2011年6月7日火曜日

アジアを認識するということはどういうことかーある授業での試み

崔勝久さま

メールをありがとうございます。この間に、授業を二コマ行ってきました。一つはアジアについての授業です。アジアを認識するということはどういうことか、文化を語るということはどういうことなのか、ということを論ずる授業です。

ちょうど、「帝国意識」と日本のアジア主義者のところをやっていました。先週、映画『サヨンの鐘』(台湾総督府1943年)というのを見せていて、その構造を説明したのち、学生に「この映画をみた内地の日本人はどう思って映画をみていたのだろう」と問うて授業を終えていました。多くの学生が「優越感」、「日本語を話して当然」、「文明化をもたらした日本はすばらしいと考えていたのだろう」、と答えてくれていました。

そのコンテクストで、崔さんのツイッターの書き込みの話を授業の冒頭にもってきました。学生に、崔さんは提訴したほうがいいのだろうか、それとも?と手をあげさせました。

少数の学生が、「告訴を」。5割ぐらいの学生が「しないほうがいい」。その他は「わからない」でした。「告訴しないほうがいい」と答えた学生に訊きました。なぜ?彼は答えました「ネットなんていちいち取り合っていられない。大人げない」多くの学生がうなずきました。

で、私が問いました。「あなたは日本人男性で、そんな誹謗中傷は受けない、という安全地帯にいるんじゃない?でも、あなた個人が名指しで誹謗中傷を受ける可能性もある。その時はどうするの?」彼「その時は猛烈に怒ります」私「じゃ、告訴しないの?」彼「うーん」

書き込みをしたのは若い人でしょう。少なくとも、私の年代では、ツイッターは使えない。私は彼ら/彼女らに問いました。崔さんは今、66歳。このような心無い言葉に66年間も苦しんできた。彼を66年間苦しませ、そして今、若いツイッターへの書き込み者までが彼を苦しめる。これこそが、戦後66年間も日本に温存された帝国意識なんじゃないの?と。

その後、夏目漱石の『満韓ところどころ』の抜粋を読ませ、文豪の大連における帝国意識を探らせました。日本の近代化が、欧米へのコンプレックスとアジアへの優越感でなりたっていた、ということを理解させたかったのです。

すいません、無断で崔さんの状況を授業に使わせていただいて。でも、差別と無縁だと思っている学生さんたちに問題意識を持たせるという意味においては、ありがたかったです。

ただし、このようなテーマにまったく無関心の学生もたくさんいます。自分は差別の当事者でない、と。ったく、こんな話ばかりでつまんない、と思っているのかもしれません。私の狙いは、このような帝国意識は、どこにもある。中国にも、アメリカにも、イギリスにも。オサマ・ビン・ラディン殺害にアメリカ人が熱狂したということなども帝国意識のあらわれだ。だから、このような帝国意識を発揮できないような社会のありかたを模索させる、というものです。

すいません、長文で。会場で口を開かなかったことへのお詫びです。

MS 拝

0 件のコメント:

コメントを投稿