またヴェトナムとの原発輸出契約をしたが、その廃棄物は日本が引き取る契約になっている。同じく韓国も21基も原発をもちUAEに輸出したが、その廃棄物もまた韓国が引き取ることになっている。ということは、彼らはすべてモンゴルに焦点を合わせ、最終核廃棄物をモンゴルに持込み埋蔵するしか自分たちの原発の核廃棄物を処理する方法はない。そのように理解して昨年毎日新聞がスクープした日米モンゴル(後でUAEも参加表明、実態は韓国か)のCFS構想(ウランの発掘、精錬、輸出、核廃棄物を輸入、処理、保管、埋蔵を核拡散防止という口実で一括処理する)と、今回のモンゴル政府の突然の予算案通過がつながったものとして理解できる。そのような意味でモンゴルはアジアの核問題の中心的な存在になっている。

(3)   この5月の総選挙で野党であった民主党が政権をとり首相候補の第一人者は、旧政府の予算案を認めないと言っているが、旧政権は130を超えるウランの実験的採掘権のライセンス契約を20ものJV企業と締結しすでに莫大なお金をもらっており、そのキャンセルは事実上困難であると思われる。アメリカ主導のCFS構想はそのウラン発掘と一体化されたものであるので、これまでウラン採掘に賛成してきた民主党中心の政府がどのような対応をするのか楽観視できない。

   ゴビ砂漠への旅行
モンゴルのウラン採掘の現場はこれまで公にされておらず、オーストラリアやナイジェリアでの悲惨な、被爆を当然視するウラン鉱山の実態は明らかにされていません。共産主義時代の旧ロシアがモンゴルでウラン採掘をした跡がいくつか残っており、そこは強大な穴凹になっており、ウラン採掘は地下においてなされているということがまことしやかに語られていました。ウラン鉱山近くで動物が大量に死に、労働者も被曝しているという話は伝わってはいるのですが、その真相は定かではありません。しかし世界のウラン埋蔵量の15%と言われ、今でも1%の生産をしているのですから、その実態はいずれ明らかになるでしょう。私はウラン鉱山で働き肝臓を悪くしたという青年に昨年出会いました。

私たちが今回計画したのは、UBから800キロ離れたマルダイというところでした。今回の政府のプロジェクト案にも明示されています。しかし残念ながら今回、マルダイ行は断念せざるをえませんでした。車の整備や予期せぬ事故もありえるので、3-4日の日程では無理がありました。

そこでその会議に参加した人たちとSelengeから私のために3-400キロ圏内の他のウラン鉱山跡地を案内してくれるという、ありがたい申し入れがありました。一つはゴビ砂漠を車で10時間かけて行くという案と、もうひとつは列車で4-5時間かけて行こうというものでした。私は大変だ、危険だと言われたものですから、ゴビ砂漠を車で行くことを決めました。  
  
女性の、先に記したのとは別のジャーナリストが段取りしてくれた西南ゴビ砂漠行きは結局、6名が行くことになりました。そのうちの一人は、偶然出会った、30歳代の女性で、西ドイツに18年いたという弁護士志望の活動家でした。ガイガーカウンターをもって友人と放射線線量を計っているとのことで、道中、多くのことを話し合いました。
6名の参加者はユニークな人たちで、一人は地域での住民とのインタビューをしたいという旅行をアレンジしてくれたジャーナリスト、車を提供し運転してくれた韓国と日本留学の経験者の元観光協会の職員、もう一人の髭面で辮髪の正体不明な男性、その従弟でモンゴル相撲のプロを志すという青年とドイツ留学の女性と私です。

 ゴビ砂漠はめったに雨の降らないところだそうですが、出発の日は雨が降り(雨といってもさっと顔をなでる程度のものなのですが)ました。砂漠ということで連想するアラビアのロレンスや鳥取のようなものとは違い、5センチくらいの草が生えている草原です。途中までは舗装されたいい道だったのですが、そこから先は、砂漠(草原)の道らしきところを手掛かりにして進むのです。しかしあるところでは雨のため、でこぼこになった砂から車はぬけでることができず、全員降りて押すしかありませんでした。途中、馬や牛、ヒツジの群れに遇うことがありました。

