2009年2月6日金曜日

川崎フィールドワーク「多文化共生と国内植民地主義」-西川長夫名誉教授の講演を踏まえて-

みなさんへ

温かい冬ですが、みなさん、お変わりありませんか。
私は「狭窄症」(みのもんたの手術で有名になりました)で歩行が
できないくらいの痛さに悩まされています。3月には手術を受け、
また元気な姿でみなさんの前に現れます!

望月さんのホームページから「川崎フィールドワーク」のリポートを
お借りして皆さんにお送りいたします。望月さんのホームページを
訪問ください。http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_157.htm
このブログでは写真はありませんが、望月さんのホームページでは見れます。

望月さんの報告の中で「当然の法理」に関する西川さんの発言内容は、
私は望月さんと違うように聞きました。「当然の法理」は問題であるという
ことははっきりと認識して発言されていたと記憶しているのですが、
この点は改めて御本人の意見を伺いましょう。

また桜本保育園内での写真撮影に関して望月さんは、撮影を禁止された
ことにちょっと「不満げ」ですが、今は園児の保護(人権)のために
どの保育園でも厳しくしているようです。

横浜国大での西川さんの講演の翌日から、立命館・横浜国大・一橋の学生・
院生・博士課程の研究生・職員が参加し、川崎フィールドワークを2日間に
わたって実施しました。訪問したのは以下の四か所です。
特に朝鮮学校と総連支部は朝鮮日報の朴日粉さんの御紹介で実現できました。
心より感謝いたします。

・川崎朝鮮初級学校・保育園、在日本朝鮮人総聯合会川崎支部・NPO法人アリランの家
・桜本保育園・ふれあい館
・川崎沖縄県人会、川崎ファクトリー(南高校解体反対闘争の現場見学)

朝鮮初級学校の金龍権校長、総連川崎支部長の皮進氏、アリランの家の金三浩理事長、
桜本保育園の南宮成根、金健園長、ふれあい館の裵重度館長、沖縄県人会の仲宗根修理事長、
座覇光子氏、川崎ファクトリーの渡辺治氏、各氏にお礼を申し上げます。

崔 勝久

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川崎フィールドワーク「多文化共生と国内植民地主義」
-西川長夫名誉教授の講演を踏まえて-

前日の横浜国立大学「差異と共生」プロジェクト講演会(上記タイトル)の後、2日間の計画で、多文化共生では国内最先端をいく川崎市の実情を見学することになりました。私はフィールドワークのみの参加しました。

2月3日、最初の訪問場所は桜本2丁目に在る民族学校です。正式な名称は学校法人神奈川朝鮮学園川崎朝鮮初級学校です。
朝10時に学校の門前で落ち合う約束でしたので、所在地を知りませんので、2日前に確認しておきました。
1946年秋に東桜本小学校跡でスタートしてから、現在の場所に変わったのは1954年という説明がありました。聞いていた私は自分がNKKに正社員として採用された同じ年であることに、何か通いあうものを感じました。もっとも設立に関しては全く無知なのでしたが

川崎朝鮮初級学校                    挨拶する加藤教授と金学校長 

学校長の金龍権(キム・リョンゴン)先生の説明で驚いたことは学童の月謝が月2万円という高額であること。そのため入学希望者の諦めてしまう場合が多いということ。学校側としては、「一条校」相当の認定をして頂きたいという希望をもっていますが、現時点では絶望てきです、と苦境を訴えておられました。生徒数は1~6年で58名、保育園児童が18名、
川崎市からの補助が学童1人に年間6万円(私算348万円)。先生の数は保育園まぜて10名。今まで不動産税の非課税対象だったのが、拉致問題以降課税対象とされて税負担が厳しいとのこと。日本には全部で70校あるとのことですが、北朝鮮からの援助は年間3億円ということでした。
     
  四年生の授業                       教室の後に置かれていたスポーツする人形

授業参観した各教室での印象は児童がのびのびとそしてとても元気で先制と応答しているのが印象的です。授業は全て朝鮮語です。初めての場合でも1学期学べば言葉の不自由はなくなるということでした。これは聞き捨てならない事実です。

学校を出て、池上町の道飛館という朝鮮料理店へ向かいます。産業道路を横切り、池上町に入ると家と家との間を細い道(幅1間=1,8米)が縫うように走っている。
                                           
   移転当時の校舎(1954年)                    昼食を摂った道飛館                       

同じテーブルに座った学生から望月さんのホームページはすごいですね。資料をプリントしたらこんな厚さになりましたと、指を開いて見せました。食後、歩行困難な崔さんは私に道案内を依頼して自転車で行く。浜町を行くか、桜本を行くか一瞬迷うも目の前の道を進む。
道を北方向にしばらく歩くと、右側に桜本小学校が見える。小学校を過ぎると、加藤教受が「ここは青丘社ですね」と足をとめました。「はい、朝鮮総連の後に見学する計画ですね」と返事をしながら、浜町を回ったほうがよかったのかと一瞬、思案しましたが、しかたがありません。桜本商店街を南の方へ向かう。朝鮮総連の事務所は浜町3丁目3番地、道の角。事務所の前に見覚えのある自転車が置いてあるのを見て、間違いないと安心します。
       
