2012年7月24日火曜日

「捨てられた石」ー在日として生きて来て見い出したこと


モンゴルに旅経つ前に大阪の申英子牧師からの依頼で礼拝のメッセージを伝えることになりました。モンゴルで何が起こるかも知れず、いい機会なので私自身の「在日」として悩み、考え、見い出した地平をしっかりとまとめてみようと思いました。

幸いハニルチャーチの教会員の方々は国籍にかかわらず私のメッセージを受け留めてくださいました。また韓国の原発闘争を共に闘う友人たちは「勝手に」(?)翻訳までしてくださり友人に伝えてくださったそうです。クリスチャンではないオクロス通信の読者にお伝えしようと思います。ご感想をいただければ幸いです。     崔 勝久

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日本基督教団 ハ二ルチャーチでの「メッセージ」 2012年7月8日
「捨てられた石」   崔 勝久 (日本同盟教団 招待教会会員)

マルコ12:10-11
10.聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 11.これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」


1 挨拶
このような証しの場を与えられましたことを感謝申し上げます。申先生と金顕求牧師とはもうかれこれ40年以上のお付き合いになります。申先生と私の義母や妻はその前から川崎教会で一緒でしたからもっと永いお付き合いになります。いつも私たち家族のことを祈りの中で覚えてくださり、また私の活動のことも心から支え激励してくださり、感謝です。

たまたま金曜日から大阪に来る用事がありましたので、日曜日の礼拝はハニル・チャーチに出席すると決めておりました。一応、事前にお話しした方がいいと思ったものですからその旨、メールをお送りしたところ、礼拝で証をしてほしいということになりました。それも完全原稿を準備するようにとのことでした。しまった黙って来ればよかったと思いましたが、もう後の祭りで、証しを引き受けた次第でございます。

2 捨てられた石
マルコのこの箇所はイエスがエルサレムに入城し、律法学者たちとさまざまな問答をして、彼らの頑なさを批判されたときのお話です。ぶどう園の収穫を受け取ろうと農園の地主が僕を送るのですが、この僕たちは次から次へと農民たちに殺され、最後は地主の息子を送ったがこれも殺害されたという有名な「ブドウ園と農夫」のたとえ話の後で、イエスが詩篇118編を引用したという設定になっています。この詩篇は紀元前7世紀、イスラエルの民が「捕囚の民」としてバビロニアに連れていかれ、その後ペルシャの王の下で故郷に帰り神殿を造ったことの喜びを歌ったものとされています。

従って、10節の「家を建てようとした者は」誰かと考えますと、バビロニアという当時の世界の大国の人間で家を造る専門家ということになります。その彼らが不要なものとして使わず捨てた石というのは、捕囚の民として異国での生活を余儀なくされたイスラエルの民のことであり、それがひいては律法学者たちから受け留められないイエス自身のことを比喩していると思われます。この世を支配し栄華を誇った大国の建築家たちからは不要なものとして捨てられた石であるけれども、実は建物の角のところに用いるかしら石、或いはアーチ型の一番上に入れる石か議論はわかれますが、いずれにしても、その捨てられた石が建物の基礎になるもっとも重要なものであったということでしょうか。この「かしら石」というのはCorner Stone とかKey Stoneと呼ばれていますね。

3 「在日」としての目覚め(日立闘争をきっかけにして)
私はこの「捨てられた石」という箇所ではいつも私たち「在日」のことを思い出すのです。日本の朝鮮侵略の歴史の中で、強制されたのか自ら日本に来たのかはさておいて、「在日」というのはいずれにしても日本の植民地政策によって故郷で生活することがおぼつかなくなり、異国に渡ってくるようになった朝鮮人とその子孫です。私の父は黄海道出身で、11歳のとき、身一つで一人で日本に渡ってきました。もう亡くなって20年近くになります。

