2011年6月19日日曜日

「続日立闘争」の意味ー朴鐘碩


「続日立闘争」の意味 (武蔵小杉・中原市民館)
朴鐘碩(パク・チョンソク)   2011618

今日は。1970年に裁判を起こした、40年後の現在の朴鐘碩・本人です。
本日は、「続日立闘争」の話をする場を与えて下さり、感謝申し上げます。

東北地方の地震、津波による自然災害、それに加えて原発事故という人災が起きている中で、私含めて皆さんが今後どう生きるか、改めて問うきっかけとなったと思います。
多国籍企業日立製作所の職場でやってきたこと、感じたことを話すことでそのことを私自身考えていきたいと思います。

今、皆さんに見ていただいた日立闘争のビデオは何度も見ていますが、懐かしいというより、昨日のことのように感じます。まだ日立で緊張して「続日立闘争」をしながら、働いているせいなのか、40年という時間は短く感じます。

自己紹介を兼ねますが、私は日本人女性と結婚し、現在3人の息子がいます。長男の息子は、国籍が問題となってアルバイトを拒否された経験があり、次男の息子はいくつもの企業にチャレンジしましたが、面接までいかず何度も落とされました。たとえ面接しても国籍のこと、家族のことまで質問され、結局落ちたこともあります。大学卒業しても企業から正規労働者として採用されることは難しい状況です。居酒屋、日雇いなどのアルバイトで何とか生活していましたが、最近ようやく派遣社員として職に就くことができました。

私は、1970年、愛知県の高校の商業科を卒業し、トヨタの自動車関連の末端の小さな工場でプレス工として就職しましたが、そこはすぐに辞めました。「もっといい仕事はないか」と、夢を求めて新聞の求人広告を眺めていました。
「コンピュ-タ」という文字に引かれ、日立製作所の中途採用募集を知り、履歴書に日本名と現住所を記入して応募しました。試験に合格したものの「韓国人です」と知らせると採用を取り消されました。「合格」というつかの間の喜びは一瞬にして消えました。谷底に落とされた気持ちでした。

「こんなことが許されるのか。自分の人生はこんな筈ではなかった。このまま引き下がるわけにはいかない。何とかしなければならない。」と当時18歳であった私は怒りに燃えていました。

現在勤務している横浜・戸塚にあるソフトウエア事業部との交渉が決裂し、横浜駅西口でヘルメットを被ってチラシを配っていたベ平連の学生と出会いました。私の方から彼らに声をかけました。全く知らない、みすぼらしい朝鮮人青年から「日立製作所から就職差別された」と事情を聞いた学生は驚いていました。

学生たちは、弁護士を探し横浜地裁に提訴することができました。その後、訴訟の新聞記事を見た、国際基督教大学 (ICU)の学生であった、後でお話してくださると思いますが、崔勝久(チェ・スング)氏は、私が住んでいたアパ-トを探してきました。これが崔さんとの最初の出会いとなり、離れることなく40年以上の付き合いになります。

ビデオにありましたが日本の敗戦から25年、植民地から60年後の1970年に日立就職差別裁判が始まりました。

しかし、民族組織は、「裁判は同化に繋がる」と批判し、冷たい対応でした。民族組織は、民族を前提にした祖国統一・民主化を政治課題として本国に向けられていました。

そんな中で多くの青年の悩みは就職でした。朝鮮人は日本企業に就職できないという現実、差別の壁は厚く、生きる道は制限され、選択の余地はありませんでした。青年たちの将来の夢は、絶望的で「(就職)差別されるのは仕方ない」諦めるしかない状況でした。

裁判が進行すると、私ひとりの問題ではなくなり、また単純な就職差別という問題でなく、日本の戦争責任を問うことになりました。それ以上に、何よりも貧困家庭の9人姉兄の末っ子として育った、当事者である私自身の民族性、生き方、人間性が厳しく問われました。同化した私に民族は存在しませんでした。民族の主体性、アイデンティティ、人権運動、左翼用語など、これまで同化されて生きてきた生活では聞きなれない難しい言葉に出くわし圧倒されました。

