2012年3月19日月曜日

歴史とか、教育ってむつかしいですね?


先日、横浜国大の公開ワークショップに参加しました。「ポスト戦後世代の歴史教育」というタイトルです。これは「ポスト戦後世代」の話によって、教育の主体である教師(教育者)像と理念をどのように批判的にとらえ返すのかを問う場であるのか、興味尽きない集いでした。


1 横浜における教科書問題について
2011年8月4日 横浜市教育委員会定例会が開かれ、2011年度から4年間、横浜市立の全中学校と中等教育学校、149校で使う歴史と公民の教科書に「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版を採択しました。2012年度から育鵬社の教科書が県内170校で使用されます! どうしてこのようなことになったのか、これは中田前横浜市長の画策(教育委員長の任命)からはじまり、市議会での民主党の「躍進」という背景で実現したものです。全国において、一挙に横浜と同じ状況になるとは限りませんが、「横浜化」の流れは否定できないでしょう。

そうでなくとも従軍「慰安婦」の記述の削除がなされるなかで、これまでの歴史記述が「自虐的」だとして、愛国的な視点と、当時の時代状況の強調、国に貢献した人物評価をする「つくる会」系教科書が、橋下大阪市長の「君が代」の強制と歌わない教師への罰則強化の流れによって、南京事件はなかったという河村名古屋市長発言、それを評価する石原東京都知事の言動が国内においては全く批判を受けないという状況下では、全国的に影響力をもちはじめる可能性は大いにあるとみるべきでしょう。

横浜に何が起こったのかはブログで公にした以下のみっつの文書を読んでいただければわかります。

横浜市で何が起っているか?―自由社版「つくる会」教科書をめぐって―加藤千香子(2010/7/28)
http://www.oklos-che.com/2010/07/blog-post_28.html

小森陽一さんの講演内容についての疑問―前向きな問題提起として(2011/2/20)
http://www.oklos-che.com/2011/02/blog-post_4591.html

投稿:横浜市教科書採択を傍聴してー兵庫貴宏(2011/8/5)
http://www.oklos-che.com/2011/08/blog-post_05.html

2 現役学生の問題提起
結論的には、「つくる会」系の教科書を批判し、教育委員会とも粘り強く戦ってきた教師、元教師・市民それを支援してきた横浜国大の教師たちは、「負けました」。今回、横浜国大の公開ワークショップは、その闘争を担った当事者たちが集まり、上記の投稿をしてくれた現役4年生の兵庫君が発題し、それを歴史学の教師が「後から露払い」するかたちでコメントをし、参加者が各自自分の意見を言うという形で行われました。

私は横浜の教科書問題には関心をもっていましたが、本来、このようなシンポジュームに参加する資格があるのかどうかわからないのですが、どこにでも顔をだす好奇心の強さと、加藤千香子教授の案内があり参加させていただきました。参加者は横浜国大関係者5名、市民・教師が10名ほどでした。あっという間の3時間でした。

白熱した雰囲気の原因は、現役学生兵庫君の問題提起にあります。彼は物怖じすることなく、「つくる会」系の問題性の指摘と共に、それに反対してきた運動側も自分たち若者の気持ち、実感からは遊離している、反対側が唱える戦後民主主義とはなんであったのか、その主張は硬直していて、むしろ「つくる会」が新しく、運動側が「保守的」にさえ見える、もっと柔軟な戦術、やりかたがあったのではないか、こちらは正しいと決めつけるのでなく、「つくる会」より魅力ある(面白そうな)新しい戦術を考える機会にすべきだ、とやったのです。