私は昭和20年、1945年の終戦の年に生まれた在日2世です。私は難波で育ち、戎橋通りの入り口にある精華小学校、心斎橋の大丸がある御堂筋の反対側、今のアメリカ村にあった南中学、そしてこの教会のすぐ後ろにある高津高校に通いました。大学は東京の国際キリスト教大学(ICU)に行くのですが、それまで私は日本名を使い、自分たちの歴史も言葉も何一つ知ることなく、まったく日本人と同じように生きてきました。

しかし「日本人と全く同じように」というのはただしくありません。自分が朝鮮人であるということは、いつも「とげ」(コリントの信徒への手紙Ⅱ、12:7)のように私の心にささっていました。在日とは日本人ではなく、また韓国の人たちとも違う、どこか中途半端で、歴史の中心にはいない、歴史の片隅に忘れられ「捨てられた」、自己主張を許されない存在であり、できれば自分が在日朝鮮人であるということは隠した方がいいと意識してきました。

大学1年の夏休みに在日韓国教会の青年修養会に出席し、初めて同じ在日でしかもクリスチャンが200名も集う場に参加しました。チェ・スングと言われても誰のことかぴんとこないような感じでした。それがきっかけで私は故李仁夏牧師の牧会される川崎教会に通うことになりました。そして多くの人から私は受け入れられ、愛され、自分が何者で何をすればいいのかじっくりと考え話う場を与えられたと思います。まあ、それが結婚に結び付いたというわけです。

大学の4年生のときです、ある日、朝日新聞で大きく「僕は朴か新井か」という見出しで、18歳の在日が日本名と日本の住所を書いて日立の入社試験を合格したが、それが「嘘」だとばれて解雇され、裁判に訴えたという記事を見ました。私はなぜか他人事と思えず、すぐに彼に会いに行きました。それがきっかけで「日立就職差別裁判闘争」(「日立闘争」)が始まりました。日立闘争は、日本社会の差別と同化を強いる構造を法廷の場で正面から問い糾した闘いになりました。それは差別から逃げ回ってきた己自身の人間としての誇りをかけたものでした。

当時、在日の組織からは、日本名は仕方がないとしても本籍地までも偽るというのは民族的主体性がない、韓国の民主化闘争とか統一運動とか民族の大義を求める運動があるのに、どうして民族意識の無い者が裁判をするのか、ということで支持を受けられませんでした。それこそ慶応の学生と5-6名で裁判闘争をはじめたのです。

私は、在日朝鮮人として差別社会である日本社会の中で生きていくと主張したものですから、「同化論者」とされ在日韓国教会青年会の責任者をリコールされました。しかし私は日立闘争を通じて、自分が在日朝鮮人であることを正面から打ちだし、自分を卑下するようにさせたマイナスの、歪められた歴史を直視し、それを克服すべく民族差別と闘って生きることを決意し歩み出しました。

私が主張した在日朝鮮人としての民族意識なるものは、生まれ育った故郷を想う素朴な民族意識や、自らが属する国家を誇るという国民としての民族意識という、アイデンティティの根拠になるようなしっかりとしたものではありません。むしろアイデンティティの喪失とも言うべき、被害者意識としての民族意識でした。それはみずからの朝鮮人であることを隠そうとしてきたことを悔い、歪められた意識から逃げず差別と闘い、解放を求めて歩みだそうとする決意のようなものでありました。しかしその決意はどこか悲壮なものです。在日朝鮮人であることに開き直った、どこかとげとげしいものであったと思います。
そこには日本人社会の問題を指摘・告発しても、彼らの課題を共に担い新たな社会に一緒に向かおうという展望を提示するものではありませんでした。また韓国に関してはどこか向こうが「本家」「本もの」という意識が消えず、彼らとも課題を共有し共に生きるというよりは、同じ民族であり、彼らの民主化闘争を外から支援するという次元で留まっていたように思います。

日立闘争は大きな広がりを見せ、日本各地での支援体制ができました。NY・ソウルでの日立製品不買運動があり、韓国の民主化闘争をする学生たちからの支援をうけるようになりました。そして裁判の判決は日立の民族差別を認める完全勝利でした。彼は日立に入社し、40年間無事務めた後、昨年11月に定年退職をしました。

