2011年7月12日火曜日

投稿:丹波マンガン記念館再開館式に出席してー古野恭代

私が初めて丹波マンガン記念館を訪ねたのは、2008年12月だった。「近く閉館されると聞いたが、実に残念だ、一度見に行こう」と「韓国併合」100年市民ネットワークのオム・チャンジュンさんに誘われ、記念館のNPO法人の人達と一緒に出かけた。丁度その日は、「人権週間」の初日で、待ち合わせの京都市庁前からは、たすき掛けの府職員が少年少女の鼓笛隊に誘導されて行進してゆくのが見えた。
 
車で山道に分け入り、1時間半近くかかって記念館に着いた。冬季は普通閉館しているが、その日は特別に中を館長の李龍植(イヨンシク)さんが案内してくださった。そこは、マンガン鉱山掘削や運搬の作業現場を博物館に造ったもので、暗く長い坑道沿いに、作業中の鉱夫のマネキンがあちこちに働く姿のまま配置されている。鉱夫は、殆どが強制連行された朝鮮人と被差別部落の人たちだったという。過酷な労働条件のもと、皆がじん肺に犯され、苦しみながら亡くなった。鉱夫の一人としてそれを体験した龍植さんのお父さんの李(イ)貞(ジョン)鎬(ホ)さんは、「自分の墓を造る」つもりで、私財を抛って、酸素ボンベをさげながら1989年に記念館を完成させた。

記念館を立ち去ったあと、いつまでも消えない記憶があった。それは、マネキンの立つ無言の坑内から聞こえてきた声なき声とでもいうべきものだったろうか。鉱山坑の存在自体を訴える声ともいえた。私は、この差別の現場を「人権」の府京都の学習の場として残すべきだと思った。たすきを掛けで行進していた職員を思い出し、私は保存のための財政援助を訴える手紙を府・市宛てに送った。しかし、予想通り、梨のつぶてだった。

その後、記念館は財政的に行き詰まり、とうとう2009年5月、閉館されるに到った。しかし、すぐに、京都の人たちを中心に戦中の丹波鉱山労働者の実態調査が始められ、韓国では記念館保存運動が始められた。そして2010年11月、チャリティー・コンサート開催のとき、丹波マンガン記念館再建韓国推進委員会が旗揚げした。その後、募金運動が熱心に展開されていった。再建韓国推進委員会には58名の国会議員が参加しているというが、他に多くの市民団体も参加している。代表的なものは興士団*と地球村同胞連帯**だという。
韓国側のこの支援運動の支えとなっていた精神は何だったか、それを昨年の再建推進委員会発足式での挨拶文に見てみると、そこには、「加害の歴史を日本人自身がまず知るべきだが、しかし、我々は、記念館を武器にそれを糾弾したいのではない。記念館を通じて無言のうちに表現したいのだ」、「本来なら国家がするべきことを、個人が魂を込めて作り上げたのに、その保存に力を貸せないなら、我々は同胞として恥ずかしい」、「歴史の記憶が薄められてゆく世にあって、記念館保存は、ともすれば歴史の真実を忘れたがる我々への叱責でもある」という言葉が印象的だった。ここには単に同じ民族の同胞に対して感じる同胞愛以上の、大袈裟に言えば国境を越えた人間愛、真実愛があると思った。

こうして再開館を向かえることとなり、6月26日、式典がマンガン記念館で行なわれた。当日は、曇りという予想に反し、太陽が照りつける晴天となった。約30名で京都駅をバスで出発し、みどり美しい杉林の山道を抜けて、1時間半かけて記念館に到着した。

式の前に、敷地内の見学があった。案内には、ボランティア・ガイドの研修を受けた青年がついてくれた。坑内は、以前来たときと較べ、支柱や梁が新らしく組直されているのが目立った。ここには手掘りから掘削機の使用まで、鉱山産業史を辿れるようにマネキンが配置されている。一方、曲がりくねった坑道壁面は古生物層や鉱物層が露出していて地質学の勉強にはもってこいだ。また、この他、外に展示館があり、そこにはマンガン鉱石400点の展示もあって、マンガン7色といわれるその美しさに魅了されつつ鉱石の勉強もできる。見かけは、確かに、一般の「博物館」と言われる場所のきれいさから遠いかもしれないが、沢山のことを学べる、内容の充実した場所だ、と改めて思った。

