2011年6月10日金曜日

気仙沼での出会い (1)~(7) 朴 鐘碩(パク・チョンソク)

気仙沼での出会い (1)~(7) 朴 鐘碩(パク・チョンソク) 2011年6月9日

(1)

東日本大震災 2011年3月11日(金) 14:46発生。

5月29日から6月4日まで気仙沼に行った。南三陸に行くつもりだったが、「気仙沼線は津波のため不通。交通手段は車のみ。宿泊場所は車中」とのこと。ネット検索して気仙沼に変更し、ボランティア青年たちが自主運営する宿泊場所を確保した。29日は、台風2号接近で雨。大きな旅行鞄を引き摺り、リュックを背負って東北新幹線で一関に向かう。ワンマンディ-ゼル列車2両編成の大船渡線に乗り換えて横浜から気仙沼まで約6時間。震災を感じさせないほどのどかな山間部を走りぬける列車。気仙沼に近づくと架線事故のため1時間近く停止。

予定より1時間近く遅れて気仙沼駅に到着。20分程歩いてボランティアセンタ(VC)に到着。駅前からセンタまで被災なし。普通の町、生活のようだ。台風と雨のため、29、30日は、VCの活動は休み。事前連絡した宿泊所に向かう。VCのスタッフの一人が、「雨の中、この大きなカバンを持ってホテルまでいくのは大変だ。歩いてもかなり距離がある。40分はかかる。食料はコンビニと地元のマ-ケットが開いている。バスも少ない」と教えてくれた。地図をいただき、それを頼りに駅に逆戻りし、ホテルのある方向に徒歩で向かう。

疲れて下を向いて歩く。一階部分が浸水した気仙沼市役所を通り過ぎて右に曲がる。次第に倒壊した家、瓦礫が除去された空き地が姿を現す。すぐ左に曲がると港が見え始めた。風景は突如変わった。津波で流された家と家が寄り添っている。流された自動車が何台も重なっている。信号も電柱も倒壊。あちこちで重機が動いている。災害支援自衛隊ジ-プ、支援車、復旧工事のダンプカ-、資材を積み込んだ大型トラックが港、被災地域に向かっている。倒壊した家を片付けている親子に道を尋ねる。「大きなクレ-ンを目指して左に坂を上がればいい」と親切に教えてくれた。

坂を上がると港が一望できた。目の前に「大きなクレ-ン」が聳え立っている。「大きなクレ-ン」は、新聞に出ていた、マグロ漁船を吊り上げた、横浜港から曳航された、日本に数台しかない最大級の巨大サルベ-ジ船だった。「建造費は60億円。エンジンを搭載すればさらに費用は嵩む。横浜から気仙沼まで往復するだけで莫大な費用」らしい。数日後、横浜港に向けて曳航されていった。ホテル前の崖下では津波で流された漁船を海に戻すため、運搬する大型輸送トラックの組立作業が続いている。

丘の上に立つホテルは、1970年に建てられた。当時、エレベ-タ(HITACHI)が設置されたホテルはここだけだったらしい。震災以後、支援活動の拠点になっている。避難所、救援物資集積と配布。看護師、保健師、医師、港の復旧工事に携わる労働者(は、7:00過ぎには作業着で港に向かっていた)、ボランティアなどの宿泊所になっている。
復旧工事業者が、震災で壊れたボイラ-、配管、バルブを修理した。入浴できるようになったのは最近である。洗濯機も設置された。気仙沼港復旧工事現場で働く労働者と学生ボランティアの協力もあって何とか
「普通に近い」生活までたどり着いた、という。

No.296 - 2011/06/09(Thu) 21:17:14
気仙沼での出会い NEW / 朴鐘碩 引用

気仙沼での出会い (2)

ホテルの経営者夫妻の住居は、ホテルから近い「鹿折地区」にあった。「鹿折」は、轟音を伴って押し寄せた「黒い壁」・津波に飲み込まれ、3日間燃え続けた。津波で破壊された地域は、敗戦直後の状況に似ている。道はあるものの、瓦礫は放置されたままの状態である。警察による不明者の捜索が続いている。
津波で流された後の混乱に乗じて、家に残された現金、貴重品を盗む人たちもいた。夜は外出できる状態ではなかった、という。

大きな漁船がいくつも横たわっている。大船渡線気仙沼駅の次は鹿折唐桑駅であるが、線路上は瓦礫のため陸前高田市方面は不通。駅前だった広い道路は大きな漁船が遮断している。流された漁船を海に戻すには、莫大な費用がかかる。解体するため何台もの重機で前準備を進めている。線路上で自転車をひいた、地元の25歳の青年と話す。勤めていた会社が流され、解雇され、職を失いVCの活動を終えた帰りだった。

