2011年2月6日日曜日

「レズビアン差別」に対する崔さんの意見についてー金志映

みなさんへ

休日はどのように過ごされたのでしょうか。この2,3日はあまり寒さは厳しくなかったですが、乾燥していて喉が痛かったですね。みなさん、風邪にはご注意ください。

さて、若い研究者が自分の研究成果を発表して、仲間や先輩学者の批判を受けながらもまれる「同時代史学会」に顔を出した私は、隣の女性と話す機会がありました。韓国の大学を終え東大で学ぶ彼女は、後日、私からのブログ内容を送るメールへの感謝と共に、「在日」である私の話を聞きたいということで、お会いしました。ジェンダーに関する造詣も深いようであったので、私が書いた「立命館大学の若手研究者による『レズビアン差別事件』論文に思う」(http://anti-kyosei.blogspot.com/2011_01_01_archive.html)についての彼女の意見を求めました。この間、「レズビアン差別」と「女性差別」とは違うということで、私の意見に対するメールが何通か寄せられていたからです。

彼女からの返事を以下に記します。私一人で読むにはもったいないと思い、本人の承諾を得て、みなさんにも読んでいただきたいと思いました。これで堀江論文への私の意見の中の、私の認識の不十分な点についてさらに議論を深めていけるようになると思います。私もこれをきっかけに「女性差別」「レズビアン」などジェンダーに関する本をしっかりと読むことにします。

金 志映(キム ジヨン)
博士課程
東京大学大学院総合文化研究科
超越文化科学専攻比較文学比較文化分野

ご自身の自己紹介:
私は現在、戦後ロックフェラー財団から奨学金を受けてアメリカに一年間滞在した文学者たちの「アメリカ」表象をテーマに、博士論文を執筆しております。この留学制度は、アメリカの対日文化冷戦政策の一環として準備されたもので、その裏には日本人知識人を親米化する意図があり、大岡昇平や福田恒存、江藤淳など戦後を代表する多くの文学者たちがアメリカに招かれています。そのような時代状況のなかで、各文学者がどのようにアメリカを体験し、表現したのか、そしてそれらの文学的言説が当時の言説空間のなかでどのような役割を果たしたのかを明らかにすることに現在の関心があります。こうした考察を通して、戦後日本がもっぱらアメリカとの関係を軸にナショナル・アイデンティティを築いていくなかで、アジア諸国が多くの人々の意識から抜け落ちてきた歴史認識の問題を、もう一度明らかにし、問い直すことができればと考えております。

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(以下、ご本人のメールから)

もととなっている堀江さんの論考を探したのですが、まだ学校の図書館に入っていないみたいで、残念ながら本文を入手できませんでした。何せ本文を読んでいないので、崔さんの感想だけを読んで少し考えたことを書きますが、私の読み違いになってしまうかも知れません。ご容赦ください。

まず私は、同性愛者差別の問題は女性差別の問題と連動しているという崔さんの認識には全的に賛成します。また、レズビアン差別の問題を教会内のほかのさまざまな問題との関連のなかで捉え、教会の構造を根本的に問い直すことは、最終的には必要であるだろうと考えます。

ただ、「ホモフォビア」/「レズビアン差別」問題の根底に社会構造化された女性差別の問題がある」という認識の構図には個人的に違和感を覚えましたので、少し考えましたことを書いてみたいと思います。私の今までの理解では、男と女の二項対立を支える強制的異性愛と男性中心主義が基盤となって「男」を優位におき、それと二項対立的に構築された「女」を従属させる現在の社会構造は成り立っている。その表れが同性愛嫌悪あるいは同性愛差別であり、ミソジニーあるいは女性差別であるというふうに理解しています。つまり、「ホモフォビア」と「ミソジニー」、そして同性愛差別と女性差別が互いに連動し、折り重なっていると捉えるべきで、同性愛問題より女性問題がより根本にある、というまとめ方になるとやはり違和感があります。

したがって、女性差別の根底にミソジニーがあることは確かですが、ミソジニーを認識するだけではレズビアン差別問題を解くには不十分な気がします。これは一方で、フェミニズム運動内部から出てきた問題提起ともかかわっています。フェミニズム運動は「女」という主体を運動の基盤としてきましたが、一方で「女」という普遍的なカテゴリー/アイデンティティがあると想定することが、改革の可能性を前もって限界づけていたことに気づきました。そもそも「女」と「男」のジェンダー関係を揺るがすためのフェミニズム運動が「女」を前提としてしまうなら、「女」を超えて根本的にジェンダーの在り方を変革する可能性は内側から食い破られることになる。フェミニズム運動は「女」を離れては成立せず、しかし「女」を本質主義的に想定してしまうことは運動の可能性を前もって制約することになるというのが、昨今のフェミニズム運動が抱えるジレンマでもあります。

