2011年7月10日日曜日

ようやく実現した、上野千鶴子さんの東大退官最終講義を聴いて


先ほど、7月9日、東大の農学部の弥生講堂で超満員の聴衆を集めて、震災のために中止となった退官記念講演に代わって「上野千鶴子震災復興支援特別公開講演」が行われました。参加希望して入場できなかった人も多く、ネットの中継もありました。詳しくはWANをご覧ください。上野さんはつくづく幸せな「教師」であったと思います。会場は若い人たちが多く、フェミニズム研究者と上野さんの長年の「同士」が集まったようにに見受けられました。

上野さんの講演の趣旨を私の理解した範囲でご紹介します。

1.上野さんはまず原発事故について語り始めました。
津波は天災であったが、福島の原発事故は人災であった、その気になれば防げた事故であった。しかし過去原発を推進した自民党も現政権も、東電も誰も謝罪せず、責任を取ろうとしない、責任者不在で怒りは収まらない。多くの人の反応は、やっぱりと、まさかに分かれるが、うすうす危ないということを知っていながら原発事故を止められなかったことに苦い後悔がある。福島のひとからのお便りで、いまはまるで戦時下のようだと言うが、戦争は負けることを考えないようにしていたし、原発は事故が起こることを考えないようにしてきたという類似点がある。いずれも国策によって始められた。誰も学ぼうとしないし責任をとろうとしない。

2.「不惑のフェミニズム」について
講演のタイトルを「生き延びるための思想」に変えたのは、なぜ、何のために女性学をやってきたのかの原点に戻って考えようとしたから。「あの世の救済でなく、この世の開放を」「人間が引き起こした問題なら人間が解決できるはず」と考えてきた。
女性と戦争の関係を考えても、女性は家族の一部であり保守を支え政権を代えることはなかった。何のためにどういう社会をつくるのかという参政権の目的も明確ではなかった。「不惑」というのは、リブは1970年の10月21日、国際反戦デーから始まり、アラフォー(around forty)という意味である。

3.フェミニズムと女性学の関係
女性学は最初から、女の、女による、女の為の学問研究であった。女性解放の思想と行動、理論と実践をつなぐ役割を担った。そして大学の中ではなく、民間学として始まった。68年当時、日本で初めて託児所付セミナーをはじめ、母親は泣く子を預けて週1回の学習会を続けた。女性学は、女の経験の言語化を求め、「私って何?」という自分自身を研究対象にした「私からフェミニズム」であった。
今は女性学として既存の大学の専門領域として位置つけられているが、完全に既存の大学のアカデミニズムに組み込まれるのか、それともその枠を壊すのとどちらが早いかということになると思う。私は学問とは、「伝達可能な共有の知」と考える。だから女性学の権威者と紹介されるのは嫌だが、女性学のパイオニアであることには誇りを持つ。同じ世代の仲間と切り開いたもので、私たちが引き継いできたように、フェミニズムの看板を次の世代に引き渡したい。

4.フェミニズムとは何か
女も男並みに軍隊に入り闘うということがフェミニズムが望んだことか(国家フェミニズム)。現状の構造やルールを少しも変えない、男女共同参画(これは平等という言葉を嫌った官僚が作った行政用語)では、勝者と敗者が分けられ、努力と能力、自己責任が問われるネオリべである。これでは女が負けるように作られている。
私(上野)の貢献は主婦を対象にした研究で、家事は労働かということを取り上げた。主婦労働は3食昼寝付きと言われ二流の労働者と見なされた。女の経験とマルクスの理論(経済学)とは合わなかったが、理論とは研究のためのツールであり、今でも私はマルクス主義フェミニストの看板を下ろしていない。それは(観念的な)マルクス主義に挑戦するフェミニストという意味である。人間の生命を育み育て、家族の介護をする労働を外部コストとすることを批判してきたが、上野理論には国家というアクターが欠けていると批判されてきた。

