2011年6月21日火曜日

「1 9 7 0 年代日本における公共性の転換―川崎・在日朝鮮人からの問 い―」:加藤千香子(横浜国立大学)

011 年度 政治経済学・経済史学会春季総合研究会
「都市の公共と非公共 ―20 世紀のアジア都市を手掛かりに―」

「1 9 7 0 年代日本における公共性の転換 ―川崎・在日朝鮮人からの問い―」
加藤千香子(横浜国立大学)

はじめに
今回の研究会共通テーマとして立てられたのは、「都市の公共と非公共」である。従来の「公共(性)」の議論で主に論じられてきたのは、国家権力=「国家的公共」と「市民的公共」との対抗関係であったが、近年では、「( 市 民 的)公共」が理念として普遍性をもちながら、実際には「包摂と排除」の論理を有していたことに注意が向けられるようになっている。「公共」のあり方を考えるうえで、そこから排除された「非公共」の問題や「公共と非公共」の関係は欠かすことはできないだろう。

では「公共」から排除された「非公共」には、どのようなものが存在するのか? まず「近代市民社会」にそぐわない「前近代的」な集団や組織編成のあり方、在来的・伝統的な論理がある。だが、それだけではない。本報告で重視したいと考えるのは、「市民的公共」が、理念としては体制的権力との対抗を通じて「開かれた体系」として構築されたもののようにみえるが、しかし現実には国民国家のイデオロギーに規定されており、そこで自ずから排除の論理を孕まざるを得ないという点である。「公共と非公共」の検証において、国民国家の論理を内在させた「市民的公共」/そこから排除される「非国民」という「非公共」との対照は不可欠であろう。

「公共性」の議論に向けて、国民国家論に視点に立つ西川長夫は次のように述べる。「公共性論のより根本的な問題は、公共性論の前提をなしている公/私の枠組み自体を疑い、問題の俎上にのせることであろう。私の考えでは、こうした公/私の区分は、近代的な国民国家の法的擬制であり、国民国家のイデオロギーである」(西川  2003)。ここでの「公/私」は、「公共/非公共」と同義とみなすことができる。既存の「公共」の動揺や解体に目が向けられるとともに、新たな「公共」の構築が視野に入れられるようになった現在、こうした「公/私」(「公共/非公共」)の枠組み自体を根底から問う作業は避けて通れないのではないだろうか。

「公共/非公共」(「公/私」)の枠組みを問うにあたり、「多文化主義」やフェミニズムの視点は重要である。「多文化主義」やフェミニズムは、国民国家に規定される「公共」の枠組み自体に焦点をあて「文化」的(民族・ジェンダー)単一性と排他性を問題とし、その組み換えを企図するという点で、まさに「既成の公共概念への挑戦」(西川)といえるものである。

さて、本報告の焦点は、戦後日本に形成された「公共」から国民国家の論理によって排除さされ、「非公共」の位置に追いやられた在日朝鮮人との関係におく。明確な分離が行われた両者間の関係性に変容が起こされる起点は、1970 年前後―広い意味での「1968 年」に求められる。ウォーラーステインが「世界システムにおける革命」と呼ぶ「1968 年」で焦点となったのは、反システム運動におけるフェミニズムやさまざまなマイノリティ、エコロジスト自身の台頭であった(ウォーラーステイン  1991)。

 本 報 告で取り上げる「日立闘争」(1970~74)を起点として川崎市という自治体を舞台に展開された運動には、そうした世界的な「1968 年」の動きに共振する面があったことは確かである。本論では、1970 年代初めに「非公共」の位置にある在日朝鮮人によって起こされた「公共」への問いと「公共」との関わりの模索の動き、そしてその後 70 年代後半から現在に至るまでの時期に、都市で「公共/非公共」の区分を争点として展開された動向を検証していく。その経緯を、「多文化主義」と「公共」をめぐる問題として考察し、そ れに よ っ て は た し て「包摂と排除」の論理をはらんでいた戦後日本の「(市民的)公共」はどう変容したといえるのか、これからの「公共」のあり方をも視野におきながら明らかにしていきたい。

1. 戦後日本における在日朝鮮人―「公共」からの排除
1)「見えない人々」
日本の敗戦後、植民地であった朝鮮の独立にともない、日本に居住していた朝鮮人の多くは祖国への帰還を行い、また GHQ の指示を受けた日本政府も朝鮮人の帰還を政策的に進めた。だが、すでに日本で生活基盤を築いていた朝鮮人の中にはそのまま生活継続を選択する者も少なくなかった。日本政府は、そうした在日朝鮮人を外国人登録令(1948 年)の対象とし、さらに講和独立後の 52 年には外国人登録法の適用対象とした。