いつまで続くか解らない裁判への私のストレスは、このような集会で日本人を告発し糾弾することで自分を甘やかしたと思います。私は、生き方に悩み、挫折を経験しましたが崔勝久さんはじめ学生たちはじっと我慢して私を見守ってくれました。また、多くの人たちに出会い、支えられ生きる糧となりました。

当時、学生たちは大学紛争、ベトナム反戦運動、入管闘争、三里塚などの問題に関わり新たな価値観、生き方を求めていた社会状況でした。

こうした状況も重なって日立闘争は、多くの青年、教師、教会の人たちが関わりました。また既成組織に頼らない、民族の路線から外れた青年たちは、差別社会で必死になって生き方を求めていました。朝鮮人子弟の教育、就職に直面している日本人教師たちにとって切実な問題でした。クラス生徒を引率して傍聴に来た教師もいました。

今日、出かける時、派遣会社に勤める3男の息子から、「職場の女性から、お父さんは何してるの?どこの会社に勤めているの?名前は?」と聞かれたそうです。素直に応えると「学校の授業で聞いたことある。あのパクさん?」と息子と同世代の女性たちは驚いたそうです。日立闘争は、中学、高校の社会科の教科書に記述されようになりました。

昨年、729日の朝日新聞夕刊「窓 論説委員室から 弁護士政治家」に報道されましたが、仙谷由人副官房長官は、弁護団の一人でした。弁護士になって初めて担当した事件が日立就職差別裁判でした。当時20代だった仙谷弁護士は、弁護団会議に来られて、「この事件を是非やりたい」と積極的な姿勢でした。「何故、この事件に関わるのか?」問い、日本人の立場、生き方について学生たちと共に夜遅くまで議論したことを覚えています。弁護団会議は、韓国人、日本人の生き方を問いながら、緊張関係を保って具体的な課題を共に考えながら、前進したことも勝利に導いた重要なファクタ-であったと思います。

先日、職場の後輩から「官房長官の仙谷さんは、Netで見たら朴さんの弁護士だったんですね。でもこの職場の人たちは、知らないのではないですか?」と話しかけてきました。職場の人たちは、私のblogを読んでいると思います。

 提訴から3年半後の1974619日に横浜地裁で勝利判決が下り、9月に22歳で職場に入りました。明日で37年になりますが、現在、日立製作所でコンピュ-タ・ソフトウエア開発技師として働いています。今年11月、定年退職となり、これからお話する私の「続日立闘争」は一旦終えて、新たな道を歩むことになります。

入社当時、私は企業社会独特の雰囲気に押されて、「民族差別」を同僚たちと話すことさえできない、仕事に没頭するだけの弱い人間になっていました。ある意味で、私は会社・組合に「包摂」されていたというか埋没していたわけです。

業務に追われながら「裁判までして日立に入った私は本当に仕事だけしていればいいのか?何かおかしい?」と感じるようになり、思い切って自分の立場を同僚たちに訴えました。前夜、気持ちを落ち着けるため、支えとなっていた新約の使徒行伝を読みました。その甲斐もなく、今でも思い出しますが、目の前は真っ暗でした。間もなく胃潰瘍で1ヶ月入院することになりました。入社して5年後の27歳の時でした。

私は、病棟で考えました。何故、自分は入院する状況に追い込まれたのか?大企業で働く日本人労働者は、何故暑い時は暑いと空調を入れるように会社・組合に要求せず額から汗を流し、団扇で扇ぎながら我慢して働いているのか?子どもでもわかるおかしいことを、おかしいと素直に言わないのか?

