tag:blogger.com,1999:blog-5015581198086067428.post1839726040345193786..comments2024-03-28T21:45:34.924+09:00Comments on OCHLOS(オクロス): 歴史とか、教育ってむつかしいですね?オクロスhttp://www.blogger.com/profile/11477650869853386684noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-5015581198086067428.post-27817950212264147222012-03-27T10:44:24.538+09:002012-03-27T10:44:24.538+09:00黒岩獏君へ
コメントありがとうございました。
「僕の歴史教科書問題についての、ひいては「歴史」自...黒岩獏君へ<br /><br />コメントありがとうございました。<br /><br />「僕の歴史教科書問題についての、ひいては「歴史」自体についての考えをあらためて整理しておきたいと思ったからです。そしてそれを誰かにきいて欲しかったからです。」<br /><br />私がブログで紹介した集会での兵庫君の発題の時、またMin君の1月のシンポでの発題の時に感じたに感じたのですが、黒岩君にもまったく同じものを感じるのです。それは何が正しいという見解をそのまま受け入れるのでなく、あらゆるものを自分自身で考え、納得できないものはその意見の持ち主の権威に拘らず、自分で納得できるものを見つけ出そうとする姿勢です。<br /><br />私が皆さんの年齢でそのような態度、生きる姿勢を持っていたのかと考えるととてもみなさんにはかなわないと思います。私は、「在日朝鮮人とは何か」「自分は「在日」としてどう生きればいいのか」ただこのことに集中して<br />取り組んでいました。2年浪人、2年留年そして結婚、1年の韓国での語学の勉強、そしてそのまま大学院へと随分と寄り道をしました。今もその延長にいます。<br /><br />黒岩君も兵庫君もお母さんの影響は大きいですね。しかしそれを相対化の根にしながら、しっかりといろんな本を読み、自分で考え、右であれ、左であれ、いろんな考え方を知りながら自分自身のものを模索する、がんばってください、素晴らしいと思います。<br /><br />いい友達に恵まれましたね。そしてよき師にも。近く兵庫君とMin君に会いますが、黒岩君とも是非会っていろいろと意見・情報交換をしたいですね。お会いできるのを楽しみしています。この春からは大学院に進むのですか。期待しています。学部の卒業論文も読ませてください。<br /><br />私への10%の「違和感」、払拭したとのこと、よかったですね、ほっとしました(笑)。ますますの活躍を祈ります。崔 勝久崔 勝久noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5015581198086067428.post-89321328972043549832012-03-27T02:09:07.862+09:002012-03-27T02:09:07.862+09:00お久しぶりです。兵庫くん、ミンくんの友達の黒岩漠です。
今回、兵庫くんが問題提起するということで、...お久しぶりです。兵庫くん、ミンくんの友達の黒岩漠です。<br /><br />今回、兵庫くんが問題提起するということで、ぜひとも参加したいと考えておりましたが、当日長崎に滞在することになってしまって参加できませんでした。このようなかたちでまとめていただいてありがとうございます。当日の熱気が伝わってくるようです。<br /><br />大阪の「君が代」条例についてのニュースは、いつも僕を憂鬱にさせます。というのも、僕も高校時代、「君が代」斉唱を拒否した(正確には「歌えなかった」というべきですが)立場なので、そのときの記憶がふと蘇ってきて嫌な気分になるのです。そのようなこともあって、僕は卒論でその「君」たる天皇を対象とすることにしたのですが、僕の「天皇嫌い」を育んだのも、やはり「教育」でした。母からの反天皇「教育」でした。この「教育」は、教科書や黒板を使う類いのものではなかったですが、母の真剣な表情と強い語尾は確かに僕を「教育」しました。<br /><br />このような話をここでするのも、このワークショップについてのまとめを読みながら、僕の歴史教科書問題についての、ひいては「歴史」自体についての考えをあらためて整理しておきたいと思ったからです。そしてそれを誰かにきいて欲しかったからです。<br /><br />僕は、歴史の「教科書」自体の問題は、上で話したような僕の生理的な「天皇嫌い」のようなものや、あるいはまったく逆に「天皇信仰」のようなものを、一人ひとりの人間のなかに育むようなものではないのではないかという気がしています(もちろん、「天皇」は一例です。問題は「天皇」以外のあらゆるものにも当てはまります)。僕を「天皇嫌い」に「教育」したのは、教科書に並ぶ文字列ではなく、自分が大切に思っている人の表情や語感でした。それで僕は会ったこともなく、ろくに知りもしなかった天皇を「生理的に」まで嫌いになりました。それが僕に「君が代」を歌えなくさせました。