2011年10月6日木曜日

企業内、国内「新植民地主義」の考察ー朴碩碩

The greatest ability in business is to get along with others and influence their actions.
A chip on the shoulder is too heavy a piece of baggage to carry through life. John Hancock
(ビジネスにおける最もすばらしい能力とは、ほかの人と上手につきあい、彼らの行動に影響を与えることだ。けんか腰の態度は、一生持ち歩くには重すぎるお荷物だ)

約230年前、米国独立戦争の時代。18世紀に生きた貿易商人John Hancockの言葉のように、4年近い「日立闘争」を経て、私は日立製作所の職場に入った。言いたいことも我慢し、「ほかの人と上手につきあい」ながら「彼らの行動に影響を与え」たいと願った。しかし、私は退職するまで「けんか腰の態度」で会社、組合の問題点、矛盾を批判してきたかも知れない。「けんか」してきた日立製作所で働き、悩み、失敗し、生き方を求めた。「けんか腰の態度」で閉鎖的な企業社会の壁を批判した私は、「一生持ち歩くには重すぎるお荷物だ」と思わない。

逆に、19世紀後半の英国批評家、John Churton Collinsは、「Always mistrust a subordinate who never finds fault with his superior.」(上司を一言も非難しないような部下は、決して信用してはいけない)と書いている。しかし、経営者幹部、直属の上司、組合幹部を批判することは勇気と生き方の決断が必要である。どのような組織であろうと、たとえ一人になってもその中で人間性を求める課題は続くだろう。19歳で訴訟起こした「朴君」は、いつの間にか40年が過ぎて60歳を迎える。「続日立闘争」から多くを学び、今年11月定年退職する。

今年2011年度の日立製作所労働組合は、42回定期大会で「次なる100年への挑戦」をスロ-ガンにして、
「1.ゆとりある豊かな生活の実現をめざして
2.安心と働き甲斐ある職場の実現をめざして
3.人に優しい社会の実現をめざして
4.組織強化発展をめざして」運動する方針となっている。

「規約・規程の改正、組織強化基金の支出、2011年度予算、表彰者」などの議案は、組合員の意思を無視して決定し、結論になっている。6月に実施された選挙で各職場から選ばれた代議員を召集して議案は可決する。組合活動に関心すらない、興味もない代議員、評議員は、予め定員人数分が指名され、「拒否しない、できない」組合員が選ばれる。対立候補もいないため「選挙」投票する必要はない。そのまま「信任」となって決まる。定期大会に向けて組合員が集まって議案について討議することはない。「選ばれた」代議員に所信を求めても沈黙している。代議員は、議案内容を理解していなくても出席すればいい。大会で自らの意思で質問、要望、批判的な意見を出すことはない。(会社側と協議した)組合の議案は、「満場一致」で可決する。組合幹部による組合組織の私物化である。

組合(幹部)は、組合員・労働者にものを言わせない。人災事故を起こした福島第一原発4号機は、日立製作所が設計した。原発事故の問題は、(気になるようだが)職場で全く話題にならない。無関心なのか、日立労組は、議案として取り上げず沈黙している。「日立製作所労働組合」のホ-ムペ-ジをGoogleで検索しても、基本的な組合の情報、議案、運動方針すら掲載していない。

私は、職場の会議で後輩である評議員に「組合幹部に何回もmailで質問しているが回答がない。何故無視しているのか。」としつこくフォロ-すると、上司は「ここは組合ではない。あまりしつこくすると私も考えなければならない」と評議員である部下の沈黙を擁護、援護する。そして私の発言を抑えにかかる。上司は、何を考えるのだろうか。「パクさんは、いつも同じことばかり言っている。文句があるなら組合に言えばいいではないか」と反発する後輩もいる。「労働条件を決めているのは労使幹部である。組合は組合員の声を聞こうとしない。質問しても無視している。風通しの良い明るい職場を作るには、互いに何でも言い合える、おかしいことはおかしいと言ったほうが良い」と発言すると周囲は沈黙する。まともな話し合い、議論もできない、させない。「他に無ければ終わります」と上司の発言で会議を閉じる。後輩組合員たちは、何事もなかったかのように自席に戻り、黙ってPC画面とにらめっこする。

周囲の冷たい視線を無視して、それでも言い続けなければならない。「日立労組として今回の原発事故をどのように考えるか見解をください」、と労組幹部、職場組合員にmailを送ったが返事はない。職場の会議で、「日立は原発開発でどれだけの収益割合があるのか。今回の事故で今後の経営方針はどうなるのか。福島原発4号機の対応は、どのような人たちが対応しているか」と上司に問うと「そういうことはわかりません。自分でいろんな資料を調べてください」という冷たい返事だった。

