2011年3月9日水曜日

植民地支配から100年、日立就職差別裁判闘争から40年を迎へて 「続日立闘争」から学んだこと(1)-朴鐘碩

植民地支配から100年、日立就職差別裁判闘争から40年を迎へて 
「続日立闘争」から学んだこと (1)  
朴 鐘碩

朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業した日立製作所は、久原鉱業所日立鉱山開発を出発点にした。植民地支配は日本の経済基盤となった。日立をはじめ日本企業は国策に沿って経営してきた。戦時中の企業は、労働力不足でも倒産することなく経営は続いた。軍需産業に関係したのか、戦時体制・国民総動員翼賛の下で経営者、労働者は徴兵を免れ生き延びたようだ。

日立製作所は、「戦争の渦のなかで」「1939年時点で約4万6,000人だった従業員は、1945年初めには約11万8,000人にまで拡大した」(開拓者たちの挑戦-日立100年の歩み-2010年6月)。強制連行された多くの朝鮮人が働いていた事実は、一切書かれていない。

「「日立鉱山史」、「日本鉱業株式会社五十年史」によると、日立鉱山は、久原鉱業の後身の日本鉱業株式会社の経営で、多くの鉱山や製錬所をもち、1945年以前には朝鮮の甲山、楽山、検徳や鎮南浦にまで進出していた。1943年現在、ここには、全従業員51,100名中21,800名の同胞(朝鮮人)がいた。また日立鉱山には、1940年2月頃から強制連行されるようになり、第1回は162名「移入」され、年内に500名を予定しており、1942年には1162名が働いていた。」(「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1971年 未来社)

戦時下の日本は、朝鮮人、中国人を強制連行し、労働力不足を補った。徴兵し、全国の土木工事現場などで多くの犠牲者が出た。日立労組は、戦後結成されたが植民地支配・戦争責任を問うことはなかった。現在も問うことはない。企業内組合を抱える連合も同じである。

日立製作所と日立労組は、100年間の経営の歴史で植民地支配、日立就職差別闘争に触れることは無かった。仲谷薫労組委員長は「次なる100年への挑戦-次なる飛躍と働きがいのある職場づくりをめざして-」、「労使でこの(経営業績)目標をなにが何でも達成しなければなりません。次の日立の100年の礎を皆さん(組合員)と共に築いていきたい」「ONE HITACHIを合言葉に」と労組機関紙で述べている。新自由主義路線に沿った、経営者の利潤追求論理に便乗している。組合は、労使協調の下で「次なる100年」も労働者にものを言わせない抑圧的な職場環境を維持して会社を支えていくのか。

戦後、1950年の朝鮮戦争、その後のベトナム戦争の軍需景気の恩恵にあずかり、日本経済は復興した。朝鮮戦争は、朝鮮半島を焼き尽くし朝鮮人民衆は覇権国の犠牲になった。北朝鮮、韓国に帰らず日本で生活する朝鮮人は、無権利状態のまま差別、抑圧の中で生きていた。日本社会で本名を名乗って生きることは困難であった。私は、高一の時、TVニュ-スで静岡県・寸又峡で起きた金嬉老の事件を知った。学生たちは、新たな価値観、生き方を求め、社会変革を目指し、ヘルメットを被り角材と火炎瓶で機動隊と衝突していた。

民族組織の視線は、民族を前提に祖国統一・解放を課題として本国に向けられていた。そんな中で多くの青年の悩みは就職であった。朝鮮人は日本企業に就職できない、差別の壁は厚く、生きる道は制限された。選択の余地はなかった。(就職)差別されるのは仕方ないと諦めていた。しかし、組織から外れ、民族を知ることなく同化して生きてきた多くの青年は、新たな生き方を求めて彷徨っていたのではないか。

私は、日本の高校を卒業後、自動車関連会社の末端の小さな工場でプレス工、現場で働きながら新聞の求人を眺めていた。日立製作所の中途採用を知った。履歴書に日本名、本籍欄に現住所を記入し、試験を受けて合格した。「韓国人です」と告げると採用を拒否され、つかの間の喜びは一瞬にして消えた。谷底に落とされた気持ちだった。「こんなことが許されるのか。自分の人生はこんなはずではなかった。このまま引き下がることはできない。何とかしなければならない。」と当時18歳であった私は怒りに燃えた。