彼の卒論の内容はあらかじめ聞いていたため、私は別に兵庫君の提起に驚いたわけではありません。彼は「朴君の定年退職を祝うシンポジューム」においても、差別を「在日」に固定化し日本の若者の不安な状況と結びつけることをしない民族主義的な硬直さを批判したのでした。
「「今改めて、日立闘争の私にとって意味を問う」、朴君の定年退職を祝う集い」(2012/1/17)
 http://www.oklos-che.com/2012/01/blog-post_07.html
この中に兵庫君の友人のMin君の既成組織、個人の中にある固定観念をメディア言説を通して分析し批判する優れた発表もあり、それらすべては収録されています。西川長夫さん、山内明美さんの発言、日立当該の朴鐘碩、それに私の発言もビデオでご覧いただけます。

3 教育と「強制」及び「自発性」ーある大学教員の失敗談
わたしにとって驚きは、彼の批判ではなく、横浜教科書問題闘争を担った人たちの、むしろ寛容な姿勢でした。大体私がこれまで出会ってきた運動体、組織、活動家はいかなる意味においても寛容ではなかったのです。自分を批判する者を遠退け、無視し、自分たちがやってきたことを延々と宣伝し組織の正当性を訴える人たちが大部分でした。これは右とか左ではなく、私は組織が陥る本質的な問題かとも思ったものです。

更に驚いたのは、兵庫君の「後からの露払い役」を自認するM先生でした。横浜国大の教育学科は伝統があり、神奈川において多くの教師を輩出している名門校です。その彼が1年生を相手に10年来の最大の失敗をしたと告白するのですが、5-6名の1年生に「東電と私」ということで原発問題と自分の関係について考えさせ、発表させようとしたところ、学生は一切、その「からみに応じなかった」というのです。「自分とは何の関係もない、接点がない」という発言に手を変え品を変えなんとか自発的に発表させようとしたが、「やっぱり関係がない」と寄り切られたそうです。

その中には「在日」や沖縄出身者や、被災者へのボランティア活動をしたことのある学生(いわゆる問題意識のある学生)であるはずだったのです。学生に対して、私は教師として独裁的に、家父長的に振る舞いますと断言し、退官のパーティではその恐ろしさに感謝をする学生が多かった現場を目撃した私には、理解できないやさしさでした。
「ようやく実現した、上野千鶴子さんの東大退官最終講義を聴いて」 
http://www.oklos-che.com/2011/07/blog-post_10.html

いくら正しいと思われる考え方であっても、それを「強いる」というあり方を問題にするのであれば学生が自発的に、自分で自覚的に考えることができるように待つという忍耐が問われるのでしょう。そのことは私は3人の子供の成長過程を見てよくわかります。私は本名だとか、差別と闘うことの意味を学生に教え込み、当事者である「在日」が学校にいるわずか数年の間で本名に変えたとか、民族意識を持つようになったとかという成果を誇る日本人教師とそれを目標にする団体を根本的に批判するようになっていました。

4 「在日」にとっての戦後民主教育
戦後の民主教育で育った私は「在日」のもっとも多い高校に通いながら、そのことをしっかりと受け留め自分の生き方として考えるということはまったくできないでいました。そもそも学校教育とか、教科書がそんなに絶対的なものか、むしろ権威や秩序やこの世の価値観を受容するようにさせるところではないのか、私にはこのような考えが払拭できないでいます。

「教師、教師ってえばるな教師、教師、生徒の成れの果て」こんなじゃれ歌を思い出します。いえいえ、ここに参加された方々はまったくそのようなタイプではありません。なにせ兵庫君の問題提起をしっかりと受け留めようとさえしているのですから、その寛容さに頭が下がるほどです。しかしどういう訳か、私は教育、教科書というくくり方の中で完結するような思考が嫌なのかも知れません。

また私は過日、H高校の教師からの依頼で5名ほど自宅でフィールドワークということで彼らが質問を準備した「在日」に対する話し合いの場を持ちました。当初2時間くらいを予想していたようですが、私は時間制限がないと事前に聞いていたため、徹底的に彼らと話し込みました。彼らの質問の意味、単語の意味、読んだ本、「在日」の実態、私は高校生と話をするというよりも一人の人間として一人ひとりと徹底的に話し合いました。彼らは逃げることなく、自分の考えを出し、最後に5時間にわたって話し合った内容を学校で発表するということでした。どういうできになっているのか、はやく読んでみたいものです。

