2012年7月27日金曜日

「原子力を世界に」求める日立ー朴鐘碩


6月19日に提出した、日立製作所(会長・社長)への抗議文に対する反応はない。日立労組幹部にも送ったが「激励」のメッセージはない。(「日立製作所会長と社長へ抗議文ー「日立闘争」元原告 朴鐘碩」  http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post_1634.html  )

私が定年退職した前年の2010年は、「日立創業100周年記念」の多くのイベントが開かれた。「開拓者たちの挑戦-日立100年の歩み-」と題する150頁に及ぶ日立経営の歴史が冊子として発行され、世界を視野に拡大する「技術の日立」を全従業員に知らせるために、無料で配布された。

小平浪平氏が創業したと言われる、日立製作所は、1910年韓日併合の年に日立鉱山開発を起点にした。水力発電所建設プロジェクトで当事の東京電燈(現・東京電力)と関係が深く、原発事故に至る今日まで100年以上の付き合いとなる。

昨年3・11の福島第一原発事故、放射能汚染拡大で脱・反原発、廃炉を求める声は、日々高まっている。これまでの「国民国家」への批判・糾弾、市民・避難住民の怒りは、原発を開発、製造、輸出で莫大な利益を稼いでいる日立、東芝、三菱3大メ-カに向けられるのも時間の問題と思われる。反・脱原発社会にするためには、原発を開発しない、造らない、輸出しない、廃炉にするしかない。
闘いは、始まったばかりだ。

1997年1月28日、当時の金井務社長は、防衛大学校で「経営理念・原子力」と題し講演している。また、2011・3・11の前年に発行された「日立100年の歩み」には、日立の原子力事業、技術、歴史が躊躇なく書かれている。原発事故前だけに、「安全神話」を前提にした原子力をビジネスに結び付ける日立の経営者の本音を覗くことができる。

「経営理念・原子力」(金井務氏)
「戦争中にいた江田島は広島のすぐ南にあり、原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。それから2週間ほどして、郷里の京都に帰るときに広島の街を通り、惨状を目の当たりにしたわけです。私は入社してから原子力の開発に従事したわけですが、そういう経験が、私の将来を決めることになった」
「1953年、私が入社した頃ですが、原子力の民間利用、平和利用が解禁され、その2年後に原子力の開発が始まりました。原子力が日本の脆弱なエネルギ-問題を解決してくれるのではないか、エネルギ-問題も将来は明るくなったと、当時私どもは喜んだものです。その後、日立の研究所で原子力の開発に携わり、工場勤務も経験しました。」「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」
広島の惨状を見た金井務氏は、戦争、原爆の恐ろしさを感じなかったのか。広島、長崎で犠牲となった日本人と共に強制連行された多くの朝鮮人が被曝した事実を知らなかったのか。日本の戦争責任をどう考えるのか。

「日立100年の歩み」「原子の灯を電力に1957年、茨城県東海村で日本最初の「原子の灯」がともった。日立は戦後すぐに原子炉の基礎研究をはじめ、1957年に日立工場に原子力開発部を設置した。日本原子力研究所が1963年に建設した沸騰水型動力試験炉では炉本体を担当し、日本最初の原子力発電に貢献した。

その後、GE社と沸騰水型(BWR)のシステムライセンス契約を結び、日本最初の商用軽水炉となる日本原子力発電敦賀発電所、東京電力福島第一原子力発電所などの主要設備を担当した。特に、福島第一原子力発電所1号機(1967年着工)の原子炉格納容器は純国産技術による最初のものでここでも工期短縮で大きな成果をあげた。

1966年にはパキスタンのカラチ原子力発電所向けとして、日本初の輸出となる原子力発電用タ-ビン発電機を受注した。1967年には、中国電力島根原子力発電所の建設が日立製作所に委ねられ「国産1号商用原子炉」のプロジェクトが始まった。

この間、日立は、将来の原子炉として新型転換炉(ATR)、高速増殖炉(FBR)の開発にも参画して研究開発を進めた。原子力燃料の製造技術でも、1967年に日本ニュ-クリア・フュエルに出資して核燃料加工生産に加わった。」

「川崎市麻生区王禅寺にある現在のシステム開発研究所。1961年12月25日午後7時25分、この地で「日立の原子力の灯」がともったことを知る人は少ない。「原子力研究のために自前で原子炉をつくろう」と中央研究所を中心にこの地で小型の日立教育訓練用原子炉(HTR)を建設したのである。これが、国産民間研究用原子炉第1号であった。HTRは各種実験を通じて日立の技術力向上を促進し」たが、1975年に廃炉となった。