組合は、組合員に意見を求める職場集会をなくした。しかし、「HITACHI UNION NOW職場討議資料」を組合員に配布している。原発事故については、一切触れていない。書いてない。(内心気になっていても)組合員が職場で原発問題を語ることはない。無関心。それ以前に日立のような企業で働くエンジニアたちは、「企業内植民地」で生きているため、日頃から会社・組合幹部に「おかしいことはおかしいとものを言う」、基本的に人間らしく生きる姿勢が失われているのではないか。そのような生き方をせざるを得ないのか。企業社会は自由にものが言えるような開かれた職場環境ではないことは確かだ。

安全神話が崩壊した、効率を最優先させた原発事故によって、人体、農・海産物、家畜、土壌の放射能汚染、日常生活が奪われ、避難せざる得ない住民への補償問題など多くの矛盾、課題が露出した。時間の経過と共に被害地域は拡大している。
「労働組合の連合は、去年(2010年)8月にまとめた見解で、原子力発電所について、安全の確保と地域住民の理解を前提に建設計画を着実に進めるべきだ」としていたが、「民主党最大の支持母体である連合は5月26日、都内で中央執行委員会を開き、東京電力福島第1原発事故を受け、従来の原発推進政策を凍結することを正式に決めた。古賀伸明会長は記者会見で「連合の原子力エネルギ-政策を凍結する。その先の政策については原発事故を検証してから検討することになる」と改めて言及した。」 ここで疑問を感じるのは、連合幹部は、どのような方法で安全神話が崩壊した「原発事故を検証」し、何を「検討する」のだろうか。

ところが、連合傘下の東京電力、東芝、日立の各個別労働組合の「凍結」宣言はない。日立は、6月3日労使幹部で「2011年上期 中央経営審議会」を開いた。労組の「事態は長期化の様相をみせている・・どうやって従業員を守っていくのか、放射線管理等の問題」に触れ、会社側は「放射線管理は、突発事故が過大に報道されているが、実際は非常に行き届いた管理と作業になっている」と回答しているが、真実だろうか。原発に替わるエネルギ-政策は、世界的な課題である。

日立製作所の「今後のエネルギ-政策」は、「原子力発電所の絶対安全神話はもうない」と言いながら、「タイ、インドネシア、ベトナム、リトアニア等が原子力発電に対して前向きに考えている。・・マネジメントできる原子力発電を提供するというのが、我々メ-カの責務であると深く認識している」と改めて原発の経営方針を打ち出している。組合幹部は、「福島の事故が早期収拾することを願い、前向きな姿勢でとり組んで生きたい」とコメントしている。日立製作所の経営者幹部は、今後もアジアを中心に「安全保障」のない原発を開発し輸出する方向である。「次なる100年への挑戦」でもある。組合(員)も、黙ってそれに追随するだろう。朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業した日立製作所は、国策に沿った植民地的経営で莫大な利益を得た。

「日立は、安全・安心・快適でクリ-ンなスマ-トシティを実現する街づくりにおいて、エネルギ-、ビル・住宅、交通、水環境等、広範な事業領域で製品・システム・サ-ビスを提供しており、全体を1社でインテグレ-ションする土壌を持っている」(HITACHI UNION NOW No.1005 2011.8.10)が、労使双方とも原発事故で生活基盤を奪われ犠牲となった地域住民より、会社組織、従業員の生活を優先している。

「1.ゆとりある豊かな生活の実現をめざして2.安心と働き甲斐ある職場の実現をめざして3.人に優しい社会の実現をめざして」いる日立製作所労働組合は、原発事故で避難生活を強要された地域住民の人権、生活には触れない。経営者、組合幹部は、自分たちが開発した原発が事故を起こし、避難に追い込まれ自らの生活を奪われたらどうするか。娘、息子、子どもたちが被曝したらどうするか。

