2011年10月2日日曜日

天皇制と東日本大震災復興・原発問題への声明

荒井克浩さんより、同委員会でだした声明文の情報が寄せられました。日本の新聞では東日本震災と天皇制の問題とを関連性について書かれることはありませんが、日本キリスト教協議会(NCC)の靖国神社問題委員会で発表された声明文には東日本の大震災による復興の背後に、天皇制の影を読取り、それが「憲法改定」につながり、「復興を疎外」し、「民主主義国家崩壊」への向かうことに警告を発しています。転載いたしますので、一読ください。


天皇制と東日本大震災復興・原発問題への声明

 戦後の日本国憲法は、天皇主権のもとに日本が起こした戦争を深く反省し、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を掲げて制定された。そして第1章の天皇条項では、天皇の存在や行為を憲法で厳密に規定している。しかし「象徴」という言葉を緩やかに解釈し、天皇の元首化を目論む勢力が台頭してきているのが現実である。天皇のいわゆる「巡幸」や皇族の「巡啓」は、戦中期を除く明治初期から現代まで、形態を変えながらも一貫して天皇制に不可欠な視覚的支配の中核であった。しかしこの天皇の行為は憲法に定められた国事行為(7条)ではなく、憲法違反である。

 3・11という大災害における被災地での自衛隊活動の必要以上の露出、保守派勢力を中心とする原発推進、そして天皇の自衛隊機による被災地訪問、皇族の訪問は、この国の復興においての、天皇の戦争責任を回避してきた勢力によっての、天皇制の視覚的支配の目論みである。今回の天皇・皇族の被災地訪問も、高橋哲哉氏の言うあの靖国の「感情の錬金術」の論理が働いているといえる。つまり、国策の犠牲者である戦死者が靖国の英霊(神)とされ、天皇が靖国神社を参拝すると、それを見た家族は感慨にふけり、悲しくて死にたいくらいの気持ちが喜びに変わってしまう、という“魔法”である。英霊顕彰のトリックである。そのような天皇の行為、天皇を用いる動きは、問題の本質を覆い隠す。つまりその背後の政治家、財界人、政府の復興政策・原発政策の過ち・責任を覆い隠すのである。

 また現在、原発で被曝しつつ作業をしている労働者たちを、「決死隊だ」「皆で称えよう」と“顕彰”することも、天皇のために喜んで死に行く者たちをほめ称える「靖国」の顕彰の論理と共通している。その背後で、真に責任を持たねばならぬ人間の姿が見えなくなっていくのだ。このような、復興にあたっての天皇制国家主義の台頭が、もうじき来るであろう、民主主義・非戦平和をますます危うくする天皇の代替わり儀式=即位・大嘗祭(天皇が神となる儀式)の盛り上げにつながらないように十分に注意したい。戦前からの天皇制国家主義的な流れが、靖国思想を底流にして出来つつある復興は、真実な復興とはいえない。

 破壊された大地には、これまで以上の真の民主主義が生まれ出でるべきである。国・天皇のための復興ではなく、市民一人ひとりの人権と生存権を護る、平和憲法を厳格に護ることを基盤とした復興がなされるべきである。しかし今、国会では、この大震災を利用して「非常事態条項」を憲法に加えるという名目で、「憲法改定」への動きが顕著になって来ている。「新憲法制定議員同盟」や、96条改憲発議要件の緩和をめざす議連などによるものである。5月18日には「参議院憲法審査会規定」が強行可決された。これで両院に「規定」が成立、「法的に改憲案の審議が可能」という危機的政治段階に入った。「非常事態条項」は必要ない。憲法前文は「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と明記、25条・26条・27条と国民の生きる権利を保障しているからである。日本の深部に根づく天皇・天皇制に端を発する流れが、平和憲法に基づき一人ひとりの命を大切にする復興を大きく阻害し、混迷をさらに深め、民主主義国家崩壊へと向かわせていることに警告を発する。

2011年9月27日

                 日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員会

                               委員長 辻子 実

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