ニュ-ス報道でインタビュ-を拒否するビジネスパ-ソンの姿を見ますが、経営者が倫理観を失って犯罪をしても、何故労働者は経営陣を批判しないのか?労働者の権利を守る組合は、労働者の立場になって労働条件の改善を経営者に要求しているか?組合費はどのように使われているか?組合費で生活している組合幹部は普段何をしているか?仕事をしていない組合幹部は労働者なのか?と多くの疑問を感じ、民族差別と労働者の問題について考えざるを得ない状況になってきました。

企業・行政に就職すると、当事者の意思と無関係に頼みもしないのに組合に強制加入させられ、毎月、半日分の労働時間が組合費として給与天引き、チェック・オフされます。組合活動に沈黙していた私は、組合は組合員の権利を守る砦として開かれた組織であるべきだと考え、職場集会で大きな声で発言するようになり、支部執行委員長にも立候補しました。職場集会は名ばかりで、評議員の一方的な説明のみで組合員から質問・意見・要望は一切出ることはありません。

私の大きな声が気に入らなかったのか、邪魔になったのか、職場集会は突如説明もなく開かれなくなりました。組合は、組合員が意見を言う場を無くしました。この状況は、現在も続いています。
私のように組合、会社の意向を無視して組合役員選挙に自分勝手に立候補することは、かなり勇気が要ります。皆さんが自分の判断で組合選挙に立候補する時は、「異端者」として見られることを覚悟した方がいいと思います。

これまで6回挑戦して選挙に敗れ続けましたが、こうした活動を通じて逆に企業社会の矛盾、問題点、課題など見えたことがたくさんあります。意外にも当初は予想を超える30%近い得票でした。組合、会社にとって相当な打撃だったようです。

選挙といっても、企業内組合選挙は予め役員を決定し、人事異動同様、会社と組合で当選確実な根回しがなされています。つまり組合活動に関心のない、沈黙している組合員が突如「自主的に立候補」させられ、対立候補がいない「選挙」で信任されます。この方法は労使幹部が思い通りに、経営者にとって有利な労働条件を決定するのに役立ちます。このような状況の中での30%近い得票だったわけです。

現在、定年退職前の最後の選挙に、評議員・代議員に立候補していますが、今回も当選しません。

組合幹部が提案した議案・方針は、既に会社側と話し合ったのか、結論となっています。それでも一応、民主主義を建前とした「選挙」によって選ばれた役員が集まって、形骸化した代議員制度の下で10億円以上の予算も満場一致で可決します。彼らはこのようなやり方を「民主主義」と言っています。

私が、支部委員長選挙に立候補した役員選挙公報には、対立候補である私へのあてつけなのか、執行部派の候補者の推薦文に、「自己中心的でなく、組合員全員の利益を守り、拡大するために行動する人、組合活動するにあたり一致協力した行動のとれる人」と書いています。

組合は、組合員の意思を反映せず、春闘・一時金闘争などで労働条件改善を求めて会社側に提出し、妥結すれば一切説明もなく組合員に押し付けます。

一時金支給日、上司は、個別に面談しながら査定内容を説明します。そこで初めて労働条件が変わった、つまり結果だけが通知されます。このようなやり方に、組合員は、私のように「労使で勝手に労働条件を決めて、事前に一切組合員に説明しないのはおかしいではないか」と上司に噛み付くことはしません。黙って頷くだけです。

日立労組と同じ体質なのかどうかわかりませんが、管直人民主党政権の内閣特別顧問だった、亡くなった笹森清氏は、高卒で1960年、東京電力に入社し30歳で組合専従に選ばれ、その後委員長を経て、2001年連合の会長に就任しています。就任当時、彼は「怒りを忘れた労働運動じゃだめ」(朝日2001年10月8日)だと語っています。
委員長、連合会長を経験した笹森氏は、原発事故をどのように受けとめたのでしょうか?原発開発に携わった日立、東芝、東電労組組合員、エンジニアは、「怒り」を感じているのでしょうか?