例えば七〇年代以降に盛り上がりをみせた「女性史」研究などは、「女」に関する「歴史」をかなり補充することに成功しましたが、歴史叙述において結局「女の歴史」は周縁にとどまったままゲットー化され、男性の歴史を中心におく認識構造そのものは温存されるという行き詰まりに逢着しました。そこでジョーン・スコット(著書『ジェンダーと歴史』)などは、「女」の歴史を発掘するだけでは十分でなく、同時に歴史記述の基本的な概念となっている「女」や「男」、「人間」といった普遍的とされた概念そのものが歴史的にどのように成立したのかを明らかにすることが必要であると提唱しています。

この方向性はフェミニズム全体の動きと足並みを揃えていて、ジュディス・バトラーのまとめによれば、「女が言語や政治においてどうすればもっと十全に表象されるかを探究するだけでは、じゅうぶんではない。フェミニズム批評は同時に、フェミニズムの主体である「女」というカテゴリーが、解放を模索するまさにその権力構造によってどのように生産され、まさに制約されているかを理解しなければならない」ということです。

通常、「女」や「男」というときには「セックス」と「ジェンダー」と「性的な欲望」の間に首尾一貫性が想定されていますが、「女」というカテゴリーがどのような規律や排除の権力のもとに作りだされているのかを問い直す地点から、フェミニズム運動が主体としている「女」がいったい誰を代表しているのかを問うとき、やっぱりレズビアンの問題を女性差別の問題に置き換えてしまうと、見えなくなる部分がたくさんあるし、レズビアン差別の問題を女性差別の問題に従属させるべきではないように思います。

その意味で、もし「「レズビアン差別」問題をきっかけにして女性差別の問題への視点を深めていけば」という提案が「レズビアン」差別を「女」差別の特殊(?)な一つの事例として捉え、レズビアンの問題を解決するためにはまず女性差別問題を考えるべきだ、という方向であるなら、そこに新たな抑圧が生じる可能性があることを恐れます。実際、初期のレズビアンの運動はフェミニズム運動と連動していましたが、運動を進めていくなかで徐々に限界に気づき、レズビアンの側からの異議申し立てもあって、現在では両者の関係ははるかに複雑なものになっています。

ちなみに、崔さんは男の同性愛者が昨今のマスコミで頻繁に取り上げられ、ひとつの「文化」として市民権を与えられている(?)ように見えるのに対して、女の同性愛者はあまり大衆的なレベルで共有される文化表象として登場しないことを挙げられ、そこに同性愛者差別の内にある女性差別を見て取り、「ホモフォビアの根底に女性差別がある」ことを示す事例として解釈されていたように思いますが、これはとても興味深い論点であると思いました。

しかし、歴史的に見ても男性よりも女性の同性愛に対して遥かに寛容であった事例がありますし、昨今のマスコミのゲイ表象は、男の同性愛に対してホモフォビアがないことを表わすよりも、あるいは禁忌が強く働いているからこそ男の同性愛者を戯画化した上で消費しているとも取れそうなので、解釈にあたってはもう少し慎重になる必要がある気がします。これは私にとってはまだ難しい問題ですが、むしろホモフォビアはやはり共通していることをしっかり見抜くことが大事なのではないかという気もしますが、いかがでしょうか…?

ポストフェミニズムの時代といわれる今、クィア研究はとてもさかんに行われていて、ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの撹乱』
(竹村和子訳、青土社、一九九九)、イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論――セクシュアリティの20世紀』(外岡尚美訳、青土社、一九九九)などは私も多くを学んだクィア研究の代表的な成果ですので、もしも興味がありましたら、お勧めしたいです。

そのほか、「女」と「レズビアン」、女性差別と同性愛差別、フェミニズムやクィア研究の関係を考える上で参考になりそうな文献で、崔さんにも推薦したいものをいくつか見つけました。まずは、英語文献でもオッケーであれば、Cambridge University Pressから出ている”A History of Feminist Literary Criticism"(ISBN0521852552 )
(http://www.amazon.co.jp/History-Feminist-Literary-Criticism/dp/0521852552/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1296981694&sr=8-1)という入門書のうちHeather Loveという人がまとめた第16章”Feminist criticism and queer theory”が一番フェミニズム/レズビアン・フェミニズム/クィア研究とのあいだの複雑な関係を明快にまとめていると思うのですが、これは翻訳がまだ出ていないみたいなのでちょっと入手が困難かもしれません。

日本語文献では、バトラーの思想を分かりやすくまとめながらフェミニズムと「女」のカテゴリーについて書いたものとして、丹治愛編『知の教科書 批評理論』(講談社選書メチエ282/講談社、2003)のなかの第6章「「女」はもはや存在しない?―フェミニズム批評』」(遠藤不比人)、クィア批評が従来のフェミニズムに提起する問題としては、大橋洋一編『現代批評理論のすべて』(新書館、2006)のうち三浦玲一「フーコーからバトラーへ」(p.108-111)を読むと問題の在り処が分かりやすい気がします。

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