2011年6月23日木曜日

我が崔家一族、樺太の従弟との出会い

今日、カラフト(樺太)から日本を訪問した私の従弟と初めて会いました。私の父の兄の長男になります。年齢は61歳、私より5歳下です。

健康で聡明そうだという初印象です。昔、カラフトから日本に引き揚げてきた伯父さんに似ていると思いました。目元と声がそっくりでした。向こうは私を見て、自分たちと同じ目をしていると思ったそうです。



私の父は11歳で一人で日本に来て、働き通し、20代前半にはそれなりのお金をもっていたのでしょう。北朝鮮の黄海道の信川というところに帰った時の写真だと思われます。父は左端、伯父は右端で、真中は妹二人(一人は満州に家族で行って信川に引き上げるとき、中国の人に預けたと聞きました。もう一人の妹は北朝鮮で生きているそうです)、真中の写真は恐らく20代後半、弟を頼って伯父が日本に来て、歯工士の資格を取ったころだと思われます。

伯父は戦前、大阪を離れ樺太に行き、技術を生かしたそれなりの生活をしていたようです。従弟が私より5歳下ということは、伯父は戦後に樺太で生まれた日本人女性と結婚したのでしょう。従弟には10歳下の弟がいます。彼ら一家は伯母が日本人であるということで日本に引き上げることを計画したようですが、長男はそのまま樺太に残ると言い張ったので、彼が18歳になるまで待ち、日本に下の息子と夫婦の3人で大阪の弟(私の父)を頼って大阪に引き揚げてきたようです。1968年だと言ってました。一番下の写真がそのときのものです。

今日会った従弟の斎藤ボリスはその時18歳で、カラフトの専門学校に無料で教育を受け、2年軍隊生活をしたそうです。しかし意外なことに、かれはその時、崔(チェ)ボリスだったというのです。ボリスは、彼が「坊や」と呼ばれていたことからつけられた名前だそうです。しかし軍隊を終え、母親が日本人だから、日本名の方がいつか役に立ちと考えて日本名(斎藤は、私の父が使っていた日本名で、弟はお母さんの名前を使っている)に変えたと説明していました。

伯父は1966-7年ころ、単身船で日本に来たことがあります。奥さんが日本人だということで可能だったのでしょう。完全に引き上げるのにその下見に来たのかもしれません。私は父と東京の桟橋に迎えに行きました。父は、兄を見て、「ヒョーン」(兄さん)と大声で叫びました。私が聞く父の初めての朝鮮語でした。その時、私たちがどのような話をしたのか覚えていません。

大阪に引き揚げてきた伯父一家は、伯父の就職がままならず、伯母が働き苦労をしたようです。伯父は期待した日本での生活が思うようにならず毎日、酒を飲む生活であったようです。その時の記憶が強いのか、下の息子は父親にあまりよい印象を持っていないように私には感じられました。その伯父が上京し、スクラップをしていた家内の実家にしばらく泊まっていたことがありました。毎日酒を飲み続け、恐らく父から聞いたのでしょう、なんで大学を出て韓国にまで勉強に行った者がスクラップなんかやってるんだと愚痴っていました。

その後、伯父は北朝鮮に帰ることを決断し、伯母と息子は行かないと言ったからでしょう、一人で帰国することにしたようです。私と妻は伯父を上野駅まで送りに行った記憶があります。今日、従弟から聞いた話では、そのとき、北朝鮮に置いてきた「本妻」は既に死亡していたとのことですが、そうだとすると、残された子供に会いに行ったのかもしれません。その後いくらもしないうちに伯父が亡くなったということを私は父から聞きました。伯父は残された子供の下で、自分の生まれ育った故郷でどのような死を迎えたのでしょうか。

従弟のボリスは、日本語は聴きとり、話す単語は正確な発音でしたが、やはり通訳がはいらないと思うような会話ができず、通訳をいれて私はビールを飲みながら昔の彼の家族のこと、彼が父をどのように思っているのか質問し続けました。そこでわかったことは彼にとって父親は、尊敬するいい父親だったようです。彼の奥さんは韓国人で、3人の子供に恵まれ、3人とも専門学校を卒業して長男は警察官、下の二人は教師だと聞きました。奥さんの両親も韓国に引き揚げず近くに住んでいるとのことです。彼の落ち着いた様子からは、安定した家族であると思われました。

彼の母親は息子と大阪から函館に行き、伯母は今年亡くなりました。弟は4人の子供に恵まれ、病院関係の仕事をしているそうです。韓国では従弟と言うと兄弟とおなじように付き合うそうですが、私たちはまた今度会うことができるのでしょうか。それでも私は従弟に会えたことがとてもうれしく、ビールを多く飲みすぎました。

我が崔家は、私の弟はアメリカで40年住み市民権を持っています。彼はもう日本には戻らないでしょう。彼の上の娘は韓国で住んでいます。私の長男は香港・中国でもう18年くらいになるのでしょうか、韓国籍で香港と日本の永住権を持っています。娘はアメリカで15年以上になり、彼女も市民権をとりました。日本にいるのは俳優の下の息子だけです。さあ、我が崔家一族はどうなっていくのでしょうか。

韓国の姪(弟の長女)から今日FaceBookで、私のことをBig Fatherと呼びながら韓国に来ないのかと聞いていました。我が崔家にとっては、国境や国民国家は絶対的な存在ではもはやありません。いいとか悪いではなく、実態が先行しています。みんなと会うことが楽しみです。

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