ここで在日朝鮮人は、日本に居住しながらも、日本国籍をもたない「外国人」として「国民」とは区別され管理の対象となると同時に、国籍条項によって、選挙権や福祉(生活保護を除)受給の対象から外されたのである。日本人の復員・引揚げによって職場を追われることとなった多くの在日朝鮮人は、どぶろく製造や廃品回収をはじめとする都市雑業によって生活の糧を得なければならなかった。戦後日本の復興過程で、「公共」は新たな再編を遂げた。しかしその過程は、在日朝鮮人を、日本国内に居住しながら「市民的=国民的公共」においては「見えない人々」(飯沼  1973)( = 「 非 公 共 」) と す る も の で あ っ たといえる。

また、敗戦直後に民族学校存続や生活権擁護闘争を展開した在日朝鮮人運動は、1955 年の路線転換と組織的再編のなかで「一民族一国家」の志向を強め、以後は日本への「内政干渉」を否定し「本国」の「海外公民」との立場を鮮明にしていく(文  2007)。朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国という「本国」とつながる民族団体―朝鮮総連・民団の組織化も進み、在日朝鮮人の中でも、日本の「公共」に加わらないとする認識が定着することとなった。国籍による「公共/非公共」の分離は明確にされたのである。1959 年にはじまった北朝鮮帰国事業は、「本国」をよりどころとする在日朝鮮人からの要望と排除を企図する日本政府の思惑の一致によって進められたものにほかならない。

2)「在日朝鮮人問題」の登場―「非公共」へのまなざし
1965 年 日韓基本条約とともに締結された「在日韓国人の法的地位に関する協定」は、韓国籍の在日朝鮮人に協定永住権を付与するものであった。だが、この措置は、国内では在日朝鮮人を分断するものと受けとめられるに終わった。

「日本人/在日朝鮮人」=「公共/非公共」の分離が明確化した「1955 年」(文  2007)以後の日本社会(「 公 共 」)において、「在日朝鮮人」の問題が登場するのは、1970 年前後のことである。「ここ一、二年、日本人の間で在日朝鮮人問題に対する真面目な関心が、かなり高まりつつあるようだ。思うに、これだけ多くの日本人が、在日朝鮮人問題に関心をよせたのは、はじめてのことではないかと思われる」と、朝鮮問題研究所を立ち上げた佐藤勝巳は述べている(佐藤「当面する在日朝鮮人問題と日本人」『朝鮮研究101,1971.1)。

きっかけの一つは 68年に起こった金嬉老事件であった。寸又峡温泉に立てこもった際の金の発言に呼応する形で、日本人知識人による裁判支援運動や「在日朝鮮人にたいする日本人の側の責任の問題」を考えようとする機運が生まれたのである。また 1968 年にピークを迎えた後の学生運動は、69 年に浮上した出入国管理法案に対する闘争―「入管闘争」に争点が移っていたが、その中で起こった 70 年 7  月の「華青闘告発」は、在日中国人・朝鮮人からの「日本人」に対するきびしい告発と受けとめられた。

市民運動においても「在日朝鮮人問題」への接近が提唱されるようになり、「任錫均を支持する会」、「徐君兄弟を救う会」などが次々と結成され、地域的な運動としても大阪で 「公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会」が 71 年に生まれている。ベ平連の飯沼二郎は、「自他の基本的人権をまもることを“原点”とする市民運動に最もふさわしい」運動が「在日朝鮮人の基本的人権をまもるために行われている運動」であるとし、「在日朝鮮人のための市民運動への誘い」の呼びかけを行っている(飯沼  1973)。

「見えない人々」(=「非公共」)であった在日朝鮮人の存在が、70 年前後に日本人市民・学生運動という「公共」の場で視野に入れられ、支援や「差別」の問題として登場するようになったことは注目すべき変化である。ただしそこでも、在日朝鮮人は、「市民的=国民的公共」とは異なる場に属する「他者」であった。

2.1 9 7 0 年代日立闘争と「朴君を囲む会」―「公共」への問い
1) 日立就職差別裁判
1970 年代初め、「在日朝鮮人問題」が「公共」の中に登場するようになったのと軌を一にして展開されたのが、在日朝鮮人を主人公とする「日立就職差別裁判闘争」(「日立闘争」)である。裁判の原告は、愛知県生れの在日二世・朴鐘碩パク チョンソクであった。愛知県の公立高校を卒業した朴は、日立製作所を受験し合格したが、戸籍謄本の提出を求められ韓国籍であることを告げると一転採用取り消しを言い渡される、それに対して朴は、弁護士を通じて 1970 年末に横浜地方裁判所への提訴を行い、その後多くの支援者を得ながら4年にわたる裁判を闘った。