ものを言わない、組合を批判しない、抵抗しない組合員を各職場から委員として事前に決定し結論まで準備する周到な根回しは、上から与えられる、行政主導の「市民参加」型の諮問会議、川崎の外国人市民代表者会議、地域再生を名目にしたタウンミ-ティングなどの委員選出と共通点があります。

春闘の最中に発生した震災後の日本の動きは、戦時体制思わせる、自粛、自粛、自己犠牲を強いるような、挙国一致の様相でした。春闘ニュ-スの報道は完全になくなりました。組合は、組合員に交渉経過を説明せず結論だけを知らせる組合発行の機関紙(HITACHI UNION NOW)を机上に、意図的に組合員が不在時に配布します。これは無料でありません。「組合員の購読料は組合費の中に含む。16円」と書かれています。でも、機関紙は殆ど読まれず、そのまま廃棄されます。組合員は、原発事故と地震災害の影響を気にしながら、黙って働いています。

連合傘下の電機連合(労連)は、9129日に発生した「関電美浜原発2号炉事故について」「・・・発電所周辺の人々や多くの国民に不安を与えた」ものの、事故原因の一つは「・・・ヒュ-マンエラ-を十分バックアップできていなかったこと・・・いずれも人災的要因が強」かった、「・・・環境への影響がなかったことは、原子力の安全性と信頼性が実証された」と、原発事故の恐怖と技術的欠陥が指摘されていたにも拘らず、機関紙に掲載しています。(私が勤続25年を記念に会社、組合に提出した論文から引用)

「原子力の安全性と信頼性」が崩壊した20年後の現在、連合も日立労組も沈黙です。連合は、「原発推進を凍結する」らしいですが、いつメルトダウンするかわかりません。今回の原発事故について日立労組の見解を求めましたが返事はありません。

1ヶ月前(517)に発行されたこの機関紙に、電機連合の「復興ボランティア活動」に労組幹部が参加したことが報告されています。
私は、blogにも書きましたがこの記事を読んでいくつか疑問を感じました。
1.組合員に知らせず、何故組合幹部だけがボランティアとして参加したのか?
2. 1週間強のボランティアに参加した組合員は、どのような勤務扱いになったのか?有休なのか?業務なのか?
3.被災地までの交通費、宿泊、食費、保険加入などの諸費用は、個人で負担したのか?電機連合それとも組合費から拠出したのか?
組合の機関紙に掲載されていますから、組合費を使っていることは否定できません。

組合費を強制徴収し、内に向かって組合員に沈黙を強いる組合(幹部)が、外に向かって「ボランティア」に化ける姿は、まさに企業内植民地主義です。ボランティアにも様々な形態があるようです。

情報を公開することなく、組合幹部が情報を隠蔽し、組合員に参加を求めない、活動費用も明らかにしない、日立労組、連合のパ-フォ-マンスは、ボランティアなのか疑問です。

表面上、組合員の声を反映すると謳い、職場の民衆である組合員の意見を一応聞くものの、予め決めた組合幹部の方針を採用し、最終的には組合員の意見を無視あるいは排除するやり方です。つまり包摂と排除です。
ですから組合員である私の質問、意見は、完全に無視されています。

人間にものを言わせない、言えない組織、社会を支えている思想は、日立闘争で解ったのですが、差別・抑圧する側、される側の人格を破壊します。

あまりにも酷い組合の横暴なやり方に我慢できなくなった私は、労使幹部の春闘交渉現場に立ち会うことを決意し、組合員の声を無視したやり方はおかしいと、その場で発言したこともあります。私の行為は、組合の統制委員会に召喚されることになりました。状況は私のBlogに掲載しています。
日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡 200662
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_111.htm

また「日立製作所労働組合」をgoogleで検索すると、23番目に私が組合に提出したいくつかの公開質問状の一つが表示されます。読んでください。

組合というか、組織というのは権威を利用して批判する個人をパワ-ハラスメントします。個を潰す戦術を取ります。労働者の権利を擁護すべき組合の本来あるべき姿、あり方を求めて組織を批判すると責任を個に転嫁して潰す風潮になっています。生活を脅かす常套句で個を同化あるいは「共生」を強制します。これは、働く人たちにものを言わせない労使一体の経営方針というか企業文化であると言えます。

