2009年4月28日火曜日

西川長夫論文「グローバル化に伴う植民地主義とナショナリズム」を読んで

連休が始まります。みなさんはどのようにお過ごしですか。

西川長夫名誉教授の退任記念号で、西川さんは
「グローバル化に伴う植民地主義とナショナリズム」
という論文を発表されました。

御本人はこれまで発表したものに少し付け加えた
だけと謙遜されていますが、私は最後に(もちろん、
これまでの持論であったのでしょうが)、日本の
現状に対する危機意識と、ご自分のこれまでの
研究・考察から得た見解を大胆に表明されたもの
として読みました。

最初は学術論文ということで素人の私でも読めるのかと
心配したのですが、西川さんの論文以外にも、山下英愛さんの
率直すぎるくらい率直に自分の気持ちを記したものもあり、
また孫歌さんが日本や韓国で語られる「東アジア」だけでは
なく、いくつかの視座があることを語っています。
関心のある方は是非、一読下さい。

『言語文化研究』(20巻3号)
立命館大学 国際言語文化研究所
Tel:075-465-8164 genbun@st.ritsumei.ac.jp


崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

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西川長夫論文「グローバル化に伴う植民地主義とナショナリズム」を読んで

立命館大学国際言語文化研究所発行『立命館言語研究』(20巻3号)は西川さんの退任記念号として出版されたもので、その中で西川さんは「グローバル化に伴う植民地主義とナショナリズム」を記されています。韓国の漢陽大学での講演とその後の立命館でのシンポジュームを踏まえた上で、西川さんの生涯のテーマである植民地主義についての、現地点での問題意識が反映されていると私は読みました。

ここには西川さんの日本の現実に対する危機意識が読み取れます。拉致問題を中心に戦後最大の反・北朝鮮キャンペーンが繰り広げられており、その直接の被害者として「在日」がいても、「いまジャーナリズムや言論界でこのキャンペーンを批判したり反対する者は一人も見当たらない」と強い口調で記されています(まあ、これは多少オーバーで、官製共生を批判する藤岡恵美子さんは『制裁論を超えて』(新評論、2007)で触れています。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2008/08/blog-post_21.html)。

また最後に、「国家の強制を感じさせない形で進む転向を見据えることは、ひとつの課題である。しかし、これはむつかしい。研究者の胸中に今進んでいる転向を見据える動機がないからである」という鶴見俊輔さんのことばで、西川さんの後に続く研究者への期待を表明されているのでしょう。そして鶴見さんの本の書評の一部を紹介して論文を終えます、「だれもが同調して雪崩をうつ時代は、そう昔ではない。遠い先のことでもないように思える」。ここに戦争時北朝鮮で過ごし、それ以来、研究者として世界の現実を見ながら植民主地主義とは何かを考え続けた碩学の、私たちに向けた「最後の言葉」であるように私には感じられるのです。

「私たちはなぜ植民地主義を対象化して考えることができなかったのか」という反省・考察から、西川さんは、「植民地なき植民地主義」として<新>植民地主義論を展開されました。そこにはグローバル化の深刻な現実を知っていても、誰もそれを植民地主義の名前で呼ばないという、日本の学会・マスコミへの怒りさえ感じられます。ポスト・コロニアリズム論では納得のできないものがあり、敢て、従来の植民地主義論でない、<新>植民地主義論として考察されるべきであるという思いから、西川さんは、退官記念号で立命館の職員として最後の論文を発表されたものと読みました。

「私は従軍慰安婦の問題を含めて、戦争責任や植民地支配の問題は「謝罪」でおわるべきでないと思います。・・・最終的に問われるべきなのは言葉でなく、そうした事態(支配と抑圧、収奪や差別、暴力、等々)をもたらした国家の構造、さらにはそれを含む世界全体の構造であって、もし「謝罪」で終われば、結局はそうした事態を生みだした根底的な構造をそのまま放置温存し、再び同様の事態を招くことになるでしょう。」そのうえ、さらに西川さんは大胆にも、「現在の国家構造すなわち国民国家体制とそれを保障するイデオロギーを維持するという点においては、東アジア諸国は共犯関係にある」とまで書かれています。ここまで書かれるということは西川さんに並々ならぬ決心があったのでしょう。

それは何か、私見では、植民地主義にならざるを得ない、国民国家という社会的な構造が諸悪の根源であるという自分の見解がなかなか共有化されない苛立ちのようなものもありながら、自分の考えを韓国人や中国人の前でしっかりと提示し、それに対する反応を見てみたい、そしてそれを今後の自分の研究に活かしたいという、研究者としての良心というものを感じます。日本人や朝鮮人ということで相手の立場性を問題にし、国民国家の社会構造に切り込めないこれまでの両者のあり方についてももどかしく感じていらっしゃったのかも知れません。

西川さんは、「世界の現状において、(戦争)責任の徹底的な追及は可能でしょうか」「戦争責任が徹底して根底的に問われることはありえません」ということまで記されています。私もそうだと思います。戦争がもたらした現実を直視し、それを担った個人の問題と責任を徹底して洗い直すこと(野田正彰 『戦争と罪責』)は、戦争の被害をださないためにも、戦争を阻止するためにも、そしてそのことが日本ではあまりにもなされていないが故に、必要不可欠な作業だと思います。しかしそれは個人倫理で終わらず、戦争に向かう国民国家の構造、世界の構造を根底的に批判する方向に向かうべきです。私はその方向に向かって歩む責任があるという意味では、「在日」も日本人も完全にイーブンであると考えています。

川崎のフィールドワークに参加された西川さんの旺盛な探究心を目の前にして、私は西川さんがますます植民地主義について考察を深められるものと確信します。その考察を私たちは現実を切り開く支えとさせていただきたいのです。研究を支えてくれる健康が西川先生に与えられんことを祈るばかりです。

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