朴は、裁判所に提出した「上申書」(1974)で次のように語る。「私は生まれて以来、ずっと日本の教育をうけ、自分も日本人の一人として日本の社会に生きるのだと、思いつづけてきました。……(日本社会に対する)あこがれのような、信頼感のような、期待感のようなものが私の心から消えたことはありませんでした」。在日の多くが民団・総連といった民族団体の影響下で「本国」への帰属意識を持つ中で、日本人とともに公立学校で学び生活してきた朴は民族学校や民族団体とのつながりをもつことがなく、日常生活を送る日本社会の「公共」の一員となるという意識をもつようになっていた。

朴が「日立が間違っているという強い確信」を持って提訴に踏み切ったのは、「私がえがいたこの社会にたいする理想は何であったのか、信頼の情といったものが何であったのか、すべてが音をたててくずれおちてしまうような感じ」からであった。朴の「公共」への信頼感は、開かれていたはずの「公共」には国籍による境界が存在し、日本国籍をもたない者を排除する構造をもつという現実によって裏切られることとなった。しかし朴は、「公共」から排除されるそうした現実を矛盾と認識したのである。

裁判では、朴側が、採用取り消しは日立側の「民族差別」であるとしてその違法性を訴えたのに対し、日立側は、採用取り消しが朴の履歴書記載内容の詐称を理由とするものであるとしてその合法性を主張し、真っ向から対立した。74 年 6 月に出された判決は、完全な朴の勝訴であった。判決文では、日立の行為は、労働基準法3条(国籍、信条、社会的身分を理由とする差別を禁止)に抵触、民法 90 条(公序良俗に反する法的行為の無効)の「公序」に反するとし、解雇無効と賃金・慰謝料の支払いが日立に命じられた(朴君を囲む会  1975)。

労働基準法や民法の論理は、日本社会における「差別」禁止、すなわち「公共」は国籍や信条、社会的身分の区別なく誰にでも開かれているという、排除の否定を表しており、判決文はその原則を確認したものにすぎない。しかしその確認は、国民国家の要請―外国人登録法や入国管理令―に基づき在日朝鮮人の排除を当然とする「常識」を覆すものにほかならなかった。普遍性を有するかのように見られる戦後日本の「公共」の理念と、制約をもつ現実の国民国家の「常識」の矛盾がここに見られる。この矛盾への問いは、裁判で完結するものでなかった。
   
2)「朴君を囲む会」と在日朝鮮人にとっての日立闘争
朴の裁判支援を目的とし「日立闘争」を進めた「朴君を囲む会」は、朴が相談をもちかけた慶応大べ平連の日本人学生とそれに合流した在日二世の学生が中心となって 1971 年 3 月に結成され、学生たちの要請を受けた弁護士や知識人、キリスト教会関係者も加わったものである。「囲む会」が参加を呼びかけたのは「日本人と、そして在日中国人・朝鮮人」であり、目指されたのは、「日本人と朝鮮人のカッコつき「共同」を語る場の再創造」であり「同席する事ができない日本人と朝鮮人が同席する…虚構の場所」であった。ここで強調される日本人と在日(朝鮮人・中国人)との「共同」「同席」の場の創造という発想には、国民国家の枠組みを前提とした既存の「公共/非公共」の分離を超える「新しい公共」の志向を見ることができよう。

ただしまもなく、「共同」―「新しい公共」形成の困難さも浮き彫りになる。裁判という共通の目標をもちながら、「日本人」と「(中国・)朝鮮人」が向き合う場は、実際には「朝鮮人」による「日本人」の告発と「日本人」の沈黙の場となったという。中心的主題となっていったのは、「共同」よりもそれぞれの「主体性」の問題であった。この過程で、在日朝鮮人にとって大きな意味をもったのは、日本社会=「公共」における自らの位置を見定める機会を得たことといえよう。

朴は、過去の「日本人として生きようとした自分」をふり返りながら、「この裁判闘争を契機として、僕は“朝鮮人になろう”と決意した」と宣言する。ここで朴のいう「朝鮮人になる」とは、日本の「公共」への参加を前提としたもので、「本国」の一員たることを重視する当時の多数派在日朝鮮人の「民族的主体性」論とは異なっていることに注意しなければならない。日立への入社を求める朴に対しては、「まず韓国人としての主体性を築き、生きて行くべき指針を持ってもらいたいものである。われわれ同胞の中でも働き場が多くある……それをけってまで日本社会に潜む必要が一体どこにあるのか」といった批判がたえず投げかけられた。