ホテルの社長は、震災当日、津波警報が出て高台にあるホテルに非難してくる多くの住民と逆方向に向かった。クラクションを鳴らしながら、同居していた80歳の母親を助けようと「鹿折地区」に向かったのである。ペットである可愛い子犬「メグ」が残っていたが、母親は、家にいなかった。いつ津波が押し寄せるかわからない。時間は過ぎていく。母親の姿はない。これまで築き上げた思い出は全て残し、着の身着のままで「メグ」を連れて急いでホテルに戻る。その数分後に、建物を破壊する轟音と共に白い波と黒い壁がホテルに向かってきた。社長含め多くの避難住民は、津波で破壊されていく自分たちの家を見ながら、更に高い裏山に非難した。ホテルは地震で傷んだが、津波に飲まれることはなかった。

ライフラインは、2ヶ月余、全て停止した。雪が降り始めた。寒さと空腹がさらに人間を窮地に追い込む。普段着で何も持たず非難し、行き場を失った、数百人(250人~300人。大混乱の中、正確な数は不明)の避難住民は、ホテルに集まってきた。自ずと避難所となった (私が宿泊した、ボランティア用の30畳程の宴会用の大部屋には50人程詰めた) 。ホテル内の布団、毛布を全て出して暖を摂った。後日、市長が訪れ、「避難所として使用させて欲しい」と社長に協力を求めた。津波、寒さ、空腹、余震から逃れる場所は、他になかった。地元住民だけでなく、水産加工場で働いていた中国、フィリッピンから来た子どもを連れた(女性)労働者も含まれていた。(後日、避難所として提供したホテル社長、女将、社長の母に感謝し、涙を流しながら全員帰国した)

しかし、経営者夫妻は、母親と高校生の息子さんとの連絡が途絶えたままだった。入り口をオ-プンにした状態で、笑顔で「いらっしゃませ」と、ホテル経営者としての矜持を忘れず、普段道理にお辞儀をしながら避難する住民を迎え入れた。サッカ-・チ-ム70人程の予約があったため、食糧を備蓄していたタイミングだったので、数日間は、過ごすことができた。夫妻が食べる分はない状態が続いた。
逃げ遅れ、家に残った住民も少なくなかった。被害状況、ライフライン、ハロ-ワ-ク情報など日々更新される地元発行の回覧紙、「気仙沼災害情報」によれば、6月3日時点で、死者967、不明者523、避難住民は、61施設に3629人。

No.295 - 2011/06/09(Thu) 21:14:25
気仙沼での出会い NEW / 朴鐘碩 引用

気仙沼での出会い (3)

社長と社長の母親が再会できたのは、震災から数日後だった。母親は、別の避難所にいた。「母親と再会した時は、・・・」と、社長は言葉を詰まらせた。さらに1週間以上、高校生の息子さんと連絡が途絶えたままだった。入浴できなかった夫妻は、一関まで銭湯に向かった。突然、圏外状態だった女将さんの携帯が鳴り始めた。「連絡してください」という息子からのmailが30通程溜まっていた。「息子は生きていた」それ知った時の気持ちを泣きながら話された。子どもたちが育った記録、新婚旅行の思い出、何もかも全て失った。一緒に聞いていた学生たちも泣いていた。私が横浜に帰る前日だった。

日本経済新聞 2011年5月17日
「気仙沼のホテル 若者の支えで営業再開 過去の縁から無償で手伝い」「社長 前進んでいく」
「東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市にあるホテルが営業再会し復旧工事の関係者や行方不明の家族を捜しに来た人々を受け入れている。震災後に廃業も考えていた社長の背中を押したのは、かつて宿泊した若者の汗と笑顔だった。同市で40年間営業してきたホテル望洋。漁船が打ち上げられた港を目の前に見下ろすロビ-では、Tシャツ姿の若者たちが宿泊客の対応や床掃除に慌ただしく動き回る。社長の加藤英一さん(55)は「ホテルを続けることで復興の助けになればうれしい」と話す。3月11日に大津波が港に押し寄せると、高台にあるホテルには近隣住民らが続々と集まり、翌日には250人を超えた。避難者に部屋や食料を提供する一方、建物には亀裂が入り、水道管は破裂。「避難所としての役割を終えたら廃業するしかない」と考えた。そんな時支援物資を持って駆けつけてきたのが、卒業を控えた矢部貴明さん(27)だった。3年前に野宿で自転車旅行をしていた矢部さんらを無料で泊めたのを機に、加藤さんの妻(48)が連絡を取り続けていた。矢部さんは就職予定の会社に秋まで入社を待ってもらい4月から友人などを集めホテルの清掃などを手伝い始めた。館内に響く若者の笑い声につられ加藤さんの笑顔も増えていった。4月中旬に営業を再開した後も「落ち着くまでは」と無償で業務を支えてくれる矢部さんらに対し、加藤さんは「家族だけでは今も落
ち込んだままだったろう」と感謝。「今はとにかく前に進んでいくしかない」と力強く話す。

