2012年4月24日火曜日

あの韓国の論客の金鐘哲氏の新聞コラム(その2)ー福島と想像力


朝日新聞記者 上丸洋一氏の講演会
4月21日渋谷で、ブリッジ・フォー・ピース(BFP)という、「過去の戦争を知り、未来の形を考えるきっかけをつくる」をミッションに掲げて活動している組織が主催する講演会がありました。講師は朝日新聞の長期連載『原発とメディア』(夕刊)を担当する上丸洋一氏です。BFPはHPで、その講演についてこのように記しています。

<それまでの原発を容認する朝日新聞の報道姿勢にハッキリと一線を画す形で、自社の原子力開発への姿勢を冷徹に、時に先輩たちに対して冷酷とまで思える厳しい視線を向ける「記者の眼」は、読む者の多くに共感を与えたはずです。>

確かに氏は、満州事変のときの朝日を含めたメディアの実態を説明しながら、それと原爆及び原発との類似性を取り上げ、広告代による露骨な捏造強要ということは経験していないが、特に科学関係の部署はこの間、原発を称賛してきたし、それを批判する内部の声もなかったということを話していました。しかし以下の金鐘哲が触れているマスメディア批判を読み、また私自身もこの間朝日新聞に感じているあいまいさ、生ぬるさについてブログで書いてきたので(中曽根元を首相のインタビュー記事は酷いものでした)、もっと突っ込んだ議論をしたいと思いました。

原発推進は既定路線か?-朝日新聞の報道に疑問。韓国の宗教界への問題提起(11/4/26)
http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_26.html
朝日新聞の連載、「平和利用 潜む核武装論」を読んで(11/7/21)
http://www.oklos-che.com/2011/07/blog-post_21.html

しかし上丸氏の名誉のために記しておくと、氏は決して開き直らず、自己弁明をせず、むしろ淡々とマスに依存するマスメディアそのもの限界性にまで触れていたということは伝えておきます。崔 勝久


福島と想像力
金鐘哲(緑評論 発行人)

いつの間にかまた一年が暮れている。今年も多くの事があったが、少なくとも私には、2011年は福島事態で、おそらく死ぬまで忘れられない年になりそうだ。福島原子力事故は、一言で黙示録的災害だった。それは一瞬に人間の生存の根本的な土台を破壊し、罪のない民衆の生活を根から壊した。さらに、放射能による大気と海洋の汚染状況は収拾の見通しはまだ不透明なまま、今も進行中だ。

去る3月、事故直後から私は他の仕事がなかなか手につかなかった。悲痛な心情を禁じ得もなかったが、原子力という先端技術の結末が、最終的にこんなものが、一度重大事故が起こればすべてのものを無駄にしてしまう、この技術の背後にあるのはどのような精神構造なのか、それは道徳的ニヒリズムではないか等々、考えが混乱した。しかし、一人の知識人として私はその場で何をどうするか考えないわけにはいかなかった。だから、これまで孤独で戦ってきた反核活動家たちに会って話を聞いて、関連文献や資料を熱心に探して読んだ。そして、私が知ったことを隣人たちと共有するために文書と講演の形式で多くの発言をしてきた。それでもまだ私の持っている知識は浅薄で、しっかりとした発言ができなかったという生ぬるい感じを振り払うことができない。

福島の事故は、世界最高水準の技術先進国で起こったという点で、さらに衝撃が大きかったといえる。つまり、原子力というのは、軍事用でも、民需用でも、究極的には人間の制御能力を超える加工技術であることが明確に現われたのだ。もちろん、1979年の米国スリーマイル原発事故、特に1986年のソ連チェルノブイリの核爆発事故を通し、人類社会は、原子力がこれ以上容認してはならならない怪物であることを既に明らかに学習をした。しかし、軍事独裁体制を破り、どのように民主化を実現するかが最大の懸案であった当時の韓国社会では、原子力は、副次的な関心だけであった。