その40年間、彼は会社の中で平穏に暮らしていたわけではありません。彼が入社した日立は、労使一体となって高い生産性と高利益を求める集団であり、そこで働く者が自由に物を言う環境ではなかったのです。朴君はそのようなものを言わせぬ会社の体質が差別を生んだのだと理解し、一人で「第二の日立闘争」を続けました。即ち、会社や組合に対して「開かれた社会」でなければならないということを社内で主張し続けたのです。

つい先日、嘱託で日立に残った朴君は、原発の輸出で莫大な利益を上げると株主総会で経営方針を発表した経営陣(会長と社長)に、3・11の原発事故によって犠牲者となった住民の気持ちを逆撫でするものだと抗議しました。日立製作所は、原発事業から撤退し、代替自然エネルギ-研究・開発に予算をシフトすること、原発輸出を中止することを要求しました。なかなか一嘱託の身で言えることではありませんね。勿論、会社も組合も何も言ってこないそうです。しかしいつか、彼のその抗議文が日立の会社方針に反映される日が来るかもしれません。

4 川崎の地域活動に没頭する
私は、日立闘争の最中に結婚をしてソウルに語学留学に行きそのまま大学院に入りました。ちょうど朴政権の独裁のときでした。私は教会関係の人たちから途中で帰国して在日韓国人問題研究所(RAIK)の初代主事として働くことを薦められました。私は日立闘争と地域活動をすることを条件に主事を引き受け、地域活動に没頭しました。私たちは川崎の地で、自分たちと同じように在日であることを隠して生きるような子供を作ってはいけないという思いで、「民族差別と闘う砦づくり」を始めました。川崎教会が設立した保育園を中心にして、故李仁夏牧師の全面的な支援を受け多くのボランティアたちと共に地域活動をはじめ、自分たちの足元からの闘いが重要だということを訴え続けました。それが今の、「多文化共生」を謳う川崎のふれあい館につながってきていると思います。

民族差別とは生活実態であると理解しはじめ、本名や民族的な文化を子供たちに教え、学校の勉強も教え、地域のオモニたちとも様々な活動をはじめました。地方自治体の国籍の壁を破る、国籍条項の撤廃にも成功しました。そのとき私の意識としてはすでに、民族の権利の獲得ということから、貧しい川崎の南部地域全体を変えなければならないという考えが芽生え始めていたと思います。その後、義父が亡くなり、私は主事を辞め、義父のやっていたスクラップの会社を引き継ぎました。それから職業を転々としながら家族の生活を支えるために家族と一体となって私なりに全力を尽くしてやってきました。

川崎市は全国的に外国人施策では最も進んでいる都市と云われています。政令都市として全国で初めて外国人を地方公務員として受け入れました。いわゆる「門戸の開放」をしたその川崎市が、「当然の法理」ということで採用した外国籍公務員の昇進を認めず、市民に命令を下す職務からはずす差別制度を作っていたことを知りました。「門戸の開放」のために行政と運動側は一緒になってこのような制度を作っていたのです。私は朴鐘碩たちと「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」を作り、10年以上にわたり川崎市の差別制度の撤廃を求めてきました。

しかし最終的に私たちは、これは市長を代えなければ解決しないと判断し、当時の阿部市長の3選を阻止する運動をはじめました。外国人がそのような運動をすることに最初は多くの日本人の間に躊躇があったようですが、政党に依存せず、市民が中心になって地域社会をつくろうということで「新しい川崎をつくる市民の会」を結成しました。私たちは、工業都市川崎の要とも言うべき臨海部の将来はそこに住むすべての市民が国籍を問わず行政と対話を通して決めるべきだと考えるようになり、その研究を続けてきました。

現在、私たちは5万人集めた明治公園でのデモで偶然会った人たちと一緒になって「脱原発かわさき市民」をつくり、様々な活動を始めています。3・11と同じ規模の地震・津波が川崎に来た場合、工業地帯のタンクから流れ出した石油が堤防を越えて駅前まであふれ、火災によって数十万の人が死亡するという事態になるという警告を発しています。また3・11の原発事故によって川崎での放射能汚染が進み、一般ゴミや下水道の汚泥を焼却した灰をすてることもできず臨海部に貯められている非常事態であることを行政と住民に呼びかけその解決を探ろうとしています。

