2012年5月19日土曜日

大澤真幸の『夢よりも深い覚醒へー3・11後の哲学』を読んで、深く共鳴

「破局の悪夢を 突き貫ける 著者渾身の根源的な考察」―岩波新書の帯より
普通著者は本のタイトルは出版社と相談して決定するのでしょうが、帯は出版社側からの、いわば営業上の戦略(思惑?)によって決められます。だからその帯に書かれた言葉は作者の預かり知らないことなのでしょう。そうでないと、「著者渾身の根源的な考察」などとは恥ずかしくてとても承諾できないでしょうから。しかしあとがきの一番最後の、「岩波新書編集部の上田麻里さん」なる人物がその帯の文書を書いたのか、完全に営業サイドがつけたのかわかりませんが、私はその言葉に同意します!

先週の日曜日でしたか、TBSの朝の張本勲がレギュラーの番組に400勝投手の金田正一がゲスト出演し(両方とも「在日」ですね)、150キロの直球を投げる金田が60キロそこそこの超スローボールを「全力で投げる」と話していました。私は大澤真幸のこの本を読み、どういう訳か、金田選手のその発言を思い出しました。最後の「階級」論を除き、大澤は全力で、超スローボールを投げ、むつかしい哲学的な課題、それも3・11の自然災害と原発事故をどのように受けとめるべきかの考察を展開します。江夏豊の「あの一球」をはじめ映画や、聖書、哲学者の言葉を次から次へと咀嚼して、易しくかみ砕いて自分の言いたいこと、論理の展開に活用します。その手際はまことに見事としか言いようがありません。

「夢よりも深い覚醒」とは師の三田宗介の言葉らしいのですが、「(夢の)凡庸な解釈は、むしろ、真実を隠蔽する」、「真実を覚知するためには・・・夢の奥に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない」、「われわれは、3・11という夢に内在し、その夢を突き抜けるような解釈を求めなければならない。本書の探究のねらいは、まさにそこにある」。

このように序に書かれた言葉から著者は「いきなり結論」ということで、まず「全面的な脱原発を目標としなければならない」と記します。この結論に至る「理路を支えている前提」、説得力あるものの考え方を提示するのがこの本の主題なのです。それは、ものの判断をする枠組みや座標軸自体を変える「出来事」(=「詩的真実」)に直面した今、最後の章の難渋な部分で著者は、どのような人間が当事者として社会の根本的な変革に挑戦するのか、それはどのようなかたち(やり方)でなされるのかを提示します。

大澤は橋爪大三郎との共著『ふしぎなキリスト教』をだしベストセラーになったようですが、キリスト教関係者(専門家)からは「単純化しすぎ」「個人的見解にすぎない」と強く批判されているようです。今回も同じような批判があるでしょう。同様に最終章のマルクスの「階級論」、「プロレタリア論」も恣意的な読み方だとマルキストの専門家から言われるでしょう。本人は、「プロレタリアートのラディカルな普遍化」と記していますが、いずれにしてもイエス・キリスト(救い主、神の子)とされている人物と、革命の主体たるプロレタリアートという、その分野の人たちには「聖域」の単語を大澤は完全に「世俗化」し、この社会の論理に読み替え、そして何よりも3・11という異常な事態に直面する人間のあり方として提示するのです。

大澤はイエスを革命家と捉えますが、それは60年代の大学闘争の時に読んだ、土井正興『イエス・キリスト~その歴史的追及』 三一新書 '82(初版'66)とは全く次元が違います。大澤はあくまでもそもそもユダヤ教が成立した、バビロン捕囚時からはじまる苦難の歴史、現実にあっても神を信じる根拠を求める「神義論」から論じ始め、「神の国は近づいた」発言をヨハネのものとして、「神の国はあなたたちの中にある」とするイエスとの対比から出てくる生き方の違いに言い及びます(この解説が田川建三の本から引用されていることで、キリスト教会関係者の反発があるとすれば愚かなことです)。