人間を排除する組織は、例外なく内部において必ず矛盾・問題を起こしますが、その問題をどのように解決すればいいか、矛盾をどう止揚するかという徹底した話し合い、自らの生き方が問われる、足元に存在する「複雑で難しい」根本的課題を避け、生産効率を優先します。
逆にそれを隠蔽し、弱い立場の人間を孤立するように追い込み、抑圧します。弱者が常に虐げられる不条理な格差社会ですが、この現象は人権運動体含めて組織が肥大化するほど顕著に現れるようです。

職場で差別と闘い人権・人間性を求めることは、個の価値観の摩擦・衝突が起きますから、もの言う労働者は孤立するのが普通です。孤立しても生き方を模索するしかありません。孤立、批判を恐れていたら人権運動はできません。人間は孤立に耐えて鍛えられ、人間的に成長することもあります。

選別と競争の中で日々利潤・効率向上を最優先に、絶えず生産工程に追われ、自分の生活を守る、家族を養う、企業社会で生きる労働者は、声を出せる状況ではありません。仕事を終えて一日の疲労を癒すアルコールを飲む時間はあっても「他人事」である民族差別・他者を理解する余裕はありません。人権研修が始まると業務から離れて「一時の解放感を味わい休息の時間」となって疲労感から居眠りする労働者も少なくありません。現実と乖離した、眠たくなるような人権研修は、反発となり排外主義を強化することになります。
つまり、労働者はものが言えない、言わせない抑圧的な職場環境そのものが(民族)差別をつくっていると私は気づいたのです。民族差別と労働者の沈黙は、表と裏で深く絡んでいます。

また、会社と組合の労使協調という「共生」の下で、おかしいことはおかしいとものが言えない職場環境と製品の偽装・不良あるいは人災事故は深く繋がっていると思います。
また、市場原理に基づいた利潤追求、早期開発、経費・人員削減、効率向上など上からの押し付けは精神的負担となって労働者を追い込みます。

効率を優先させた原発事故原発事故の対応を見ると、人間が作った最先端技術による失敗は、もはや人間の力では対策が不可能かも知れません。
40年前に造られた原発の部品があるか? 当時、原発を設計したエンジニアがいるか?と言うことです。東京電力、東芝、日立の経営者幹部が何を言おうと原発を設計したkey personが不可欠です。コンピュ-タのプログラム同様、設計したエンジニアしか解らない部分があるようです。

偽装・事故が発生すれば徹底した原因調査と再発防止策が求められます。しかし、製品偽装・事故を起こすような抑圧的な職場環境を一切不問にした前提で現場の労働者は対策を講じなければなりません。どこまで真実を掘り下げればいいか何日も悩みます。

大人になったら本音と建前を区別しなければなりません。事故対策・製品開発に明け暮れ、徹夜作業が続くとさすがに私のような頑丈そうな体格の人間でも精神的・肉体的に追い込まれ、疲れます。バブル経済崩壊前の70年代、80年代、職場で倒れたり、私のように入院したり、突然登社拒否する人、退職する人も少なくありませんでした。自ら命を犠牲にした人もいたようです。

倫理教育と称してJR西日本の事故を題材にして職場で議論する機会があったのですが、上司が一方的に説明するだけで部下は殆ど発言しません。私は、他社の事故ではなく日立就職差別裁判という素晴らしい素材あるのだから、この事件が何故起きたのか、この事件と職場でものが言えない労働者の問題は深く関係しているからそれについて議論したらどうかと提案しましたが、反発する組合員もいました。この時は目が暗くなることはなく、胃潰瘍にもなりませんでした。

矛盾や疑問があっても抵抗せず組織に従い、組織・幹部の指示が全てに優先するという風潮・価値観こそが企業はじめとするあらゆる組織の癒着・不祥事・事故を起こす原因になっていると思います。