5 「3・11」との出会い
この3・11東北大震災は地震と津波という自然災害と、原発事故という人災が重なったものです。ここではっきりとわかったことは、災害は民族も国籍も関係なくすべての人を殺し傷つけるということでした。私は教会のボランティアとして何回か仙台に行き、被災地の実態を観てきました。そしてそこで奉仕するクリスチャンの献身的な働きに敬意を表するようになっていたのですが、同時に彼らは被災者への関心をもっていても、原発事故に対しては関電にも教会員がいるとか、それは政治的なことがらだという理由で関心をしめさないことがわかりました。

私は原発に関する本を読み、講演を聴き、インターネットで調べるうちに安全だと言われていた原発の致命的な欠陥、問題点を知るようになりました。使用した核燃料の後処理はできず、最終的には何万年も地中に埋めるしかないのです。これは人類が手を出してはいけない領域であるということです。原子力発電は中国では核発電と正確に言われているそうです。日本に住む人たちは「原子力の平和利用」という宣伝にのり、原発の安全神話を信じ込まされてきました。在日である私たちも同じです。日本では「核」と「原子力」を使い分けし、「原子力」は平和利用、即ち電気エネルギーとして必要不可欠という政策を採ってきたのです。

この原発体制というのは、戦後の日本社会の経済復興の柱であり、日米の安全保障の要でもありました。従って今回の原発事故は、キリスト者として戦争責任を告白したうえで、その後の日本の戦後責任として負うべきことだと私は考えるようになりました。しかしこの戦後責任については、在日は外から日本社会を問うべき第三者の立場にいるのでなく、自らもその責任を負うべき立場にいると私は理解しました。私たち「在日」は戦後一貫して差別されてきた存在であっても、その原発体制については少なくともそれを黙認してきた責任は免れ得ないのです。

そしてなんと日本だけでなく、韓国もまた原発大国をめざし、海外に原発を輸出しているということも明らかになりました。韓国は現在21基の原発を持ち、今でさえ世界最高の原発密度なのですがそれを倍増する計画を立て、アラブへの原発輸出に成功した日を国の祝日にしました。今後20年間、世界の原発建設の20%を獲得すると公言する原発大国になっていました。

人権と民主主義を求めた民主化闘争を経験した韓国がどうして原発大国の道を歩みだしたのでしょうか。韓国もまた他の世界の国々と同じく、国民の統合を図り更なる工業化による経済発展に邁進する国民国家に過ぎず、民主化闘争の中心にいた教会もまたその国民国家の枠の中に埋没し、国家を絶対化しそれに吸収されるしかなかったのでしょうか。

私は原発をなくす運動はひとつの国だけではなく、民衆が国際連帯で協力して闘わないことには世界的な原発体制を崩すことはできないと確信し、まず「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」(CNFE)を立ち上げ、代表者としてモンゴル、韓国を昨年訪問しました。日本は使用済み核燃料をモンゴルの地に持込み埋めようとしたのです。日本の4倍もの国土に大阪市位の人口しかいなくて隣に行く平均が40キロというところに、核燃料を埋めたり、また原発を作ってどうするのでしょうか。

世界の15%というウランの埋蔵量を狙って世界の大国がモンゴルを食い物にしようとしています。私は明後日、モンゴルに飛びます。モンゴルの人たちと一緒になってウラン鉱山や被曝労働者の実態を調べインターネットで世界に情報発信する計画を立てたいと願っています。たまたま一昨日(7月5日)、現地のNGOが緊急記者会見を持ち、モンゴル政府が政権交代のどさくさに紛れて、核関連施設(核廃棄物処理保管場建設)を予算化したことに抗議したそうです。これで日本と韓国は「トイレのないマンション」と言われていた核政策のトイレをモンゴルに持つということになるのでしょうか。現地でしっかりと確認をしてきたいと思っています。現地でウランのことを問題にするのは命がかかった運動なのです。どうぞみなさんもモンゴルのことに関心を持ち、祈りの中に覚えてください。