これは朴鐘碩が横浜国大400名の学生の前で話したときのことと似ています。白けると思ったのが、当時20歳の彼がどうして闘うことができたのか、日立の実態はどのようなものか、真剣に耳を傾け、正面から受け留めようとしたことは彼らのリポートでわかりました。

これらの経験と、上記の「失敗談」とどこで重なるのでしょうか。おそらく重なるのでしょう。急がず、しかし当事者性、現場を直視することは教育の枠を越えて、どのように現代を、歴史を捉え生きていくのかという、誰もがもつ課題に直面するのですから、そこに教師と学生の違いが問題になるはずはないのです。

5 「つくる会」に対抗する教育理念とは何か
最後に、Mさんの発言に対して、はやり他大学で教える元中学教師から反論がありました。子供たちが「接点がない、関係がない」というのは、実は怖いからではないか。人生の価値観の基軸が根本から問われるという、いわば自分を否定するようなことになることを避けようとしたのではないか、自分も大学の教員になって今の自分のステイタスでは闘うどころか、発言しないと宣言するのが精一杯という発言がありました。

彼女は、「つくる会」系の教科書があまりに「いい加減」で、もっとまじめに勉強(研究)して作れという怒りから運動に関わりその思いに連なる人たちと一緒に運動をやってきたが、自分自身の中の変革とか集団の中での発見を蓄積できるような運動に至らなかったという反省点を述べていました。

もっと真面目に取り組めという怒りは、真理の探究につながるものの、それは日本における外国人の存在とどのように関わるのか、そこに優劣をつけて(二項対立的に)教科書問題闘争の理念を打ち出さざるをえなかったと述懐する彼女に、私はその課題はもっと徹底して話をしたいと思いました。あなたはそれでは、多文化共生をどのように思うのですか、それは「原発体制」を強化していくものですか、中から切り崩す質をもつものと考えていますか、私は時間の関係でその質問は封印しました。

会があっという間に終わり、二次会に向かうところで、彼女はある学会で私が多文化共生を批判したことを受け、川崎で「在日差別問題」に最も熱心に取り組んでいた教師のことを思い出し、私のその批判でその教師の変節の意味がよくわかるようになったと言ってました。

またもう一人のベテラン元中学の教師は、教え子の中に「在日」の子がいたが、自分は彼女への特別なアプローチは一切せず、ひたすら歴史の授業に打ち込んだところ、その子の母親から卒業のときに娘が先生の授業を本当に楽しみにしていました、と感謝されたというのです。その後、何年か経ってその子と指紋押捺闘争の集会で出会った、という話を伺いました。

酒が入った二次会はどこでも楽しいものです。横浜国大の教員の方々ともまた楽しいひと時を持ちました。いつもありがとうございます。

2 件のコメント:

  1. お久しぶりです。兵庫くん、ミンくんの友達の黒岩漠です。

    今回、兵庫くんが問題提起するということで、ぜひとも参加したいと考えておりましたが、当日長崎に滞在することになってしまって参加できませんでした。このようなかたちでまとめていただいてありがとうございます。当日の熱気が伝わってくるようです。

    大阪の「君が代」条例についてのニュースは、いつも僕を憂鬱にさせます。というのも、僕も高校時代、「君が代」斉唱を拒否した(正確には「歌えなかった」というべきですが)立場なので、そのときの記憶がふと蘇ってきて嫌な気分になるのです。そのようなこともあって、僕は卒論でその「君」たる天皇を対象とすることにしたのですが、僕の「天皇嫌い」を育んだのも、やはり「教育」でした。母からの反天皇「教育」でした。この「教育」は、教科書や黒板を使う類いのものではなかったですが、母の真剣な表情と強い語尾は確かに僕を「教育」しました。