 砂漠(草原)の中に鉄のパイプが埋め込まれていてそこから鉱物を取り出した跡がありました。おそらく130ものライセンスを取得したJVはここぞとばかり砂漠の中を爆破して鉱物を取り出しウラン鉱山を特定し、経済効率のよいところを選んでいるのでしょう。事実、遠くの方に急に煙が立ち上がり、数秒してからダイナマイトの爆発音が聞こえてきました。私たちが行こうとしている場所とのことでした。


   ゴビ砂漠の中の小さな村
 夜の11時半に着いたのは、その「得体の知れないモンゴル青年」の実家のゲル(蒙古の移動可能なテント)でした。彼のお母さん、弟夫婦、子供たちが住み、電気のないところで蝋燭をともして迎えてくれました。そして温かいモンゴル茶をごちそうになりました。

周辺がどのようになっているのかまったく見えずわからなかったのですが、私たちが連れて行かれたのは病院の一室と後でわかりました。そこで倒れるようにして寝て次の朝を迎えました。

 6時前に起きて見てみると私たちの泊まったところとその周辺はゲルではなく、普通の建物でした。なにせ昨晩は10センチ先も見えないので何がどうなっているのかまったくわからなかったのです。私は少し周辺を歩きました。別にフェンスはないのですが、ここは小さな集落(村)だという感じでした。外は砂漠でした。10分くらい歩いたのでしょうか、すぐに「得体の知れない青年」が車で来て笑いながら私を乗せ、彼の実家まで連れて行ってくれました。車に乗ると、野犬が2匹吠えながら車を追っかけてきました。危ないというので、そんなことを知らない私を探しに来てくれたとのことでした。いやいや、勝手な行動はだめですね。

 彼の実家では、私が競馬を見学した際にSelengeと訪問した政治家たちのゲルを訪れそこでごちそうになった骨付きの羊の肉がおいしかったと話したので、その料理をふるまってくれるというのです。私が食べたのは、鍋に骨付きの羊肉が山と積まれ、それをナイフで削るのですが、塩味だけの、おもわずおいしいとうなる絶品でした。

 ゲルの真ん中にあるストーブに鍋をかけ水を入れ骨付き羊肉とそこにジャガイモの皮をむいて入れ、後はなぜかこぶし大の黒い石を数個入れました。それに塩をまぶすだけです。蓋をしてしばらくしてゲルの外でみんなで食しました。うむ、この味です、競馬の時に食べたのは。塩味が絶妙で、それになんとなく他の味も感じたのですが、おそらくそれは黒い石が醸しだしたものなのでしょうか。後で聞くと、彼の実家でつくっているモンゴル相撲の衣装(パンツと袖付きチョッキのようなもの)と羊肉を物々交換してくれたそうです。私はモンゴル服をはおり、みんなとゲルの前で記念写真をとりました。

その村は、Dung Gobi Province()Undurshil Sounという人口1500名の村ということでした。モンゴルは日本の4倍で人口は300万人くらい、そのうちの半分はUBに済むということは前回来て知っていたのですが、それがヨーロッパ大陸とほぼ同じ面積であり、その中に川崎市(人口140万人)があり、あとは散在しているというイメージです。広大なゴビ砂漠の中で改めてモンゴルの大きさを実感しました。

 食事の準備の間、私たちはゴビ砂漠に出かけ、そこに神聖な岩を見に行きました。3-4メートルのごつごつした岩でそれが何個も重なるかのようになっていました。そこで住民は祈るのだそうです。その岩に上り見回してみるとゴビ砂漠が延々と拡がっていました。山などはまったくありません。ただただ砂漠(草原)が続くのです。その5センチほどの草の中に食することのできる小さな「にら」のようなものがありました。強烈な臭いですが、これがゴビ砂漠の臭いなのです。少しすると慣れ、とても新鮮でいい匂いになってきました。モンゴルの学者が韓国で学び、ゴビ砂漠の中の草から癌薬を作りだしたという話も聞きました。おそらく昔から体にいいと言われていたのでしょう。

 岩から降りて、旅をアレンジしてくれた女性が岩の中に入り込んでしばらく祈るというものですから、私たちは砂漠から湧き出る井戸の小屋のところに行きました。動物が飲む小屋と、レンガ造りの小屋がありそこは人が動物の内臓を袋にしたもので井戸から水をくみポンプに流し込んで飲むようになっていました。建物の壁に小さなプレートがあり、日の丸がありました。何か国で資金を出し合ってそこに小屋を寄付したということでした。