私たちは今年の1月には横浜の脱原発の世界会議に出席し、CNFEとして国際連帯と地域間の交流を図るプロジェクトを実現させました。その成果の上でこの6月には「下北半島地域スタディ・ツアー」を企画し、日本各地と韓国NCCおよびWCC(世界キリスト教協議会)の核問題責任者までが参加し情報交換しながら今後のことを考える場を持ちました。

韓国の参加者は、「核のない世界のための韓国キリスト者信仰宣言」を発表して、多くの教会に参加を働きかけています。既に韓国NCCをはじめYWCAYMCAなど36の教会やキリスト教団体が参加しています。来年はWCCの総会が釜山で開かれます。彼らは「信仰と核は両立しない」と宣言しました。私たちは彼らの動きを支援し、連帯の動きを強めて行きたいと願っています。

6 結論
しかし残念ながら在日社会はまだ、この原発体制に私たち自身の責任がある、だから私たちは日本人の友人とも一緒になってこの原発をなくす当事者として声を上げなければならないと認識していないように思います。それは私たちがながく差別を受けたままであるからなのでしょうか、日本社会が戦争責任を曖昧なままにしているからなのでしょうか、それとも自分たちは日本人ではないので、日本の問題は日本人が責任をもって解決すべきだと考え、国民国家の枠を越えられずにいるからなのでしょうか。

また在日は今年から韓国の国政選挙に参加することになりましたが、長年、疎外されてきた経験のためでしょうか、韓国政府に対しても有権者として原発をなくすべきだと発言することに躊躇があるようです。日韓両政府に核のない世界を求めるのは、私たち在日の責務です。

しかし韓国においてもまた在日の世界においても私たちは日本の植民地下にあったためでしょうか、独立・解放を待ち望み、分断された国の統一を願うからでしょうか、かえって民族や国家というものは絶対的なものであると信じて来たように思います。しかしキリスト者にとってこの世に絶対的なものなどないのです。まさに「私たちの国籍は天にあ」ります。「捨てられた石」のような存在であった在日は、それゆえにこの世の国家なるものを絶対視することなく、国民国家なるものに依存しないで生きることに自分たちの存在意義を見い出すことができるのではないでしょうか。私たちはこの世のアイデンティティを失ったからこそ、来るべき、あるべき社会を願いそこに自己を賭けていくことができるのではないでしょうか。

「日本人でもない、本国の韓国人とも違う、しかし差別については心の底から怒りを覚えるというレベルで生きてきた私たちだからこそ、未来の希望、展望を語ることができるのです。まさにむだなことは何ひとつなかったのです。寄り道をしながらも生きるために多くの人を傷つけ、迷惑をかけた人生でしたが、在日に固執し続けたことによって、在日であるがゆえにこの世の民族や国籍さえも相対化し、アジアの人々との連帯によって、原発体制をなくす運動に邁進できるようになったということを私は心から感謝したいと思います。

 私になんの力があって今のような道を歩み続けることができるでしょうか。この道は断じて私が望んで切り拓いた道ではありません。私はそのように導かれただけです。そしてその道は主に導かれて、みんなで歩まなければならない道です。原発を許すことは私たちの子孫に大きな禍根を残します。いや、人類が生きていけなくなるかも知れないのです。

 命より大切なものがあるでしょうか、今やその命が脅かされるようになりました。これまで大国の核兵器の使用、ウランの発掘、原発によって既にこの世界は放射能汚染にまみれています。このまま原発を作り続けるとさらに私たちの子供たち、その子孫たちは放射能の内部被曝に苦しみ続けるでしょう。みなさんと一緒に祈り、力をあわせて原発をなくすようにしたいと願ってやみません。「核と信仰は両立しない」、韓国で語られ始めたこの言葉の意味をみなさんとかみしめたいと思います。






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