    このような話をここでするのも、このワークショップについてのまとめを読みながら、僕の歴史教科書問題についての、ひいては「歴史」自体についての考えをあらためて整理しておきたいと思ったからです。そしてそれを誰かにきいて欲しかったからです。

    僕は、歴史の「教科書」自体の問題は、上で話したような僕の生理的な「天皇嫌い」のようなものや、あるいはまったく逆に「天皇信仰」のようなものを、一人ひとりの人間のなかに育むようなものではないのではないかという気がしています(もちろん、「天皇」は一例です。問題は「天皇」以外のあらゆるものにも当てはまります)。僕を「天皇嫌い」に「教育」したのは、教科書に並ぶ文字列ではなく、自分が大切に思っている人の表情や語感でした。それで僕は会ったこともなく、ろくに知りもしなかった天皇を「生理的に」まで嫌いになりました。それが僕に「君が代」を歌えなくさせました。もし兵庫君やミンくんを含めた僕が大切に思っている周りの人間が(あくまで「周りの」人間です)、全員が全員同じ政治的姿勢をとったとしたなら、僕は彼らとともに「われわれ」といえるように、その政治的姿勢を無批判に受け入れてしまうかもしれない。それが「右翼的」といえるようなものでも「左翼的」といえるようなものでも、あるいはそのような言葉では収まりきれないものであろうが、です。

    しかしながら、教科書の問題はどこかそれとは別のところに問題があるという気がしています。つまり、それは「認識の広がりの限界」とでもいえるようなものを教科書を基準として形作ってしまうところではないでしょうか。マイノリティと名乗り名指される人々の「歴史」であろうが、「慰安婦」の歴史であろうが、「知らない」で済ませられます。いや、「知らないで済む」のです。「認識の広がり」をある程度広げて都合の良いところでぶった切ってしまう。それでは「歴史」が「われわれ」の現在を異化するという役目を発揮できなくなってしまいます。それはどのような歴史教科書にもいえることです。それが「愛国的」なものであろうが、「良心的」なものであろうが。

    そもそも人の数だけ存在する、一人ひとりの無数な個人の思想を、そしてその人たちが作り上げる「われわれ」を、何かひとつの教科書で異化することなどできやしない。単一の教科書の内容を政治的に誰かが決定するというのでは、僕はだめだと思います。それは「つくる会」だろうがそれに対抗して教科書作成に励む組織であろうが、です。完璧な歴史も、完璧な歴史教科書も存在するわけがない。

    ならばどのように歴史を教育したらよいのか。僕は、基本的には歴史の授業自体なくてもよいと考えていますが、あえてするなら、教科書などではなく、様々な人が書いた歴史書を、歴史叙述を交えた考察を、できるだけ自由に読んでいくというのが良いのではないかと考えています。様々な政治的立場から、そして様々な生い立ちから、それぞれ一人ひとり異なった人間であり思想家・運動者である書き手が書いた歴史をそれぞれ自由に読んでいく。これ以上具体的にどうすればよいかは今の僕には話せませんが、とりあえずそういった形が、僕の納得のできるギリギリのラインの歴史授業です。

    タカシ・フジタニやキャロル・グラック、小熊英二らの本は鋭く日本列島に住む人々の「常識」を揺さぶります。あるいは網野善彦の本は中世を豊かに描き直し、阿部謹也の本は中世ヨーロッパを活き活きと描きます。多木浩二は「もの」のレベルから近代を説き起こし、市村弘正の本は難解ながらも我々の「精神」を深くえぐっていきます。そういったたくさんの異なる視点、異なる立場、異なる思想の人々が書いた歴史にできるだけ触れてみる、そんな歴史の授業が義務教育のレベルからできないものでしょうか。