会社と組合の労使協調という「共生」の下で、効率を優先させた技術開発、エンジニア、労働者に沈黙を強要する抑圧的な職場環境、企業文化、組織のあり方と「想定外」の原発事故は深く繋がっているのではないか。原子炉格納容器はメルトダウンを起こした可能性がある。時間の経過とともに土壌の汚染地域も拡大するばかりだ。事故処理の対応を見ると、「想定外」を考慮しなかった、人間が作った最先端技術による「安全」設計ミスは、もはや人間の力では対策が不可能かも知れない。40年前に造られた原発のメンテナンス部品があるか。当時、原発を設計したエンジニアがいるか。連合が支える民主党政権閣僚、官僚、東京電力、東芝、日立の経営者幹部が何を言おうと原発を設計したkey playerが不可欠であると思われる。私は、日立製作所でコンピュ-タ・ソフトウェアシステムを開発した一人として、プログラム同様、いくらドキュメントに設計思想を書き残してもエンジニア当事者しか解らない部分(Know How)があると思われる。仮にkey playerがいても安全は保障できないだろう。原発事故は収束に向かっているのか。時間の経過と共に被害は拡大し事態は深刻になるばかりだ。

東日本大震災、黒い壁・津波、原発事故の大打撃を受け、早急な復興・復旧を望む。しかしこのような人災、自然災害から住民は何を学ぶのか、問われている。敗戦から66年になる。戦争責任は問われることなく、天皇制は依然として日本社会、国民国家と根強く、奥深く根付いている。天皇制の下で軍部中枢の戦争推進者は、多くの貧しい日本人、労働者を騙し犠牲に追い込んだ。同時に朝鮮半島、中国大陸はじめアジア・太平洋に侵略された人たちも犠牲となった。戦争は、侵略する側、される側に膨大な犠牲者を出した。それは未だに解決、清算されない、取り返しのつかない禍根を残した。3・11以降、しきりに戦争に利用された国旗・国歌が台頭している。日の丸・君が代強制は、学校教育の現場ばかりでなく、企業社会では日常化している。戦争から半世紀以上経過したが、労働者の権利を求める組合(幹部)、組合員がこれに異議を唱えることはない。気仙沼に行った時、被災住民を激励する「がんばろう!日本」「絆」などの寄せ書きされた、ナショナリズムを煽る日の丸が目立った。気仙沼で「日本がアメリカに勝った」ことを知らされた。FIFAチャンピオンシップスの「なでしこJapan」の優勝は、さらに拍車をかけた。

「がんばろう!日本」「絆」が叫ばれる中、私が住む横浜市の教育委員会は、教師はじめ多くの市民、住民から「歴史を捏造・歪曲する」と厳しい批判を浴びた「新しい歴史教科書をつくる会」主導の育鵬社発行の公民・歴史教科書が8月4日採択された。2012年から市内の全中学校で使用する。戸塚区は、日立製作所はじめ関連会社、社宅、寮があり企業城下町である。小、中学生を持つ日立(関連)企業で働く労働者の子弟教育にも影響する。職場に来たことがある前中田宏市長は、教育委員の選定はじめとして教科書採択を目論んでいたようだ。

民主党政権を支える日立(関連)労組から市会議員を出している。この議員はじめ組合幹部に横浜市教科書採択について見解を求めたが回答は無い。政権が交代してもナショナリズム強化路線、政策は変わらない。橋本徹大阪府知事の教師たちへの日の丸・君が代の強制、条例化に続き3・11前よりも右傾化の波は強くなっている。ちなみに外国籍の教員は正式教員でなく非常勤として扱われ、管理職にはなれないという差別制度がある。日本は、再び間違った道を歩んでいる。

3・11の津波・黒い壁、原発事故の犠牲者は、(戦争がもたらした犠牲者同様)日本人ばかりではなく、東北の港近くの水産加工場で働いていた中国、ベトナム、インドネシアなどからの研修名目の(低賃金)労働者、戦前の植民地支配によって日本に居住せざる得なくなった朝鮮人などの外国籍住民も含まれる。街は黒い壁に流され、(外国籍)住民の日常生活は破壊され消えた。瓦礫と異臭が残った。「戦後の様相」である。安全と言われ続けてきた原発推進に労働者組合組織・連合も加担し、労働者の植民地化を続けている。しかし、今、連合傘下の個別組合幹部は、戦争責任同様、原発推進の責任を回避し沈黙している。

戦後の労働・組合運動は、戦争責任を問うことは無かった。外国籍住民(労働者)の人権は考慮されることなかった。植民地出身の朝鮮人は、「人権」の枠から除外された。差別されても仕方ないと泣き寝入りするしかなかった。戦後生まれた韓国人青年の就職差別がその典型であったかも知れない。日立就職差別裁判闘争が始まったのは、戦後25年経過してからである。