「日立は、1979年に日本最初の改良標準化プランとなる東京電力福島第二原子力発電所2号機の主契約者となった。」

「原子力では、世界初の改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)として、1997年、1998年にそれぞれ運転を開始した東京電力柏崎刈羽原子力発電所6,7号機の建設に、日立、東芝、GE社の国際共同体制で参画して以来、中部電力浜岡原子力発電所5号機、北陸電力志賀原子力発電所2号機にも携わってきた。現在も、2011年末完成予定の中国電力島根原子力発電所3号機の建設をオ-ル日立で進めている。さらに世界初のフルMOX(全燃料をMOX=プルトニウム・ウラン混合燃料とする)実現に向け、2014年の完成をめざして電源開発大間原子力発電所の原子炉本体を担当している。」

「2007年には、GE社との原子力事業統合として、日本に日立GEニュ-クリア・エナジ-を設立し、北米にGE日立ニュ-クリア・エナジ-社を設立した。」

「原子力を世界に日立は、1957年以来、国内で20基の原子力プラントに貢献し、海外へも機器を輸出してきた。最新の改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)でも、最も多くの実績を上げている。さらに、「日本型次世代軽水炉」の開発にも参画し、燃料の高燃焼高度化、建設費やメンテナンス費用の提言、建設期間の短縮、免震化、プラントデジタル化などのテ-マに取り組んでいる」

原子力発電を前提に開発されるリニア新幹線の開発は、「日立が車両を製作し、宮崎実験線の軌道に設置された超電導磁石には、日立電線の超電導コイルが使用された」

3・11の福島第一原発事故で、「4号機を造ったのは日立である」という認識しかなかった。ところが、「経営理念・原子力」、「日立100年の歩み」の中の原子力事業を読み直して、日立は、東アジア最大の地震国である日本の原発建設全てに関わっているようだ。3・11以後も相変わらず原発建設、リトアニアをはじめとして世界を視野にした日立の原子力輸出攻勢は続いている。

「国民国家」は、津波、原発事故、放射能汚染で生活を破壊し、家族を引き裂き、避難を余儀なくされた地元住民への救済よりもインフラ整備と称して公共事業を優先させる。復興事業予算はどのようなル-トで流れるのか。原発メ-カである日立、東芝、三菱は事故の復旧あるいは廃炉事業で莫大な利益を得る。これがナオミ・クライン氏の「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義)の正体であろう。

「原発マフィア」と呼ばれる、3大メ-カである日立、東芝、三菱の経営者幹部は、3・11事故以後も原発生産から撤退することはなく、国内での増設および輸出拡大を期待し莫大な利益を見込んでいる。連合(企業内組合)は原発推進を凍結したものの、その実態は全く見えない。電力会社はじめ3大メ-カの企業内労組幹部・組合員は、沈黙している。

植民地であった朝鮮半島で利益を得たチッソは、戦後、水俣病を起こした。チッソの技術者、労働者は内部告発できなかった。被害は拡大し、多くの地元住民が犠牲となった。

日立製作所は、1970年、国籍を理由に民族差別事件を起こした。日立労組幹部は見て見ぬふりをし、沈黙した。経営者に抗議する労働者は、皆無だった。

自分が勤める会社が造った製品・原発が原因で、日本だけでなく地球規模の事故・被害をもたらしても組合幹部、組合員は沈黙している。外国籍公務員を管理職、許認可の職務から排除する「当然の法理」をはじめ戦争責任を問わなかった、問えなかった戦後の労働運動の質が問われている。

「日立は、信頼と品質を第一に、ひたむきに進化を続けている」と「日立100年の歩み」を締め括っているが、日立就職差別事件から40年以上経過しても労働者にものを言わせない日立の「企業内植民地」的経営体質はなにも変わっていない、と言える。

No.322 - 2012/07/01(Sun) 10:50:28

1 件のコメント:

  1. 西中誠一郎2012年7月28日 2:27

    学生時代に水俣病事件の記録映画にはまり、姜在彦氏の「朝鮮における日窒コンツエルン」という古本を読んで感銘を受けた記憶があります。
     「聞き取り水俣民衆史」にも、朝鮮窒素の動力源となった中朝国境の「水豊ダム」の開発のことや、ダム開発で強制動員されたり、過酷な工場労働に従事した中国人や朝鮮人労働者のことも、確か書いてありました。
     戦争中に空爆を受けた日本窒素水俣工場が、戦後すぐに塩化ビニール等の合成樹脂の大量生産に踏み切ることができたのも、朝鮮窒素にプラントが残っていたので技術移転が容易だったからです。その塩化ビニールを利用して誕生したのが、神戸のケミカルシューズで、神戸長田区を中心にした地場産業となりました。塩化ビニールの製造過程で、水銀を触媒として大量に使用し、排水したことが水俣病の原因です。
     大手企業のグローバル化が植民地政策を推し進め、高度経済成長の推進力となり、公害を生み、棄民化してきた歴史からもっと学ばないといけないと痛感しています。(財界や産業界が学ばないと意味ありませんが。。。)

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