2010年11月1日月曜日

(オキナワ那覇司教からのメッセージー正義と平和全国大会開会ミサ説教

みなさんへ

たまたま『ウシがゆくー植民地主義を探検し、私を探す旅』(知念ウシ、沖縄タイムス)を読んでいるところに、九州の知人から、沖縄那覇でもたれた「正義と平和全国大会」での開会ミサの説教の内容が送られてきました。

沖縄、「在日」、ジェンダー、外国人労働者、多文化共生、格差の拡大、これらをトータルに、現在の問題として捉える必要を痛感します。「韓国併合100年」の今年、それを問題にするのであれば、過去の「併合」の国際法上の合法性ではなく、まさにこの社会が過去の植民地支配を払拭することなく、今、植民地支配を継続してきているという事実ではないでしょうか。

沖縄の声に耳を傾けたいと思います。

崔 勝久


(オキナワ那覇司教からのメッセージ
2010年9月

《守礼の邦は踏みにじられて》
オキナワは戦後と日本復帰を未だ実感していません。沖縄の司教も司祭、助祭団も修道者も信徒も当然のことながら基地反対です。このオキナワ問題の根源に目を向けないで、「反対」、「平和」、だけを唱えて沖縄に連帯にしていると嘘ぶいている政府と日本国民の無関心と偏見と差別意識に対して沖縄は単なる基地反対そのもの以上に苛立ち、抗議しています。

沖縄の空にはハトがふさわしい。鉄の翼が轟音を立てて、我が物顔で飛び交う空、それは本来あるべき南国沖縄の紺碧の空には異様な光景です。一日240数回も、轟音とともに軍事訓練の離着陸をする戦闘機、しかも岩国基地所属やグアム、ハワイ所属の最新鋭F22や、F15機も大量に飛来しての訓練です。空だけではなく、地上では町、村、山地を無差別に夜昼関係なく基地に絡む様々な弊害、米兵による人権無視の犯罪行為等、数え上げるときりがない。そのために綱紀粛正を唱えているが空しいばかり。

ヌチドゥタカラを生きる沖縄は琉球王国時代から、平和と守礼を重んじる邦だ。チムグルイを敏感に生きるウチナーンチュには、人間の尊厳を肝に銘じ平和を求める心が今も根強く生きています。

平和を甘受している日本の皆さん、皆さんの今日ある経済的発展と、「平和ボケ」の裏には、沖縄が「捨て石」同然、65年間、今日にいたるまで、戦後処理の犠牲にさらされている現実に目を向けてください。この平和の地を、沖縄の心、県民の声を無視し続けて、戦争に備え、「太平洋の要石」として基地を押し付けている日本国民と日米両政府に沖縄全県民は強く抗議し続けています。日本人は沖縄差別の潜在意識に自ら目覚めて欲しい。これが那覇教区を含め、沖縄県全宗教者が終始一貫して発言し続けている祈りです。

那覇教区民も沖縄県民と心を一つにして行動し、宗派を超えた「沖縄宗教者の会」とともに、基地反対・平和と祈りの集会を毎年行なっています。政派、宗派を越えて、沖縄は不当な基地には反対のスタンスをとっています。心のこもらない机上で捏ね上げた文書や、行動の伴わない声明文などたいした意味をもたないと感じられてなりません。

《今頃、普天間を取り上げる中央のメディア》
「アメとムチ」に翻弄され、莫大な振興事業も本土企業に吸い上げられるだけで、基地絡みの補助金や交付金は何ら経済発展に結び付きません。沖縄の人々の誰一人として基地を容認するものはおりません。私たちは沖縄の信徒も県民も、日本人(敢えて沖縄県民以外のヤマトンチューを指す)が、沖縄をどのように考え、取り扱ってきたか、正しい歴史認識を見極めた上で沖縄問題に取り組んでもらいたいと主張しています。

最近、普天間飛行場問題が政治の場だけでなく、社会問題としても注目を集めているが、これに対して日本人は皮相的な同情論や現実離れした意見を述べ、連帯などと申して、ほんの一部の人々が来県し、発言しているのを見受けますが、日常の生活では「沖縄の問題」として胡坐をかいているだけと感じられてなりません。沖縄で基地を囲み米軍に声を張り上げてご満悦してどれほどの意味、効果があるのか、これで沖縄の痛みに連帯したなどと自己満足に陥っているのではないかと疑わざるを得ません。それよりも永田町で日本人に向かって、政治家と民衆に沖縄問題を問いかけるべきです。

「安全保障」、「外交政策」、「日米同盟」、「国益優先」などを理由に、日本政府と国民は沖縄だけに基地の固定化を図ってはばかりません。戦後の経済発展と平和維持を甘受している日本。そのために沖縄だけに基地問題を押し付け、「配分正義」などどこの県も真剣に取り上げてはくれません。安保を堅持しようという全国の知事たちにして、基地を受け入れない。日米安保の前提が崩れています。他の県が受け入れないから沖縄が受け入れる以外にないと、一種の差別を平気で固辞しています。日本政府は政権が変わろうと、琉球処分以降、東京政府がもってきた体質が根底に流れていると沖縄県民は感じています。

《千の談話・声明文より行動を!》
基地反対とか平和アピールとか、声明文など机上で捏ねた作文を発するより、沖縄がやっている民衆による大集会を、その万分の一の規模でもいい、東京で行ってください。日本国民の関心がどの程度のものか、誰も読まないような作文より目に見える行動、汗を流す皆さんの行動からのうねりこそ、沖縄と連帯、人々に基地の問題を意識させるものだと思います。「平和」の反対は「戦争」ではない。平和と戦争に関して、「無関心」であること。愛の反対が憎しみではなく無関心だ、とのマザーテレサの言葉と同じです。

沖縄の目線で普天間報道を行わない日本本土のメディアにも日本人の無関心はあらわれている。それは、今年のJCJ賞に沖縄の二地方紙「沖縄タイムス」と「琉球新報」が選ばれたことでも表れています。受賞の選考理由として全国紙が米国一辺倒の報道に終始する中で、「沖縄県民の怒り、悲しみを伝えるとともに、日米同盟の種々の問題を掘り起こした」ことを指摘しています。

《カトリック正義と平和委員会に提案と要望》
基地反対を呼び掛け、沖縄に連帯して不正義に基づく沖縄の基地に真剣に取り組む姿勢があるなら、沖縄に来て「座り込み」や基地を取り巻く「人間の鎖」などに参加するよりも、東京で大集会を開いてください。三万人集会を東京で、政府のお膝元でやってください。首都圏の日本人の沖縄に対する無関心さを呼び覚ますために。三万人集会でも、基地反対に対する沖縄県民の声と毎回開かれる県民、市民集会に比べればその千分の一すらなりません。

沖縄に本気で連帯する気持ちがあるのなら、沖縄ではなく政府のお膝元で大集会を開く行動をとるべきです。国益の名のもとに、沖縄だけに犠牲を強いているのを平気で見過ごし無関心でいる日本人に日本のど真ん中で大衆のうねりを見せてください。
皆さまの誠実な連帯に期待しています。

カトリック那覇教区
司教 ベラルド・押川壽夫
(正義と平和全国大会開会ミサ説教で谷司教が朗読)

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