2011年6月23日木曜日

地方は「自立」の名の下で切り捨てられている

 2週間ぶりに「地域経済学」の授業にでました。今日は、「自発的発展論」についての講義でした。

戦後の日本は大企業中心の産業政策で、資本・人材をつぎ込み世界に進出する企業の育成を図ってきたのですが、それは結果として東京一極集中の構造になり、地方は大都市の下請けの位置に甘んじることになりました。地方間の格差を平均化しようとする政策はすべて失敗に終わったと言ってもいいでしょう。「「東日本大震災(巨大地震、巨大津波、原発危機の多重災害)」の影響と「復興」を考える」http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_13.html 参照。

元来、「内発的発展」ということは、国に頼らず、貧しい地方が自力で経済復興を図るという趣旨から使われた言説でしたが、目的と主体は明確であったも、その具体的な方法論において十分でなかったとN教授は語ります。日本政府は自民党時代から現在の民主党政権に代わり「新たな公共性」(=内発的発展)と銘打っても、そもそも地方には資本、人材、技術がなく、それは地方切り捨ての政策ということになります。地方はこぞって大企業の誘致を求め、雇用と税収に期待したのですが、それではさらにいい条件を提示する海外に企業は移転するかわかりません。地方の依存的な体質は変わらないことになります。

日本政府は、海外の大都市の例を挙げ、国家戦略として大都市のさらなる発展を謳うのですが、欧米では大都市を国家戦略として支援することはなく、それは中国や韓国、シンガポールのように欧米のキャッチアップを図るアジアの国家資本主義の政策であり、先進国の仲間入りをしている日本が採るべき政策であるのか、N教授は疑問を呈します。そうではなく、むしろ地方の内発的発展を図るために国家が資本、人材、技術の面で全面的な支援をすべきであり、NGOからの支援も必要というのが教授の考えです。

地方の経済的発展というのは、経済政策だけでなりたつのでなく、その地方のもつ伝統・文化、環境(自然)、地方自治(政治)といった総合的な取り組みによって可能になるというのがその基本にあり、金太郎飴のように中央政府が全国一律に定め、例えば臨海部のコンビナートのような工業化推進政策がどのような効果をもたらしたのかは疑問です。むしろこれからの地方のあるべき姿を求めるとき、その弊害が大きいと言うべきでしょう。

少し脱線しますが、工業化の過程で公害が発生し、公害反対の住民運動が生まれ、そこで勝ち得た成果は大きかったけれども、その同じ運動論が現在も可能なのか、疑問です。反対のための反対運動で終わらないためには、当事者である住民だけの利害関係の主張に終わらず、目的を高いレベルにおき、展望をもった政策を掲げ関係者でない人たち、企業にも働きかけ説得できるような運動論が必要になってきています。そのことは例えば、川崎の20%を占める臨海部の政策に関しても適用されるでしょう。住民パワーに依存したなんでも反対では、もはや前に進むことができない時代になっているのです。この点は、3年後の市長選に際してしっかりと確認したい点です。

N教授は、北極圏に近いフィンランド(GDPでは神奈川県と同じレベル)のオウル市に注目します。ノキアを中心に発展したオウル市は有名ですが、スピンアウトを支援し、教育に力を入れるその発展モデルを国土全体に拡げ、研究開発、教育、技術、人材などの面で総合的に取り組むことで地方の経済発展がどのようになされるのか注目されているようです。

そういう意味では、アメリカのオレゴン州のポートランドも注目されるべきでしょう。自然環境を守るために、市民・行政・企業が一体となってそれを市の基本的なあり方を決めたことで経済的な発展、生活水準(QOL)が高められたそうです。そこでは住民自治の精神が発揮されています。

これらは川崎市の将来像を考えるときに参考にすべき点なのですが、私はN教授の授業を聴きながら、宮城県の亘理町のことが頭にありました。「宮城県の小さな漁村での経験」http://www.oklos-che.com/2011_06_17_archive.html 参照。人口4万人に満たないこの町の自立的で、内発的な発展とはどのようなものなのか、まだ復旧さえめどが立たないところですが、私はN教授の話をなにかこの町に適応できないのか、考え続けようと思っています。みなさんのご助言、ご協力をお願いします。

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