5.当事者主権と何か
家族が破たんし、市場が失敗し、国家が失敗した今、最後に補完するするものは何なのか。私は「選択縁」だと思う。網野善彦のいう「無縁」であり、しがらみのある「有縁」ではなく、自分の意思でつくるものであり、それはまさに女縁ではないのか。
「ケアーの社会学」研究からわかってきたことは、新しいコミュニティ(共同性)の創造とは当事者主権に基づくものであり、それは「私の運命はわたしが決めるという至宝の権利」である。社会的弱者の自己定義権ということになる。決してマジョリティが勝手にカテゴライズして決めたものであってはいけない。
女性学とは女の経験の理論化であり、当事者研究である。私は女、私が一番よく知っている(男の思惑で決められるものではない)。当事者とは誰もが該当するのでなく、問題を抱えた人、解決をする人のことであり、問題とは自分を捉まえ離さないもののことである。ケアをする者とされる者とは非対称であり、ケアされる(ニーズを持つ)者は降りることができない。私はその人を当事者と呼ぶ。既存の学問はそのような考え方を学問の中立性、客観性に反すると批判するが、そもそもそのようなものがあるのか、疑問である。

6.生き延びるための思想
自分の生命と安全を守ること以上に重要なことがありうるのか。国家より人間の安全保障がもっと大切。NOを言ってもよい権利を認めなければならないし、敵を前にして闘うことをしなくてもよく、命を守るために逃げることを認めよう。
戦争やら革命というのは男のヒロイズムであり、非常時の戦争に代わって日常の生活の中で闘うことを私は選ぶ。女は弱者である。子供を産んだとき、患者を抱え込んだとき、女は逃げなかった。だから支え合って生きる。弱者である女は強者になろうとせず、弱者のまま尊重される社会を求める。かつて強者であった人も下り坂に入り最後は誰でも弱者になる、私は高齢化社会はそのことを明確にしてくれたと思う。誰でもが弱者になるからである。支えてもらわないと生きていけないからである。そして誰もが弱者になる可能性を想像できるようになった。震災は、誰もが弱者になる社会であることを教えてくれた。
私は8・15と3・11に立ち返る。8・15の国家や行政や権力の何もなくなったとき、女が支えたということを思い出してほしい。私の最後の言葉は、前の人たちから受け取った言葉と思想を次の人たちがうけとってほしい、ということである。

(拍手が鳴りやまず、上野さんはしばし呆然としながら、何度も礼をするのですが、私にはすこしばかり涙ぐんでいるように見えました)

参考までに
★「祈り」についてー上野千鶴子さんの退官に思う
http://www.oklos-che.com/2011/03/blog-post_8944.html
★いまは、祈るほかない、きもちですー上野千鶴子
http://www.oklos-che.com/2011/03/blog-post_2077.html

上野千鶴子先生 退職記念パ―ティと銘打った懇親会模様
二次会は下ネタがらみの雰囲気で、若い研究者が圧倒的に多く、みんな盛り上がっていました。
辻本清美代議士も駆けつけ、上野さんの優しさと厳しさをエピソードを交えて話していました。岩波から出版したとき、16時間の2日間缶詰状態で対談したとき上野さんから徹底して追いつめられて「血尿」の経験までしたが、最終日の昼にうなぎを食べて最後の追い込みをしようというとき、上野さんはかばんからおもむろに京都からおいしい山椒を持ってきてくれたとか・・・・後、辻本さんが政治家として窮地に立ったとき、自分の家にいるようにと勧めてくれたとか。辻本さんとは初めてお目にかかり少し話をしました。
原発推進派の巻き返しがすごいとか。ここはぎりぎりまでがんばってほしいですね。

好々爺然とした私と、「処女のような服装をした」(本人談話)上野さんです(笑)。

2 件のコメント:

  1. 崔さんの好々爺ぶりにびっくり。

    ともあれ、「生き延びるための思想」というのは気になるタイトルでした。サブシステンスというわかりにくい横文字を、こんな風に読み替えてもいいかなとも思ってました。

    http://tu-ta.at.webry.info/200709/article_7.html 参照

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  2. 上野先生には生きる勇気をいただいていたと思う。
    そうですか、もう東大にはいらっしゃらないのですか。
    今度立命館ですか?東京の大学はどこも引き止められなかったのですか・・・。とても残念ですが、今度は京都に行きましょう。上野先生ご苦労様でした

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