現在勤務している横浜・戸塚の日立製作所(ソフトウエア事業部)との交渉が決裂した。横浜駅西口でヘルメットを被ってチラシを配っていたべ平連の学生たちと出会った。みすぼらしい身なりの朝鮮人青年から「日立製作所から就職差別された」と聞いて、学生は驚いたようだ。学生たちは弁護士を探し、横浜地裁に提訴することができた。その後、訴訟の新聞記事を見た、国際基督教大学の学生(ICU)だった崔勝久(チェ・スング)氏は、私が住んでいるアパートを探してきた。最初の出会いだった。植民地から60年、敗戦から25年経過した1970年に日立就職差別裁判(日立闘争)は始まった。

私は、9人姉兄の末っ子として貧困家庭で育った。同化した私に民族はなかった。自分は一体何者か、言葉、歴史を知らず、韓国の名前の読み方さえ知らなかった。生き方を厳しく問われ私は悩んだ。民族、アイデンティティ、主体性、人権、左翼用語など聴き慣れない言葉に圧倒された。私は、集会で日本人を告発し、糾弾した。挫折もしたが、同世代の学生たちは、じっと我慢し私を見守ってくれた。多くの人たちと出会い、生きる糧になった。

私は、本を読むようになった。というより読まなければいけなかった。私が提訴する2ヶ月前、1970年10月、早稲田の学生だった山村(梁)政明氏(25歳)が焼身自殺した。「私は在日朝鮮人として国に生を受けた。在日朝鮮人の存在そのものが歴史の不条理だ。その上、自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍増すること以外の何ものでもない。」と書き残した。遺稿集「いのち燃え尽きるとも」(山村政明 大和書房 1971年)を読んで、事件を知った。

1958年の小松川事件(李珍宇青年)を知った。李青年の減刑嘆願、金嬉老事件公判対策に携わった鈴木道彦教授に出会った。教授は、「越境の時 1960年代と在日」(集英社2007年)を出版された。
李少年は、「中学卒業後、朝鮮人であるために大手の会社から就職を断られ、臨時プレス工として働きながら」、小松川高校定時制に通っていた。「自分が中学卒業のときに、ある大きな会社へ勤めることになったとき、外国人、僕の場合、韓国人だというんで採用されなかったことがあるんです。」と法廷で述べている。「日立製作所と第二精工舎は、李が朝鮮人であることを知ってその国籍ゆえに彼の就職を拒んだのである。」事件から4年後の1962年宮城刑務所で刑が執行された。彼は22歳だった。

民族組織は、「日立就職差別裁判は同化に繋がる」と批判し共闘・支援を拒否した。(後に、崔勝久氏は在日大韓基督教会青年会の代表委員をリコールされた)裁判が進むに従い、日立就職差別闘争は、私ひとりの問題ではなくなり、次第に多くの青年、教師、教会の人たちが関わるようになった。組織、民族から外れた青年たちは生き方を求めて、日立闘争に関わるようになった。朝鮮人子弟の教育、就職に直面している日本人教師たちにとって切実な問題であった。クラス生徒を引率し、自らの生き方の問題として受け止め傍聴に来る教師もいた。

1973年11月、当時東京・丸の内にあった日立製作所本社への糾弾闘争が始まった。日本のマスコミは大々的に報道し始めた。当時、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の戒厳令下で韓国の主要新聞は、日立本社糾弾の現場を一面トップで報道した。民主化を求める韓国キリスト教学生連盟(KSCF)は、「反日救国闘争を宣言」し、「日立で起こった就職差別など、日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即時中止せよ」と日本政府と日立製作所を弾劾した。学生たちは、弾圧・逮捕されたが、韓国教会のオモニ(母親)たちが引継ぎ、韓国全土で日立製品不買運動を展開した。それは欧米にまで及んだ。74年6月19日、横浜地裁で勝利判決が出された。私は、3ヶ月後の9月(提訴から4年後) 、22歳で日立製作所に入社した。日立製作所本社糾弾闘争から入社するまで、韓国、日本のマスコミは大々的に、連日のように日立闘争を報道した。

韓国の民主化闘争に日立就職差別裁判が取り上げられたことによって、「日立闘争は同化に繋がる」と批判した民族組織が関心を示すようになった。

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