2011年1月27日木曜日

立命館大学の若手研究者による「レズビアン差別事件」論文に思う

立命館の意欲的な若手研究者たちが出した報告書(注)を読んで考えるところが多くありました。私が注目したのは、自らがレズビアン(女性の同性愛者)であることを公言した日本人女性が当事者として関わった、在日韓国教会での経験を研究テーマとしてとりあげたものです。

教会はセクシュアリティ(同性愛、異性愛)についての議論をせず、同性愛について極端な拒否反応をするところです。しかしそのホモフォビア(同性愛嫌い)の根底に女性差別があるのではないかと私は考えます。昨今のマスコミに登場する、女装したり同性愛を公言するのは男だけで、女の同性愛・男装は隠微な形で抑えられています。裸でコマーシャルに出るのは決まって男の子です。レズビアンのカミングアウトはフェミニズムの運動と連動していました。

私は在日韓国教会に長くいた者として、教職者や信者たちが、同性愛者であることを公言する講師による「聖書講演」に反発し、礼拝堂を使わせないようにし、結局は問題を曖昧な形で終息させたであろうたであろうたであろうことは手にとるようにわかります。

彼女は「民族差別と同性愛者差別」を例として、被差別者同士の<連帯>と<排除>の問題をとりあげます。しかし私には彼女の「レズビアン差別」問題提起と問題の認識の仕方に疑問があります。今後の若手研究者たち及び彼女と連帯をしようとした教会青年たちとの対話のきっかけにするために、その違和感を考えてみたいと思います。

1.まず基本的に報告書全体の被差別者をマイノリティとする捉え方に私は反対です。この報告者では、マイノリティとして被差別者(多くの場合、数的に少数者であることが多いからか)が類型化されています。私は差別を受けている者をマイノリティ(少数者)としてカテゴライズして研究の対象にする認識及び方法論に違和感があるのです。あくまでも一部の人を一定の価値観から歴史的・社会的に排除・差別するようになったマジョリティ問題とすべきではないでしょうか。糺すべきはマジョリティなのですから。

2.私は「レズビアン差別」の問題は単なる性の嗜好や個性の問題ではなく、歴史的・社会的に構造化された女性差別の問題に行きつくと思います。「レズビアン差別」問題が可視化され理解されるには、女性差別の問題を、男女を問わず、自己の内面化された価値観、現実の女性差別の実態、その歴史を検証せずしては何も語れないのではないでしょうか。韓国で従軍「慰安婦」の女性が、自分の経験を国家による「性の暴力の被害者」として位置付け日本国家を告発するに至るには、韓国内のフェミニズムの運動が基盤としてあり、彼女たちを支えきることが可能であったことが想起されます。

3.論者の在日韓国教会への問題提起の仕方に問題はなかったのでしょうか。それがいつの間にか立ち消えになったのは、言うまでもなく教会側の超保守的、家父長的、官僚的な体質の問題です。しかしそれを問う側に問題はなかったのかということを考えてみたいのです。私は女性差別の問題、性の問題を考えようとしたこともない教会の人たちに対して、「レズビアン差別」発言の事実確認を求める問題提起の仕方に疑問を感じます。在日の共同体にも「存在するはず」のレズビアンを不可視してしまう」という問題意識ではなく、「レズビアン差別」問題の根底には社会構造化された女性差別の問題があるという認識から、教会内で従軍「慰安婦」問題に取り組むことや、女性差別、障害者問題、老後の問題にもつながるもののとして議論を深め、広め、持続的な課題としての取り組みをしていこうとする考えはなかったのでしょうか。

4.日本人である自分が問題提起することに「在日」側が反発したと筆者は主張しますが、私は問題提起者が日本人であることより、同性愛論者であると公言したことに彼らは反発したのだと思います。論文で気にかかったのは、「在日韓国/朝鮮人」という表記です。国家や国籍をもって第一義的に「在日」を位置つけ(レッテル貼りをす)るのか、という点の疑問はなかったのでしょうか。これは立命館名誉教授の西川長夫さんが提唱する国民国家論と関係します。事実として日本籍の「在日」も教会内には多くいるわけで、国籍ではなく日本社会から差別をされている存在として捉えれば、国(国籍)名を併記せず「在日朝鮮人」か「在日韓国人」という表記にすべきでした。

5.在日韓国教会が「民族共同体」として自らを「マイノリティ」と規定し「中心的課題」とするという建前を筆者は前提にしていますが、それは看板であり、何も言ってないに等しいのです。教会が「民族差別」と闘うことに本気で取り組んできたのかという点をどうして筆者及び青年たちは問わなかったのでしょうか。また日本キリスト教団との宣教協定の内容(結局教会は教会勢力の拡大とドグマを最も重要なこととしており、両教団とも自身の社会的責任を問うてきたとは思えません)、戦争責任告白の内実(どうして日本キリスト教団は戦責の内容を各個教会で論議をしなかったのか)、これらを「レズビアン差別」問題をきっかけにして女性差別の問題への視点を深めていけば、日本の教団内部においても必ず問題にしなければならない、「在日」教会との共通の課題を浮かび上がらせることが可能であり、日本人と「在日」キリスト者による教会変革の問題提起の道があったのではないでしょうか。

6.論者は「レズビアン差別」の問題提起に限定することで、「在日」教会の歴史にあっては民族差別との闘いをスローガンにすること自体が問題にされ(「本国志向」か「定着志向」か)、教会青年会はその提唱者の私を「同化論者」として代表の地位をリコールしたこと、民族差別と闘うというところから地域活動が出てきたこと、教会はいつのまにか民族差別との闘いではなく「共生」「多文化共生」ということを無批判にスローガンにしはじめたことなど、教会の内在的な問題に肉薄しようとしていないように思えます。国籍に関係なく、在日韓国教会に問題提起をしたのであれば、そこまで行くべきだったと私は思います。

(注)(山本崇記・高橋慎一編『生存学研究センター報告14―『異なり』の力学―マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』(立命館大学生存学センター(電話:075-465-8475)、2010)の堀江有理「異なる被差別カテゴリー間に生じる<排除>と<連帯>-在日韓国/朝鮮人共同体における『レスビアン差別事件』を事例に」参照。なお、上野千鶴子の『女ぎらいーニッポンのミソジニ―』から多くのことを学んだので報告書と合わせ紹介します。

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