2011年3月16日水曜日

加藤さんに応えるー地域社会における実践を

加藤さんへ

加藤さんの指摘はその通りです。この問題はいろんな角度から考えなければならないと思います。私が最大の課題として捉え、取り組もうとしている点です。

日本社会をどうみるのかということでは、まず戦後において、明治以降の富国強兵という国策、及びそれを推進するための植民地主義政策をどのように克服したのか、あるいは継承したのかということを見つめる必要があると考えます。それと国民国家というものはどのような存在なのか、「擬制的」な存在、と加藤さんは書いていますが、西川長夫さんは、国民国家は「植民地主義を再生産する装置」と断じています。この点の考察もまた不可避でしょう。

戦後になって新しくなった部分もありますが、「国体」の継承ということでは変わりはありません。どうして日本(人)は戦争の加害者責任を問わないのか、そして歴史教科書で戦争を美化する動きを続けさらに横浜に見られるようにそれを強化しようとするのか、外国人の人権を認めないのか、これらのことを日本(人)に問い詰めるだけではだめではないか、むしろそのようにしかならない原因は何なのかを考えなければならないのではないか、私は最近、そのように考え始めるようになっています。

国民国家というものは存在の初めからして外国人、女性を差別するところから始まったという指摘は当たっているのですが、それではそれに対抗していくにはどうするのかということを示さないと、国民国家が存在する以上、「共同体幻想」を持たされる国民は相変わらず植民地主義価値観を持ち、女性と外国人への差別・抑圧の問題は残るという結論になります。そして海外市場でのビジネスの展開と、国内で外国人を労働力として必要とする以上、「多文化共生」を謳い、過去の植民地主義を全面的に否定していかないということになるでしょう。これは一日本の問題ではないのです。韓国や中国も国民国家として日本と同じような問題に直面しています。だから私は、自分の足元の地域をどうするのかということから始めなければならないと考えるのです。

私が注目するのは、地域社会です。今年出版された斎藤純一編『人権の確立』(法律文化社)に寄稿した拙論を是非一度、読んでみてください。私は当然視されている日本の民主主義制度というものが機能していないと捉えます。4年に1度選挙に行くことを政治参加として代議員に全てを委ねる、そして自分たちは地域社会にあってその根本的なグランド・デザインの作成から教育、生活のあらゆる局面において自分たちで議論しあい、責任をもって運営していくということになっていない、「住民主権に基づく住民自治」に至っていないと見ています。

自分で自分たちの地域社会を運営できない、自立(自律)しない人たちがどうして国家の政策に異議を唱えるだけでなく具体的な対案までだせるでしょうか、現在の問題にまともに取り組めない人がどうして過去の問題を真摯に受け留めることができるでしょうか。私は時間がかかっても、このことに取り組む中でしか日本の再生を図りあるべき社会に向かうことはないと思うのです。

イタリアのポンペイの遺跡を見て改めて思い知らされたのは、結局、ポンペイの繁栄も外国人・奴隷・女を犠牲にして成り立っていたものだし、国民国家の成立も根底においては同じであり、全ての人間の差別・抑圧という不条理のない社会をつくるということは人類史上、いまだ実現されていない課題であるということでした。その歴史的な課題をめざして、地域社会の中から国民国家を内破していくような質をつくりあげるしかない、というのが、今私が考えていることです。

それは過去の新左翼が唱えた「革命」ではありません。旧左翼を批判し乗り越えようとした点はあったのですが、それでも彼らの観念性は拭いきれません(これも昨年発表した拙論を参照ください。http://www.nextftp.com/tahhh/tahhh/newpage29.html)。私は、今私たちはこれまで人類が達成できなかった歴史的課題に挑戦するべきだと強く思っています。

意識の変革は観念からではなく、具体的な出会いや実践の中から問題が可視化され、具体化されるのです。今、地域社会に徹底的に注目しこだわるべきだと思います。

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