2011年5月15日日曜日

日本を変えた「日立闘争」・・・朴鐘碩さん定年へー民団新聞

「日立闘争」当該の民団新聞で朴鐘碩の日立定年の記事が載りました。今年11月だそうです。長い期間、お勤めお疲れさまでした。日立を相手にした、4年近い裁判闘争の勝利の後に入社して定年まで勤め上げたのですから、その苦労たるや人知れぬものであったでしょう。民団新聞の記事の内容を紹介します。

なお、民団新聞から朴鐘碩の定年についての寄稿を依頼され、私の寄稿も掲載されています。全文、公開いたします。

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職場でも37年間、人権問い続ける


70年代初頭、民族的偏見による就職差別に敢然と立ち向かい、日立ソフトウエア戸塚工場に入社した朴鐘碩さんが今年11月に60歳の定年退職を迎える。ソフトウエアのシステム開発という未知の分野で悪戦苦闘しつつ、一方で在日韓国人の期待を一身に背負って入社したという重圧を胸に、職場で人権問題を訴えてきた朴さん。入社後も37年間途絶えることなく続けてきた「日立闘争」にひとまず終止符を打つ。

朴さんが入社試験に受かったのは18歳。「世間知らずの青年」だっただけに、「韓国人」の一言で採用拒否されたときは、がけから落とされた気持ちだった。「なんでこんなことが許されるのか」。単純な怒りが裁判を起こすきっかけとなった。

裁判闘争を通じて自らの民族性に目覚め、韓国人として生きていこうと決意を固めた朴さん。職場では肩肘を張ったぶん、幾多の挫折も味わってきた。

まず、配属先が希望した経理ではなく、ソフトウエアシステム開発部に決まったこと。1日も早く仕事に慣れるのがやっとで、職場で民族差別や人権問題を話し合うどころではなかった。朴さんは悩んだ。「ただ仕事だけしていればいいのか。なんのために裁判までして日立に入ったのか」と自問自答する毎日が続いた。心労のためか、入社5年目で胃潰瘍を患い、入院した。

朴さんは当時を振り返って、「きつかった」とただ一言。金敬得弁護士(故人)からは、「どんなに辛くてもやめるな」とアドバイスされた。日立闘争を支えた当時の支援団体「朴君を囲む会」の中心メンバーも朴さんの後ろ盾となった。やがて朴さんはいい意味で開き直ることにした。外国人としてよりも、住民の一人として、人間らしく生きられる社会をつくっていこうと、川崎での地域運動にのめりこむようになった。

職場では、「責任感を持って入ったのに、権利意識を抑えられ、矛盾や疑問があっても働いている人にものを言わせないという職場の中の目に見えない同化と抑圧の雰囲気」に、「人間性が否定されている」と異議を唱え、「風通しを良くしよう」「おかしいことはおかしいと言っていこう」と、組合の中で問題提起しながら孤軍奮闘してきた。

朴さんは日立での37年間を、「短い気がする」と振り返った。定年を迎えても、契約社員として65歳まで会社で仕事を続ける道は残されているが、一方で大学に行きたいという希望も持ち続けている。研究テーマは人権問題や社会問題。「日立闘争」は朴さんにとっての永遠のテーマなのだ。


「日立闘争」とは

70年に日立ソフトウエア戸塚工場採用試験を受けて合格しながら「一般外国人は雇いません」と採用を取り消された朴鐘碩さんが、「不当解雇」と横浜地裁に訴え、74年6月19日に勝訴した3年半にまたがる闘争。在日韓国人と日本人有識者、学生らが「朴君を囲む会」をつくり、支援。地裁は判決文のなかで朴さんが履歴書などで「新井鐘司」という通称名を使用せざるを得なかった事情に理解を示し、国籍による差別と認定した。判決は在日韓国人の権利意識を高め、その後の全国的な民族差別撤廃運動につながっていった。

(2011.5.11 民団新聞)

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寄稿 共に切り拓いた新たな地平ー崔勝久(元「朴君を囲む会」事務局)

私が朴鐘碩に出会ったのは、ある朝、朝日新聞で「ボクは新井か朴か」という大きな見出しに引き付けられ、彼が韓国籍であるために日立を辞めさせられ裁判闘争を起こしたということを知り、どのようにして彼の住所がわかったのか定かではないのですが、彼の住むアパートに会いに行ったからでした。


 在日朝鮮人である自分は一体何者で、どのように生きればいいのか模索していた私にとっては、とても他人事とは思えませんでした。既に日本の学生たちが裁判に関わっていたのですが、彼らは、基本的に労働問題と考えていました。しかし私は、これは「同化」されてきた在日朝鮮人の受けてきた差別事件であり、日立の解雇は民族差別であると、強く主張し、結果としてその方向で裁判をすることに決まりました。「朴君を囲む会」を立ち上げ、社会的に知名度が高く私たちの訴えを理解してくれる人に呼びかけ人になっていただき、裁判闘争と並行して、日本社会の差別の実態を明らかにしつつ、自分の生き方を求める集会を定期的にもつようになりました。

民族教育を受け朝鮮人として社会にでている在日の文化人からは、朴鐘碩の裁判闘争は、本名を使わず本籍地を偽って現住所を書くような奴に、民族差別だなどと裁判を起こす資格はない、また在日の民族団体からは、民族主体性とは、本国の民主化と統一に向けた闘いに参加することであって、そんな就職差別裁判に協力できないと見向きもされませんでした。たまたま私の所属していた韓国教会の牧師の理解があり、日本の学生と合わせて5-6名くらいの小さな事務局で裁判闘争と小さな集会、出版物の発行などを続けていくことができました。