   朝鮮総連の事務所                     元気なハルモニたち         

二階の会議室に案内されると、15人の学生で部屋は一杯。女性職員がハーブ茶を給仕してくれました。甘く爽やかな口当たりで、緊張感が和らぎます。税所に委員長の皮進(ピ・ジン)が挨拶し、実情に就いてはNPO法人「アリランの家」理事長の金三浩(キム・サンホ)さんの説明になりました。NPO法人「アリランの家」は「在日本コリアン高齢者福祉施設」の名称です。週2日、合唱の時間があり、10数人の人が集うようです。高齢者福祉事業としては20人以上の対象者がいないと経営が困難だそうです。設備としてな浴室とカラオケ設備のある広間で、今日は合唱の時間なので、高齢者の人が集まっています、後で合流しましょう、と案内されました。


金理事長は77歳で私と同学、私は早生まれで3月10日に77歳になります。彼は、小学校のころ、創氏改名が施行され、金から金田にされ、クラスで挨拶するように担任から指示され、新しい苗字を告げたとき、日本人同級生が一斉に笑い出し、恥ずかしい思いをしたと回想しました。このとき、私は自分のクラスでは幾人かの在日児童が存在したが、担任からそのような指示がなされた記憶がなく、卒業まで元(ゲン)とか、申(シン)という苗字のままだったことを思い出していました。それにしても、侵略戦争の賠償を行ってこない日本て一体全体どんなに厚かましい国家なのでしょう、という重たい気分になります。
          
   歌う学生                        朝鮮総連事務所で説明に耳を傾かる参加者たち    

一階に降り、ハルモニたちのいるカラオケ設備のある部屋に移動しました。最高齢93歳と説明されましたが、皆顔色がよく、年齢より若い感じ、皆が笑顔で私たちを迎い入れてくれました。ハルモニたちはアリランハイという歌を合唱してくれました。学生たちは男女一人づつ歌い、崔さんも自慢?の喉で一曲披露しました。和やかな交流の時で予定時間を30分オーバー。外に出て記念写真を、幾人かが撮影します。

青丘社に着くと三階の和室に案内され、早速、保育園活動のビデオが上映される、南宮副園長の「74分という上映時間です」という言い訳で。1月28日の民団新聞で大きな紹介記事があったようですが、それは夜の話し合いの時に曹慶姫さんから配られました。ビデオのあと年齢別になっている保育室を順次案内して頂きました。児童の写真は写さないでと配慮をうながす、副園長の言葉が耳に残ります。午前中の初級学校ではそのような注意事項は一事もなかったので、少し違和感が走りました。…授業参観の写真…
     
    青丘社桜本保育園での参観             懇談会で司会をする崔さん     

青丘社の後、ふれあい館への移動を副園長が案内してくれましたが、私は5時半の採血、注射があるので、そちらは失礼して自宅へまっしぐら。所要をすませ、6時半前に東田コミュニケーションハウスへ自転車をはしらせます。到着しますと、部屋の中では女性たちの声がします。入ろうかと迷っていますと、文さんが部屋から出てきて、「二階の会議室でなく、下にしました。お茶の支度ができますから、でも時間が9時まででなく8時までなんです。崔さんの予約とは1時間少ないのですが」との説明。曹慶姫さんも来て準備を終えていました。(崔勝久・曹慶姫夫妻の論文集のURL=http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_89.htm)

フィールドワークの一行の到着は6時半。人数が少し減っています。懇談会をせずに帰られた人が数人おられたようです。…懇談中の写真…
     
   考え込んでいる西川教授               真剣な番匠さん
      
自己紹介が一巡しても学生たちの名前と顔が一致しない。私は自分が一番問題に感じていることは、日本人として「当然の法理」とどのように対処するかが当面の最大課題に感じていますと説明を加えました。少し時間をおいて西川教授が「自分はそのようには感じていない」と感想を口にしておられました。反論はたてませんでしたが、学者の理論と実際との違い(乖離)を痛感しました。現に川崎市の職員運用規程は当然の法理に対応して作ったと全文で明確に宣言しているのに、その重みを味わっていない西川教受だという思いがズシンと胸に来たのです。この懇談中の崔さんのビデオへの感想は「民族別の食事というフォーカスは共生謳歌で、支配者の理論に乗じていることの証明。一人一人の家庭の味を出せばそれがよい。その良さが分からないことが問題です」という言葉に集中するでしょう。民族という言葉を強調せずに、その児童の家庭の味をだした食事が大切なのだという芋の持つ、脱民族意識が重要だという趣旨。皆さんはどのように考えますか。


