OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2009年8月19日水曜日
アスベスト除去は本当に高度な知識と技術力が必要ー渡辺治
「本気で臨海部の未来を考える会」のHPで毎日、ブログを更新している渡辺治さんの一文を紹介します(http://www.owat.net/rinkaibu-mirai/rinkaiblog.html)。
南高校の跡地をめぐる市と県、URや大手デベロッパの関係、建物解体の過程で市と県の癒着、ごまかし、開き直りは目にあまります。氏の訴え、怒りを皆さんもHPにある画像や情報を読み、共有化していただきたいと願います。
崔 勝久
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アスベスト除去は本当に高度な知識と指導力が必要ー渡辺治
アスベスト除去というのは、原子力発電所の建設と同じくらいの知識と技術力と、人の統制能力、監視能力、あらゆる能力を必要とする。
アスベストの粒子は、煙よりも微細で、どこからでも出て来る。それを単なるビニルでいくら目張りしても漏れて来るのは避けられない。そして、作業員は息苦しいと言って、マスクやゴーグルを外してしまう。労働基準監督署は、それを自己責任の範囲と言いきる。危険度は、放射能と同じか、それよりもむしろ健康を害すると言っていいのがアスベスト。
上の文章を放射能の場合と言い換えて欲しい。息苦しいからと言って、マスクやゴーグルなどの防護具をはずさせてよいのだろうか?そして、それが自己責任であるから、その場合には管理者の責任には本当にならないのだろうか?
石綿障害予防規則という厚労省つまり労働基準監督署関連の省庁が作った法律には、防護具をつけさせずにアスベストの除去工事をやらせた場合には、元請け業者は罰せられる、また、きちんと教育し、付けさせるよう監理していなければやはり罰せられることになる。法律を作った人たちは、アスベストがどれほど危険であるかの認識があるようには見受けられるが、監理している労働基準監督署や、環境局には、それほどの危機感がないように思う。
取り締まるどころか、ずさんな業者を守り、見て見ぬふり。それはあまりにもあからさまで露骨である。指導しなくとも、発病は数十年後、または自分が担当を外れた後であるので、どうせ責任は来ないだろうという意識が強いのだろう。もし、自分の子どもや親族が、南高のような現場で働いていても同じように、ずさんな工事を見過ごしてきたのだろうか。
人は、どこまでも残酷になれることを南高の解体現場を通じて知った。それに関しては、裁判官も同じだった。血も涙もない。あるのは、自分の立場を守り抜くという意志だけだった。どんなに信頼を失ったとしても、人の命がないがしろになって、本当に健康被害が生じようともおかまいなしなのが行政だと分かってしまうと、後は失望感しか残らない。
中には、一生賢明に人のためにと働いている職員もいるはずであるが、南高に関わっている大多数の行政職員が血も涙もない残酷な存在であれば、行政全体の捉え方さえ変わってしまう。丁度、国民年金問題のように、そういったあまりにも納税者を騙し、欺くようなことが表面化することにより、大抵の行政や官僚が同じ体質を持っているのではないかと理解するのと同じだろう。南高問題に関わる前に、随分と警告を受けたが、全部は信用していなかった。しかし、そのどの警告よりも現実は、なまなましく、残酷で、血も涙もない世界だった。中には、良心に耐えかねて、話しかけてくる職員や、内部告発する職員も居たが、その組織力と団結力、そして、改ざん、隠蔽、なんでもやることには驚愕させられた。
私たちは、これまで経験したことをひとつひとつを記録に残し、将来、必ず生じるだろう悲惨な健康被害者の救済のために役立てていただこうと思う。行政の不作為、法律の不作為、ウソ、ごまかし、改ざん、隠蔽、いくらでもある。
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