No.294 - 2011/06/09(Thu) 21:12:29

気仙沼での出会い NEW / 朴鐘碩 引用
気仙沼での出会い (4)

■VC活動
学生(なべ君)と二人でホテルの自転車を借りて、雨が降る中VCに行く。登録して6人のグル-プとなってリ-ダを決める。車に乗り高齢者が集まる避難所に向かい、物資の仕分け、配給作業する予定だった。しかし、避難所とVCの連絡ミスがあり、ボランティア不要となった。避難所の入り口受付には「自治労」の赤い腕章をした職員が立っていた。彼らもボランティアなのだろうか?
グル-プのリ-ダは、川崎高津区から来られた、猪俣美恵市会議員の知り合いだった。横浜・戸塚から、車で私と同じように単独で参加した女性もいた。彼女は、宿泊場所が無いため車中泊している。

一旦センタに戻り、なべ君と私は、車に1輪車とスコップを積み込んで別グル-プに合流した。老夫婦が住んでいた民家に流れ込んだ泥の除去。秋刀魚の加工場があったS町は、異臭がする地域で民家の屋根に魚が残り、その汁が垂れている。雨が降った後だった。泥は土嚢袋に入れて口を縛る。一輪者に積んで空いている場所に運ぶ。かなり重い。汗がひっきりなしに流れる。マスクしているため眼鏡が曇る。泥の中からガラスの破片、釘むき出しの廃材、魚も出てきた。油、化学品などいろんなものが混ざっている。所有者にとって大切なアルバム、貴金属、一万円札なども出てきた。被災された住民はじめボランティアは、これから雨と暑さで異臭との闘いとなる。昼飯はその中で食べる。

すでに蛆、ハエも発生している。細い路地の奥、庭には流された車がそのまま放置され、民家の裏にも何台もの車がある。自動車の中に閉じ込められ、犠牲となった人も少なくない。瓦礫を集める場所も不足している。場所をめぐってトラブルも起こるようだ。撤去には時間が掛かりそうだ。外見上、被災しなかった高台に建つ民家の斜面・土手に緑の草、花が咲いているが、異臭は避けられない。感染症対策が急務だ。自治体職員が見回っているが、瓦礫は片付きそうにない。土砂で埋まった庭は、植木の枝に引っかかったゴミも除去し10人のボランティアで何とか庭らしくなった。15:00に作業は終わり、センタから運んだ水で作業道具、長靴に付着した泥を洗い落とし、車に積み込みセンタに戻る。センタに到着して感じたのは空気の新鮮さだ。いくら水で洗い落としてもなかなか匂いは取れない。作業着は、バケツに水を入れて匂い消し用の洗剤を入れて漬け置きする。

なべ君と私がホテルに向かって長靴で自転車を漕いでいると、岩手ナンバ-の軽トラックが前方で停まった。「誰だろう?」思ったら、先程まで一緒に汗を流し泥掻きした地元の青年だった。「ホテルまで遠いから荷台に自転車を乗せて送る」という。親切な青年だった。「近いから大丈夫。ありがとう」と言って丁寧に固辞。彼は、「手伝ってくれてありがとう!」と言って手を振っていた。なべ君も私も彼の名前を知らな
い。偶然、現場で顔を合わせ一緒に汗を流しただけなのに。

No.293 - 2011/06/09(Thu) 21:07:43
気仙沼での出会い NEW / 朴鐘碩 引用

気仙沼での出会い (5)

■ホテル望洋の学生・青年たち
Volunteer Networkの共同代表である矢部寛明(や-)君、斉藤裕輔(ゆっけ)君は、いろんな活動を経験している。Netでや-君を検索すると、以下のように紹介されている。
「(2008年)7月に開催される主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)に向けて環境問題への関心を高めようと、東京都内の大学生が東京から洞爺湖まで家庭用の自転車で走る「ママチャリツア-」を実施すると発表した。早稲田大、駒沢大、大東文化大、東京海洋大の学生計5人が参加し、8日に国会前を出発。温暖化対策を漫画入りで説明した新聞「豪快な号外」や間伐材を使った国産割りばしを配り、環境問題をアピールしながら茨城、福島、宮城、青森を経て28日に洞爺湖到着の予定という。早大2年の矢部寛明さん(24)は「ママチャリツア-をきっかけにして、多くの人に環境を考えてほしい」と話している。」
http://greenz.jp/mamachari_toyako/ ◎ママチャリで日本横断!