日立就職差別裁判闘争は、朝鮮人が密集する川崎南部地区での地域運動に繋がった。その裁判勝利は、市当局の外国籍住民の人権施策、市職員労働組合運動にネガティブな側面だけでなく、少なからずポジティブな影響も与えた。その後「共生・人権」をスロ-ガンにしている阿部孝夫川崎市長は、戦争を前提に「外国人は準会員」と差別発言し、未だに謝罪・撤回していない。
また、内閣法制局の見解にすぎない、法律ではない、「当然の法理」を理由に採用した外国籍公務員に許認可の職務、決裁権ある管理職に就かせないという、差別待遇を禁じた労基法に違反する、「外国籍職員の任用に関する運用規程」を作った(1997年)。
サブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっている。これを見た日本籍の職員は「日本人にいきいき人事はないのか」と反発するだろう。つまり、(日本籍・外国籍)公務員に「いきいき人事」はない、ということかも知れない。

外国籍職員に制限していた職務は、当初182だったが、地元運動体の「制限は時期がくれば解除される」という楽観論から程遠く10年後の2007年、制限職務は、192に増えた。
こうした「運用規程」を作らなかったものの、東北の被災地である自治体、米軍基地、反戦運動が盛んな沖縄、私が住んでいる横浜市など全ての自治体は、この川崎方式を採用している。国籍による差別は違法であるという「日立就職差別裁判」判決から40年近くなるが、民間企業の就職差別を解消し、監督・指導すべき行政自ら、外国籍住民を「準会員、2級市民」扱いする差別制度を作っている。しかし、この差別制度は、各自治体首長の裁量で撤廃できることが、10年以上に及ぶ市当局との交渉で判明した。

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」が作成した「国籍条項完全撤廃」関連資料集を読んだ沖縄の知花昌一さんは、「立派な資料ですね。よくできましたね。沖縄は基地問題、反戦運動は盛んだが人権意識が低いことは、この資料を読んで分かりました。朝鮮人というか外国人の人権に関心がない」と、10年近く前に京都大学で開かれた集会後の懇親会で語っていた。

ここで問題になるのは、基地問題を抱え反戦、平和を訴える沖縄の自治体、教育労働者および労組は、「当然の法理」が見えないということだろう。外国人というか朝鮮人が見えないということなのか。敗戦から66年、植民地から100年が過ぎて戦争責任を問わない連合はじめ反戦平和、労働組合、人権運動は、排外主義を前提にしているのではないかと私は理解する。知花さんが語った沖縄の状況は、今も変わっていないだろう。

気仙沼を再訪した時、孤立した被災住民から米海兵隊の「ともだち作戦」によって食料、水、艦上での入浴の支援を受けた話を伺った。被災住民にとってこの米軍は、感謝すべき軍隊であろう。一方でBBQに参加した、沖縄で育ったボランティア女性たちのことを考えた。本土の犠牲となった、なっている沖縄(住民)にとって米軍(基地)は、何を意味するのか。長野から自動車でボランティアに来た男性は、「そういう難しい問題があることに気付かなかった」と考え込みながら語っていた。物事は、一面だけを見て判断すると誤った方向に進むことが多い。立命館大学西川長夫名誉教授が書いている、日本の「戦後とは植民地である」ことを思い出した。

2009年に出版された「軍艦島」(韓水山・作品社)は、長崎・軍艦島に強制連行された朝鮮人、中国人労務者の強制労働をテ-マにした本である。著者は、「韓日国交正常化反対のデモに加わった。軍事政権下で作品をめぐり拷問も受けた」原爆は「人間がつくり出したものの中で最も醜悪と言い切る」(朝日2010年8月7日) 原爆投下された長崎で犠牲となった日本人の遺体を運び、救助する朝鮮人がいても、朝鮮人を救おうとする日本人はいなかったようだ。日本人犠牲者に与える「握り飯」はあっても朝鮮人に与えられることはなく、また朝鮮人の遺体はそのまま放置された描写がある。朝鮮が日本の植民地化された当時の状況下で、この現実は否定できないだろう。

東京人権啓発企業連絡会(東京に本社を置く124社の企業集団)に加盟する明治安田生命の保険勧誘の女性が職場で5月連休前にチラシ(2010年4月23日)配布していた。そこには、「観光客は市予想の3倍 軍艦島、上陸解禁1年」「市によると、予想していた年間2万5千人の3倍に当たる約7万5千人が観光に訪れ、長崎県内への経済波及効果は推計17億8千万円に上ったという。軍艦島は全周1.2キロ。かつて炭鉱で栄え、最盛期には約5千人が住んでいた。国内最古とされる鉄筋高層集合住宅の跡が今も残る」と書かれていた。