さわやかな緑の風に吹かれる中、韓国からの訪問者約20余名、日本人50名ほど、ボランティア、スタッフ合わせて約100名が参加して式典が始まった。冒頭、記念館理事長の中村尚司さんが挨拶をされた。中村先生は龍谷大学経済学部の名誉教授で、『貧しい人が主役となる開発へ』や『豊かなアジア、貧しい日本、過剰開発から生命系経済へ』などの著書のある方だが、喉頭癌の手術をされたため話しにくそうだった。でも、中味の濃いお話をしてくださった。韓国国会議員の朴宣(パクソ)映(ニョン)さんはドイツを例にとって、歴史を恥と考えるのでなく、記憶を保ち、責任をとり、誇りを持つために過去を学ぶのだ、それは未来の為だ、と話された。それから韓国再建委員会の共同代表であるバン・ジェチョルさんは、「日韓は対等な関係が良い、愼友として付合ってゆきたい」と言われ、熱心に街頭募金運動をしてくださった地球村(KIN)の代表、黄義中(フォンイチュン)さんが「創建者李貞鎬の意図を大切にし、歴史の真実を保存したい」と話された。こうした支援者の努力のお陰で、今後記念館運営費として毎月35万円づつの拠出が可能となったが、その資金を手渡す伝達式も行なわれた。

もう一つ、式典の重要な部分が慰霊だった。鉱山事故で亡くなった方、じん肺で苦しみながら病死した方、そしてその霊を慰めるために記念館建設を発起された李貞鎬さんの霊も慰める儀式だった。銅鑼が打たれ、李龍植さんが跪き、礼拝が始まった。それから山の幸、畑の幸を山めがけて投捧する行為で慰霊が表現された。式服を着た男女楽士の荘重な演奏、その後、本願寺僧侶の読経が続いた。

慰霊式の後、来賓の氏名紹介や挨拶があった。(私のメモには誤りがあるかもしれないが、そのときはご容赦ください。)沢山あったなかで記憶に残っているのは大阪大韓民国総領事の臨席、京都市国際交流協会を代表した若い女性の挨拶などだが、祝電を下さった方の中に、京都府人権教育室長、教育長の名があり嬉しかった。更に、元内閣官房長官、野中広務氏からのメッセージが披露された。「北東アジア地域に横たわる課題は山積している。参加者も胸を痛めているだろう。団結を強め、連携を深めて活動を推進してほしい」という内容だった。これまで、日本側の役所からの反応として聞いていたのは、身近な町役場(今は京都市の一部だが、以前は京北町役場)の人が、「あいつが朝鮮人でなければ協力するのに」と言っていたという噂だけだった。だから、今回、ここまで広汎な方達の祝福をいただいたことは、本当に喜ばしいことだと思った。

後で、この違いを生んだものは何だろうかと考え、元館長李龍植さんの妹さんで新事務局長の李(イ)順連(スニョン)さんに伺ってみた。順連さんは、中村尚司理事長の日韓両国にわたる広い人脈と東西本願寺との関係によるだろう、と言われた。確かにそうなのかもしれない。しかし・・・と一人で考えた。何か大きな、私達には見えない変化が、東アジアの底流部で起きているのではないか・・それが平和にとって大事な一歩にくれたらいい・・と願った。

