2011年4月28日木曜日

脱原発を目指した、日韓の連帯をー草の根の学習会、交流会から始めましょう

4月26日にブログで書いた「原発推進は既定路線か?-朝日新聞の報道に疑問。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2011/04/blog-post_26.html
韓国の宗教界への問題提起」に対してお二人(日本の無教会の信徒、韓国の文学者)の方から感想をいただきました。お二人とも日本と韓国、それぞれの宗教界に実情に対して批判的な見解をお持ちのようです。

私は日本の戦争中、徹底的に信仰を守り抜こうとしたのはむしろ保守的な信仰の持ち主であったことを知り、日本の原発事故に対してむしろ保守的な方が、脱原発を訴える必然性があるのではないのかと思います。日韓両政府は、福島の原発事故にも拘わらず、原子力の平和利用という名目で、原発プラントを世界で売り込もうとしのぎを削っています。それに対して両国においては、それほど市民の反対の声が湧きあがってきているわけではないようです。原発に対する不信は深く浸透しているのかもしれませんが。

日本よりさらに原発依存が高い韓国では、ようやく原発がある地域の首長が集まり、政府に安全を保障することを求めだしているようです。しかし更なる輸出の拡大、そのための電力の確保という大義名分の前に、教会は勿論、多くの市民運動体もいまだ沈黙をまもっているように、私には見えます。

かく言う私もまた3月11日前までは、原発に関しては漠然とした意識しかなかったことを正直に告白せざるをえません。事故の現実と、その原発事故の実態を知ることで、これは放置してはいけない、原発の問題点を知った人はその危険性を多くの人に知らせなければならないと、遅まきながら理解し、行動するようになりました。

韓国と日本において、それぞれが自分の住むところで闘いを進めてこそ、初めて連帯ということが言えるのだと思います。これまでの民主化闘争の連帯などというのは、むしろ韓国の闘いに対する日本側の支援であり、日本側もまた全存在を賭けて日本をよくするような地道な闘いを続けてきたとはとても言えないように思えます。

しかしこの脱原発の闘いは、工業化に邁進してきた世界の近代化とはなんであったのか、それはどのような思想の下で展開されてきたのか、十分な反省があったとは言えません。また後から新興国として世界に打ってでるようになった韓国もこれまでの先進国の過ちを直視するよりは、同じ過ちを歩み始めているように見えます。両国の連帯を図るためにもまず必要なことは原発の実情を知ることです。大組織の声明文ではなく、草の根での学習会を地道に行い、情報・意見交換をすることから始めたいと願います。

みなさんのご支援、御協力を願ってやみません。

崔 勝久

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(韓国のCKさんよりいただいたメールより)

崔 勝久さんへ

崔さんの情熱に深い尊敬の念を禁じ得ません。韓国キリスト教に対する崔さんの批判に私が何の言及をしなかったのは、崔さんに同意しなかったからではなく、むしろ韓国教会と宗教に対して私の幻滅を今更お話しすることができなかったからです。キリスト教、カトリック、仏教は言うまでもなく、韓国での宗教は既にその堕落の程度を超えてから永く経ちます。

宗教本来の途に献身する偉大な修行者や教職者がいないわけではありませんが、制度的に組織化された教団または大型教会や寺院らは韓国社会において最も力のある権力としての位置を占め、いかなる政治勢力よりもっと暴力的であり、自己中心的な集団になりさがっています。韓国社会の発展に立ち向かう最も大きな勢力を挙げればまず宗教集団だと言えるでしょう。

私は最近、小乗仏教に心酔していましたが、これは韓国では大変微力な少数集団であり、大部分は極めて世俗化され政治的な争いに埋没しているというのが現在の実情です。キリスト教であれ、仏教であれ、韓国の主要な宗教集団が原発問題のような意味のある批判的な発言をするのはあまりにもむつかしいと思われます。しかし今やまさに、宗教家たちが立ち上がる時であることは明らかです。どのようなやり方であっても、宗教組織はこの問題に積極的に介入するように力を合わせなければならないと思います。

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(日本の無教会に属される坂内宗男さんより)

同感です。中曽根・石原思考が一般日本人(現実主義的)の享けるところであり、出エジプトがいまこそもとめられます。これが出来なければ日本は転落しかありません。

韓国キリスト教会の無感覚もフアンダメンタル信仰の反映であり、日本でも色濃くはびこっております。地の塩として生きない信仰は偽りの信仰であり、政治に利用されるだけであることは歴史が示すところでしょう。

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