大澤は直接民主主義の国であったアテネで殺害されたソクラテスが自らの無知を悟りながら、対話でもって社会の常識なるものの根底に疑いを持つまでに至る質問を繰り返すやり方に留意し、ソクラテスの先にイエスがいると看破します。これはいささか暴論ですが、すべてを相対化するためには絶対者なる「第三者の審級」がなければならないとする大澤の立場から絞りだされた見解です。彼の論理と言いたいことは何かを知れば、その言葉使いに目くじらを立てる必要はありません。

最終章の「プロレタリアートのラディカルな普遍化」では、マルクスの階級論とはそもそもが何であったのかを「召命」を手掛かりに説き起こし、労働者階級という「常識」を破り大澤は、「自分が何者でもないということを自覚する者、自分が同一化すべき内容が社会の社会のどこにもないと自覚している者」、これが「プロレタリアート」であり、「脱原発を含む大規模な社会変動を可能にするような社会運動の中心的な担い手は、最終的には広義のプロレタリアートしかいない」と断定します。

最後の「結 特異な社会契約」は大澤のある意味では論理必然的に、「第三者の審級をー単なる観念としてではなくー社会的な実践の場に、どのようにしたら導入することができるのか、その方法について、短い提案」をしています。これはそれまでの哲学的な考察に比べるといかにも卑小な感じがする提案なのですが、私個人には大変、参考になりました。

この「ひとつの提案」を最後に入れた大澤の意図はわかりません。しかしこれまで「在日」の生き方を求め続けてきた私にとって、まさに既存のいかなる概念(民族・国家・国民など)にも同一化できず、来るべき社会にその望みを託した私ですが、その思いを運動として展開すべく多くの組織づくりに関わり、自分の理想を求めたあげく、そのすべての組織から結果として離れた理由を思い返してしまいました。私は自分が問題提起して作り上げた運動体(組織)からリコールされ「追放」される結果になったことは2度や3度ではないのです。それは路線の違いとか、考え方の相違、私の個性ということでは説明がつきません。無理に納得させようとしてもだめでした。勿論、私はその結果を私なりの論理で説明できます。しかしそのようなことをいくらしてみても意義のあることとは思えません。

大澤真幸の著作との対話を通して、私は自分の歩んできた道、今取り組んでいるまさに反原発の運動、これらをどのような「やり方」で進めていけばいいのか、よき助言を与えられたように思います。一度機会があれば著者にお会いしていろいろと意見交換をしたいものです。反原発の運動に関わる人たち、この社会の変革を求める人たちに是非、一読をお勧めしたい本です。

2 件のコメント:

  1. この書評が興味深くて、本を読んでみたくなったのだけど、あのセクハラ教授かと思って、Wikiを見たら、論争中になっていました。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E7%9C%9F%E5%B9%B8
    真相はわからないですが・・・。

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    1. そうでしたか、その消息は知りませんでした。
      私は尊敬する聖書学者のTさんが、セクハラで問題になったと友人から聞いたことがありました。彼は絶対にそのようなことはないという確信が私にはあります。もしそうなら彼は筆を折るでしょう。しかし男女間のことです。人の知らないところで、微妙な感情をお互いもつということはありうるでしょう。

      セクハラですませば、JJルソーだってとんでもない男です。そのような女性差別の歴史の中でその風土にいながら、芸術、思想の面で偉大な功績を挙げた人は沢山います。差別の問題もそうですが、部落や在日への差別意識、発言があったからといってそのひとの人格、業績の全否定をするような評価をすることを私は好まないのです。

      大澤真幸のことは名前くらいしか知らず、キリスト教関係の本も読んでいませんでした。大体かれの師とする社会学者の三田にしてもキリスト関係の本では私の納得するレベルの本を書いていません。

      大澤の本に共鳴したことは事実です。しかしそれがどれほど画期的なことか、新しい視点なのかということになると話は別です。基本的には私は彼の手際のよさと、3・11に立ち向かう主体について共感を覚えたのであって、それがイエスとか、プロレタリアートの解釈に同意したわけではありません。そこに結び付く説明と解釈がなくてもよかったのです。

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