この問題―居住の地である日本の「公共」へのかかわりと「主体性」=アイデンティティとしての「民族」の問題―は、在日朝鮮人自身によって模索され続けることとなる。だが、その模索の中から、既存の「民族意識」との差異を念頭におきつつ、日本の「公共」にかかわって生きる「在日朝鮮人」としての自己の位置を明らかにしようとする思想が生まれたことに注目したい。「囲む会」を立ち上げた中心人物である崔勝久チェスングは、次のように述べる。

ぼく達が朝鮮人として生きようとするというのは、何も民族の優秀さを誇示するということではなく、被差別者、弱者、被搾取者を生み出す現代の社会の中で、<被害者>としての朝鮮人として最も人間らしく生きるということである。……朴君の裁判の意味は実に、ここにある。つまり、ぼく達在日朝鮮人が、真に人間らしくありたいために、自分の置かれている生活の場で、自分の生活を通して社会に関っていくということである(崔  1971)。

崔のいう「<被害者>としての朝鮮人」とは、日本社会=「公共」の中での位置を示す定義にほかならず、「素朴な民族意識」や「国民としての民族意識」といった本質的属性を示す既存の「民族意識」とは、異なるものである。崔が何より重視していたのは、「公共」とのかかわりであった。日立闘争の中で展開された「主体性」論議を通じて、在日朝鮮人と「公共」とのかかわりに関する認識が深められたことは、確かであろう。

3.「民族差別と闘う地域活動」―都市「公共」とのかかわり
1)在日朝鮮人による「地域活動」の開始
「囲む会」の在日朝鮮人の中から起こった日本の「公共」とかかわろうとする動きは、日立闘争後に本格化し、「地域活動」として展開されることとなった。その場となったのは、川崎市で「スラム」と呼ばれ、地区住民の約半数が在日朝鮮人である川崎区桜本である。拠点となったのは在日大韓基督教会川崎教会で、「囲む会」の崔勝久が教会青年部のリーダーであったことからの関係による。折しも、川崎教会の李仁夏牧師は、「神の宣教」運動の一環としてすでに1969 年に教会堂を開放して桜本保育園を開設しており、73 年には社会福祉法人青丘社が設立され、地域に根ざした保育園運営がはじまっていた。「日立闘争」と地域とのかかわりは、日立闘争終盤の 1974 年 4 月、「日立と地域を考える川崎集会」が「朴君を囲む会」在日韓国人部会主催で開かれたことが起点である。集会の呼びかけ文には次のようにある。

朴君の受けた就職差別は氷山の一角であり、私たち川崎地区に住む在日韓国人にとっては、身近かな、誰もが経験していることではないでしょうか。……私たちは韓国人として、人間らしく生きたいのです。そこで身近かな問題として、私たちの生き方が問われる教育の問題を手がかりに、地域のみなさんと話し合いたいと願っています。

ここから見て取れるのは、「韓国人」というアイデンティティと、「 人 間 ら し く 」 と の 言 葉 で表現される現在居住する日本の「公共」の場における人格承認や生活保障の双方が求められていたことである。実際には、教育、児童手当、市営住宅入居の問題が提起され、川崎市に対して要求が提出されることとなった。

呼びかけに積極的に呼応したのは、地域の在日朝鮮人女性たちであった。保母たちによって
在日朝鮮人の子どもを対象に民族保育が開始されていた桜本保育園では、母親たちの間で「在日同胞子弟の教育を考えるオモニの会」(75 年に「子どもを見守るオモニの会」)がつくられ、子どもの教育の問題について語り合う集まりがもたれるようになっていった。こうして始まった「民族運動としての地域運動」は、日立闘争終結後に本格化した。裁判勝訴後の 1974 年 10 月、「朴君を囲む会」在日韓国人部会は、「川崎・在日同胞の人権を守る会」(代表・朴鐘碩)として桜本に拠点を定めた(「朴君を囲む会」自体は、全国組織である「民闘連」(民族差別と闘う連絡協議会)に)。「同胞の人権を守る会」がスローガンに掲げたのは、「民族運動としての地域運動」「民族差別と闘う砦づくり」であった。