当事者の主権を無視して、組織幹部が全てトップダウンで物事を決定するのは、労働者あるいは人間を効率よく一元管理、支配できるからです。個々の労働者から見れば、ものを考える、生き方を問う、悩む、苦しむことなく引かれたレール便乗すれば、少なくとも平穏無事に生活はできます。
責任を問われることもありません。

経営者・組織の不祥事、事故を防止するためには、会社経営・組織のあり方を根本から捉え直す必要があります。関わりのない末端労働者にノルマを課し、一時凌ぎ、その場限りの研修を重ねても問題は解決しません。

健全な会社・組織するためには、属する人たちが「個」として自立し、立場を越えて不正・不義を訴え是正しなければなりませんが、目に見えない、立ちはだかる厚い壁にぶち当たり、失敗を恐れ、良心の呵責と無力さを感じながら悩んでいる人もいます。人間らしく生きるために最後まで何を失ってはいけないのか自問し、生き方に悩み、日々決断を迫られながら私は静かに働いている状況です。個を確立するというのは、組織の中で試練に耐えることかも知れません。

外国人の置かれている政治・社会・歴史的状況も理解しない、抑圧的な経営で労働者を沈黙させる日立のような企業は、円高の影響もあり、中国、インドなど東南アジアに低賃金労働、さらなる利潤を求めて進出しています。

抑圧的な職場環境で、失敗を礎にした技術を駆使して開発されたハイテク新製品を世界中で販売しています。たとえ技術が進歩しても、沈黙せざるを得ないエンジニアたちの人権意識・感覚は麻痺しています。これが新自由主義路線の下で展開されている多国籍企業資本のグローバリズムの実態ではないかと思います。私たちが日常生活で受けている抑圧・差別と世界の弱者・労働者の置かれている状況は、深く密接に繋がっているのではないでしょうか。

国民国家、植民地主義を鋭く批判する西川長夫立命館大学名誉教授の書かれた「植民地主義の再発見」を、私の置かれている立場で理解すると、結局、私が開かれた組織を求めてきた「続日立闘争」の意味は、国民国家、「企業内植民地主義」を批判することに繋がっているのではないか、と思います。

高い失業率、非正規、派遣労働者の問題、就職活動する後輩たちの取り巻く環境は、震災と原発事故も重なり厳しくなるばかりで、改善する方向になっていません。偽装請負、欠陥製品、談合、人身、原発事故など、経団連・経営者の社会的責任が厳しく問われることもありません。入社試験に合格しても内定を獲得するまで繰り返される採用担当者との面接で、企業側の論理、判断基準で多くの学生が振り落とされ、選別されます。

要するに企業は、人間性を求める個性よりも、「上司の言うことを聞き、会社の経営方針を批判せず黙々と利潤と効率を求める個性」を持つ、組織に順応する、偏差値の高い大学の人材を採用します。これは「いい大学、いい会社」に入るための受験戦争の激化に繋がっています。

 これから就職活動する学生にとって、酷な言い方になりますが、企業に就職するということは、ある意味で人間性を否定する企業文化を持つ、「企業内植民地」で生きるということになります。

こうした背景もあり日立闘争の意味を検証する意味で、この場にいる加藤千香子教授から横浜国立大学に招かれ、「貧困・差別・抑圧への抵抗」をテーマに、300名を超える学生たちにさきほどの日立闘争のビデオを見てもらい、講義しました。

私が日立製作所を訴えたのは、学生たちと同じ年頃で19歳の時でした。日立闘争を経験し22歳で入ったわけですが、できるだけ多くの学生が日立にチャレンジすることを願って、採用拒否された時の心境、TVコマーシャルに出ている「技術の日立」で働くエンジニアたちの姿、職場のあるがままの実態を話しました。

学生たちの目は輝き、真剣そのものでした。感想文を読むと「民族差別」を理解しなくても、これから就職活動する学生たちは、同じ立場になるかもしれないと思ったのか、自分のことのように聞いてくれました。