    ここまでの話は、実は僕にとっては「秩序」についての問題でもありました。ある既存の「秩序」に対して誰かが異議を唱え、あたらしい「秩序」を提出する、場合によってはそれが古い「秩序」にとって代わる。でもそれもまた「秩序」であることには変わりありません。「秩序」が「秩序」である限り、そこには周縁が形作られ、外部が形作られ、何らかの排除に正当性が付与されます。

    それならば、僕は「秩序」にとって大事なことは新たな「秩序」を模索することよりも、その「秩序」が「混沌のキャパティシィ」をどこまで上げられるかではないか、そう思うんです。その「秩序」によって「混沌」として追いやられた物事や人々を、その「秩序」がどこまで内包できるか、それが「秩序」の問題に対しての僕の考えです。歴史教育に関してもそのような視点から考えています。

    長文失礼しました。このブログに触発され、吐き出したいものを押さえられませんでした。上の「君が代」と僕のことに関しては現在取り組んでいるゼミ論で真正面から取り組んでみることにしました。もし完成したら崔さんにも読んでいただけたら幸いです。

    最後に僭越ながら、僕の崔さんに対しての誤解について謝らせてください。実は、僕は何回か崔さんにお会いして、ブログを読ましていただくなどして、その主張の90%には賛同するものの、残りの10%には違和感を感じておりました。その10%とというのは、崔さんの崔さん自身に対する批判が足りないような、そんな気がしていたのです。僕は「学」というものは武器にもなり得ると考えています。その銃口を相手に向けて引き金を引けば人を殺してしまうこともある、そういうものだと考えています。ならばせめてそれに真摯さをもって向き合うためには、その銃口を常に自分自身にも向けていなければならない。自らを批判し、自らが親しく接する人々で構成された「われわれ」を批判しなければならない。そういう姿勢を持たなければならないと考えているのです。そのところで違和を感じおりました。

    しかしながら、そのような違和感は僕の早とちりだったようです。今回のブログを読んでそのように感じました。本当に失礼しました。

    兵庫くんにミンくん、その他大勢の仲間たち。僕は、僕を「教育」しようとするのではなく、それでいて「刺激」してくれる仲間に恵まれて幸せです。

    それでは、またいつかお話を聞かせてください。
    失礼します。

    黒岩漠

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  2. 黒岩獏君へ

    コメントありがとうございました。

    「僕の歴史教科書問題についての、ひいては「歴史」自体についての考えをあらためて整理しておきたいと思ったからです。そしてそれを誰かにきいて欲しかったからです。」

    私がブログで紹介した集会での兵庫君の発題の時、またMin君の1月のシンポでの発題の時に感じたに感じたのですが、黒岩君にもまったく同じものを感じるのです。それは何が正しいという見解をそのまま受け入れるのでなく、あらゆるものを自分自身で考え、納得できないものはその意見の持ち主の権威に拘らず、自分で納得できるものを見つけ出そうとする姿勢です。

    私が皆さんの年齢でそのような態度、生きる姿勢を持っていたのかと考えるととてもみなさんにはかなわないと思います。私は、「在日朝鮮人とは何か」「自分は「在日」としてどう生きればいいのか」ただこのことに集中して
    取り組んでいました。2年浪人、2年留年そして結婚、1年の韓国での語学の勉強、そしてそのまま大学院へと随分と寄り道をしました。今もその延長にいます。

    黒岩君も兵庫君もお母さんの影響は大きいですね。しかしそれを相対化の根にしながら、しっかりといろんな本を読み、自分で考え、右であれ、左であれ、いろんな考え方を知りながら自分自身のものを模索する、がんばってください、素晴らしいと思います。

    いい友達に恵まれましたね。そしてよき師にも。近く兵庫君とMin君に会いますが、黒岩君とも是非会っていろいろと意見・情報交換をしたいですね。お会いできるのを楽しみしています。この春からは大学院に進むのですか。期待しています。学部の卒業論文も読ませてください。

    私への10%の「違和感」、払拭したとのこと、よかったですね、ほっとしました(笑)。ますますの活躍を祈ります。崔 勝久

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