「同胞の人権を守る会」(77 年 11 月に青丘社運営委員会となる)の運動には、「行政闘争」と日常的な地域活動がある。川崎市に対しての「行政闘争」では、国籍条項が存在した児童手当・市営住宅・奨学金支給が問題とされ、自治体レベルの「公共」における福祉的権利の獲得が目指された。だが、会が日常的に力を注いだのは、桜本保育園の保育活動とも連携しながら進められた、桜本地区の子ども会・学童保育活動(74 年 4 月に桜本学園を設立)であり、これらの中で「民族教育」をめぐる試行錯誤が行われることとなった。その目的は、「単一民族」幻想をはらむ日本社会=「公共」の中で疎外感をもたざるを得ない在日朝鮮人の子どもたちが、生きていく自信をつける点にあったといえる。

2)「民族運動」の模索と行方
ここで注目したいのは、活動を進める在日朝鮮人間で展開された「民族運動」をめぐる議論である。「民族運動としての地域活動」がスローガンとされた当初から議論となったのは、「民族運動」とは何か、という問題であった。崔勝久は、既存の民族団体が依拠する「民族意識」に対する批判的視点をふまえ、次のように言う。「民族運動とは何であろうか? それは非人間化をもたらしている現実社会にあって全体的な人間性回復を指向する解放運動のことである。それに「民族」という形容詞がつくのは、具体的に民族の優劣というつくられた神話による支配・抑圧・搾取があるからに他ならない」。

一方、こうした「民族」を神話とみる崔に対して、次のような反論が出される。「このような見解を持つ同胞の方が絶望的に少数ではなかろうか。……やはり納得できない。私は、たとえ「民族性」が、狭い意味でしか通用しない概念だとしても人権を守る会が、民族集団としての位置づけをすべきだと思う」。「単一民族」幻想を前提としている「公共」とのかかわりを模索するうえで、「民族」をどう位置づけるかは難題である。一つは、それを「人間性」と言い換え、「公共」の中での抑圧や「 民族」の優劣に関する「神話」と闘おうとするもの、他方は、あくまでも対抗のための拠り所として異なる「民族性」(エスニシティ)を打ち出し、「民族集団」としてのまとまりを重視するものである。この2様の立場は、「公共」から疎外されたマイノリティの承認・参加をめぐる「多文化主義」の議論にもつながっていく。

「民族運動としての地域活動」として行われた桜本保育園の「民族保育」や桜本学園での「民族教育」の試みは、「人間性」と「民族性」という両者の間で揺れながら、地域や子どもの現実と向き合うなかで試行錯誤されていくこととなる。「民族運動」観は、保育・教育実践や地域活動にも影響を及ぼすこととなった。桜本学園の実践当事者による座談会で、主事の朴世一パクセイ ルは、「最初の大きな柱としては民族教育と低学力という二つの柱を立てた。ところがいま低学力のほうで追われっぱなしで、民族教育は何もできていないというのが現実です」と語っている。

桜本学園は、「朝鮮人の子」を「差別に負けない子」にすることを目的に掲げ、朝鮮語や朝鮮の歴史の学習、本名を名のることを重視した。だが、実践には現実との矛盾の悩みがつきまとったのである。桜本学園・講師の木村健は、「確かに朝鮮人が一番しんどいところを生きてるとは思うけれど、でも障害児の子供なり、現象的に言えば、生活保護の子供なり、底辺の生活をしいられている子供だったら、学校に行けば色んな意味で大変疎外されてるわけでしょう」と言い、朴世一も「在日朝鮮人の子供だから、差別を受けていじめられてると思っては大まちがいで、あらゆる色々な、この地域で持っている矛盾というのが混じっている」と語っている。語られているのは、「民族」による二分法的な「日本人/朝鮮人」区分と、「疎外」されている子どもの現実とのズレである。

また、桜本保育園の「民族保育」も矛盾を抱えていた。「民族文化」にふれながら「差別に負けない子」に育てるための「集団主義保育」を実践していた桜本保育園は、保育への協力を父母会にも求めるようになっていた。だが、それは日本人の母親に不満を抱かせることとなり、父母会の母親たちの中から保育園のあり方を見直そうとする動きが起こったのである。80 年末には、それに応じようとした保母とともに問題提起の集会が企画されるに至っていた。

だが、「民族保育」「民族教育」と現実との矛盾をとらえ問い直そうというこのような動きは、その後の地域活動の中では深く追究されることがなかったといえよう。桜本保育園での保母や母親たちの動きは「すれちがい」ととらえられ、保育園では「民族保育」方針と保育園の体制が堅持されることとなった。そして留意すべきは、保育園をめぐる「混乱」の過程で、日立闘争以来桜本の地域活動の中心的存在であった崔勝久・朴鐘碩や、保育園開園にかかわった元保母の曺慶姫らが、桜本を離れたことである。