今回の震災は、世界各国から支援が寄せられ、韓国からも支援・救援の連帯メッセージが被災地に寄せられた。地域で人命救助の消防隊員の活躍が目立ち、犠牲となった隊員も少なくない。日本の自治体は、川崎市の「運用規程」で明記しているが、国籍を理由に外国籍公務員に職務を制限している。人命救助に国籍は関係ないはずなのに、外国籍住民は消防士に就けないことも明記している。しかし、日本政府は、人命救助、災害援助に世界各国から支援を受け入れている。国籍関係なく外国籍住民も人命救助、支援活動し、被災地域の一日も早い復興を願っている。これを見て、戦後続いた排外主義、外国籍公務員を排除してきた「当然の法理」は、既に破綻しているのではないかと思う。

●「パリ五月革命 私論 転換点としての68年」(西川長夫 平凡社新書 2011年7月15日)
パリ五月「革命」は、60年代末の日本、欧米はじめ世界の学生(運動)に影響を与えた。1968年、パリ郊外のパリ大学ナンテ-ル分校の学生たちの「勉学条件の改善問題」が発端である。パリ五月「革命」を導いた青年、学生たちの(半年の)闘いの歴史である。

「はじめに」「40年を経て68年を論じることは、私たちが住むに日本社会の大きな変化と落差に照明を当てることになるだろう。」「自分の中に生き続けている68年について書くことになると思うが、反社会的な言辞として追放されないことを願うのみである。」と書かれており、著者の新たな決意を感じる。私がこれまでに読んだ西川長夫教授の著書の文体と違っている。また後輩たち、とりわけ厳しい就職活動の中で生き方に悩む若者、学生たちへの熱いメッセ-ジとして私は解釈し、その意気込みを思う。

著者は、「フランスの給費留学生としてパリの大学都市に住み、・・パリのいわゆる五月革命のほぼその発端から終焉に至るまでを、そのただ中で見届け」「デモや集会に出かけて行き、ビラや新聞を読み、事情に詳しい友人の話を聴き、眼前に起こっている事態をなんとか理解しようと懸命であった。」膨大な資料、49枚に及ぶ現場写真の解説から、その光景が迫ってくる。

「アルジェリア人の部落を見たとき、・・それは文字道通り「ゲット-」という語感にぴったりした一画であった。小さな-本当に小さな小屋が点在し、ウィ-クデ-だというのに、仕事のない、ボロをまとったアルジェリア人たちが、ごろごろしていた。子供は全裸で地面をはいまわっていた。われわれの車を見て、子供が二、三人駈けよってきた。それにつづいて青年が数名近づいてきた。そのときだった。党書記は、車のドアの把手をしっかりつかんで運転手に叫んだ。「危い。走れ。はやく、はやく。」」「大学における学生運動の形態が、その大学が置かれている場所にふかくかかわっている・・ナンテール分校もまた貧困と人種差別を抱える新興の郊外都市であった。・・もともとアルジェリア人労働者の貧しい居住地であった。」

スラムは、世界中に存在するが、やはり川崎のことが浮かぶ。朝鮮人が多く住む川崎南部地区の海沿いは、日本の工業化を担った京浜工業地帯の中心となった。その膝元にある桜本・池上町周辺の重労働、末端請負、日雇労働者は、産業都市川崎の一端を支えた。日立闘争を契機に、この地域で約40年前の1974年に朝鮮人青年を中心とした子ども会活動が始まった。池上町は、産業の躍進、繁栄と裏腹に差別、抑圧によって取り残されてきた。(「高度成長の時代3 成長と冷戦への問い 第2章<周辺>と都市社会-川崎のスラム街から 加藤千香子 大月書店」参照)