ホテル望洋の社長、女将さんは、「3年前に野宿で自転車旅行をしていた矢部さんらを無料で泊めたのを機に」、学生たちとの付き合いが始まった。宮崎にいたや-君は、3月11日の震災ニュ-スで社長、女将さんの姿を見て、ホテルが大変な状況になっていることを知り、名古屋で軽四トラック(レンタカ-)を借りて,
食料、物資を積み込んで気仙沼に向かった。彼らはこれまでの人脈をフル活用し、Netで情報を流し多くのボランティアと義援金を集めた。私は、VCで彼らの携帯番号を聞き、ホテル望洋に宿泊することになった。や-君、ゆっけ君を中心に学生たちは、誰からも指示されることなく、てきぱきとホテルの雑務をこなしていた。

私が到着した29日は台風2号接近で雨。30日も1日雨でホテルに籠る。「せっかく来たのにぶらぶらしていても仕方ない。手伝うことはないか。」と聞くと、私に遠慮している様子。ホテルの雑用を手伝う。宿泊客の寝具整理、運搬、雨漏り点検、地震以後、使われなくなった厨房の片付け、大浴場の掃除、瓦礫の中を「メグ」と散歩、買出しなどを学生たちと一緒に動き回る。

買出しするついでに、学生たちは被災地域と市内最大の避難所であるK-WAVEに案内してくれた。市内を流れる大川に流された家の屋根部分を残して浮かんでいる。仙台方面の気仙沼線のレールは津波で大きく曲がっている。瓦礫だけ残して街が消えた。K-WAVEは、避難したお年寄りが多かった。ダンボールで区画されたスペ-スにプライバシ-はない。仮設住宅を作っていた。若い人は、動くことができる。避難所から出て行く。

学生たちと親しくなる。
「パクさんは韓国語を話せるの。日本で生まれたのですか。仕事は何をしているんですか」
「話せない。日本で生まれ育った2世。パ-トナ-は日本人。君たちと同じくらいの息子が3人いる。息子たちと私の国籍は韓国。日立製作所でコンピュ-タ関連の仕事をしている」
「日立で働いているなら、福島第一原発4号機は日立が造ったんですよね。パクさん、何とか原発を停めてください」
「できたら、そうしたい」
「パクさんは、JICAで活躍したらいいのに」
「JICAは外国人を受け入れない。国籍が違うから」
「ええ、何それ、日本はおかしいね。考え方が狭い」
「それだけでなく外国籍の人たちは、地方公務員になっても職務が制限されている」
「パクさん!今度来る時は、奥さん、息子さんたちも連れてきてください。会いたいな。横浜に帰ったら焼肉おごってください」
「焼肉は川崎がうまい。でも高いから安い居酒屋にしよう」
こんな会話をしながらホテルの雑用をした。

No.292 - 2011/06/09(Thu) 21:06:18
気仙沼での出会い NEW / 朴鐘碩 引用

気仙沼での出会い (6)

私は、学生たち(5人)の部屋に入った。気仙沼港が見渡せる部屋。机上にノートPCが置かれていた。Ipad、smart phoneも自由に操作し、友人と連絡しあいながら、情報を交換していた。blog、diaryも書いていた。彼らはIT geeksである。1日の作業を終えて、私は彼らとゆっくり話す機会を得た。
や-君に「朴鐘碩で検索すれば何か出るよ。」
学生たちは、画面を見て「何、これ。一杯出てきますよ。パクさん、すごいじゃないですか。日本における多文化共生とは何か・・・、日立就職差別裁判、ええ!あのパクさん。本人なんですか?高校の授業で聞いたことがあります。」と驚き、「ここでパクさんと会えるなんて信じられない。」「パクさんの部屋を掃除した時、机上にある原稿、英会話の本を見てしまった。すごいな、と思いました。たった1人で気仙沼まで来る人は少ない。きっと何かあると思っていました。一緒に写真撮りましょう。」