Blogに書きましたが、気仙沼で出会ったボランティアの学生たちの部屋に招かれ夜遅くまで話し、彼らも同じような反応でした。私は、学生たちと話しながら気仙沼に何しに来たのか、講演しにきたのかと思ったりしました。学生のblogが以下に掲載されています。
朴さんとの出会い201169http://greenz.jp/hiro/?cat=1

3111446分の地震とその後の津波によって破壊された街の再生は、今後どのように方法でなされていくのか、多くの難題があります。
戦争・原爆の犠牲となった広島・長崎、空襲によって破壊された東京、日本は、戦後、朝鮮、ベトナム戦争特需の影響もあり経済大国となりました。しかし、戦後の「民主主義」国民国家建設へのプロセスは、日本の戦争責任を問うことはありませんでした。それは、技術開発と生産効率を最優先し、人間性を否定する企業文化を作り出すことにも繋がったのではないでしょうか?労働者の権利を標榜し、原発を推進した連合・組合をはじめとする運動体も例外ではありません。戦後、植民地から解放されても日本に住むことになった朝鮮人、中国人をはじめとする外国籍住民の人権は、労働運動から欠落し、考慮されることはありませんでした。

戦後最大の災害を契機にして、これから日本は今後どのような地域、自治を作り出そうとするのでしょうか。戦後同様、全てトップダウンで政策を決めるのか、外国籍住民を含めた弱者を「2級、3級」市民扱いするのか、それとも地域住民として対等な関係を作り、共に開かれた住民主体の自治、地域社会を造り、また労働者が自立できる、開かれた組織をつくるのか、問われています。

先程言いましたが、日立闘争は、植民地主義に繋がる同化裁判だったのでしょうか。
民族組織の機関紙・民団新聞は、日立就職差別裁判と韓国籍のまま弁護士の道を開いた金敬得(キム・キョンドク)氏に触れて、「果敢な挑戦者になろう 新成人の皆さんへ」「常識を覆した先輩たち 同胞たちが今日あるのは「動かざるごと山の如し」と思われた「日本の常識」を覆し厚い壁を突き崩した、多くの若者たちの果敢な挑戦があり、それが連鎖を生んだからだと言えましょう」(2007117)と社説で掲載しています。

もともと民族差別の不当性を訴えた日立闘争というのは、結局は国籍、性、宗教、思想、障害の有無、学歴など関係なく人間が人間として受け入れられる、開かれた社会・組織を求める闘いであったということが職場で、言いたいこともいえないエンジニアというか労働者が、PC画面に向かって黙々とキ--ドを叩く姿を見て解りました。

日立闘争は、旧約のEXODUS・出エジプト記だと言われましたが、日立製作所という「荒野」で40年近く彷徨いながら、「続日立闘争」を継続し、そこから私が学んだ成果の一つです。私はそれを自分の生きている足元からはじめようと職場で悩み、迷い、今もチャレンジしています。

自らの足元で開かれた社会・組織を求めて具体的な闘いを、他人のためにやるのではなく自分のために孤立してでも地道に続けること、それが人間らしく生きるということであり、新しい歴史を作ることになると思います。歴史の主役は組織の権力者ではなく、人間性を求め地域を支え犠牲となった労働者・民衆です。

たとえ失敗や後悔があったとしても、歴史の不条理に立ち向かい、日立闘争のように人権は上から与えられるものではなく、当事者が勇気を奮い立たせて、自らの存在・生き方を賭けて獲得するものであるという開拓者精神で、胸を張って歩み続けることが大切であると思います。

理解できなかったことがあったかと思います。長く話しすぎたと申し訳なく思っています。日立闘争から今日までの歩み、「人権・共生」をスローガンにしている川崎の「共生」の問題点を問う「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」の資料、崔勝久さん、加藤千香子教授が編集、著者となった「日本における多文化共生とは何か」を少し持ってきました。読んでいただければと思います。長い時間、御清聴ありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