以後、桜本で「地域活動」を進める青丘社は、担い手の交代を経て、「民族性」を軸とした結集体としての性格を強めるとともに、川崎市に対する「行政闘争」を重視し、「公共」におけるエスニックグループの承認と権利の拡充に力を傾けていくようになる。

4.地方自治体と外国人施策―「公共」の「多文化主義」的変容とその限界
次に、自治体=川崎市の側は、こうした在日朝鮮人の地域運動に対してどのように対応したのか、また、そこで「公共」はどのように変容したのか、見ていくこととしたい。

1)川崎市行政と在日朝鮮人
1970 年代以前には、国籍による分離を前提とする政府の姿勢と同様に、地方自治体である川崎市も、在日朝鮮人を「市民」と見なさず「公共」から排除していたことは明らかである。50年代に整備された社会福祉制度―国民年金や国民健康保険には国籍条項があり、唯一例外の生活保護に関しても在日朝鮮人受給者の多さが県によって問題とされ、「朝鮮人保護の適正化」の名の下に、55 年から 56 年にかけて大規模な保護打ち切り政策が行われたのである。その中で困窮化する在日朝鮮人を救う道として提起されたのが、北朝鮮への送還政策であった。59 年の川崎市議会では「在日朝鮮人帰国促進に関する意見書」が採択されたが、それは、「本市に在留する朝鮮公民のうち約 3,400 名は経済生活不安定等のため、朝鮮民主主義人民共和国への帰国を希望し、本市議会に対しても諸般の援助を要請している」として「一日も早くこれが解決に特段の配慮をなされるよう」首相と外務大臣に宛に要望を行うものであった。以 後 67 年まで川崎市議会では、毎年のように北朝鮮帰国事業促進の要望が繰り返された。

こうした行政による在日朝鮮人の「公共」からの排除に変化が生ずるのは、1970 年代である。65 年の日韓条約にともなう「在日韓国人の法的地位協定」では、韓国籍保有者に協定永住権が付与されたが、それにともない、自治体でも韓国籍者の国民健康保険加入が可能とされたのである。さらに 71 年に革新自治体となった川崎市は、72 年に韓国籍者という制限を外し「市内に居住し、市民と一体になって健全な社会生活を営んでいる外国人に対し、人道的な見地から医療の平等を保障し、その生活の安定を図るため、外国人の国保への加入を実現する」ことを発表した。「市民生活重視」を掲げて当選した伊藤三郎市長は、日本人を前提とする「市民」とは区別しながらも、「非公共」の位置においていた「外国人」を、「 人 道 的 な 見 地 」 か ら 「 公 共 」の福祉対象と見なす姿勢を示したのである。

2)「多文化共生」施策の展開
上述のような行政の方針転換とタイアップしたのが、1970 年代半ばからの在日朝鮮人による「行政闘争」―児童手当や市営住宅入居、奨学金等における国籍条項撤廃の要求―であったといえる。80 年代には、指紋押捺拒否闘争を経て、在日朝鮮人の自治体に対する要求運動は活発に展開された。さらに 90 年代には、そうした要望に直面するなかで川崎市は新たな「外国人」施策を編み出していくが、その過程で「多文化共生」がうたわれるようになっていく。こうした運動の経緯と川崎市の「多文化共生」施策形成過程については、すでに星野修美(2005)や金侖貞(2007)をはじめとする研究で明らかにされているが、それらをもとに概要をまとめると、以下のとおりである。

1980 年に「対市プロジェクト・チーム」を発足させた青丘社は、82 年には「川崎在日韓国・朝鮮人の教育をすすめる会」を発足させ、川崎市教育委員会に対して状況認識と改善策を求める要望書を提出した。以後、「すすめる会」(青丘社)と市教委との間で交渉が繰り返されたが、83 年に市教委が「地域社会や学校での民族差別を認め教育を進める」ことを明言したことを皮切りに、諸施策が形をとるようになる。84 年度から桜本地区を中心にした「ふれあい教育」や成人向けの社会教育が開始され、86 年には、「外国人」の教育の権利と「民族的自覚と誇り」を尊重することを明文化した「川崎市在日外国人教育基本方針―主として在日韓国・朝鮮人教育」がつくられた。88 年には、桜本に、在日朝鮮人をはじめとする外国人と日本人の文化交流・相互理解を目的とした「川崎市ふれあい館、子供文化センター」が開設されている。