しかし、言うまでもないが、この間事情は全く変わった。大多数の市民が意識する前に、いつの間にかこの国は世界で屈指の原子力発電所の過密国家となった。それなら福島事態で、国土の半分近くを事実上喪失したと見られる日本の絶望的な状況は決して人ごとだとはいえない。それでも、驚くべきことは、私たちの社会に今、原子力の緊張した意識がほとんどないという事実である。私はこの現象の原因は一方的にマスコミの職務遺棄にあると思う。京郷新聞やハンギョレのような "進歩"のメディアさえ福島事故直後しばらくの間を除いては、東京特派員が送ってくる簡単な記事以外に、原子力に関する集中議論を見せてくれていない。

原子力の問題に関連して、一つ確実なのがことがあったら、それは世界のどこにおいても、政府と産業界、御用マスコミ、御用学者たちがいつも真実を絶えず歪曲して隠蔽するという点である。彼らは事故がおきる前には、原子力発電所の絶対安全性を断言し、実際に事故が起これば放射能というのは自然界にもあるものなのであまり心配する必要はないと平気で言う。福島事態でも、この "嘘の公式"は変わらず繰り返された。実際は、莫大なお金をかけてくだらない宣伝と嘘なくしては原子力発電は存立不可能なシステムである。安全性や経済性はもちろん、環境や倫理的な問題などいくつかの側面を見ても原子力発電システムを正当化することができる合理的な論拠というものは全く存在しないからである。

しかし、残念ながら、この偽りの天幕を歩いて、真実を掘り下げて執拗に暴くメディアがない。マスコミが言ってくれない以上、一般市民が真実に接することができる可能性は極めて低くならざるをえない。メディアのこのような職務遺棄は、おそらく原子力というテーマは、メディア消費者たちの視線を引き付けられないという判断かもしれないし、あるいは関係機関や業界からの隠密か、露骨な懐柔・圧力のためであるかもしれない。しかし、ひょっとするとそれよりもっと根源的な問題があるかもしれない。

福島の事態と関連して、私が最も気にして考えてきたことは、この途方もない惨事に責任を負うべき人々が多いのにどうして公開謝罪して罰を受けると言う個人や機関がないのかという事実である。事故直後に、武士の伝統を受け継いで多分切腹をする人が現れるかもしれないとすぐに考えたが、それは私の愚かな勘違いだった。現実は、私が予測したものとは正反対だった。代表的な例では、九十才を越えた中曽根康弘元首相であった。彼は1954年、国会で初めて原子力開発予算を立案・通過させた主役で、いわば日本の原子力産業の政治的大父であるわけだ。そのような人物が福島の事故については、 "残念しごく"と軽く言及し、今後も原子力が継続しなければならないという考えを披歴していた。これまで原子力業界の代弁者の役割をしてきた日本の主流メディアや御用学者たちもあまり変わらない。途方もない事態の前で概ね機会主義的な沈黙を守っているが、多くはむしろ、産業競争力という時代錯誤的な論理を取り出して、原子力の放棄ができないと述べている。

考えてみれば、 "原子力マフィアたち"による広範な人命障害や自然破壊は許せない犯罪やテロであることが明らかである。したがって、彼らは戦犯に準ずる責任を問われて、罰を受けなければなら当然だといえる。それでも彼ら自身が自ら謝罪をしていないのはもちろんだが、これらの責任を徹底的に問う言論もない、理解しにくい状況が続いている。日本だけの問題ではない。今一番不思議なのは、福島という破局的な災害を見ても、かえって、これを韓国が原子力発電所で飛躍する機会にしようという韓国政府と原子力関係者たちの精神構造である。これを単に非倫理的な態度だと非難することはできない。この精神構造は、今日、この社会に蔓延している精神的荒廃・貧困化の露骨的な表出にすぎないのか分からないからだ。福島の事態により、我々は、他者の運命への根源的な関心 - 想像力 - を欠如したときに、一つの社会がどの程度まで醜く獣のような社会に落ち込むことができるかはっきりと見ることができるようになった。

京郷新聞 2011年12月28日

参考までに:
金鐘哲氏講演録「原子力事故、次は韓国の番だ」ー3・11韓国における講演の紹介
http://www.oklos-che.com/2012/03/3.html
 

 

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