私は、中学2年生の夏休みに貧困家庭を嫌って夜行列車で上京した。大森・万福寺近くの新聞店で2ヶ月間働いた。時間があれば川崎駅前の映画街(現在のチネチッタ)に出かけた。当時、京急線は、高架工事中だった。地域再開発のため商業地になった、渡田のコンクリ-ト壁に囲まれた会社(昭和電線)の前の道も覚えていた。当時、長女の姉家族は義母と一緒に多摩川沿いの朝鮮人部落と呼ばれていた戸手に住んでいたらしい。会うことはなかった。その5年後に、日立製作所から採用拒否され、再び川崎に来ることになった。裁判が始まって間もなく、私はそこで引込線の支柱となる鉄の棒をリング状にする日雇のバイトをした。池上町の国鉄(JR)の日本鋼管(JFE)引込線は、高架工事が始まったばかりだった。池上・桜本を訪れたのは、この時が初めてである。当時、朝日新聞の川崎版に「ばいえん下の朝鮮人」の記事が連載されていた。その3年後に新宿の下宿先から桜本に引っ越した。地域活動のため泊り込んでいた桜本の大韓基督教川﨑教会の青年会室の窓から見た、池上町の日本鋼管の溶鉱炉の煙突から出ていた赤々と燃える夜中の炎は、昼間のような明るさだった。

「神もなく主人もなく」「自発性を重視して、固定した組織を持たず、したがって特定の代表やリ-ダ-をもたない」学生たちの「パリ五月革命」をどう受け止めたか、(日本の)文化人=「知識人の問題」、姿勢も書かれている。これを読みながら、朝鮮人の「文化人・知識人」、民族組織が1970年に始まった「日立闘争」を、「同化裁判」と批判し、消極的な姿勢であったことを思い出した。彼らは、韓国のマスコミが日立闘争を大々的に報道するようになった1973年末以降に関心を示し始めた。「日立闘争」に関わった日本の学生たちは、ナンテ-ル分校に始まった「パリ五月革命」と根元で繋がっていたのだろう。

「弾圧をやめろ」「労働者と学生の連帯」「工場へ行こう」「これは始まりにすぎない、闘いを続けよう」「まず孤独。次はまた孤独。おしまいも孤独」「革命は委員会のためにあるのではない。あなたのためにある」「恋人を抱きしめたまえ。ただし銃は手放すな」「警察官の皆様。私服でご来場の節は、足元にご注意ください」「君の幸福は金で買われようとしている。だが君はそれを盗むのだ」「真実のみが革命的だ」「答案に点をつける奴なんて馬鹿の見本だ」「生き残りの官僚の首に、生き残りの社会学者の腸を巻きつけて消したら、もうもめ事はなくなるんじゃないかな?」「おい勉強しろよ。老いぼれの先生が待ちかまえてるぞ」「バリケ-ドは通りを塞ぐが道を開く」「現実に目を開け」
これらは、「パリ五月革命」でデモ、集会、討論会に集まった高校生、学生、若者たちが、(占拠した)建物の壁(新聞)、バリケードなどに(後世に)書き残したメッセージ、スロ-ガンの一部である。(人権)運動は、「怒りと喜び」、希望、ユ-モアを持って、気楽に楽しむことも必要だろう。

私が高校生の頃、「アルジェリアの苛烈な独立戦争をドキュメタリ-の手法で描いたジッロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの戦い』(アルジェリア・伊合作)」を観たのは、名古屋駅前の映画館だったことを覚えている。ヴェトナム戦争、エンタ-プライズ入港阻止、学生たちの反戦運動がピ-クの頃だった。
アルジェリアがフランスの植民地であり、独立を目指す、命を賭けたレジスタンス青年たちの「過酷な闘争と一斉に蜂起する民衆の映像」とドゴール(将軍)政権のレジスタンスに加える拷問シ-ンは衝撃的であり、忘れることはできない。同化して生きていた私は、高校卒業後、企業に就職できないことはわかっていた。人生を悩み始めた時期だった。『アルジェの戦い』の意味と朝鮮人であることの繋がりを見出すことは、同化していた当時の私にはできなかった。

8月、東京・御茶ノ水のホテルで、崔勝久氏、加藤千香子横浜国大教授、横浜国大生2人、連れあい6名で、多忙な西川長夫教授に時間を空けていただき、お会いする機会を得た。昨年12月、先生のご自宅で「植民地主義研究会」の招かれた頃は、西川教授は、この本の執筆で大変多忙な日々であったようです。研究会翌日、レストランで昼食を御馳走になり、映画『アルジェの戦い』についてお話されていたこと思いだした。

「東日本大震災と福島原発が図らずも暴き出したもうひとつの問題として、被災地における国内植民地的状況がある。・・地震や津波の被害が深刻化しているのも、多くは貧しい周辺地域であることをどう考えればよいのだろうか。「新植民地主義」「国内植民地」といった用語と概念を当てはめることによって見えてくる現実が現に存在していることを、テレビの映像は私たちに教えている」と、西川長夫教授は「あとがき」に書いている。

(「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」HP掲示板より http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html)

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