2010年3月12日金曜日

見えない「在日」-時代の寵児、寺島実郎の連載から

雑誌『世界』4月号は、「外国人参政権はなぜ必要か」を特集し、田中宏と徐龍達の力の入った論文を載せています。しかし私は、ビジネスや外交分野で論陣を張る、寺島実郎の「脳力のレッスン」「本質を見抜く眼識で新たな時代を切拓く」という連載で、「ゴジラを生んだ心情―問いかけとしての戦後日本(その10)の冒頭部分に目を奪われました。寺島は、帝国軍人であった父が街頭で物乞いをする傷痍軍人に「帝国軍人として恥ずかしくないのか」と怒鳴ったことを思い出し、ゴジラ論の枕詞にします。

寺島は大島渚の「忘れられた皇軍」を観ていないのでしょうか。傷痍軍人は戦争に行かされた朝鮮人が大部分で、戦後、軍人恩給を拒否されてきた人たちであることに、彼は、思いを寄せなかったようです。あのリベラルな論陣をはり時代の寵児になっている寺島をして、朝鮮人は見えなかったようです。韓国人や「在日」の友人も多いはずなのに。

「市民フォーラム」に参加した自民党の市議が、最初に発題し、小さいころから「在日」の友人が傍にいたが、自分は差別をしたことがない、今も親しく同じ人間として付き合っている、だけど参政権は付与すべきでない、選挙をしたいのであれば帰化をすればいいと言い張りました。彼は市民委員会の委員で、委員会でも同じ趣旨の発言を繰り返し、参政権に反対しました。彼は「在日」の友人がおり、自分は差別をしない、志の高い政治家だと思っているのでしょう。善意の人ですね。そういう人が多いですね。しかし私は今、その「善意」を苦々しく思うのです。彼は一体、何を見てきたのでしょう。彼は「在日」を見ても、見えなかった、歴史と本気で取り組む気がなかったのでしょう。「在日」を無視してあるべき地域社会、「持続する社会」などを求めることができるのでしょうか。なんと志の低いこと。

私は彼が最初の発題者なので質問を躊躇しました。彼は、そんなに親しい、日本人と何ら変わることもない「在日」が自分たちと同じように政治参加することをどうして拒むのでしょうか、私は本当はそのことを訊きたかったのです。その親しい友人は危険なのか、いざというとき日本人を裏切るのか、本当にそう思っているのでしょうか。恐らくそんな風には思ってないはずです。だとしたら、どうしてその「在日」の友人の、地域社会にコミットしようとすること、政治参加を拒むのでしょうか、それは彼が日本という国を想い、その枠には外国人は入れてはいけないという考え、その枠を絶対的なものとして信じているからとしか考えられません。

これは阿部市長も同じことです。かけがえのないない隣人だと言いながら、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」だというのですから。しかし同時に「多文化共生社会の実現」を掲げます。

参政権の問題は「在日」の権利の付与の問題ではなく、日本人がどのような地域社会を作ろうとしているのですかという私の問いは、なかなか通じないようですね。

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