もし兵庫君やミンくんを含めた僕が大切に思っている周りの人間が(あくまで「周りの」人間です)、全員が全員同じ政治的姿勢をとったとしたなら、僕は彼らとともに「われわれ」といえるように、その政治的姿勢を無批判に受け入れてしまうかもしれない。それが「右翼的」といえるようなものでも「左翼的」といえるようなものでも、あるいはそのような言葉では収まりきれないものであろうが、です。<br /><br />しかしながら、教科書の問題はどこかそれとは別のところに問題があるという気がしています。つまり、それは「認識の広がりの限界」とでもいえるようなものを教科書を基準として形作ってしまうところではないでしょうか。マイノリティと名乗り名指される人々の「歴史」であろうが、「慰安婦」の歴史であろうが、「知らない」で済ませられます。いや、「知らないで済む」のです。「認識の広がり」をある程度広げて都合の良いところでぶった切ってしまう。それでは「歴史」が「われわれ」の現在を異化するという役目を発揮できなくなってしまいます。それはどのような歴史教科書にもいえることです。それが「愛国的」なものであろうが、「良心的」なものであろうが。<br /><br />そもそも人の数だけ存在する、一人ひとりの無数な個人の思想を、そしてその人たちが作り上げる「われわれ」を、何かひとつの教科書で異化することなどできやしない。単一の教科書の内容を政治的に誰かが決定するというのでは、僕はだめだと思います。それは「つくる会」だろうがそれに対抗して教科書作成に励む組織であろうが、です。完璧な歴史も、完璧な歴史教科書も存在するわけがない。<br /><br />ならばどのように歴史を教育したらよいのか。僕は、基本的には歴史の授業自体なくてもよいと考えていますが、あえてするなら、教科書などではなく、様々な人が書いた歴史書を、歴史叙述を交えた考察を、できるだけ自由に読んでいくというのが良いのではないかと考えています。様々な政治的立場から、そして様々な生い立ちから、それぞれ一人ひとり異なった人間であり思想家・運動者である書き手が書いた歴史をそれぞれ自由に読んでいく。これ以上具体的にどうすればよいかは今の僕には話せませんが、とりあえずそういった形が、僕の納得のできるギリギリのラインの歴史授業です。<br /><br />タカシ・フジタニやキャロル・グラック、小熊英二らの本は鋭く日本列島に住む人々の「常識」を揺さぶります。あるいは網野善彦の本は中世を豊かに描き直し、阿部謹也の本は中世ヨーロッパを活き活きと描きます。多木浩二は「もの」のレベルから近代を説き起こし、市村弘正の本は難解ながらも我々の「精神」を深くえぐっていきます。そういったたくさんの異なる視点、異なる立場、異なる思想の人々が書いた歴史にできるだけ触れてみる、そんな歴史の授業が義務教育のレベルからできないものでしょうか。<br /><br />ここまでの話は、実は僕にとっては「秩序」についての問題でもありました。ある既存の「秩序」に対して誰かが異議を唱え、あたらしい「秩序」を提出する、場合によってはそれが古い「秩序」にとって代わる。でもそれもまた「秩序」であることには変わりありません。「秩序」が「秩序」である限り、そこには周縁が形作られ、外部が形作られ、何らかの排除に正当性が付与されます。<br /><br />それならば、僕は「秩序」にとって大事なことは新たな「秩序」を模索することよりも、その「秩序」が「混沌のキャパティシィ」をどこまで上げられるかではないか、そう思うんです。その「秩序」によって「混沌」として追いやられた物事や人々を、その「秩序」がどこまで内包できるか、それが「秩序」の問題に対しての僕の考えです。歴史教育に関してもそのような視点から考えています。<br /><br />長文失礼しました。このブログに触発され、吐き出したいものを押さえられませんでした。上の「君が代」と僕のことに関しては現在取り組んでいるゼミ論で真正面から取り組んでみることにしました。もし完成したら崔さんにも読んでいただけたら幸いです。<br /><br />最後に僭越ながら、僕の崔さんに対しての誤解について謝らせてください。実は、僕は何回か崔さんにお会いして、ブログを読ましていただくなどして、その主張の90%には賛同するものの、残りの10%には違和感を感じておりました。その10%とというのは、崔さんの崔さん自身に対する批判が足りないような、そんな気がしていたのです。僕は「学」というものは武器にもなり得ると考えています。その銃口を相手に向けて引き金を引けば人を殺してしまうこともある、そういうものだと考えています。ならばせめてそれに真摯さをもって向き合うためには、その銃口を常に自分自身にも向けていなければならない。自らを批判し、自らが親しく接する人々で構成された「われわれ」を批判しなければならない。そういう姿勢を持たなければならないと考えているのです。そのところで違和を感じおりました。<br /><br />しかしながら、そのような違和感は僕の早とちりだったようです。今回のブログを読んでそのように感じました。本当に失礼しました。<br /><br />兵庫くんにミンくん、その他大勢の仲間たち。僕は、僕を「教育」しようとするのではなく、それでいて「刺激」してくれる仲間に恵まれて幸せです。<br /><br />それでは、またいつかお話を聞かせてください。<br />失礼します。<br /><br />黒岩漠黒岩漠noreply@blogger.com