2012年7月25日水曜日

東電のアジア侵略史ー佐藤和之さんからのメールより


私の信頼する教師で活動家であり、さまざまな分野でご活躍の佐藤和之さんからのメールを見て、神奈川懇話会「東電のアジア侵略史」報告をみなさんにもご紹介させていただきます。

私はモンゴルに行っていたのでその会には出席できなかったのですが、過去の植民地支配の清算をしてこなかったことが現在の「原発体制」を生み、国内の疲弊した地方での原発建設や再稼働がむつかしくなってくると、3・11急速に原発の海外輸出(東芝・日立・三菱)及び、核廃棄物(使用済み核燃料)をモンゴルに持っていき埋めるというとんでもない計画が進展しています。モンゴル政府は先ほど、核廃棄物を受け入れる施設と小型実験用原子炉(恐らく東芝でしょう)建設を予算化しました。No Nukes Asia Actionsをおこしたいと思います。みなさんも一緒にやりましょう!   崔 勝久

7.17 第二十一回CS神奈川懇話会「東電のアジア侵略史」報告
2012年7月17日、川崎市の「てくのかわさき」において、市民連帯神奈川懇話会「東電のアジア侵略史」を開催しました。話題提供者は、7・16「さようなら原発10万人集会」参加のため上京していた、不二越強制連行訴訟北陸連絡会の村山和弘さんと中川美由紀さん。集会参加者は、地元の市民団体や戦後補償問題に取り組む方など、全体で19名。夜遅くまで、活発な議論がなされました。以下、その要旨です。
報告1:村山和弘さん(写真上)「東電のアジア侵略史-現代・日本とは何かを考える」
1922年、信越電力は中津川第二発電所の建設を開始する。工事を担当した大倉組(現在の大成建設)の監督者らは、「勤務態度が怠惰だ」などとして、土工たちに暴力を振るっていた。逃亡を試みた朝鮮人労働者らは、信濃川発電所工事所で射殺され、セメント漬けにされて川に投げ込まれた。信濃川上流から、朝鮮人の死体が連日流れてきたため、事件が発覚。これを、信濃川朝鮮人虐殺事件という〔その後、信越電力は東京電燈に吸収されるが、1939年、東京電燈などの電力会社は日本発送電と関東配電など9配電会社に統合された。戦後は再編を求められ、1951年には発送配電を行う9電力会社が設立される。その際、かつて東京電燈がテリトリーとし、関東配電に引き継がれていた地域は、東京電力の供給・営業エリア となった〕。
第一次世界大戦以降の「総力戦」準備の過程で、内外における植民地支配を前提にして、「国家電力」体制が成立した。日本の電力は当時、本土と植民地における炭鉱とダムへの強制連行・強制労働で成立している。その全体像を、戦争産業や「大東亜共栄圏」の観点から、捉え返す必要がある。例えば、北海道と常磐炭鉱の石炭は東京電燈の千住火力発電所へ輸送され、北九州の麻生赤坂抗の石炭は関西の火力発電所へ輸送された。高圧送電線開発により、黒部など遠隔地ダムから都市部に電力が供給され、鴨緑江の水豊ダムは当時世界最大級の規模をもつ。

アジア太平洋戦争におけるミッドウェー海戦敗北後、形勢逆転を狙う軍部は、原爆開発を理科学研究所に指示した。1945年3月の東京大空襲により本土での開発が困難になると、この秘密プロジェクトは、海軍基地と工業団地がある朝鮮半島北部の興南(フンナム)で継続された。同年5月のドイツ降伏時、日本にウラン輸送中のドイツ潜水艦が、アメリカに投降している。そして連合軍司令部のレポートによると、同年8月12日、興南沖で閃光とキノコ雲を伴った爆発があり、直径1000ヤードの火の玉が空に湧いたという。なお、原爆開発チームの中心人物は、湯川秀樹と朝永振一郎である。

敗戦後になっても、戦争犯罪を追及しないことで、戦前勢力が延命している。GHQによって、日本帝国主義の基本構造は、注意深く温存された。朝鮮・満州で核兵器開発をしていた日本の産軍(官)学は、1951年サンフランシスコ条約後、「原発・核燃サイクル」政策を推進し、軍事大国・科学技術立国をめざした。戦前・戦後を通じて、内外の植民地支配を前提とした、「国家電力」体制の真相を解明する必要がある。東電は朝鮮人虐殺・強制連行企業であり、アジア民衆と連帯した脱原発運動で解体すべきである。
報告2:中川美由紀さん(写真下)「不二越闘争をめぐって」
不二越は1928年、機械工具の国産メーカーとして、富山市に創業された。主要生産品であるベアリングや軸受は、航空機・軍艦・戦車・軍用自動車など、兵器と直接結びついていた。1944年からは、労働力不足を朝鮮からの強制連行労働者で補っていく。朝鮮から不二越に女子徴用工として強制連行されたのは、12~15歳の少女たち。学校や役所を通じて、「不二越に行けば、女学校に通える」「お花やタイプライターなども習える」などと騙し、親の反対も押し切らせて富山まで連行。彼女らは到着後、劣悪な労働条件・非人間的な生活環境に叩き込まれ、終戦前後には帰国できたが、賃金も受け取っていない。その後も、被害者らは精神的・肉体的な後遺症に悩まされ続けている。
第1次不二越闘争は、「第二の独立運動として」門前闘争を軸に、あらゆる闘いを展開した。1992年9月、第1次不二越訴訟を原告3人(金景錫団長)で提訴するが、1996年7月に富山地裁「棄却」判決。1998年12月、名古屋高裁金沢支部「棄却」判決。2000年7月、最高裁で勝利和解。不二越の明白な謝罪はないが、当該の意向に踏まえ、勝利地平を確認し全体解決に押し上げるため、一旦和解に応じる。

2003年4月、第2次不二越訴訟を原告24人で提訴するが、2007年9月に富山地裁「棄却」判決。2010年3月、名古屋高裁金沢支部「棄却」判決。2011年10月、最高裁「棄却」決定。他方で2011年8月、韓国憲法裁判所が政府の「日韓請求権協定」第3条不作為を違憲と決定。2012年2月、韓国で不二越も入った「第二次戦犯企業リスト」公表(第一次は2011年8月)。2012年5月、韓国大法院が三菱重工と新日鉄に損害賠償等を求めた原告側勝利の判決。そして2012年7月、2年間にわたる名古屋三菱交渉決裂。

韓国では近年、画期的な司法判断などを闘い取っているが、アジア侵略の加害国である日本でこそ果敢に闘わなくてはならない。長年の運動の中で努力をしても、結果が出なければ、被害者にとっては意味がない。不二越闘争と脱原発運動との結合は、戦術的な次元の話ではなく、植民地侵略の歴史そのものを問い返し、日本社会を根本的に変革する闘いに深化するため。私たちは富山で闘っているが、これを全国的な力にしなければ勝てない。戦争責任問題全体の解決のために、完全勝利する日まで闘い抜く。

以上が報告の要旨ですが、休憩を挟んで、質疑討論が活発になされました。特に、名古屋三菱交渉の決裂については、それに関わってきた参加者が経緯と教訓を詳しく語りました。また韓国在住の参加者は、光州の支援団体によるカンパ・署名活動を紹介し、戦時被害者に対する基金財団の設立要求を方針提起。さらに元日本鋼管訴訟支援者の方が、未払い賃金問題をめぐる最近の動向を報告しました。終了後の懇親会でも、様々な話題が出ました。
佐藤和之(CS神奈川世話人)

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