90 年代に入ると、川崎市は民闘連の要望に応える形で「外国人市民施策推進幹事会」を設置、川崎市・民闘連・川崎市職員労働組合(市職労)の 3 者 間 交 渉 に よ っ て 案 の 検 討 を 進 め た 結 果 、96 年に市は2つの外国人施策を発表した。一つは、市職員採用試験における国籍要件の撤廃である。公務員採用での国籍条項は、「公権力の行使」を行う者は日本国籍者に限ることを「当然の法理」とする内閣法制局の見解の下で依然として残されていたが、川崎市の採った方策は、この「当然の法理」に背くことなく、市職員の職種のうち、「公権力の行使」に適応しない職種を外国人にも広げようとするものであった。二つ目は、「外国人市民の地方参政権に代わる」制度として設置された「川崎市外国人市民代表者会議」である。これは市長の諮問機関として位置づけられ、国籍・地域別で選出されたメンバーによる会議での審議事項を市長に提言するものとされた。

以上のような川崎市の施策は、「外国人」を「市民」の一員(「外国人市民」)と認め、一定の市政参加を制度化したものであるが、国家的見解に背くことなくエスニックグループの要望に応えるために編み出されたものでもあった。国家施策としての「多文化共生」は、2000 年代であるが、川崎市の外国人施策策定方法は「川崎方式」とも呼ばれ、川崎市は「多文化共生」都市の先駆け的なモデルケースに位置づけられた。

3)「多文化共生」への疑問
さて、上記のような 1990 年代以降の川崎市の動向を見るならば、「単一民族(文化)」を暗黙の枠組みとしていた「公共」において、異なる「(民族)文化」(エスニシティ)が承認され場が与えられたことの画期性は確認されよう。だが、そのうえでさらに考えなければならないのは、最初に課題としてあげた都市の「公共」の「多文化主義」的変容の内実と、「公共/非公共」(「公/私」)の二分法的枠組みについてである。この問題を考えるうえで、1997 年以来桜本から離れていた朴鐘碩・崔勝久らによって起こされた「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」の運動に注目したい。同会議は、96 年にはじまる東京都職員・鄭 香 均チャンヒャンギュンの昇進差別をめぐる裁判をきっかけに生まれたもので、在日朝鮮人だけでなく、沖縄県出身者、日本人が参加している。

川崎連絡会議が問題としたのは、自治体の「 外 国 人 へ の『 門 戸 開 放 』」が 喧 伝 さ れ る な か で も 依 然 と し て 解 消 さ れ な い問題、すなわち「公共」の「多文化主義」的変容の称揚のなかで温存される制度的「差別」にほかならない。川崎市に関して直接問題としたのは、国籍条項廃止後につくられた「外国籍職員の任用に関する運用規程」であった。

「 運 用 規 程 」 は 、「 当 然 の 法 理 」 に 照 ら し 合 わ せ て 「 公 権 力 の 行 使 」 に 該 当しない職種を「外国籍職員」に開かれた職種として定めたものである。連絡会議は、こうした「運用規程」を作った「川崎方式」について、「外国人は同じ公務員であってもそのような仕事に就かせず昇進させない」制度であり、「外国人は入れても中で差別するように」したものであると批判した。さらにこうした制度をともなう「多文化共生」を、「 差 別 を 生 み 出 し た 社 会 の 変革ではなく、差別を温存したままその社会に埋没すること」と厳しい目を向ける。朴鐘碩は、「川崎方式」を「民族差別の制度化」と呼び、70 年代と比較して「状況は良くなっているどころか、悪くなっています。本質的には何も変わっていません」とまで述べている(朴  2000)。

在日朝鮮人の「公共」における承認や一定の「参加」も、あくまでも国民国家の論理を前提にするものであるならば、そこにはおのずから限界が生じざるをえない。つまり、「公共」への完全な「包摂」はありえず、一定承認される「外国人」の「参加」―「外国人市民」として―も、マジョリティである「市民」=「日本人」とは区別され、序列構造の中で「周辺」の位置におかれるという現実が解消されることはないのである。二分法的枠組みや思考は継続される。さらに問われるべきは、このような「多文化共生」に潜む「非公共」の包摂後においてなお、維持される二分法的枠組みや序列構造ではないだろうか。

おわりに
理念として誰にでも開かれているはずの戦後日本社会=「公共」が、現実には排除を伴い「公共/非公共」の区別が存在すること、現実の「公共」のもつ閉鎖的な枠組みが明らかにされるようになったのは、1970 年代である。その事実に気付いた日本人と、何より「公共/非公共」の境界を生きていた在日朝鮮人自身によって、排除をともなう「公共」のあり方に対する問いかけが生まれたという点で、70 年代は「公共」の転換の起点といえよう。