日立裁判のこと、横浜国大、東京外国語大学、立命館大学で話したこと、日立での経験を話すと、彼らは驚き、真剣に聞いてくれた。「(民族)差別と抑圧、非正規、派遣労働者の問題、震災と原発問題は、結局、国籍や民族関係なく弱者にそのしわ寄せが必ずくる。こうした問題と自分の生き方とどこで繋がるのか考えて欲しい。生き方を決めるのは自分で他者ではない。失敗を恐れることは無い。失敗したら何が悪かったのか素直に反省すればいい。それだけだ。」
私は、6月18日、川崎・武蔵小杉で話す準備もしていた。や-君はその(下書き)原稿を読み終えて、「ここでパクさんと出会ったことが自分の生き方を変えるかも知れない。内橋克人の本を読んでいます (本棚には原発問題の本が数冊あった)。どこか似ているところがありますね。紹介したい友人がたくさんいます。」と感想を述べた。彼は、歌手の加藤登紀子さんとも親しい。いろんな人たちと活発に行動している。

「個別に捉えるのではなく全て繋がっている。こうした問題をテ-マにイベントを企画しないか。や-君の人脈、私は川崎の知人たちに声をかけてみる。学生、青年たちを集めよう」というと「是非やりましょう!」と元気な声。Peace boat で世界を一周してきた学生(あ-ちゃん)、小学校教師の資格を持つ学生(しばけん君)、就職活動に入った学生(なべ君)たちは、「自分の生き方は自分で決める。難しいかもしれないがトップダウンで全て決める組織に束縛される生き方は嫌だ」と語っていた。彼らは、私の気仙沼での経験・blogを楽しみにしている。

や-君は、私のblogを読み、社長に伝えた。社長も読んだ。「パクさんのblog読みました。パクさんが書いているように、人間はおかしいことはおかしいとはっきり言うことが大切だ」と社長は学生たちに語っていた。社長の父は(数年前に他界された)、地域住民の生活、悩み事の相談相手を務めた人権擁護委員だった。社長は、若い頃、ルイジアナ州ニュ-オ-リンズまで行きJazz を求めたマニアである。朝夕の食事時間になるとホテルロビ-にNat King Coleの音楽が流れていた。心を和ませてくれる。思い出となったCD、レコードなどは全て「黒い壁」に流された。

横浜に帰る前夜、社長、女将さん、社長のお母さん、支配人、学生の皆さんは送別会をしてくれた。台風の雨に打たれて来た時、私は何をしていいのか全く解らなかった。どのような人たちと出会うのか、60歳のシニアに何ができるのか期待と不安があった。被災地に来て歓迎されるなんて予想しなかった。女将さんは、震災時に高校生の息子さんと連絡が途絶えこと、生きているとわかった時の心境を話してくれた。社長のお母さんも避難された状況を話してくれた。「パクさん、明日帰るの? 寂しくなるね」と泣いていた。「別れがあるということは、新たな出会いが生まれるということです。いつまでもお元気でいてください」
No.291 - 2011/06/09(Thu) 21:04:11

2 件のコメント:

  1. 私も気仙沼に友人家族がいます。今最も懸念しているのは福島原発事故の放射能被害がじわじわと北に迫っていくこと。これ以上の追い討ち的な悲劇は味あわせたくない。特に海産物への影響が心配です。力を振り絞って再開した仕事がまたもや泥にまみれるのではないかと。女川原発もありますし。住民の皆さんに呼びかけるのは余りに酷です。

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  2. 白楽正志様 
    気仙沼も一部の土壌から放射能が検出された記事を読みました。原発事故以降、これまで聞いたこともない放射能単位が日常生活に突如入り込んできました。戸惑うのも当然です。原発に無関心だった人たちもこれからこの単位と付き合う生活を余儀なくされました。しかし、この単位もどこまでが安全で危険な値であるのか基準さえ不確定です。住民は何を信用していいのか、わからないのが現実です。
    気仙沼港は、いろんな箇所で隆起していました。地盤沈下で海水が入り込んでいました。気仙沼魚市場も急ピッチで復旧工事をしているようですが、課題が多く時間が掛かかると思います。フェリ-は動いていました。森進一の港町ブルースの記念碑も傾いていました。海底には数百台(以上)の自動車が沈んでいるようです。犠牲者捜索が続いていました。気仙沼港の離島・大島は津波の防波堤の役割となって多くの犠牲者を出し、孤立したようです。
    復興、復旧の青写真がない中で、それでも住民は現実を受け止めて生きるのに必死だと思います。
    時間見つけて、気仙沼に行きます。

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