本名の呼び方もわからない「同化」された朴君の闘いは、韓国の民主化闘争のなかでも取り上げられ、裁判の勝利判決がでたときには、「民族全体の貴重な教訓」(東亜日報)、「告発精神の勝利」(韓国日報)と報道されました。これは朴君本人の成長と「朴君を囲む会」の闘いのなかで勝ち得た運動の質に対する評価であったと思います。

日立闘争がどのようなものであったのかについては、崔・加藤編『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)を参照ください。またこの日立闘争の過程で一緒に運動をしてきた日本人学生と私たちの関係については、加藤千香子さんの論文が優れた分析をしています(「一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動――「日立闘争」を中心に――」(『人民の歴史学』185号、東京歴史科学研究会)。

日立闘争は、自分の生きている足元から自分自身を問い、社会を問う運動であったと思います。その考え方から、川崎という地域で、韓国教会を基盤として同胞の子供たちを中心に保育園や学園を運営して、「民族差別と闘う砦づくり」を目指しました。青年や、オモニたちも集まるようになり、その中から、地域での具体的な差別問題を取り上げ、行政の国籍条項を変更させる運動になっていきました。私は朴鐘碩と一緒にその先頭に立ち、民族運動としての地域活動という考え方で運動を進めてきました。

その後、私たちの後輩たちによる指紋押捺の運動や、教育委員会との交渉を経て、行政と一緒になって地域センターのふれあい館が建設され、「多文化共生」が川崎市全体のスローガンにまでなり、外国人市民代表者会議ができるようになりました。

しかし「門戸の開放」はなされても、川崎市は国の「当然の法理」に従い、外国籍公務員の昇進と職務の制限を撤廃することなく、地域を離れていた私は朴鐘碩たちと再び一緒になって「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」をつくり行政交渉を始めることとなりました。

10年を過ぎて運動の転機となったのは、行政と「門戸の交渉」のことで話し合いをしても埒があかないということが骨身にしみてわかるようになり、市長が国籍条項の撤廃を決断さえすれば解決できるのであれば市長を代えよう、市長の3選を阻止し、新たな市長を選ぶ運動をしようと決めたときでした。その運動を進めるうちに、多くの市民たちの支持を受けて、「新しい川崎をつくる市民の会」をつくることになりました。

「多文化共生」というのは、言葉の上では「多様性」を重んじるとしながらも、外国人住民の政治参加も認めず「二級市民」として、「準会員」(市長発言)として扱うということがはっきりとわかりました。「共生」は既成社会への埋没であって、よりよい社会に向かっての「変革」を求めるものではないということです。鳴り物入りでつくられた外国人市民代表者会議も、決定権はなく、そこで扱う内容も限定されたものであり、「準会員」の枠の中で、外国人市民というカテゴリーを新たに作ったものに過ぎなかったのです。

「新しい川崎をつくる市民の会」(以下、「市民の会」)では、民族・国籍を問わず、<協働>によって地域社会の変革を求め、すべての住民が「生き延びることのできる社会」をつくろうとしています。今回の地震によって、地域の住民は国籍や民族にかかわらず、一緒に災害に遭うことがはっきりとしました。私たちもまた外国籍住民として、地震による災害や原発事故がなく、平和な暮らしができ、いかなる差別も許さないような地域社会をそこに住む住民たちと一緒になってつくっていかなければならないと考えるようになりました。

昨年の「韓国併合100年」は、川崎の埋め立てがはじまった年でもありました。戦争の後も多くの同胞がこの地で住むようになりました。私たちは国籍による差別だけでなく、公害をはじめ多くの社会の不条理の中で生きてきたことになります。私たちの人権は、家族や同胞社会の中だけで実現されるものではなく、自分たちが住む地域社会そのものが豊かになり、地域住民が中心となってよりよい社会にしていくなかで、実現されるのではないでしょうか。

100年かかって人の住むことのない石油コンビナートや製鉄所が立ち並ぶようになった、埋立地に近い川崎南部に多くの同胞が住みます。50年、100年後どのような地域社会にしていけばいいのか、そこでは民族や国籍や、性や年齢にかかわらず、人々が環境汚染のない、素晴らしい海辺で商業地、職場、住居があり、住民が自分たちの責任でまちのあり方を決めていくのです。そこから世界に向けて素晴らしいメッセージが発せられるでしょう。

このような考え方に至り、そこに向けて具体的な活動を進めようとしているのですが、これは日立闘争を立ち上げ、その後の地域活動、各自の社会経験を通して求めてきた、人としての生き方、人間らしく生きるということの結果なのでしょう。

朴鐘碩は、日立という大会社の中で、ものを言うことを許さないような職場のあり方を変えようとしてきたのですが、同時に、「市民の会」の活動も一緒に続けてきました。彼との出会い、彼とのどのように生きればいいのかという模索、歩みがなければ、今の私はなかったでしょう。私と共に歩んできた妻と共に、今年定年を迎える朴鐘碩夫妻には、お祝いの言葉よりも、私たちの心からの感謝の言葉を捧げたいと思います。

まだまだ私たちがやらなければならないことが多くあります。これからもよろしくお願いします。朴鐘碩、お疲れ様でした。ごくろうさま、よくがんばったね。



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