式典が終って、懇親会が始まった。男女二人のサムルノリ演奏があり、チマチョゴリを着た歌手の方達が韓国と日本の歌を取り混ぜて歌われ、私達もそれに合わせて歌った。同席の方達とおしゃべりしたり、呑んだり食べたりして楽しくすごした。その間、地元である京北商工会の理事が、「観光という視点からも捉えて、多くの人たちに記念館に関わってもらいたいと思っている」というお話をされたので、感動してしまった。こうした地元の支援は本当に心強い。また、李順連さんがマイクを取って話そうとされたとき、声がつまりしばらくうつむいておられた後、ようやく「自分は父のビデオをずっと見ることが出来なかった」と話し始められた。そのお話を聞いて、在日朝鮮人家族が経験された痛み、お父さまから託された責任の重さ、それが胸に刺さった。

宴がたけなわとなると、一人、又一人と席を立って、演奏に合わせて踊り始め、やがて広場は踊る人でいっぱいになった。鮮やかな緑に囲まれた丹波の山裾に繰り広げられた共感の宴、それを周りの木々や鳥たちがじっと見聞きしているように思った。

最後に、中村理事長が挨拶された。福島で外出もできないでいる子ども達をこの丹波に呼んで、同じように「被害」にあった人たちに思いを馳せつつ、広い野山や清流(桂川の上流が近くを流れ、鮎釣りができる)沿いで遊ばせたい、と言われたことが心に残った。今、このことは、実行の段階に進んでいると聞く。京都の方達の実行力は本当にすばらしい。

今後、自分がどのように記念館支援に関わって行けるかを思うと本当に情け無くなる。李順連さんは、まず、関東の方達に来てほしい、と言われる。8月からは京都駅発のバスを毎日曜日、9時と11時に運行する予定だという。勿論、正会員(年会費1万円)や賛助会員(年会費3000円)になって財政的に関わってくださるのも本当に有り難いと言って居られたが。会員申込書・払込み票、記念館の詳細等は「丹波マンガン記念館」のホームページにあるので検索していただきたい。

韓国の人達が、「記念館を閉館のまま埋もれさせることは自分達の恥だ」として、再開館のために熱心に運動されたことを思うとき、日本人が何もしなくてよいのか、という思いが募る。記念館は今後、土・日に来館者を受け入れてゆくが、その日曜日である7月10日、在特会が街宣車とともに乗り込んできて、「日本の土地を占領しやがって・・・」などマイクの最大音量でがなりたて、入口をふさいで入館を妨害しようとしたという。本当に私達日本人はこんなに何もせずに、この貴重な「負の世界遺産」とも言える「加害博物館」を韓国人の支援に頼ったまま放置しておいていいのだろうか?
皆さんの支援をお願いし、お知恵をお貸しくださることをお頼みします。

*興士団は、韓国や亜米利加で相互扶助と祖国解放を求める運動を進めていた安昌(アンチャン)浩(ホ)(1878―1938)が、併合された朝鮮を去りアメリカにいたときに組織した団体で、独立のための武力抗争ではなく、実力育成を基本としていた。これを後退と見る人もいたが、安昌浩自身は、上海に臨時政府ができると閣僚の一人となって独立運動を指導し、国民資質革新と青年人材養成を中心とした興士団運動を国境をこえて拡げようと努めた。満州事変勃発の翌年、独立運動家が一斉検挙されたときに上海で逮捕され、その後、一端出獄したが37年、再度投獄され、獄中で重病となり、保釈されたが回復せず1938年死去した。記念館がソウル市江南区新沙洞、鳥山(トサン)(安昌浩の号)公園にある。現在会員は10万人で、主な活動は、民族統一運動、社会透明化運動、教育運動だという。

**地球村同胞連帯はKINと略称されているが、1999年に設立され、日本、亜米利加、独逸を含む海外(青年)同胞との交流、日常的相互討論、署名・募金運動などを行なっている。特に、今回のマンガン記念館再開館に向けては、1人1ヵ月5000ウォン、1年60,000ウォンの募金を街頭やメールで訴え、当初1000人の賛同者を目標にしていたが、1440余名を得、その結果、記念館運営費35万円を毎月拠出する基をつくることができた。(この記述は、インターネット情報、その他を参考にしました。誤っている部分、足りない部分、ご教示いただければ幸いです。)

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