2月4日、朝9時半と言われたので、その時間の会場の川崎沖縄労働文化会館に到着、用務員の人に挨拶して、三階の事務所に顔を出し、館長の中曽根さんの来意を告げると中曽根さんは集合人数を問い、「では三階の和室でいいですね」と案内してくれました。持参した冊子(キョレイ・トンシン=はらから通信と「従軍慰安婦」問題と戦後五十年の2冊)を茶卓に乗せ、時間を見ると9時35分。開催は10時からかと思い直し館内を見て回る。屋根瓦は沖縄の物産らしく、二階の屋根に狛犬が二つ設置してある。…写真…
10時5分前、タクシーが南側の露地に連続しては入ってくる。…写真…
     
  9時55分タクシーを降りる参加者たち         川崎沖縄労働文化会館二階屋根の狛犬

歩行に難がある崔さんには三階までの階段が辛そう。テーブルの周りに座布団を敷く時間は十分あったのに、私は全く気づかず失礼しました。十時過ぎ沖縄出身二世の座覇光子さんが来場、荷物をほどいて、冊子と畳んだ模造紙の束を取り出します。模造紙を広げると、沖縄戦の版画集の切り張りです。冊子は「うりずん」という「沖縄のたたかいに連帯する東京会議」の機関誌でした。その機関紙の連載投稿した彼女の自伝でした。(私のホームページにも彼女のページがありますので参考になさってください。URL=http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_127.htm)
         
  説明する座覇さん                   川崎沖縄労働文化会館から出て来た参加者

座覇さんは模造紙の説明を始めたとき、「これは望月さんに手伝ってもらって」…と言い出しましたのに驚きました。記憶になかったものですから。あるようなないような、記憶です。アウシュビッツ写真展で写真集を模造紙で造ったことは記憶にあるのですが。残酷な沖縄戦の話で日本の軍隊が沖縄の人に惨い仕打ちをしたのに、侵略戦争を反省しない戦後歴代の政府は、「減退は住民保護を最重点にします」などを平気でうそをつく。

昼食は少し離れた労働会館内の食堂で摂ることにする。私は加藤教授と同じテーブルに着く。そこで、持参したサンドイッチを開きながら糖尿病の食事制限や金景錫(キム・ギョンソク)さんの訴訟の話(戦時中の日本鋼管でストライキをおこした強制連行の朝鮮人労働者で拷問され半身不随にされ、放置された被害が1991年に来日、政府と日本鋼管に損害賠償を求めた)を手短にしたりしました。食後、教授が最上階にある労働文庫を見に行かれました。私は歩行困難な崔さんとギャラリーのソフアーで感想を話合っていました。

午後1時半、最後の訪問地、「本気で臨海部の未来を考える会」「川崎南高を活かそう会」(URL=http://www.owat.net/kawafac/home.html)の集合地、川崎南高前へめいめいタクシーに分譲して行くことんさなりました。私は自転車なので単独行動をし、自宅に立ち寄り、手に持つを置いて、徒歩で元とに行きました。まだタクシー組みは来ていないようです。確認のために署名を見、立会の婦人と話を交じえましたが、来た様子はないとのことでしたので、小田栄町の角で4時までタクシーの来るのを見ていました。南高前の様子を覗きながら。
待ちくたびれて、南高前に戻り、立会の婦人と話しますとそこに長谷川さんという男性が来、携帯電話で事務所に連絡を入れてくれました。「一行は1時半から集まっておられるというのです。1時半?その時はまだ労働会館前でしたよ、と私。ですが、事務所で会合されていることはたしかです。奥さんが迎えに来てきださいますから、待ってください」と長谷川さん。
    
  解体中にアスベストの使用が判明          抗議の展示物でバリケードになっている

自転車で来られた夫人に案内され、会場になっている川崎ファクトリーに案内されました。
すでに、渡辺さんの話は終わっていて学生たちの感想発表になっていました。学生たちが終わると私に発言を指示する崔さん。渡辺さんの話を聞いていないので、話に困り、自分のトラウマである、終戦前後の体験談と、渡辺さんの事務所の場所が昔、私が日本鋼管に勤務していた頃には、アスガラ(石炭の燃滓)置場で、私の同僚が夜勤なのに、酒を飲みすぎそのアスガラの山で一夜を寝過ごし、出勤しなかった話、隣接地に魔の池という池がありそこで水死体と2度出会った話などをしました。渡辺さんという人は私が昔希望して技術者になりたいと旧制工業学校へ進学した夢の技術者、その技術者以上の技術者なのです。本来の技術、建築だけでなく、(都市設計や文化めんでの活躍、それに市民活動の実際)と私にとっては新人類のように思える人物なのです。私の心中には無意識に羨望が働いたのでしょうか。私の話を聞いた人には理解できない話だったのではと思い後悔の念が湧いています。
                               2009年2月6日 望月 文雄

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