2011年7月15日金曜日

菅首相の生命は大丈夫なのか? 『原発事故を問うーチェルノブイリから、もんじゅへー』を読んで


作者の七沢潔さんはNHKの人で核の問題をずっと追いかけており、岩波新書から1996年に出されたこの本はもう15年も前に書かれたものです。従って福島の事故の言及は当然何もないのですが、著者はチェルノブイリと「もんじゅ」を追っかけてきて序のところで、この二つの事故で「それまでの歩みを立ち止まってみずからの姿を顧みない」のであれば、必ず「深刻な未来」に直面するという予言を記します。

著者はチェルノブイリ事故を追い、その背後に何があったのか、多くの政治家や事故に遭った人に直接会い真相を明らかにします。「この史上最悪と呼ばれる原発事故こそ、実は国際政治もからむ精巧な「事故隠し」のベールに包まれたまま、世界にその実相が知らされずに今日に至った」という結論に至ります。

敢えてチェルノブイリの「石棺」の中で被曝されながらも事故の真相を追う科学者は事故を「核爆発」とします。軍事と平和の垣根を越えて、「とてつもない破壊力を内包する原子力という野獣を人類はコントロールし、その幸福に貢献する・・・という二十世紀最大の科学的神話の土台が崩壊する」のです。「汚染地帯では、この先どうなるかわからない健康への不安を抱えながら、五百万人の人々が暮らしている。・・・深刻な後遺症に苦しむ事故処理作業者は六十万人、その実態調査はまだこれからである」・・・。

現場技術者の操作ミスから事故が発生したという当初のソ連当局の発表がどうして原発の構造そのものに問題があったという結論に変わったのか、その過程にソ連の崩壊に至る国内の軋轢と国際政治とのつながりを見つめ、歴史の実態を探りながらふたつの事故の類似点を明らかにします。

著者が共通点としてあげるのは次の二点です。ひとつは、「『想定外』の事故と対応の遅れ」。もうひとつは、「通報の遅れに始まる意図的情報操作」です。(ああ、福島事故にも同じことが言えると、納得!)

著者はチェルノブイリの事故から原発推進の国策を変えてきたスウェーデンとドイツの例をあげながら、日本の高速増殖炉「もんじゅ」がチェルノブイリ事故は「ソ連の特殊事情」によって起こったと歪曲して伝え、「わが国の原子炉ではこのような大事故は決して起こりえない」という見解の下で推進してきたことを批判します。

「地方の窮状」につけこんだ国策としてスタートした「もんじゅ」は、核燃料サイクルをめざしたもので、ウランの使用済み核燃料から再処理によって取り出したプルトニュームを回収して「無限に続く燃料循環のシナリオ」を前提としており、ナトリウムを冷却剤として使うこのプラントはあまりに危険すぎて世界のどの国も放棄したものです。しかしこの「もんじゅ」が1985年から操業して1995年にナトリウム漏洩の事故に遭いました。この「もんじゅ」事故によって、阪神大震災、地下鉄テロ、バブル崩壊後の長い不況の最後におこった、「安定」「安全」「ハイテク」「不滅の成長」という戦後日本の成長神話が崩壊したと著者は強調します。この流れの中に「フクシマ」があったと痛感します。

さてその「もんじゅ」ですが、ネットによると、2010年8月に発生した、重さ3・3トンの炉内中継装置の落下事故が24回の引き揚げ作業に失敗してようやく6月24日に成功したと報道されています。この間自殺者も出ました。ナトリウム漏洩事故の時にも自殺者が出ています(家族は他殺と警察に告発)。「もんじゅ」が日本の原発国策の象徴であり続ける限りこの廃止を決めることはできないでしょう。日本は核兵器製造の疑いを世界からもたれないためには、この「もんじゅ」を止めるわけにはいかず、プルトニュームを使ったMOX燃料を軽水炉でも使っています。しかし限界は明らかで、国内が難しいという判断で、モンゴルなど海外に持っていこうとするでしょう(この計画は進んでいる)。

さて、「脱原発」を宣言した死に体の菅首相は、どこまで止めると言うのでしょうか。これまで出ている話は新規の取りやめ、古くなった(40年以上経った)原子炉の廃棄までで、六ヶ所村の再処理施設や「もんじゅ」に関する言及はありません。もし菅首相がそこまで言及すれば、「辞めろ」の声は高まり、生命の危険にも及ぶような気がします。しかし「脱原発」宣言をした以上、覚悟を決めてやってほしいと思うのは私だけでしょうか。

(この「日本カトリック正義と平和協議会」のパンフレットはよくできています。1部20円ですが、私は
1000部持っていますので、ご希望者は連絡ください。学習会用に最適です)

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