「公共」からの排除―「非公共」の形成において、国民国家の下でつくられた「単一民族」幻想に基づく枠組みが果たした役割は大きい。そのため、排除に抗し「公共」とのかかわり―参加・承認―をもとうとする側は、次のような問題に向き合わざるを得ない。「日本人」が前提とされる「公共」にかかわる際に、「日本人」とは異なる文化をもつ朝鮮人という「民族性」(=エスニシティ)を拠り所とするか、それとも「民族」という神話自体を暴いてそれを超えようとするのか、という問題である。70 年代において運動にかかわる在日朝鮮人の間では、このような議論が、現実の都市に生きる住民が抱える問題を見据えながら、展開されるようになっていた。

一方、都市自治体の側では、70 年代の革新市政を経て 80 年代以降になると、「日本人」を前提としていた「公共」においても、「 外 国 人 」 を 対 象 と し た 施 策 が 検 討されるようになる。川崎市は、エスニックグループとの交渉の中で、「外国人市民」という存在を認め、教育の場面における「民族文化」の承認、国籍によるさまざまな制限の撤廃、参政権付与に代わる市政参加制度といった面で施策を進めていく。

90 年代以降の川崎市における「外国人」を「市民」の一員と認めた施策の実現過程を見るならば、「単一民族」幻想を前提としていた「公共」が、エスニックグループという「異文化」を承認し「公共」への参加を認める新しい段階に入ったということも可能であろう。しかし、その「公共」の変容とは、あくまでも「日本人」マジョリティを中心におく既存の枠組みを維持しながら、一定の範囲において、承認されたエスニックグループに場を与えるというものであり、決して国民国家のルール・枠組みを壊すものでなかった。「日本人/外国人」というマジョリティ・マイノリティ両者間の区別・序列関係は前提とされ、マイノリティとしてのエスニックグループがマジョリティと同列に立つことは全く想定されない。二分法的枠組みやその間の「差別」は、依然として消えてはいないのである。

さて、現代においては、90 年代以降に進んだこうした「公共」の「多文化主義」的変容ですら困難を極めている状況が目に映る。ナショナリズム的風潮の高まりのもとで顕著に見られるのは、排除を前提とする「公共/非公共」という二分法的枠組みの再構築であるかのようである。しかしなお、こうした状況のなかで、日立闘争を起点とする運動経験をもつ朴や崔らは、ふたたび都市川崎に足場をおいて、地域を拠点として「国籍にかかわらず住民自治の内実を形成」することを構想する、新しい「市民」運動をはじめている(「 新 し い 川 崎 を つ く る 市 民 の 会 」2009)。70 年代以降の運動のなかで培われていた考察や議論が、既存の二分法的枠組みを超える、開かれた「公共」―「新しい公共」の構築に向けてふたたび生かされる可能性を、見逃すわけにはいかない。

【参考文献】
 飯沼二郎『見えない人々―在日朝鮮人―』日本基督教団出版局、1973
I・ウォーラーステイン(丸山勝訳)「一九六八年―世界システムにおける革命―」『ポスト・アメリカ―世界システムにおける地政学と地政文化―』藤原書店、1991(原著 1991)
加藤千香子「1970 年代日本の『民族差別』をめぐる運動―『日立闘争』を中心に―」『人民の歴史学』185, 2010.9
――――「<周辺>層と都市社会―川崎のスラム街から―」大門正克・大月奈巳・岡田知弘・佐藤隆・進藤兵・高岡裕之・柳沢遊編『高度成長の時代 3  成長と冷戦への問い』大月書店、2011
朴鐘碩・上野千鶴子著/崔勝久・加藤千香子編『日本における多文化共生とは何か―在日の経験から―』新曜社、2008
齋藤純一『思考のフロンティア 公共性』岩波書店、2000
崔勝久「差別社会の中でいかに生きるか―朴君の訴訟を手がかりに―」『朝鮮研究』106, 1971
西川長夫「多文化主義から見た公共性問題―公共性再定義のために―」山口定・佐藤春吉・中島茂樹・小関素明編『新しい公共性――そのフロンティア』有斐閣(立命館大学人文科学研究所研究叢書第 16 輯)、2003〔西川長夫『<新>植民地主義論』平凡社、2006 に再録〕。
文京洙『在日朝鮮人問題の起源』クレイン、2007
朴君を囲む会編『民族差別―日立就職差別裁判―』亜紀書房、1975
朴鐘碩「川崎市による民族差別の制度化に抗して」『批評精神』6, 2000
金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』明石書店、2007
星野修美『自治体の変革と在日コリアン―共生の施策づくりとその苦悩―』明石書店、2005
『朴君を囲む会会報』
『玄界灘』(『朴君を囲む会会報』の後続誌)など

0 件のコメント:

コメントを投稿