2008年10月14日火曜日

T牧師との対話から思うこと

T牧師との対話から思うこと

T牧師とは知りあって(私が押しかけて行って)もう1か月になるのでしょうか。
彼が私たちの『日本社会において多文化共生とは何か・・・』の中の「民族保育」に関する論文への感想として、保育の現場において、「民族保育」を柱とする教育方針に疑問を呈しながらも、「在日」の保育園にそのように思わしめる背景に日本社会の差別があることを認め、しかし、だからと言って自分は「贖罪意識」を表明したり、民族差別と闘うということをしないで、自分の場で自分がやろうとすることをしっかりとやり進めたいと記しました。それを「在日」への無関心と読んだ人もいたかもしれませんが、むしろ私は、それをT牧師からの私たちに対する共闘への呼び掛けととらえました。

「在日」を被害者とし、日本人を加害者とする固定的な観念から一体、何が生まれてきたのでしょうか。そこからは「在日」が日本人に向かって、「被害者」の強みから物を申すという関係性が生じます。それでは「在日」自身はどこで己の在り方を批判的に見直すことができるでしょうか。私は「在日」が物を申すのは、歪められた現実・歴史に対してであって、日本人や日本社会ではないと思うのです。だからこそ、「在日」は日本人と全く同じように歴史と現実に責任を負い、現代に生きる者として日本人と一緒になってその歪みに対して闘っていかなければならないのです。

「在日」という枠はとっぱらうべきです。「在日」という特殊領域を作ることによって、為政者は「在日」をその枠の中に閉じ込め、「在日」もその枠の中の権利獲得で満足するのです。「要求から参加へ」という「在日」のスローガンはなんとささやかなものであったことでしょう。「在日」の要求を完結していくことで、日本社会そのものの変革をもたらす質をもち、その「要求」していくことが「参加」であって、特殊領域は拒否すべきです。

「マイノリティのためにいいことはマジョリティのためになる」というテーゼは、日本の運動をスポイルすることになりました。なんだかんだといいながらお金をだせばいいのか、 連帯の名前をだせばいいのか、こんな日本人を誰が作ったのでしょうか。それはすべて「在日」の責任だと、私は思います。

民族主体性は不要です。自分の生き方を追及すればいいのです。「民族主体性」という言葉には正しい生き方という倫理的なニュアンスがあり、「母国語」や「本名」を名乗らない「同胞」を見下し、「正しい」「民族的な生き方」を押し付けるという傲慢があります。私はこの40年間、自分のやってきたことの貧しさが恥ずかしいのです。こんな社会しか作ってこなかったことに私たちの次の世代に申し訳ないと思うだけで、彼らに説教をする資格は私にはありません。

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