2011年8月9日火曜日

高木仁三郎『プラトニウムの恐怖』を読んで

岩波新書のこの本は第一版が1981年で、2011年の5月には25版がでています。そんなに易しい本ではありませんが、プルトニウムにターゲットを絞りながら、巨大化した科学の実態を取り上げ、もはや専門家と一般の人の間どころか、専門家同士でも通じないくらい分野が拡がり、原子力は人間の手には負えなくなったことを静かなタッチで書いています。

私は高木さんの本を読みながら、チャップリンのモダンタイムズを思い出し、同時にそんな馬鹿げたものを作り続ける人間の愚かさに、「人間という種が生き残る価値があるのか」という最も根源的な問いを発する小出裕章さんの本の一節を思い浮かべるのです。「反原発の学者、小出裕章を読んで ー現実的ってなんでしょうね。」 http://www.oklos-che.com/2011/07/blog-post_26.html

しかし高木さんのこの本はまだ3・11を経験していないせいか、切羽詰った感じではなく、放射性物質という何万年も消えることのない、人類にとっては危険極まりないものをここまで作り続けて来て、原発を今すぐ止めても使用済み核燃料を冷やしたうえで何万年も管理していかなければならないという事実を淡々と記します。

仮に2020年に「突然原子力発電が中止されても」、「希釈に必要な水量は・・・ほぼ地球の全海水の量の10分の1にに匹敵する」とのことです。「かくして放射性物質は、どのような形で管理・処分されようとも、数十万年から数百万年の桁の期間、生物の住む環境から厳密に隔離されている必要が生じる」そうです。まったく、ため息の出る話です。「人間の文化や歴史や経験的知識の及ぶ範囲に比べて、放射線廃棄物の管理に必要な時間は、あまりにも長すぎる」という表現が高木さんの気持ちを表していると思われます。

原子炉の構造、プルトニウムの恐ろしさ、高速増殖炉の仕組みとその危険性、「核燃料サイクル」の実態をできるだけ易しく説明しながら、これらは結局プルトニウムを作りだすためのもので、その「プルトニウム(を管理する)社会」の行き着くところは(人間そのものの)「管理社会化」であるというのが高木さんの一番言いたいことのように思えます。そんな非人間的な社会であっていいのか、しかしもう人類はその方向に歩み始めてしまっており、後戻りできない、そんな悲鳴に似た声が聞こえてきます。

高木さんの最後はこのような記述で終わります。「問題はひとりひとりの生活から発して、どんな社会を構築するか、という点に帰着しよう。」「今求められているのは、・・・子や孫たちの食卓をとりまく環境に思いを馳せる気持ちではないだろうか。」

今日福島を訪問した潘国連総長は、現地の人の声を世界各国、国連に伝えてみなさんの頑張りに応えていきたいと言いながら、テレビのインタビューでは、世界の貧しい国に原発はこれからも必要で二酸化炭素を出さず環境によいと断定し、原発に依存しない国にすると宣言した菅首相に批判的な意見を述べていました。国連もこれからより安全な原発にするために努力をしていくそうです。この国連総長の発言は、先進国の仲間入りを目指す韓国や中国の指導陣の意向と合致し、安い燃料・乏しい資源の中で原発は必要という世論を維持したまま、今回の事故を踏まえて原発をできるだけ安全なものにしていくというところに落ち着かせたいのだろうと思いました。

しかし国連総長や原発を(核兵器と共に)必要としている国々の指導者たちは、勿論、その中に日本の官僚や政治家も入るのでしょうが、高木さんの「プルトニウム」社会になってきている、そして今後ますますそうなっていくことに対する悲鳴にも似た憤りを結局無視するのでしょうか。いつまで「安全神話」「二酸化炭素の削減」=(環境にやさしい)という「嘘」を言い張るのでしょうね。街頭活動をしながら感じることですが、多くの人がいまだ「嘘」に騙されています。しかし自然の中で生きる東南アジアの民衆たちに、そういう「嘘」がはたして通用するでしょうか。原発をどうするのか、これはそれを推進したい人(為政者とそれを取り巻く人たち)と、もうこれ以上自然を破壊し自分たちの子孫に迷惑をかけたくないと思う者との、世界規模の闘いです。

それらの「嘘」を信じようとする人たちはいつまで「幻想」のなかで、自分の安全と安定を望み勝手なことを言っているのでしょうか。この闘いは長期戦で、大変困難な闘いになるでしょう。高木さんの本は私たちへの死ぬ前の遺言、最後の警告であったように思うのですが、いかがでしょうか。

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