 何十年もモンゴルの各地でウラン発掘に立ち会ったという方の紹介を受けました。彼がChoirというウランの跡地を案内してくれるというのです。例のジャーナリストは食事の後で彼のインタビューをしていました。記事にしたら送ってくれるとのことでしたが。



彼は「得体の知れない」モンゴル青年が率先して作ったという公園、そこには数年かけて植林がなされていました。モンゴルは毎年猛烈な勢いで砂漠が進んでいるのです。彼は海外の支援を受けずモンゴルの有志と村の人でその植林を続けてきたのです。ここのちいさな村から高校に通いUBの大学をでたそうで、小説で賞をとり、今はウラン発掘に反対する映画のシナリオを書いているそうです。もう一人の車を提供した青年はプロジューサーで、ドキュメンタリーでなく、フェミニズムの立場から本格的な映画を製作したいということでした。モンゴルの5人の有名な女優を主人公にしたものらしいのですが、完成させたら、是非、日本でも上映運動をしたいものです。

「得体のしれない青年」は村人から尊敬され、誰からも愛され、どの子どもをも膝にのせてほほずりをする心優しく、志の大きな青年でした。歳を訊くとシナリオを書き映画製作の提唱者である彼は36歳、プロジューサーは32歳とのことでした。彼らの映画製作が完成することを心から祈ります。

食事をしてから車でChoirまで数時間かけて行くことになっていたのですが、またあいにく雨が降り出しました。彼らは集まって協議をして翌日の私のUBからの出発時間を考えると残念だが、このままUBに帰る方がいいという結論になったようです。実は私もおなじことを考えていました。この道のない砂漠(草原)の中を行ってもし車の故障で動けなくなったら本当にどうしようもないということを前日、経験したからです。

幸い、帰りはシナリオライターの青年の家族が車に乗り、他の人がオートバイで先導してくれました。それがなかったら雨が降ったゴビ砂漠を無事に帰れたかどうかまったくわからないところでした(運転をしていたプロジューサ自身がそのように述懐してましたから、間違いなくそうなんでしょう)。
   
   最後に
生まれて初めてゴビ砂漠を訪れました。車が留まったらだれもが知らん顔してそっと車から離れて遠くの方に歩いていきます。トイレです。私は最初は抵抗があったのですが、だんだん慣れました。考えてみれば家の小さな部屋の便所より、この自然での排便、排尿は実に快適でした!




ゴビ砂漠を抜け出し舗装された道を走り出してしばらく行くと夕暮れになりました。雨もあがり太陽が沈むところが絵のような美しさでした。そして間もなく全く光が消えました。見上げると噂に聞いた星空です。これを言葉で表現することはできません。モンゴルの砂漠を一度でも訪れ草原のにおいをかぎ、動物に出会い、青空と星空を見た人は何度でも訪れたがるとのことでした。ここにどうして使用済み核燃料を埋めるというのでしょうか。正気の沙汰ではありません。産業化だ工業化だとかいいながらお金に目がくらんだ人たちが企んだのでしょう。

多くの村人もウランの怖さと核廃棄物の怖さを知らされていないようでした。そして2020年にCFS構想の対価としてモンゴルでも原発を作ると政府は発表してきました。水の無いゴビ砂漠で原発をつくるというのは、おそらく液化ナトリウムを使った小型原発でしょう。それはビル・ゲイツが投資したアメリカのベンチャー企業が開発し東芝が製造するものと思われます。廉価で安全で、自然に優しいと彼は投資家に語りかけているのをネットで見ました。アフリカの貧困まで救うという話でした。実に巧みな語り口でしたが、その廃棄物はどこに捨てるのでしょうか。

人類は核廃棄物を処理する技術を持たないのです。何万年もモンゴルや北欧、シベリアに埋めて子孫にその処理を託するのでしょうか。そうではなく、一刻も早く原発は凍結する、そしてそのあとの生活のことはみんなで話し合う、これしかないということを私はゴビ砂漠の中でしみじみと感じました。(続く)

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